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年下の上司 story10〜 December@

12月は恋の季節 無意味なモテ期がやってきた(1)



 クリスマスには、真っ赤な服を着た怪物が、悪い子をさらいにやってくる。
 そんな与太話を、幾つになるまで信じていたかな。



「おじさーん、何してるの?」
「ねぇ、ねぇ、さっきから、ずーっとこっちを見てるでしょ? もしかして、あたしたちに興味あるー?」
「あっ、コラ、逃げんなよ」
 たちまち女子高生数人に囲まれて腕をとられ、小柄な中年男はうろたえた目で、周辺を見回した。「べ……別にわしは、君らなんぞ見とらんぞ」
「なーに言ってんだよ。さっきから、うちらの前を行ったり来たり、行ったり来たり」
「ねー、おじさん、うちらと一緒にご飯食べてカラオケいこうよ。楽しい思いさせてあげるからさ」
「馬鹿なことを言うな! わ、わしはそんな、だらしのない男じゃないぞ!」
 腕をふりほどいて、頭の薄い中年男は逃げだした。
「ばーか」
「じじい、だったら見るな」
 女の子たちの怒声が夜の繁華街に響き渡る。
「てか、財布盗られたの気づいてないし」
 やがて静けさの戻った路地裏で、一番長身の女が手にした財布を自慢げに夜にかざした。
「ラッキー」
「いくら入ってる?」
「だーめ、これは私の戦利品」
 自慢げに少女は微笑した。「だってあのオヤジ、絶対に私を見てたもん」
 結局財布の中身はぶちまけられ、現金だけが引き抜かれた。
「ぶっ、しょぼ、三千円??」
「足ついたらまずいから、残りは全部捨てとこうよ」
「てか、定期まで入ってるし。どうやって帰るんだろ、あの親父」
「……あ」
 無邪気な手が、白い名刺を持ち上げた。「名刺だ」全員の目が、まじまじと刻まれた文字に向けられる。
 一人が、少し意外そうに呟いた。
「へー、あのオヤジ、市役所の人なんだ……」


 *************************


「へーえ、的場さんでも、そんな本を読むんだね」
 ぎょっとして振り返る。
 昼休憩。
 南原はいない。水原もいない。大河内は仮眠中。
 誰にも見られないことを何度も確認してバックの中から取り出した女性向けタウン雑誌。
 背後に立っていたのは、都市デザイン室の窪塚主査だった。
 想定もしていなかった人物の登場に、果歩はしどろもどろになっている。
「べ、べ、別になんでもないですよ。借りたんです。ほら、百瀬さんに」
「……? 何慌ててんの?」
 果歩が大慌てで隠そうとした雑誌を、窪塚はひょいと取り上げた。
「どうも総務課は恋の季節だねぇ。藤堂君といい、的場さんといい」
「は、……はは」
 ひきつった笑いを浮かべた果歩は、ちらっと上席に座る人を見やっている。
 藤堂瑛士―― この春から都市計画局総務課の庶務係長に着任した、26歳の年下の上司は、手元の書類と照合しながら黙々とパソコン作業をしており、こちらの様子には無関心のようだった。
 最近、疲れてるみたいだけど、大丈夫かな……?
