藤堂さんが次長に、中津川補佐の異動を提言した―― 。 (それも、僕の仕事のひとつですからね) 果歩は何も言えなかった。りょうに聞いた藤堂の経歴―― 謎めいた彼の家業―― 卓越した記憶力。全てが、彼を特別の存在だと告げている。 なんだかよく判らなくなる。ここにいる彼は、本当に私の知っている藤堂さんなのだうか。 「……ただ、今は」 ふと、藤堂の口調に、再び迷いのような感情がかすめた。 「本当にそれでよかったのか、判らなくなっているんです。……前も言いました。僕は、こういった形で他人と机を並べて仕事をしたことがない人間なので」 「…………」 「この職場で、僕は本当に色々なことを学んだんですよ。それは、南原さんからであったり、水原君であったり、宇佐美君であったり―― あなただったりします」 ――藤堂さん……。 「だから、柄にもなく迷っているのかもしれないです。そうだな」 ふと、何かを思い出したように彼は笑った。 「僕は何度もあなたに負けていますからね。臨時の妙見さんの時もそうでしたし」 「そんな」 「―― 自分で言いだしたことの責任は、自分でとるつもりでいます。でも……今は、その取り方が判らないんです」 「……藤堂さん」 なんだかひどく切なくなって、果歩は藤堂に寄り添いたい気持ちでいっぱいになっていた。 先月、大河内の件でもあれだけ彼は心を痛ませていた。人からその生き甲斐―― 職業を奪うという決断は、26歳の彼には、あまりにも大きすぎる気がする。 「それでも、今になって補佐の中途異動が検討されているのは、……藤堂さんのせいじゃありませんよ。補佐の態度にも問題があるんじゃないですか?」 「だとしても、僕に責任がないと言えますか」 「………」 「次長も指摘しておられましたが、僕が、中津川さんをああも追い詰めてしまったんです。思えば、僕は、最初から補佐を全否定する姿勢で入り、その当然の結果として、この課から、中津川さんの存在意義を奪ってしまったのかもしれません」 「…………」 「そうでなかったと、僕には言えない。……そして、そうやって人を追い詰めるようなやり方は、決してしてはならないことでした」 ―― 藤堂さん……。 中津川との軋轢を、彼がそんなに深く考えているとは、思ってもみなかった。それは違いますと言ってあげたかった。が、なんの根拠もないし、藤堂にとっては気休めにもならないだろう。 「今でも、よく判らないんです」 コーヒーカップを持ったまま、藤堂は天井に視線を向けた。 「このまま、補佐を切るべきか、……呼び戻すべきなのか」 「…………」 「一番嫌われている僕が、説得しても、……かえって逆効果かもしれませんが」 「…………」 果歩は黙って、自分のカップを見つめている。答えなど、むろん果歩には思いつかない。それでも果歩は、藤堂に言ってあげたいことがあった。 「藤堂さんの、好きにしたらいいと思いますよ」 「…………」 「確かに補佐には問題が色々あって、私も、それなりに腹を立ててましたけど」 コーヒー事件以来、補佐が1人、孤立するようになって。 「こういうの、すごく嫌だなと思ったんです。ひとつの仕事をする集団として、なんだかすごく居心地が悪いと言うか、不完全のような気がして」 「…………」 藤堂は無言で、自身の手元を見つめている。 「今、藤堂さんの話を聞いて、逆にちょっと思っちゃったんです。生意気言ってごめんなさい。そんな風に仕事ができて完璧な―― 私の感覚でいえば、藤堂さんや窪塚さんや前園さんみたいな人たちばっかが集まった課って、面白いのかなって」 「……面白い、ですか」 呟いた藤堂が、わずかに苦笑するのが判った。果歩は慌てて言い足した。 「不謹慎だったらすみません。