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年下の上司 story10〜 December@

12月は恋の季節 無意味なモテ期がやってきた(4)


「えっ、じゃあ、的場さんは帰ったの?」
 あからさまに残念そうな顔をする前園晃司に、乃々子は両手を合わせて謝罪の意を示した。
「そんな、前園さんが心配されるような雰囲気じゃなかったですよ。警察の方、みなさん紳士的でいい人でしたし」
(―― 何かあったら、俺の携帯に電話して)
 前園晃司にそう言われて、番号のメモを手渡されたのは、役所を出る直前である。
 なんとなく……彼の態度から、的場さんのことが心配なんだろうなぁ、と察しがついた乃々子だったが、その携帯番号は、別の目的に使ってしまった。
 目の前にはぐでんぐでんに酔っぱらった流奈が、2人の警察官に抱えられるようにして立っている。
「あー、須藤、帰るぞ」
 仕方なくといった風に、晃司がその前に歩み寄った。
 本当にごめんなさい、と乃々子は両手を合わせている。
 わざわざ合コンを抜けてきて……お目当ての人がいなかったなんて、それは腹を立てているに違いない。
 が、しかし、事はそう簡単には進まなかった。
「君、誰?」
「身分証みせてくれる? この子とどういう関係かな?」
 いきなり警察官の顔を取り戻した男2人が、逆に晃司に詰め寄っている。
「俺?」晃司はさすがにむっとしたようだった。
 が、すぐに、怒りというより、言葉に迷うように眉を寄せる。
「……俺は……そいつの、なんていうか」
 しばし、眉を寄せ、晃司は考えている。「―― 保護者ですよ」 
「保護者?」
「ちょっと、免許証見せてもらおうか」
 さすがに晃司が険しい表情になり、「は?」と、思い切りガンを飛ばした。当然ながら、その場に殺伐とした空気が流れる。
 警察官が、いくら酔っ払っているとはいえ、いかに職務に忠実であるか、乃々子は怖いような思いで理解したのだった。
「君さ、今俺らのこと睨んだよね」
「何かやましいことでもあるのかな。どうして免許が見せられないの」
 無言で気色ばむ晃司を、2人が前後から取り囲むような陣形になる。
「持ち物、見せてもらっていいかな」
 さすがに溜まりかね、乃々子は彼らの間に割って入っていた。
「あっ、あの、この人須藤さんの彼氏なんです。あまり酔っ払ってるから、私が心配になって呼んだんです!」
 咄嗟にそんな言い訳をしていた。
「ごめんなさい、黙ってて。でも、信用してもらって大丈夫ですから」
 その後、流奈が帰らないとだだをこねたり、再びカミセンと晃司が一触即発になったりしたが、結局15分後、3人はようやく解放された。
 怒り心頭だった晃司は、今はむっつりと黙ったまま、流奈を背負って夜の繁華街を歩いている。
「……前園さん、本当にごめんなさい」
 その後をついて歩きながら、乃々子は何度目かの謝罪を繰り返した。
「あー、いいよもう」
 かえってきた言葉は、ぶっきらぼうだったが、怒ってはいなかった。
「須藤が面倒ごと起こせば、的場さんが大変なことになるからさ。呼んでくれて助かったよ」
 ああ……この人、本当に的場さんのことが好きなんだな。
 乃々子はなんだか切なくなっている。それが、多分、到底叶わない片思いだと想像できるだけに……。
「くそ、重いな、結構」
「藤堂さぁん」
 晃司がぼやいた途端、背中の流奈が甘えた声を出した。
「藤堂じゃねぇ、てか、あんなごついのと間違えんな」
 その乱暴な物言いも、乃々子には少しばかり意外だった。
 前園さんって、なんだか取りすましたイメージがあったけど、そういう面だけじゃないんだな。てゆっか、須藤さんとすごく仲がいい気がするんだけど……。