 仕事が忙しすぎるせいか、今月に入ってから藤堂は少しばかり素っ気ない。
 先月の終わり、2人で初めて食事に行って、少し……こう言っていいなら、ほんの少しだけ、いいムードになった。
 晃司とりょうのお泊り事件(今でも果歩には、あれに何の意味があったのかよく判らない)や、職場のたわいない人間関係の話等、会話自体は色気も何ないものだったが、帰りは果歩が乗るバス停まで送ってくれて、―― ベンチに寄り添って座っている間中、彼は果歩の手を片時も離さず、ずっと握り続けていてくれたのだった。
 まるで、―― もう本当の恋人同士のように。
 いったい、4月まで待ってくれ発言はなんだったのだろうか。
 あの夜の果歩は、もう幸せいっぱいで、これからの2人の進展を一気に期待してしまったほどである。
 が、結局、何の進展もなく2人は別れ、果歩は次の約束を期待したが、それもないまま、今―― 12月の最初の週が終わろうとしている。
 で、今週の彼の態度や振る舞いは―― まさに、彼が宣言したとおりの元どおり、まだ果歩と藤堂がこれっぽっちも親しくなかった頃に逆戻りしてしまったようだった。
 そんな風に態度が急変してしまった理由は、やはり果歩には判らない。聞こうにも……今、藤堂は忙しすぎて話しかけるのもはばかられるほどなのだ。
 実際、今月になってからの藤堂は、かつてなく疲れているようだった。
 理由は、ひとつだけなら察しがつく。志摩課長の命により、藤堂に、今月から計画係のサポートにつくよう指示があったからだ。
 その指示には、正直誰もが驚いた。
 計画係の中津川補佐と藤堂は、局内の誰もが認知する犬猿の仲である。
 よりにもよって、その中津川の仕事を藤堂が手伝う……中津川にすれば、一番嫌いな相手に嘴をつっこまれる―― 心穏やかなはずはない。
 そのせいか、今月にはいってからの藤堂は、仕事面でも信じられないようなポカをするようになった。
 いつもは早すぎるほど早い決断に妙に時間をかけてみたり、え? そんなことまで課長の許可を取るの? ということまで、いちいち課長の意向を窺ってみたりと、全く彼らしくない。
 時折、疲れた目で考え事をしている姿も印象的だ。
(まぁ、11月は大河内さんの仕事全部を引き受けてたし、今月は計画係の仕事がピークだし、さしものデカブツも頭が飽和しちゃったんじゃないの?)
 とは、南原の分析である。
(いやぁ、中津川補佐のせいじゃないんすか? だって補佐、一緒に仕事してんのに、藤堂さんに一切情報流さないんですよ。それどころか、今月に入ってからは嫌味みたいに定時退庁してますし)
 それは水原の分析だった。
(協議の席でも、むっつり座ってるだけで、質問されてもだんまりですからね。ふてくされているというか、完全にやる気をなくしているというか、藤堂さん何も知らないのに、全部押し付けられて、あれじゃあストレスも溜まりますよ)
 それは果歩も、傍で見ていて薄々だが察していた。今月に入ってからの中津川の態度は、嫌味というか、嫌がらせというか―― とにかく、最悪なのである。
 水原が羅列した事実だけではない、頻繁に席を空けるし、女の子みたいに勤務中に携帯をいじっていたりする。
 つまるところ、課長の余計な指示のせいで、ますます悪化してしまったのが、中津川の態度であり、藤堂との関係だった。
 藤堂は気の毒なほど低姿勢で接しているが、完全無視されているという状況だ。彼がいちいち課長の意見を窺いに走るのも、中津川が動かないせいかもしれない……。
「で? やっぱりこないだの彼?」
 窪塚の声で、果歩は我に返っている。
 雑誌を再び果歩に返しながら、窪塚は楽しげな口調で続けた。
「こないだ、的場さんに会いに来た彼だよ、ほら、例の事件の目撃者」
「え……?」
 意味が判らず瞬きをした果歩の前で、窪塚は雑誌の表紙を指して見せた。
「背も高いし、真面目そうだし、なかなか感じがよさそうじゃない。せっかくのご縁だから、つきあってみればいいのに」
「……いや、それは……」
 窪塚が何を言っているのか察し、たちまち果歩はしどろもどろになっていた。
 先月―― 晃司を見舞った災難は、今度は多少の形を変えて、果歩の元にも訪れた。
 松本遼平―― 先月、大河内主査が巻き込まれた痴漢事件の目撃者。人事聴聞ぎりぎりになって、自ら名乗り出てくれた義の人である。
 彼のささやかな正義感のおかげで、免職直前だった大河内は無罪放免。全ては万々歳に終わった。そのまま、果歩と松本の関係も、ただの通りすがりの他人で終わると思われたのだが―― 。
 その松本青年が、花束を持って総務課を訪ねてきたのが、12月に入る直前のことだった。
「的場さん」
 セルフレームの黒眼鏡が少しイケメン度をアップさせている青年は、開口一番、ひどく親しげに果歩の姓を呼んだ。
 むろん、堂々と公務員嫌いを宣言していた松本のその態度には、理由があった。
「びっくりしましたよ。先日うちの会社で、今回の事件のことをちらっと話したら―― それは、うちの娘だろうって」
 果歩は―― それこそ、コンタクトが両目から飛び出すほど驚愕した。
「えっ、じゃあ、あなたは父の会社の……」
「ええ、同じ営業で、的場部長のラインで仕事をしています」
 なんという偶然だろうか。そう言えば、夕食の席でも朝食の席でも、父はいつになく何か物言いたげだった。でも―― 。
「ごめんなさい、父が何も言ってくれないものですから」
 そう言うと、松本は恐縮したように片手を自身の頭にあてた。
「いや、僕が自分で話しますって、部長に口止めしたんですよ」
「? そうなんですか」―― なんのために?