でも、なんていうんでしょう。色んな個性や……とんがったりひっこんだり、その程度の不協和音があったほうが、かえって、いい仕事ができるんじゃないかとも思うんです」 「…………」 「だから、藤堂さんが今、一番したいようにされたらいいんじゃないかと思います。開き直った言い方ですけど、どうせ、この手の問題に正解なんてないんですから」 「正解は、ないですか」 初めて藤堂が、不思議そうな目になって果歩を見下ろした。 「ないですよ。だって、誰が採点するんですか」 まぁ―― ないから、悩むしかないんだけど。 自分の言った言葉の無責任さに気づき、果歩は少しばかり反省している。 「えーと、だったら私が採点します。そういうことにしましょうよ。藤堂さんの採点者は私です」 「…………」 彼が示した不思議な間に、逆に果歩は戸惑っている。 「だって、私に相談されたんですから……つまりはそういうことですよね? なにか間違ったこといいましたか、私」 「いえ……」 しばらく呆気にとられたように瞬きをしていた藤堂は、やがて気が抜けたように苦笑した。 「……じゃあ、僕は、的場さんの最も気にいる答えを探さなきゃいけないのかな」 「そういうことですね」 「わかりました。努力します」 よかった。―― こんな子供騙しの口約束で、彼が肩の荷を下ろせたのかどうかは分からないけど。ひとまず、藤堂さんが笑っているから。 「じゃ、そろそろ帰りますね」 果歩は立ちあがっていた。 「本当にタクシーで帰ります。よく考えたら、うち、親がすごく厳しくて、誰かの車で帰ったところなんて見られたら大騒ぎになりますから」 「あ、片付けはいいですよ」 「いえ、それくらいやりますから」 カップについた口紅を藤堂に洗ってもらうなんて、みっともなくて想像もできない。 「あのー、藤堂さん」 先ほどまでの会話で勇気をもらったようになって、果歩は思い切って言っていた。 「ク、クリスマスとか、何か予定がありますか」 「……クリスマスですか?」 藤堂が、訝しげな眼差しになる。 「確か25日は議会の最終日で……」 「ち、ちがいます。イブです。24日の日曜日。その日は暇じゃないですか」 「……ああ」藤堂は、ようやく得心したようだった。「いいですよ」 「えっ」 あんまりあっさり言われたので、逆に果歩が驚いている。 「本当にいいんですか!」 「ええ、まぁ……ただ、僕はあまり、流行りの場所などを知らないので」 「いいです、私が全部計画しますから!」 身を乗り出して果歩は力いっぱい答えていた。 言った端から、しまった、引かれた―― と、思ったが、彼はわずかに苦笑しただけで、特段表情を変えずに身体の向きを変えた。 「じゃ、的場さんの上着を取ってきます」 藤堂が隣室に行っている間に、果歩はさっと流しに立ってスポンジに洗剤をつけた。 少しばかり、彼のクールな態度が気に入らないけど、まぁ、それはよしとしよう。 もちろん、恋人じゃないから、友達としてのライトなデートになるんだろうけど、一緒に過ごせるんだったら、もうなんでもいいや。 なんだかもう、鼻歌どころか声高らかに歌いだしたい気分である。 その時、ふと気がついた。きれいに掃除されたシンクには、くもりひとつ浮かんでいない。 「…………」 掃除が苦にならない人、といえばそれまでだが、微妙に女の匂いを感じた。 だいたいスポンジもピンクだし、洗剤のケースも妙に可愛らしいオレンジ色だ。壁にはタオルかけがついていて、それもアンティークな乙女デザイン。 強張った視線を、おそるおそる食器棚に向けてみる。皿が重ねておいてあるその奥に―― ピンクと青のマグカップ。 「…………」 これはなに? 彼が無神経なのか、もしくは女の残したマーキングなのか。 