 冷たそうな男に初めて感じた親近感が、乃々子を少しばかり大胆にさせていた。
「あの……前園さん?」
「ん?」
「その……今夜の」
 女医さんたちとの合コンのことですけど……。
「何?」
「あっ、いえいえ、なんでもないですっ」
 乃々子は取り繕ったように両手を振って、「的場さん、無事に帰りましたかね」と適当なことを言っていた。

 *************************

 バスが2本ばかり通り過ぎた後、ひどく背の高い人が駆けてきた。
 バス停前で足をとめ、周囲を慌ただしく見回している。
 その様子を窺いながら、果歩はコンビニの外に出た。ぱらつく程度だが、わずかに雨が降っている。
 買ったばかりの傘を開き、果歩は藤堂の背中に歩み寄った。
「……的場さん」
 気づいた藤堂が、安堵したように振り返った。
「風邪ひいちゃいますよ」
 傘をかざすと、少し恐縮したように、藤堂はそれを受け取った。
「すみません……」
 本当に……。
 心配だったら、最初から止めてくれたらいいのに。
 内心少しばかり呆れていたが、それでもここ数日の不安や不満は、こうして藤堂が追いかけてきてくれたことで、綺麗に払拭されている。
「結局、合コンはいかなかったんですか」
「ええ……」藤堂はわずかに口調を濁した。
「結局、仕事が片付かなかったので」
 その表情が目に見えて翳ったから、果歩は少しばかりむっとしていた。
 なによ。そこまで残念そうに言うことないじゃない。
「行けばよかったのに」つん、として果歩は言った。
「別に私、怒ったりしませんよ」
「…………」
 藤堂は微笑して、傘を果歩に傾けるようにして歩き出した。
「疲れていませんか」
「……別に」
「次のバス停まで歩きましょうか」
 特段異論もないから、2人でひとつの傘に収まるようにして歩き続ける。
「すみませんでした」
 いきなり、藤堂が謝った。
「今夜は……僕も本意ではなかったのですが、南原さんがどうしてもと頼まれるので」
 まぁ、そのあたりの察しはついていたけれど。
「これも、職場のコミュニケーションの一環だと思って、お受けしました。……水原さんに、最近僕が疲れているようだから南原さんがわざわざセッティングしてくれたと聞いて、それも嬉しく思ったものですから」
 な、南原…………。
 そんな姑息なタッグまで組んで、無垢な藤堂さんを騙すとは!
「隠していたのは―― 」
 藤堂は、言いにくそうに言葉を切った。
「やはりどこかで、後ろめたかったのかもしれません」
「藤堂さん、仰られてたじゃないですか」
 そんなに素直に謝られると、逆に怒っている自分が大人げなく思えてくるものである。
「その……私たち、束縛しあうような関係じゃないって。だから、謝らなくてもいいですよ」
「…………」
 かすかに、藤堂が、微笑まじりの息を漏らすのが判った。
「それは、僕のほうの問題であって、的場さんは違いますよ」
「? どういう意味ですか?」
「僕は……束縛しません。だから今夜は、やっぱり僕が悪かったんです。結局、心配になって電話してしまいましたし」
 藤堂は言葉を濁した。
「心配って、相手警察の人ですし、大丈夫ですよ」
「まぁ、そうなんですけど」
 妙に歯切れの悪い言い方だった。
 電話での、どこか切羽詰まった藤堂の声を、果歩は思い出している。
 どこにいますか?
 今から帰るので、迷惑でなければ迎えにいきます。
 なんだか、夢を見ているようだった。いったい、何がきっかけでいきなり気持ちを変えてくれたんだろう。
 もしかして、もしかするけど、本当は最初から嫉妬してくれていたのかな。もうっ、そのあたりは、少しは信用してもらって大丈夫なのに!
