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年下の上司 story2〜 May

人はそれを嫉妬と呼ぶ(1)

 
 連休も終わり、灰谷市役所都市計画局総務課にも、ようやく束の間、穏やかな日々が訪れていた。
 来月には6月議会がはじまるから、庶務である果歩も自然と忙しくなる。
 だから、本当に束の間のひと時なのである。
 果歩も藤堂も、連休前に交わしたキスのことには、一言も触れないまま、何事もなかったかのように役所での日々をすごしていた。
 というより、果歩は考えるのが怖かった。
 あのキスの意味を――あれは、やはり同情からきた行為としか思えなかったから。
 それは、考えるだけでたまらない屈辱で、その話に触れるのが怖くて、もうお弁当を持参するのもやめているほどだ。
 今では、面倒でも食堂に行き、1人でランチを食べている。
「的場さん、今週末の庶務担当者懇親会のことですが」
「は、はい」
 果歩は緊張して背筋を伸ばした。
 その藤堂が、係長席を立ち、書類を手にこちらに近づいてくる。
 連休が明けて、ふいに長袖のワイシャツから半袖に変えた藤堂は、いつも以上に若く見えた。
 果歩は身体を硬くしつつ、椅子に座ったまま、藤堂が傍にくるのを待っていた。
「局長も出席されるそうです。申し訳ありませんが、料理と席の調整を、店の方としておいてもらえますか」
「はい」
 頷いて、出席者名簿を受け取る。
 ああ、こんなものがあったんだ――と、果歩は憂鬱な気持ちになっていた。
 局の、庶務担当だけを集めた懇親会、毎年5月の中旬に局総が主催で行うものである。局長が出ることは滅多にないが、大抵次長は出席する。
 次長、春日要一郎。
 かつて果歩にセクハラまがいの誘いをかけ、それを断ったせいか、冷淡になった男。
 元々苦手な男だったが、連休前の事件以来、果歩は、春日の顔を見るのも苦痛になっていた。
 庶務担当だから、都市政策部庶務の須藤流奈も出席するし、総務からは、果歩と藤堂だけが出席することになっている。
 色んな意味でやりにくく、苦痛な時間だと思っていた。
 いまだ流奈は、折に触れては、藤堂に接近を試みている。で、相変わらず果歩を敵視しているようなのだ。
「……食べていますか」
 頭上から声がした。
 はっとして顔を上げると、とっくに席に戻ったと思っていた藤堂が、まだ立ったままでこちらを見下ろしている。
「顔色が悪いです。体調には気をつけてください」
「……すみません」
「あなたがいないと、僕は何もできませんから」
 それは、お世辞か、気を使ったセリフだろう、多分。
 それでも、その時、果歩は素直に嬉しいと思っていた。
 何気なさを装っていても、内心では、ずっと、藤堂の存在を意識していた。
 藤堂も――少しは自分のことを気に掛けてくれていたのかもしれない。そう思うと、少しだけ救われた気持ちになった。
 