いやいや、今はもう、そんなことを考えちゃいけない。実際、香夜さんと流奈が、この部屋に入り浸っていたのは事実なんだし―― 。 が、棚から目を離そうとした時、果歩は、ピンクのマグカップと隣接している化粧板に、何かが挟まっているのに気づいてしまった。 なんだろう、……カード……? こんなところに、隠すように置くようなもの? その時点で、果歩の疑惑のケージは最高点に達している。 もし、これが、香夜か流奈の仕掛けた挑戦状だったら―― 開く(実際は封入されていない)権利は果歩だけにある。 ************************* 「じゃ、1緒に下に降りましょうか。タクシーなら、すぐに捕まると思いますから」 背後から藤堂の声がした。果歩は、にっこり笑って振り返っている。 「いえ、1人で大丈夫です」 「え……、そ、そうですか」 何故か、藤堂の顔がひきつっている。 そんなに怖い笑い方をしているのかしら、私。 果歩はその笑顔のまま、藤堂の傍に歩み寄り、棚から取り出したものを、彼の掌に載せてあげた。 「忘れ物みたいですよ、月の人の」 「……? はぁ」 「ないと、お困りでしょうから、すぐに送ってあげたらどうなんですか」 意味が判らないのか、藤堂は戸惑うような目で、載せられたカードを見つめている。 「……診察券?」 「ああ、東京で受診されているなら、もういらないのかもしれないですね」 冷たく言って、果歩は藤堂の手から自分のコートを奪い取った。 「やっと判りました。香夜さんが、ながなーがと滞在されていた理由が」 「え?」 「無駄に高い靴をはいたら、確かにまずいですよね」 訝しげにプラスチックの診察券をひっくり返した藤堂は、ようやくその意味を察したようだった。 一瞬、うつむいた顔が強張るのを見た果歩は、すかさず踵を返している。 その表情の変化は、意味が判ったからに違いない。そして、身に覚えがあったから。 「じゃ、私、失礼します」 ひどく上ずった声がでた。口にも頭にも血が上ったまま、果歩は玄関目指して歩き出した。 頭の中は、ショックとも怒りとも似つかない感情で、ぐつぐつ煮えたぎっている。 わざと? それとも、本当に忘れ物? いや、もう、そんなことどうでもいい。 (無駄に高い靴を履くからですよ) あの時、車がびゅんびゅん飛び交う国道に、なんの躊躇もなく飛び出していった藤堂さん。 あの日の彼の態度も、言葉も、全てが今日のための残酷な伏線だったのだとしたら? 眩暈がしそうだった。 頭の中は、なんだかよく判らない真っ黒なものが、ぐるぐる渦を巻いている。 つまり、なに? 彼女はすでに、妊娠してたってこと? それなのに―― そんなこと、おくびにも出さずに……。 市内で有名な産婦人科専門病院を、香夜は2週間の滞在期間(と推測される)に2回受診している。 その証を、男の部屋にわざわざ―― 置いて行った。 故意にしてもうっかりにしても、なんだかもう―― 。 でも、あんな清純そうなお嬢様が、流奈みたいなあけすけな真似をするだろうか? もしかして妊娠を1人で思い詰めて?―― 藤堂さんが認めないから意地になって―― 高い靴を履いてはいけないって―― てことは、彼も当然認識してて―― 。 ああ、もうっ、頭がごっちゃになって「許せない!」という結論だけが、がーんと全面に飛び出してくる。 最低男、許すまじ。 やっぱり、ただの誘惑に弱い犬だった。 「―― 的場さん」 頭は沸騰状態で、玄関までどうやって歩いたのか判らない。靴を履こうとした時、ようやく我にかえったのか、藤堂が追いかけてきた。 「ちょっと―― 、待ってください」 困惑か、動揺か。彼が珍しく焦っているのが果歩には判った。 