 と、自分のことをまるっきり棚にあげて、果歩はほんわかと嬉しくなっている。
「仕事は、もう終わったんですか」
 ちらっと時計を見ながら果歩は訊いた。まだ9時半、どこかでお茶くらい飲んで帰れる時間だ。
「ええ、まぁ」が、藤堂の口調はひどく切れが悪いままだった。
「今夜は、これ以上残っても、片付きそうもなかったので」
「………」
 ようやく果歩は、彼の表情が冴えない理由に気づいていた。もしかして―― 。
「もしかして、補佐、戻って来られなかったんですか?」
 藤堂はわずかに眉をあげる。
「……よく判りましたね」
「……なんとなく……」
 そっか。
 あのまま帰ったんだ。それまでの異常な態度から、そんな気もしなくはなかったけど。
 そこまで……補佐は気持ちに限界にきていたのだろうか。
「まぁ、補佐のことは、明日以降僕が考えることですから」
 藤堂は、わずかに白い歯を見せた。
「すみません。僕が、なかなか気持ちが切り替えられないでいたのかな」
 果歩もまた、どこか頼りなく笑っている。
 藤堂は気楽に言うが、これは結構根の深い問題のような気がしないでもない。
 もし―― 万が一、中津川が病休ということにでもなれば、新年度を4カ月先に控えた都市計画局は、かなりの打撃を受けることになるからだ。
 当然、藤堂の責任問題にもなるだろう。
「藤堂さんが、悩むこととは違うじゃないですか」
 果歩はつい言っていた。
「補佐のことを全部藤堂さんに押し付けるなんて、……春日次長が無責任なんですよ。どう考えたって、課長か次長が仲裁に入るべきなのに」
「……次長には、次長の考えがあるんですよ」
 沈んではいるものの、落ち着いた口調だった。
 やはり、何かの事情があるんだな、とは察せられるものの、それ以上は、何も訊くことはできなかった。
「私のこと、怒ってるわけじゃないんですか」
 話題を変えてあげたくなって、果歩はあえて明るく訊いた。
 もし今夜、彼がどこか切羽詰まった気持ちで果歩に電話をかけてくれたのなら、少しでも楽しい気持ちになってほしい。
「ひどいやきもち焼きだから、てっきり、呆れられたんだと思ってました」
「……4月までとは、僕が勝手に言い出したことですから」
 少し雨脚が強くなる。
「そこまで的場さんを縛っておくと言う意味じゃないですよ」
 果歩は、少しだけ藤堂の傍に身を寄せている。
 彼の横顔は、傘の影になって暗く陰って見えた。
「僕は束縛しません。そんな資格もないから……でも、的場さんは、そうしたければしても構わないです」
「…………」
「僕は、されるのは構いませんから」
「な……」
 真顔で甘いことを言われ、果歩は自分が真っ赤になっている。
「な、なんてこと言うんですか。こっちが恥ずかしくなりますよ」
「そういうつもりは……すみません」
 藤堂も当惑したように、少し耳のあたりを赤くしている。
 なんで―― 。
 歩きながら、果歩はなんだかよく判らなくなっている。じゃ、彼は、いったい何を躊躇しているのだろう。
 つまり―― つまり?
 藤堂さんは、私のことを好きってことよね?
 好きなのに―― つきあえないってことは、やっぱり、藤堂さんの家庭になんらかの問題があるわけで。
「…………」
 依然として、2人の前に壁がそびえていることを、果歩はあらためて思い知らされている。
 4月になれば、彼が抱える問題全てが解決するのだろうか。その時の結論如何では、私が傷つく可能性があるから、だから彼は慎重になっているのだろうか。
 やはり果歩は、どうしようもなく8年前の過去を思い出している。
 あの時……果歩の前に立ちふさがった壁は、……どうにもならないほど大きくて、暗くて、果歩は触る術さえ見つけることはできなかった……。
「私のこと、今月に入ってから避けてたのも、同じ理由からですか」
 少し踏み込んだ質問だった。
 実際、彼が果歩を避けているのか、単に果歩の考えすぎなのか、そこは、果歩自身にも判らない。
「……避けていた……とは思いませんが」