「あー、言いにくいな。ちょっと、外に出られますか?」
 果歩の背後で、総務課全員が息をつめて2人の会話を注視していると気づいたのはその時である。
 なんだか妙なプレッシャーを感じつつエレベーターフロアに出ると、待っていたのは、つまるところ―― 告白だった。
「つきあってもらえますか」
「え……っ、ええ??」
「……なんか、あの後、妙に的場さんのことが気になっちゃって。美人なのに、面白い人だなぁって」
「…………」
 その形容は、初めてである。
「しかも部長の娘さんだったなんて、柄になく運命を感じちゃったのかな。……あー、俺、あまり給料のよくないサラリーマンですけど」
「あっ、いえ、それはもう、全然」
 これが―― 恋を待ち焦がれる時期であったら、思わず「じゃ、お友達から」と言ってしまったかもしれなかった。
 性格がいいのはよく判っている。背も高いし、顔立ちもまぁまぁ。父と同じ会社なら、堅いし安心できるだろう。
 が、たとえ、ジョニーディップが来ようと、オーランドプルームが来ようと、果歩の気持ちは変わらないのだった。―― 多分。
「そっかぁ、おつきあいしてる人がいるんですか。……やっぱりな」
 松本は少しばかり寂しげだった。
「あの、……まだ父に、そういったことは話してないんで」
 しかも、本当につきあっているかと突き詰められると微妙だし。
「ああ、もちろん、余計なことは言いませんよ」
 来た時と同じ爽やかさで、松本は一礼して去っていった。
 後に、局全体に広まった噂の種だけを残して。
「あの人は、父の会社の人ってだけですよ」
 藤堂を意識しつつ、果歩は窪塚に言い訳した。
 この件に関しては、藤堂はまるで無関心で、果歩はさすがに少しばかりの寂しさを感じている。
「それは知ってるよ。でも、わざわざ訪ねてきてくれたってことは、あれじゃない? 父親のお墨付きをもらったんじゃない?」
「まさか」
「君ももう、いい年だからねー。僕が親父なら、ああいった好青年と見合わせたいと思うけどな」
 まさに余計なことだが、この場合果歩は少しばかり嬉しかった。心の中で、もっと言って、窪塚さん! と無言のエールを送っている。
 藤堂の耳に、ぜひとも届いて欲しいからだ。
 が、窪塚はそれだけ言うと、興味をなくしたように、さっさと背を向けてしまった。
 果歩は―― おそるおそる藤堂を見ている。
 彼は、丁度電話をかけているところだった。
「昼時間にすみません、総務の藤堂ですが」―― 本当に……判らない人。
『彼と過ごすクリスマス特集』
 手元の雑誌の文字をそっと指で撫でてみる。
 今月に入ってからの藤堂は、本当に、ただの上司になってしまった。
(これまで通りでいましょう)
(明日から、元の僕に戻ります)
 その言葉どおり、ひどく他人行儀な(職場では大概そうなのだが)態度で果歩に接し、それ以上、殊更果歩に近づこうとしない。むろん、プライベートのお誘いも電話さえもないままである。
 もちろん、果歩は不満たらたらだった。
 だって12月よ? クリスマスよ? それなのにこのままでいいの? そりゃ私だって春まで待ちますとは言ったけど、今さら―― あんなキスまでして、それ以前の、なーんにもなかった頃の2人に戻れと言われても。
 彼が、何か問題を抱えているのは判るが、何もそこまで元に戻らなくても……。
 時々は電話するとか、メールするとか、それが無理なら目と目で会話しちゃうとか。
 多分、仕事が忙しすぎるせいだろうけど……。
 ため息をついて、果歩は所在なく雑誌のページをめくってみる。
 クリスマスには釣りに行こう。穴場紹介。―― って、どこのバカップルが、12月のくそ寒い時期に、釣りなんかに行くんだろう。特集組んだ人間の気がしれない。
 ―― 釣りかぁ……。
 たとえてみれば、果歩が投げた釣りざおは、現在、ことごとく外されている。
 水の底に沈んでしまった藤堂は、果歩がどんな餌をまこうが、一向に上がってはこない……。
「藤堂君、的場君」
 と、その時、いきなり声がかけられた。カウンターから中に入って来た志摩課長である。
 そう言えば、課長が昼に席を空けているなんて珍しいな。
 そんなことを思いながら、果歩は席を立っている。「はい」
「次長がお呼びだ。2人で今から15階の第3会議室にいきたまえ」
 え……?