 *************************
  
 懇親会は、市内の高級割烹店、『花輪』の座敷を借り切って行われる。
 会の進行は、すべて庶務係長である藤堂の仕事で、そういった華やかな仕事が苦手なのか、藤堂は、店に到着した最初から、居心地の悪そうな顔をしていた。
 果歩は……そんな藤堂に、少しだけ見惚れていた。
 黒っぽいスーツを着こなした藤堂は、執務室で見る、学生のようなラフなイメージをかなぐりすて、ふいに大人の匂いをまとった男のようだった。
 上背があって、胸にも肩にも厚みがある。もともと果歩はマッチョな男性が苦手だったが、藤堂だけは別格だ。バランスが取れていて、健康的で……セクシーで。
 そんな風に思えるようになったのは、彼とよく話すようになってからだが、全身から男のフェロモンみたいなものを――それと気づかなければ分からないほど控え目にだが――確実に発散しているような気がする。
「春日次長は欠席です。急な仕事が入ったそうです」
 果歩が一足先に座敷に入り、席順をチェックしていると、携帯を片手に入ってきた藤堂が、そう言った。
「そうですか」
 正直、心からほっとしていた。
 執務室では普通に振舞えても、飲みの席では自信がない。春日は、多分、果歩を眼の敵にしているのだ。どんな嫌がらせをされるのか、わかったものではない。
 やがて時間となり、次々に各課の庶務担当者と、庶務担当係長が挨拶しながら座敷に入ってくる。
 座敷の前で彼等を出迎えるのは、この会の主催である総務の藤堂と、そして果歩の仕事だった。
「こんにちは〜、藤堂さんっ」
 と、妙にハイテンションな声がした。顔をあげるまでもない、須藤流奈である。
 淡いピンク色のスカートは、ぎょっとするほど丈が短い。形良い腿がすらりとその下から伸びている。
 丁度企画調整課の係長を席に案内していた果歩は、その姿から目を逸らし、「こちらにどうぞ」と係長に言いかけた時だった。
「今日はよろしくお願いします」
 聞きなれた――そして、聞きたくもない声がした。
 果歩はさすがに足を止めて振り返った。
 晃司である。前園晃司。ライトグレーのスーツを着て、神妙に藤堂に頭を下げている。
「五条原補佐の代理できました、急な仕事がはいりまして」
「わかりました、よろしくお願いします」
 藤堂も、さらに丁寧に頭を下げている。
 さっと顔を上げた晃司と、その刹那、果歩は目があっていた。
 慌てて逸らそうとするより早く、「よう」とでも言いたげに、晃司はわずかな笑みを送ってくる。
 ――なんなの、それ。
 どす黒い感情が、胸の中に込み上げてきた。
 あんなことを流奈相手に言って――多分、知っているはずなのに、私が、あの場に立っていたことを。
 少し遅れて、那賀局長が到着して、ようやく懇親会は始まった。
 