 藤堂は、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「必要以上に近づかないようにしていたのは、確かです」
「…………」
「気を悪くされているとは思わなかった。……それは、すみませんでした」
「いえ……」
 たちまち果歩は、どこか萎れた気持ちになっている。
 なんでだろう。彼はやはり、まだ迷っているのだろうか。私か……香夜さんか。
 ああ、なんだかいらいらしてやるせない。訊きたいことは、喉の近くまでこみあげているのに、何一つ問い質せないまだるっこしさ。
 気づけば、バス停は目の前に迫っている。
「もうひとつ先まで歩きましょうか」
 果歩は言った。まだ、このまま別れたくない。また明日から、別々の日々が待っているなら、2人の時間をもう少し大切にしたい。
「いや、雨も随分ひどくなってきたので」
 藤堂が、眉をひそめて空を見上げた。
「よければ、どこかでお茶でも飲んで帰りましょうか」
 確かに、間断なく降り続ける雨は、藤堂の広い肩を思いっきり濡らしている。
「でも、この近くに、空いている店があったかしら」
 果歩は周囲を見回している。そして―― ふと、気がついていた。藤堂さんの部屋は、確かここから―― そう離れていない。
「もしかして、また月からのお客さまが来られてますか」
 皮肉にならないように―― 気をつけながら、果歩は訊いた。
「え? 月?」
 意味が判らないのか、藤堂は訝しげに眉を寄せる。
「ほら、おとぎ話のお姫様みたいな名前の方です」
 言葉に詰まったように息を飲み、藤堂は大慌てで首を振った。
「か、彼女なら、あの時に帰りましたよ。本当です」
「……あの時って?」
「…………」
 少しばかり、彼が言葉に迷うのが果歩には判った。
「僕が、的場さんの家に行った夜です。あれは、彼女を駅まで送った帰りだったんです」
 ああ……。
 へーえ。
 そうだったんだ。それは素直に白状してくれて嬉しいけど。
 あまり、聞きたくなかったな。
「だから、車だったんですか」
「え? ああ……まぁ、そうですね」
 歯切れ悪く藤堂は答える。
 ふぅん。
 結局、一度も乗せてもらったことのない彼の車。この前は乃々子にその座を譲ってしまった。そっか、もう香夜さんは、彼の助手席にちゃっかり座っちゃったりしてるんだ。
「藤堂さんの部屋なんかはどうですか?」
 殆ど無意識に果歩は言った。
「ここから近いし、一度お邪魔してみたいと思ってたんですよ」
 藤堂は、一瞬絶句したように見えた。
「それは、……どうかな、散らかってるんで」
 どう贔屓目に見ても、言い訳としか思えない口調。
「そうですかー」
 果歩は軽く嘆息した。
 ま、そうだよね。断られるとは思ってたけど。
「じゃ、やっぱりここで帰ります。今日はありがとうございました」
 別に、不機嫌な口調になったつもりはない。
 それでも少しの間黙ってしまった藤堂が、闇に淡く息を吐くのが判った。
「行きましょうか」
「え?」―― どこに?
「お茶くらいはご馳走します。僕も……少し相談したいことがありますし」
「…………」
「帰りは、車で送りますよ」
 本当に?―― 。
 いや、まて果歩。いつも、あと一歩のところで邪魔が入った過去を忘れちゃ駄目。
 一度目は彼のお母さん? もしかすると香夜さんだったのかもしれないけど。
 そして二度目は流奈がいた。
 今度は……誰がいるだろう。

 *************************
 
 予想に反して、部屋には誰もいなかった。
「お邪魔します……」
「どうぞ」
 藤堂が、背後で玄関に鍵をかけている。その音にさえ、果歩は敏感に反応していた。
 室内はひんやりとしていて、まるで生活の匂いがしない。部屋の主が、とうから寝るためだけに使っていることが窺われる。
 靴を脱ぐ果歩の隣をすりぬけるようして、彼は先に部屋にあがり、照明とヒーターをつけてくれた。
 2DK……部屋は綺麗に片付いていた。と、いうより余計なものが殆どない。
 6畳のキッチンには、小さなテーブルと椅子がひとつ。ガスコンロと電子レンジ、1人用の小さな冷蔵庫。シンクの横には申し訳程度の棚がそえられていて、調味料と食器が整然と納められている。