 なんだろう。昼休憩に。
 同じく思いあたる節がないらしい藤堂と、果歩は顔を見合わせていた。

 *************************

「話というのは、中津川君のことだ」
 仏頂面の春日がそう切り出した時には、藤堂には呼び出された理由が判っていたようだった。
「最近の勤務態度が目にあまるというのも勿論だが、仕事のミスがやたら多い。……藤堂君は、気がついていると思うが」
「…………」
 藤堂は答えず、ただ視線だけをわずかに下げる。
 そのやりとりだけで、果歩は、藤堂が中津川のミスをフォローしているのだと理解できた。いや、単にフォローしているだけならまだいいが、もしかすると失敗の責任まで取らされているのかもしれない。
 溜息を吐きつつ、春日は続けた。
「中津川君の仕事は、局の主要計画の調整だ。様々な部署と情報を共有し、手助けをしてやらねばならん。いわば、この局の顔であり、強力なリーダーシップが求められるポジションだ」
 その通りだった。
 計画係の主な仕事は、都市計画局が長期スパンで行う事業の、いわば調整役である。
 各課からあがった、もしくはトップダウンで指示された事業計画。その予算を確保し、議会に通し、県の許可を得るための―― 様々な申請や陳情や根回しを統括しているのである。
 中津川が水原と、新家主査が谷本主幹と組み、基本、計画係は2人1組で仕事をしている。
 が、果歩が知る限り、今、中津川&水原コンビのサポート役として、藤堂がついているはずだった。
 誰もが訝しがった課長命令の意図はよく判らないが、水原が経験不足すぎるのと、―― もしかすると、藤堂に計画係の仕事に触れさせておきたいという思惑もあるのかもしれない。
 今や、春日や志摩の相談役のような存在にまでなった藤堂は、大袈裟でなく、各課長から非常に重宝されている。気の毒なようだが、本来中津川に相談すべきような事例まで、藤堂に話がくることもある。
「しかも」春日は続けた。
「今、中津川君が抱えているのは非常に重要な案件だ。駅前再開発の事業計画―― 闇市の名残を色濃く残した駅前の活性化は、市長のマニフェストでもある。真鍋市長は、この任期内に、何がなんでも予算措置までもっていきたい腹だ。判るだろうが、局としては絶対に失敗は許されない」
 藤堂は黙って聞いている。
 果歩は何故、自分がこの場に呼ばれたのか判らないままでいた。
 議会で賛否が分かれている駅前再開発計画。市長が巨大商業施設の建設を目指し、地権者や地元商店街が根強くそれに反対している。その構図は、もう何年も前からの市政の懸案として横たわっている。
 では、藤堂はその計画調整に携わっているのだ―― 。今月からの話だが、都市政策が担当しているその事業は、担当者は確か、晃司である。
「お疲れなのかもしれません」
 藤堂が初めて口を開いた。「仕事のこともそうですが……色々、気苦労もおありなのかもしれませんし」
「その通りだ」春日は、さもあらん、という風に眉をあげる。