「なんですか、もう」 玄関の手前で、果歩はその手を振り払っている。 「お互い縛らない約束だから、怒ったりはしませんよ。どーぞ、ご自由に」 「多分、誤解されているんだと思いますが」 「あ、そうですね、いつもの私の勘違いでした」 果歩が冷たく言うと、藤堂が言葉に窮するのが判った。 「すみません、早合点ばかりで。じゃ、今夜はこれで失礼します」 「的場さん」もう一度腕を掴まれる。果歩は、頑なに前を向いたまま、彼の顔を見ないでいた。何が誤解よ、明らかに動揺してたくせに―― 「離してください。お互いの立場から言えば、セクハラですよ」 じゃけんに腕を振りほどく。 「お願いですから」 藤堂の声は疲れている。「少し冷静に、話を聞いてください」 「いいですか」果歩は振り返っていた。 「私から話すことは、もう、なーんにもありません!」 「…………」 「失礼します」 一瞬、気押されたように黙った藤堂は、それでもドアノブに伸ばした果歩の手を掴んで引きとめた。 「―― 誤解なんです」声は、完全に困惑している。 「何がどう誤解なんですか」 「だから……」彼が言葉に迷うと言うか、多分、口に出しにくいと思っているのがはっきりと伝わってくる。 「これは、その……多分、彼女のいたずらか何かで」 「は? 何男らしくないこと言ってるんですか」 「いや、だから」 「もうっ、帰るんだから、離してください!」 いきなり、背後から抱きすくめられた。 果歩は驚きのあまり言葉をなくし、興奮が硬直に変わるまでの数秒を、ただ息を詰めるようにして待っていた。 背中から、藤堂の鼓動と熱が伝わってくる。 「………誤解です」 耳の後ろから、呟くような声がきこえた。 「その……そう思われているなら、ですが、彼女が病院にかかる理由について、僕は何も知りません」 どくん。どくん。 「……いいですよ、もう……」 果歩もまた、呟いている。 どくん、どくん、と互いの鼓動が混じり合って聞こえる。 不思議だった。 あれほど怒っていたのが嘘のように、今、背中から抱いてくれている人が、愛しくてたまらなくなっている。 本当に、覚えがないのかな。 急に顔色が変わったように見えたけど、単に私が、邪推しすぎただけだったのかな。 そうだ、少しでも覚えがあるなら、多分血相を変えて香夜さんに連絡しなきゃいけないはずだ。それをせずに、こうやって、別の女を抱きしめているということは……。 よほどの外道か、本当に潔白か。 彼が前者であるはずがないと果歩は思った。もし本当に身に覚えがあるなら、彼なら逃げたりはしないだろう。……多分。 黒いと思い込んでいた景色が、実は白かもしれないと思い始めた途端、気持ちはみるみる冷静になっていく。 そうなってみると、逆に血がたぎるほど怒った自分への恥ずかしさが、むくむくと沸いてくる。4歳も年上なのに、彼の抗弁を一切聞かず、なんて幼稚な態度を取ってしまったんだろう―― 。 藤堂は、果歩の髪に頬を埋めるようにして動かない。 なんだかそれが、叱られた子供が母親にしがみついているようで、ますます背後の人が、愛しくなる。 この場合、悪いのはむしろ、一方的に思いこんで怒ってしまった私のほう……かもしれないのに。 ―― 本当にもう……。 可愛いんだから。 そっと、腰のあたりに回された藤堂の手に触れてみる。 堅く筋張った手の甲の感触に、少しだけドキドキする。 返事のように、少し強く抱きしめられる。耳のあたりに彼の漏らす息を感じる。彼の手に重ねた果歩の指を、今度は藤堂の手が包み込んで、ぎこちなく撫でた。 その刹那、果歩は、きゅっと胸が縮んだようになっている。切ない熱に浮かされたように、首を背後に傾ける。 藤堂の腕が、果歩の動きにあわせて動く。顔は影になっていて、薄く開いた唇だけが見えている。