 *************************
  
「4月はお疲れ様でした、今年1年、よろしくお願いしますね」
 一人一人にそう言って、ビールを注いで回っていく。
 それが――果歩の、毎年の恒例行事だった。
 胃が痛かった。正直、食欲は全然ない。が、注げば、その分だけ逆に注ぎ返され、飲む事を暗黙に強要される。
「ホント、僕はあれだよ、総務の果歩ちゃんの顔見ることだけが楽しくて仕事にきてるようなもんだから」
 酒が入ると、普段しかめっ面ばかりの上役たちの表情もほぐれる。
「また、お上手ですね」
「マジマジ、ほんっと、果歩ちゃんは、局の顔。やっぱり、美人が総務にいるといないとじゃ、局の雰囲気が違うから」
 何気に背中や膝などを叩かれる。セクハラと紙一重だなぁと思うが、昔と違って、今はこういうことは、果歩はあまり苦にならない。
 多少のことで目くじらをたてるより、気持ちよく飲んでほしいな、とつい思ってしまうのだ。
「君もあれだろう、結婚するなら、果歩ちゃんみたいな子にしとけよ。こういう気づかいの出来る女性は、昨今、滅多にいないからな」
 と、いきなり都市デザイン室係長に話を振られたのは、斜め前に座っていた晃司だった。
「はぁ……」
 と、晃司は控えめに笑っている。
「前園さんって、的場さんのこと好きですよね」
 と、そこでいらない口を挟んだのは、その隣に座っている流奈だった。
「いえ、そんなことは」
 多分晃司は、頬をひきつらせて苦笑している。
「またまた〜、だって、いつも的場さんみたいな人が理想だって言ってるじゃないですかぁ」
 流奈は嫌がらせのようにそう続ける。
「水割りかお湯割り、お持ちしましょうか。飲まれたい方おられますか」
 果歩は何気なく話題をそらした。
 こういう場を臨機応変にやりすごすのは慣れている。そこは悪いが、小娘の流奈など問題にもならない。
 何人かに希望を聞き、果歩は笑顔で立ち上がった。
 くらっときた。
 ――いけない、足に少しきている。
 そんな自分に吃驚しながら、何気なさをよそおって、座敷を出る。
 できるだけ飲まないようにしていたつもりが、返杯が少しずつ蓄積されていたのだろう。食事を取っていないのもまずかったようだ。
 そう思うと、なんだかむかむかと、胸にこみあげるものがあった。
 ――これ以上は、飲まないようにしないと……。
 そう思いつつ、仲居に飲み物を注文して、座敷に戻ろうと襖を開けた時だった。
「なんだ、そんなところにいたのか、果歩ちゃん」
 と、背後からいきなり抱きつかれた。
 驚いて振り返る、那賀局長である。小柄だから、殆んど果歩と目線の変らない小柄な男。
「びっくりした……驚かせないでくださいよ」
「すまんねぇ、ちょっと、酔っ払ってるんだ、肩かしてちょーだい」
 どっと座敷から喝采が起こる。
「よっ、局長、役得ですなぁ」
「いいですねぇ、若い娘に面倒みてもらっちゃって」
 果歩は何と言っていいか分からないまま、那賀の身体を支えるように席に連れて行く。もともとアルコールに弱い人なのに、珍しく飲んでいるのかな、と思っていた。
「いやぁ、僕はねぇ、この子に心底惚れてんだ。どうにでも死に水を取ってもらいたくてねぇ」
 那賀は、いつになく上機嫌である。
「私にできることなら、お伝いするつもりですよ」
 肩を抱かれながら、果歩はいたわりをこめて、那賀に言った。
 那賀の、役所内の立場は、決していいものではない。コネだけで上にいった、無能、役立たずと陰でいわれ、晃司や流奈にまで「じいさん」と呼ばれている。
 確かに仕事面で尊敬できるところは余りない、が、果歩は、今年で退職するこの老人が好きだった。7年前、どん底にいた頃の果歩を救ってくれたのが、この那賀である。今でもその恩は忘れてはいない。
 それこそ同情かもしれないが、自分だけは、この人を裏切るような真似だけはしたくないと思っている。
「もーっっ、やだっ、藤堂係長ったら」
 甲高い声がした。
 振り返りたくなくても、つい果歩はその声の方を目で追っていた。
 声は、無論流奈のものである。
 自席を立ち、彼女はいつの間にか藤堂の隣に座っていた。
 肩が触れるほど近くに寄り添い、正座しつつ崩した脚は、腿がほとんど露わになっている。
「ひょっとして、意外とえっちな方なんじゃありません? そんな真面目な顔をしてらっしゃるのに」
 流奈はそう言い、馴れ馴れしく藤堂の腕を叩いている。
「はぁ……」
 と、確かに困惑しているものの、藤堂もまた、その場を動こうとはしていなかった。
「おいおい、君たち、前から噂になってるが、まさか真面目にそういう仲なんじゃないだろうな」
 誰かが2人を揶揄してそんなことを言っている。
「えー、ばれましたぁ? どうしましょう、藤堂さん」
「はぁ」
 ――はっきり否定すればいいのに。
 那賀にウーロン茶をすすめながら、果歩はむしょうに苛々していた。
「そこまで身長差があると、子供は帝王切開になるそうだぞ」
「あははっ。じゃあ、まず作らないと、ねっ、藤堂さん」
「はぁ」
 ――なんなの、それ、優柔不断にもほどがあるじゃない!
「ま、的場君?」
 はっと気づくと、手にしたコップの縁からウーロン茶が溢れ、局長の膝を濡らしている。
「すっ、すみませんっ」
 果歩は指先まで真っ赤になった。
「あの……すみません。すぐに拭きますから」
 慌てて、自分のハンカチを取り出して局長の痩せた膝のあたりを拭う。
「おいおい、妙なところを触るなよ」
 冗談めかして那賀が言い、その場はどっと笑いに包まれた。
「どいてください」
 ふいに大きな影が果歩を覆う。少し驚いて顔を上げる。
 膝をついてその場に割り込んできたのは、タオルを手にした藤堂だった。
「失礼します」
 局長の膝を拭き、机の上に零れたお茶も手際よくさっとふき取る。
「いやぁ、図体は大きいが、意外によく動く男でねぇ」
 那賀のジョークの矛先が藤堂に向けられる。
「藤堂さん、すみません」
 果歩は、藤堂の手から汚れたタオルを受け取ろうとしたが、何故か藤堂は、そっけなく目をそらし、そのまますっくと立ち上がった。
 ――藤堂さん……?
 それきり果歩を見ようともせず、藤堂は、元の席に戻っていった。


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