「しかし、だからといって、放っておいていい話ではあるまい?」
 藤堂は黙る。彼の暗い表情の意味が、果歩には今ひとつ判らなかったし、春日が、あたかも藤堂に謎かけでもしているかのような言い方をするのも判らなかった。
 おそらく2人には、何か共通の認識が―― 果歩の預かり知らない認識があり、それを基に話しているのだろう。
「実は、先ほど中津川君を呼んで話をした」
 そこで言葉を切った春日は、初めて果歩のほうに視線を向けた。
 え? なに、私? 果歩は戸惑いつつも、居住いをただす。
「叱り飛ばすつもりが、逆にこう詰め寄られたよ。問題は、藤堂君と的場君の2人にあるとな」
 えっ……。
「君らとは仕事をする気にならないから、2人を揃って異動させるか、自分を異動させるかどちらかにしろと―― まぁ、そういうことだ」
「…………」
 驚きながら、――というより、むしろあっけに取られながら、果歩は黙って隣の藤堂を見上げている。
 何それ。
 補佐に嫌われていたのは知っていたが、何も、そこまで―― 春日次長に直訴までされるまでとは思わなかった。
 というより、あまりに補佐の申出がとっぴすぎて、なんだか、は? という感じだ。
 塩でも舐めたような表情で、春日は軽い舌打ちをした。
「調整役として、失格だな。その烙印を押す前に、中津川君自らが認めたようなものだ」
「はぁ……」
 としか、果歩には言えなかった。
 全く春日の言うとおりである。
 なにより調整能力が求められる局総の課長補佐が……誰かと気が合わないから異動させろなどと、気が狂っても言ってはならない。
 まぁ、果歩が使い物にならないからという、そういう趣旨もあったのかもしれないが。それにしても―― 。
「中津川君は、計画補佐として不適格だ。それは今回にはじまったことではないが」
 吐き捨てるような、春日の口調だった。
 自分が誹謗されたにも関わらず、果歩は少しばかり、補佐が気の毒になっていた。
 中津川補佐は、春日や志摩のように上級試験を経たエリートではない。いわば、中級から下積みを積んで補佐になった叩き上げだ。ここまで来るのに、相当の努力をしてきたはずなのに。……。
「まぁ、そういったところだ。無論、異動するのは君らではなく、中津川君になるだろうがな」
 嘆息して締めくくると、どこか疲れたように春日は立ちあがった。
「藤堂君」
「はい」
「この件は、君に一任する」
「…………」
 藤堂より、傍で聞いていた果歩のほうが驚いていた。―― 一任? つまりそれは、我儘三昧の補佐の面倒を、藤堂さんに任せるってこと?
「以上だ。後は、君らの裁量でなんとかしたまえ」
 さすがに果歩は、反論したい気持ちでいっぱいになっている。
 なんでだろう。そもそも補佐がおかしくなった発端を作ったのは志摩課長なのに―― 。藤堂さんは、ただ上司の命令どおりに補佐のサポートについているだけなのに。
 春日の言い方が、ひどく冷たいように果歩には思えた。結局、どうすればいいのだろう。私が悪うございましたと、補佐に泣いて謝ればいいのだろうか?