果歩は吸い寄せられるように目を閉じ、そのまま、2人の唇が重なった。 キス―― 唇を触れ合せ、愛撫するように互いの輪郭をなぞりあう。すぐに堰を切ったような激情が流れ込んできて、果歩は眩暈を感じたまま、自分を抱く藤堂の腕を握りしめた。 一度、寝ぼけた彼に強引に被さってこられた夜と、同じキス。 最後の繋がりを痛切に求められていることが判るキス―― 。 今夜は、遮るものは何もない。熱に浮かされたようにキスを返しながら、果歩は、この夜の先に待つものを考えている。 というより、やっぱり、この人は誘惑に弱いんだ。こんなに簡単に2人の均衡を崩しちゃって……いいのかな、何か切羽詰まった理由があるみたいなのに、後で後悔しないかな。 藤堂が、そっと唇を離す。 心の片隅に冷静な自分を残していたはずなのに、指で頬を撫でられ、熱を帯びた目で見つめられた途端、果歩の理性は溶け落ちていた。 もう一度、唇があわさった。今度は軽く、優しく、ついばむように。 藤堂の手が果歩の背中を撫でている。焦れるようなキスは、ゆっくりと密度を増し、果歩は、膝に力が入らなくなっているのを感じていた。 どうしよう。 このまま、今度こそ、流されてしまっていいのかな。 が、もう心のどこかで、後戻りできない何かが動き出してしまっている。果歩もそうだが、藤堂も多分そうだ。勢いでも衝動でもない唇への愛撫は、彼の中にある、今まで果歩には決して見せなかった男の部分が動き出してしまったせいだろう。 「……藤堂さん」 果歩は、溶けそうな意識の底で、半ばぼうっとしながら呟いた。 長いようで、短かった。 ――私たち、今、ようやく結ばれようとしている……。 その時だった。 ピンポーン。 「――!」 「――!」 あまりにも今の状況にそぐわない現実的な音に、2人の時間が同時に止まった。 それが玄関のチャイムだと判った次の瞬間、ばっと魔法が解けたように、2人は身体を離している。 「藤堂さーん、竹取通運でーす、宅配ですけどー!」 どれだけ図々しい宅配なのか、どんどんっと扉を叩かれる。 「……すみません」 ようやく我に返ったように、藤堂が低く呟いた。うつむいた彼の表情の硬さに、果歩は嫌な予感を覚えている。 「藤堂さーんっ、いるんでしょ、電気ついてますよ」 「は、はい、今、出ますっ」 大声で催促され、わたわたと藤堂が靴を履く。 なんか宅配というよりは、借金の取り立てにでも来たような……。果歩は大慌てで衣服をなおしてコートを手にとり、こそこそキッチンに駆け戻った。 てか、なんだろう、この間男みたいな情けなさは……。 「えーと、東京の松平様からのお届けです。認め印かサインお願いしますね」 松平……。 香夜姫か。 く……なんていう絶妙なタイミングで―― ! やがて、キッチンに藤堂が入ってくる。 宅配業者が去った後でも、藤堂はしばらく玄関から戻って来なかった。 理由は、考えたくないけど察しがつく。 謝られた時の、彼の強張った表情で。 案の定、戻って来た藤堂は、明らかに沈み込んでいて、その表情を見ただけで、果歩は、自身の気持ちも沈んでいくのを感じていた。 「すみません……」 「いえ……別に……」 謝られると余計惨めになるというか、所在なくなるというか。 「距離を開けようとは、僕が言い出したことなのに」 「いえ、本当にもう」 「……なんというか、とんでもない真似を……」 「…………」 てか、もう謝らないでください……。 果歩も、それしか言えなかった。 今夜、彼は自らに課した掟を、破った、というより、破りかけてしまったのだ。 まぁ、彼のような真面目な人にとっては、少しばかり悔しかったり情けなかったりするのだろう。果歩には、そこまで理解はできないけれど。 