 わずかに開いていた木製の引き戸を、藤堂は閉めた。
 その奥に続くもうひとつの部屋が、多分寝室なのだろう。暗くてよく判らなかったが、ベッドのようなものが垣間見えた。
「そこに、どうぞ」
 上着を脱いで、ハンガーにかけると、藤堂はひとつきりの椅子を手で示した。「今、コーヒーでも入れますから」
 え……そりゃ、座れというなら座りますけど、あなたはどこに座るんでしょう。
 ソファもなければ、テレビさえない……。
 てか、本当にここまで見事に狭い部屋に、流奈や香夜さんがいたのだろうか。
 戸惑いながらも、果歩はおずおずとコートを脱いだ。かけるところがないので戸惑っていると、藤堂がそれを受け取り、少しためらってから、隣室に持って行った。
 ヒーターのききは悪く、部屋はかなり冷えていた。果歩はコートを脱いだことを即座に後悔したが、仕方がない。
 藤堂がコーヒー豆を棚から取り出す。彼はずっと無言で、果歩もなんとも言えない所在なさを噛みしめたまま、黙って椅子に座っていた。
 どうしよう……。
 すごく、無理矢理おしかけた感がある。
 藤堂さんの背中が、微妙に疲れているように見える。
 ああ―― なんて我儘なことをしちゃったんだろう。連日残業続きの彼が、飲みの帰りに迎えに来てくれたことだけでも、満足するべきだったのに。
「あの、私がやりましょうか」
「いえ、いいですよ」
 すぐに、室内にコーヒーのいい匂いが漂ってきた。
 藤堂はキッチンの端に腰をあずけ、視線を下げたままで立っている。何故彼が不機嫌そうなのか、判るようで判らず、果歩もまた、黙り続けたままでいた。
 しかし、初めての彼の部屋―― 。
 ある意味、恋愛過程の最高のシチュエーションで、こうまで盛り下がる私たちって……。
 やがて湯気のたったコーヒーカップが、果歩の前に丁寧に置かれた。
 その丁寧ささえ、なんだか他人行儀に思えて、果歩は寂しくなっている。
 藤堂はキッチンに腰を預けたまま、自分のコーヒーを口に運んでいた。
 部屋が狭いだけに、余計にその身体が大きく見える。
「あの……」果歩は、おそるおそる声をかけた。
「飲んだら、帰りますね。タクシーで帰れますから」
「送りますよ。そのつもりでお引き留めしたんですし」
 社交辞令が上手いなぁ……。
 引きとめるつもりなんてなかったくせに。
 果歩はそれには答えずに、温かいコーヒーを口に運んだ。
「……美味しいです」
 本当に美味しいから、自然に出た言葉だった。
 深いコクと苦みがあって、ほのかに甘い芳醇な香りがする。
「よかった」藤堂も初めて笑った。「知り合いからもらった豆で、独特のブレンドなんですよ。僕もすごく気にいっています」
「どこのお店ですか、私も飲んでみたいな」
「このあたりの店ではないので、僕のほうで、取り寄せておきますよ」
 なんとなく、それで緊張が解けていた。
「座らないんですか」
「椅子がないので」
 当たり前のことを答えられて、2人でつい、吹き出している。
「ちゃんと買わなきゃ。お客さん来たら困るじゃないですか」
「今度、用意しておきます」
 今度かぁ。―― その今度が、私のためだったらいいんだけど。
 部屋が少しずつだが温かくなっていく。
「相談って、なんですか?」
 コーヒーを置いて、果歩は訊いた。
「さっき、何か相談があるって……言っておられましたけど」
「うん……そうですね」
 再び、藤堂は無言になった。しばらくしてから、息を吐くようにして彼は言った。
「正直言えば、今回だけは、少しばかり参っています」
「……中津川さんのことですか」
「そうです」
 軽く息を吐き、藤堂は前髪に手を指しこんだ。
「それは……」
 果歩は言い淀んでいた。藤堂さん一人が悩むこととは絶対に違う。どういう理由からかは知らないが、ああいう責任の押し付けをした、春日が絶対に間違っている。
「次長が、僕に任せると言ったのを覚えていますか」
 果歩が黙っていると、藤堂が口を開いた。
「あれは、僕に決めろという意味なんです」
「………」―― 決める……?