「なんとかしろって、まるで、何もかも私たちが悪いみたいに」
 2人になって、果歩は思わず不平を漏らしている。
「そういう意味で言われたんじゃないですよ」
 藤堂は落ち着いていた。
「僕らを動かすしか、解決の糸口がないからそう言われたんでしょう。……確かに、うちの内部のごたごたで、他局に迷惑は掛けられないですからね」
 鍵を閉めて外に出た時、ようやく果歩は、今が―― ここ数日待ち望んだ2人きりだと意識した。
 そんな場合ではないと判っていても、たちまち、少しばかり胸の動悸が高くなる。
「補佐、そんなにミスが多いんですか」
「……そうですね。でも、まぁ、修正できる範囲ですよ」
 彼の口調が陰ったので、口ではそう言いながらも、おそらく無視できる範囲をはるかに超えているのだろうという、察しはついた。
 そうでなければ、春日がわざわざ動いたりはしない。課長をすっとばして次長がここで出張って来たのは、志摩課長が、中津川より年下だからだろう。
 ああ、そうか、年下の上司……。
 そんなストレスも、もしかしたら中津川は感じ続けていたのかもしれない。
「的場さんは、気にされなくていいですよ。今度、補佐と話しあってみますから」
 果歩が黙り込んでしまうと、屈託なく、藤堂は笑った。
「春日さんの言う通り、確かに原因は僕なんです。そこは男同士ですからね。些細なきっかけで、簡単に仲良くなれるものですから」
 絶対にそうは思えなかったが、とりあえず頷いた。確かに藤堂の言うとおりで、ここで果歩が下手に口を挟むより、藤堂に任せていたほうがずっといい。
「しまった、急いで戻らないと、電話かけなきゃいけないんだった」
 藤堂が、急いで歩き出そうとするのを、果歩は咄嗟に止めていた。―― 袖を掴んで。
「え?」
「えっと……」
 果歩が、口調を囁くようなものにすると、鈍い藤堂もようやく何かを察したのか、視線をわずかに戸惑わせた。
「藤堂さん」
「……はい」
 小さく答える彼の目が、控え目な羞恥を滲ませたので、果歩は少しばかり勇気をもらった気になっていた。
 果歩は袖を掴んでいた手を離し、そっと藤堂の顔を見つめた。
「ちょっと話を……いいですか」
「……はい」
 果歩を見る彼の眼差しの中に、あるかなきかの影がかすめる。それは、キスをする直前の眼差しに似て、果歩はきゅっと胸が締め付けられるのを感じている。
 2人を取り巻く空気が、ただの上司と部下から、つきあっているのかいないのか今一つ判らないけどとりあえずあんなキスをしてしまった2人―― に、移行する。
 本当は、12月に入ってからの、彼の態度の変化を聞くつもりだった果歩は、たちまち、そんな些細なことはどうでもよくなっていた。
 彼の目を見ればはっきりと判る。彼の心が変わったなんて、思う方がどうかしている……。
「こ、今夜は、遅くなりますか」
 まるで新婚の妻みたいな馬鹿な質問をしたことに、果歩は言った端から頬を染めていた。
「え……いや」
 どのあたりが彼の意表を突いたのか、何故か藤堂が、思いっきり戸惑うのが果歩には判った。
「その……今夜ですか」
「あ、お仕事で遅くなるんなら」
「いえ、そういうわけじゃ―― 」
「……?」
 なに? なんか不自然だぞ、その態度。
 もしかして、再び月からの襲来だろうか。まさかと思うけど、また部屋に居座られているんじゃ……。
「あら、藤堂君」
 セクシーなハスキーボイスがしたのは、その時だった。
 果歩はぎょっとして、思わず藤堂の前に立ちふさがっている。
 医務室の蜘蛛女―― もとい、嘱託ドクター。
「っ……あ、こんにちは」
 何故か藤堂は、動揺しつつ、ひどくわざとらしい挨拶をした。むむ……ますます果歩は、疑心の念を濃くしている。
 相変わらずお色気たっぷりの白衣と黒のワンピに身を包んだ女は、果歩をまるっきり無視して、藤堂を見上げた。
「今夜、大丈夫なんでしょ?」
「えっ……、は、はぁ」
「すごく可愛いナースを4人ばかり集めたから、楽しみにしておいてね」
「…………」
 微笑する藤堂の横顔は、思いっきりひきつっている。
「じゃ、また夜にね」
 ウインクして、エロドクターは去っていく。
 ふぅん……。
 果歩は逆に、冷めきった目で、硬直した年下の上司を見上げていた。
 この緊迫した状況下で。ふぅん。
 心配した私がほんっとにバカだったというか。
「……的場さん」
 藤堂が、こわごわと視線を向けてくるのが判る。
 へーえ。
 その程度には、罪の意識を持ってるんだ。私に対して。
 なーーんにも、感じてないと思ってましたけど。
「的場さん……あの、これには理由」
「じゃ、私、先に戻ってますねー」
 にこっと笑って果歩は言った。きびすを返し、すたすたと歩き出す。
 しーらない。
 藤堂さんなんか、蜘蛛女に食われちゃえ!



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