軽く唇を噛んでいる藤堂は、気の毒なほど反省しているようだった。 何をいまさら……。と、内心果歩は少しばかり呆れている。 別に見知らぬ他人じゃあるまいし、あれだけ積極的に受け入れていた(多分)私が今さら怒るとでも、本気で思っているのだろうか? そりゃ、誘惑に弱い性質は許し難いし、直してもらわなきゃいけないけど、むしろ……謝られる方が、私を傷つけているのに。 本当に女心が判らない人。―― 今に始まったことじゃないけれど。 「帰ります、今夜はありがとうございました」 軽く息を吐いて、果歩は言った。 藤堂が、はじかれたように顔をあげる。 「送りますよ」 「いいです。タクシー拾いますし、一緒だと、また私が襲いたくなるかもしれませんから」 その言葉で、藤堂が、絶句しているのが判った。 すでに果歩は、冷静さを取りもどしている。 「……あまり、気にしないでくださいね。っても、藤堂さんが何を気にしているのか、私にはよく判らないんですけど」 「……的場さん」 彼は何かを言いかけたようだったが、そのまま、諦めたように息を吐いた。 「そうですね。……少し、頭を冷やした方がいいのかもしれない」 「…………」 どういう意味か判らないが、問い質す勇気も、今の果歩には持つことができない。 「すみません、今夜は1人で帰ってください」 「いいですよ、最初からそのつもりでしたから」 「………今夜は、本当に申し訳なかった」 「おやすみなさい」果歩は遮っていた。「でも、……私は、嬉しかったです」 まぁ、その分、寂しさとやるせなさが勝ってるんだけど。 部屋を出て階下に降りた果歩は、小さく息を吐いて、寒空の下を歩きだす。 今夜を前進というのか後退というのか。―― ひとつ判ったのは、とりあえず、彼にその気はないということで。…… ************************* 「もうっ、なんだって出てくれないのかな―」 何度かけても繋がらない電話。―― もしかして、着信拒否されてる? 長妻真央は、ぶぅっとふくれて、肘をついた。 「逃げられたね、それ」 駅裏のマック。 年末試験の最終日。学校はいつも以上に早く退けて、小さなテーブルには、女の子たちが屯している。みんなそれぞれ携帯をいじったり、メイクを直したり、好き勝手なことをしている。 「そんなことないよ、ダーリンは照れ屋だから」 真央が反論すると、先月あやうく退学になりかけた友達は、面白そうな目になって真央を見下ろした。 「相手、市役所でしょ? なんかダサくない? キモい男しか想像できないんだけどー」 「ふふ……それがさ、めっちゃイケメンなんだって。今度紹介してあげるよ」 「マジー?」 「背も高いし、硬派だし、ガチでかっこいいんだから」 「へーえ」 友人らの間で、微妙な感嘆の声が漏れる。 「何歳だっけ」 「28……大人よ」 「アラサー?? で、どこまでやったの?」 「ひ、み、つ」 そうだ、今度写真撮らせてもらおーっと。 これで諦めたなんて思わないでよ。この腐った街で初めて見つけた清らかな王子様―― 絶対に逃がさないもんね。 「まーお」 ひくいしゃがれ声に呼ばれて顔をあげる。 ぞろぞろと近づいてくる女子グループに、真央の周辺にいた女の子たちが、やや警戒的な眼差しになる。 全く女子高ってのは面倒だ。いつの間にかできた女同士の派閥抗争。 相手はやたら敵対心をむきだしにしてくるが、真央は極力関わらないようにしていた。特にこの女―― 尾崎蒼衣のグループはなおさらだ。 「最近役所のオジさん追いかけてるんだって?」 さらっとしたロングヘアを手で払って、学校一の秀才は、真央の前に腰掛けた。 成績は常に学年トップ。でも、その素行と男ぐせの悪さは、多分生徒なら誰でも知っている。