 彼の口調のあまりの暗さに、おそるおそる果歩は訊いた。
「何を、でしょうか?」
「中津川補佐を1月1日付で異動させるかどうかをです」
「……………」
「的場さんは、どう思いますか」
「…………」
「個人的なご意見で結構です」
 どう、思うかと言われても……。
 動揺が先にたち、とても冷静に考えられない。中津川補佐が異動する―― それは、確かにあっても不思議ではない話だった。こうも勤務態度が悪ければ、そして、こうも課内で孤立して、業務に支障をきたしているならば―― 。
 でも、それを、藤堂さんに決めっろて?
「すみません、僕の聞き方が悪かったですね」
 果歩の困惑を見越してか、藤堂はいたわるような口調になった。
「……では、的場さんは、中津川さんをどう思われていますか」
「どう、ですか?」
「個人の好き嫌いの感情で結構ですよ」
 それは―― 。
「それは……少しばかり腹はたちます。名指しで非難されたのもそうですけど、あの人は女性を……なんていうのか、頭から使えないと決めつけているので。―― 以前はもっとやるせない気持ちがしてましたけど」
 今は、藤堂さんがいてくれるせいか、そこまでの辛さはなくなった。
「でも、別に庇うわけじゃないですけど、補佐がああいう風に思うのは理由があるんです。中津川さんの経歴を見られたことは……?」
「あります」藤堂は頷いた。
「区の建築、管理を経て本庁の都市計画局、局内の各課を点々とされて、そして今の総務に来られたんですね」
「そのとおりです」
 記憶力のいい人に無駄な質問をしたことを多少恥ずかしく思いながら、果歩は続けた。
「……区の建築にも管理にも、通常、女性は庶務の一人しかいないんです。しかも補佐が区におられたのはかなり昔ですから、……そうですね、まさにお茶汲み的な、そんな呑気な雰囲気の女性しかいなかったと思います」
「…………」
「本庁では、補佐はこの職場しか知らないんです。ずっとここで仕事をしてきて、女性の役割とはこういうものだと……そんな思考が骨の髄まで浸みこんでおられるのかもしれません」
 ただ、そんな風に俯瞰的に、広い気持ちで受け止められるようになったのは、果歩にしても最近なのだけど。
 藤堂は、軽く息を吐いた。
「仰られるとおりだと思います」
 彼がどこに引っ掛かっているか判らず、果歩はただ黙っている。時計の音だけが、静まり返った部屋の中に響いている。
「でも、それでもやっぱり、少しひどいと思います」
 沈黙に耐えられずに、先に口を開いたのは果歩だった。
「春日次長のことです。そんな大きな決断を藤堂さん1人に任せるなんて……もともと仕事のラインさえ違うのに、有り得ないですよ」
「いえ、それは当たり前なんです」
「……何故でしょう」
 藤堂の静かな目が、果歩を初めて正面から見つめた。
「僕が、そう提言したからです」
 ―― 提言?
「僕が市に、係長職として中途採用されたのは、市行政に、ある種の改革が必要だという理由からです。そのスケープゴートとして選ばれたのが、都市計画局でした」
「…………」
 果歩は眉をひそめたまま、藤堂を見上げている。
「民間の、風というやつですか」
「……そういうものかもしれませんね。ただ、もう少し僕には力があるんだと思います」
 淡々と、藤堂は続けた。
「この局は内にも外にも様々な問題を抱えています。局外への異動が極めて少なく、長年閉鎖されていたのも原因のひとつでしょう。ひどく古風な―― いってみればしがらみと義理から抜けられないような仕事の仕方が平然とまかりとおっている。細かな点を言えば、女性に対する極端な差別意識もそうです。伝統と習慣が何より重んじられ、新しい風は全て遮断されている」
「………」
「4月に、僕はそう分析し、その原因のひとつが計画係の補佐にあると判断しました」
「だから……春日次長に?」
 提言したというのだろうか。補佐を異動させるべきだと。
「それも、僕の仕事のひとつですからね」
 藤堂の口調は静かなままだった。



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