昨年、独身の数学教師が理由もなく退職したが、それも―― 蒼衣のせいだったのではないかと囁かれている。 「まぁね」 メールを打ちながら、適当に真央は答える。 愛Uσ勺〃→リ冫、婚忸レヽ⊃ぁッτ<れゑ? 真央は寂U<τ死レニそぅτ〃す★ 「真央らしくないね。役所の男なんて、小銭しかもってないよ」 「お金、カンケーないし」 「ますます真央らしくないし」 「あんたには、もっと関係ないし」 婚忸役所レニ遊ひ〃レニ行きます★迷惑T=〃ッT=ら乂→儿UτЙё★そUT=ら、考ぇ直すヵゝら★ 追イ申……真央は、毎日勺〃→リ冫σこ`⊂考ぇτゑ∋★ 送信。 よし、これで何かの反応はあるだろう。なかったら、本当に押し掛ければいいだけのことで。 「ま、公務員は美味しいけどね」 「…………」なんの話? 「真央さ、先月役所のおっさんハメようとしたでしょ? 隠しても、みんな知ってるし。よくあんな真似して叱られるだけですんだね?」 真央は黙って肩をすくめ、再び携帯をいじり始めた。 「それにしても、バカな真似したね」 蒼衣は綺麗に伸ばした自分の爪をそっと撫でた。 「かーるく遊んでやって、後は無理矢理やられたーってごねれば、百万くらいは軽かったのに」 「百万ねぇ」そんな端金で、何えらそうなこと言ってんだか。「だから?」 「私だったら、もっと上手くやるってことよ」 「へぇ」 真央は軽く流して、携帯に向きなおった。 返信ないなぁ……。よし、本気で突撃しちゃうか。 役所は誰でも入れるし、あの課にはお人よしのお姉さんもいるし。 ……と、もう一人変なのがいたな。あれが目下のライバルか。まぁ、あんな若づくりのオバさん問題外だけど。 あともう一人、ちょっとぴぴるくらいの美人がいたけど、あの人はなんなんだろう。一応、マークだけはしておくか。…… にしても、さすがはダーリン。モテモテなのね。 「もしかして、あの噂本当なのかも……」 尾崎蒼衣の集団が去った後、由純が声をひそめて囁いた。 「噂って?」 「お花畑、真央も噂くらい聞いたことあるでしょ」 「……ああ」 「相手は、主に、教師か公務員だって話じゃん?」 「まぁ、蒼衣ならなんでもアリだしね。どうしたのよ、それが今さら」 携帯をいじりながら、真央は答える。 「考えすぎかもしれないけど、先月、真央が騙そうとした……」 「大河内さん?」 「あれ、一応、双方の誤解ってことで、穏便にすませてもらったじゃん」 「まぁね」 「なのに、今になって、あれは真央の企んだでっちあげ事件だって、噂が広まってるじゃん?……どうもそれ、蒼衣が広めてるみたいなんだよね」 「へぇー」 「しかもさ、結構細かいとこまで漏れちゃってんだよね。ほら、新聞にも出なかった、例の目撃者の話とか」 「…………」 ふぅん。 真央は初めて携帯を手から離していた。 「蒼衣の情報源が、事件の関係者ってこと?」 「警察か……それか、もしかすると市役所の人?」 「…………」 「なんにしても、お花畑の客なのは確かなんじゃない? 大河内さんの身近な人が客だったりしてさ」 「まさか―― 」 言い差して真央は、しばし唇に指をあてた。いや、十分考えられるか。警察が漏らす可能性より、そっちのほうが遥かに高い。 「蒼衣も、客取ってんのかな」 「知らないよ。お花畑自体かなりヤバいし、正直、関わりたくもない」 ぶるっと由純は首を横に振る。 「…………」 真央は、わずかに眉を寄せた。 それは、ちょっと聞き捨てならない。もし本当に灰谷市役所と関係しているのなら、調べてみても、いいかもしれないな。―― 12月は恋の季節(終) |
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