「ただいま、留守にしております。ご用の方はピーッという音の後に、3分以内でメッセージをお願いします」 耳障りな甲高い電子音。 ちっと軽く舌うちして、中津川はライターを点けた。 背後のテレビでは、にぎやかなクリスマスソングが流れている。子供向けのお笑い番組。サンタの着ぐるみをきた芸人が、女性タレント相手にバカ騒ぎをしている。 ―― サンタクロース、か。 ふと、忘れていた思い出が、記憶の片すみをかすめている。 (あれはねぇ、実は異国から来た、怖い怖い人さらいの怪物なんだよ。悪い子はクリスマスの晩に、あの袋に詰められて遠い国に連れて行かれてしまうのさ) 死んだばあさんの与太話を、いつの年まで信じていたかな。 留守番電話から流れる聞きなれた男の声が、喧噪に静かに被さった。 「もしもし、藤堂です。ご様子をうかがいたくてお電話しました」 現実に立ち戻り、中津川はぎりっと奥歯を強く噛みしめている。 またあの男か、いい加減にしろ! しつこく電話ばかりかけやがって―― そうだ、次は電話線を切ってやる。そうすれば、二度とかけてはこないだろう。 「また、電話します。……失礼しました」 なのに電話が切れた途端、不思議にがっくりと気落ちしたまま、中津川は灰皿に並べた写真に火をつけた。 めらめらと音をたて、古びた思い出が溶けるように変形していく。 (おい、クリスマスは怪物が子供をさらいに来るぞ) (何言ってるの、お父さん。つまんないこと言わないでよ) (こんな時間に出かけるなど許さんぞ、まだ子供のくせに男と出かけるなど絶対に許さん!) (いい加減にしてよ! 私をいくつだと思ってるの!) 「…………」 ほら、言わんことじゃない。 本当になったじゃないか。 本当にお前は、さらわれてしまったじゃないか。…… ************************* 「休暇伺いを偽造しているのは、君の一存かね。藤堂君」 開口一番で春日に切り込まれ、藤堂は表情を変えずに唇だけを引き結んだ。 「思いやりのつもりだろうが、公然たる公文書偽造なのではないかね。わしの一存で、君を処分することもできるんだぞ」 「中津川補佐から電話連絡を受けています」 それだけを藤堂は答えた。春日がわずかに嘆息する。 「まぁ、そういうことにしてやってもいい。が、もう二度とするな。後々問題になったら誰が責任をとると思っている」 「………」 「中津川君から電話があった際は、必ず志摩かわしに転送しろ。でなければ、二度と君が代筆した休暇伺いは受け取らん」 「承知しました」 藤堂は、そっと眉を寄せている。 「……この時期、仕事に穴だけは開けられん」 独り言のように春日はつぶやいた。 「すでに局内異動の目途はつけている。藤堂君、君が計画係の係長だ。年度途中、ピンチヒッターでそれができるのは、今の課では君しかいない」 「…………」 「そして、庶務係長には、都市デザイン室の窪塚君を昇格させて補佐として当てるという筋書きだ。デザイン室長はお冠だったが、可愛い部下があの年で課長補佐級に昇格する。……反対などできようがないだろう」 藤堂は黙っていた。 「我々は、随分、この局のあるべき姿、未来図について語り合ったな、藤堂君」 「おっしゃるとおりです」 「改革に着手する前に、まずはたまりにたまった膿を出し切ることが必要だ。――君が言ったことだ、藤堂君。選択の時は、すぐ目の前に迫っていると」 「…………」 「君はわしの部下であると共に、役所に座らせているにはもったいないほど優秀なアドバイザーでもある。君が……いずれはここを去ることは知っている。引きとめることなどできんだろう。それは、むしろ罪というものだ」 「……春日次長」 「新人事は、君が思い描いていた理想に限りなく近いと思っている。違うかね、藤堂君」 藤堂は何も答えず、何故か春日もしばらくの間口を閉ざした。 「市は未曽有の財政悪化状態にある。そのせいか、人事は人員削減にやっきになっている。一人一億、職員一人を雇うにあたりかかる経費だ。……一億に値しない人間は容赦なく切り捨てられる。そういう時代が来たのかもしれないが」 「………」 「わかっている。君らの世界では、それは当たり前すぎる理屈だろう。それが世の中の本当にあるべき姿なのだとしたら、役所もそうなっていかねばならんのだからな」 それが世の中の。 本当にあるべき姿なら。 「いずれにしても、中津川君の無断欠勤を、このまま黙って見過ごすわけにはいかん」 「………」 「すでに人事もかぎつけておる。無断欠勤が5日続けば、規定どおり懲戒免の手続きに入らざるを得ない。君も異動に備え、身辺の整理をしておきたまえ」 ************************* 「かわいそうに……」 「でしょ? やっぱりそう思うでしょ?」 「果歩じゃなくて、藤堂君よ」 りょうは心底呆れた目で、果歩を見上げた。 ショットバー「Black Clow」 最近のりょうのお気に入りの店で、果歩は久々にりょうと2人で飲んでいる。 「え、なんで?」 りょうの呟きに、果歩は訝しく眉を寄せた。 可哀そう? 私じゃなくて藤堂さんが? それは何かの間違いだ。 「じゃあ、私の言葉が足りなかったのかもしれないけど」 「十分丁寧に説明してもらったわよ。まぁ、その前提理由はいまひとつ判らないけどね」 言いさしたりょうは、わずかに考えるような眼色になった。 「藤堂君は、果歩と恋人にはなれないって言ったんでしょ。少なくとも4月までは」 「まぁ、なれないとは言われてないけど、待ってくれ、みたいな」 「それを果歩は、藤堂君の家の事情じゃないかと思っている」 「それしか考えられないじゃない」 再びりょうは、考え込むような眼になった。 「まぁ、じゃあ、そういうことにしておくとして。果歩はどうして、藤堂君が果歩と距離を開けようとしてると思ってる?」 「だから、家の事情でよ」 あまりに回りくどい訊かれ様に、少しばかりむっとしている。 「最悪、他の人と結婚したり親の反対で交際できなかったりするから、……今は責任とれないって意味じゃないの」 「えらいじゃない」 「そりゃまぁ……」 「悪い言い方になるけど、最初の男とは大違い。それだけで私は藤堂君の味方よ」 「…………」 「果歩もその年だし、このあたりが最後の恋になっても不思議じゃないでしょ? 恋愛にセックスはつきものだけど、結婚する覚悟もないのに30女に手を出す男は好きじゃないな」 過去の恋愛を振り返り、少しばかりりょうの顔が見られない果歩である。 「……まぁ、みんながみんな、りょうみたいに意志が固いわけじゃないと思うよ。誰だって先のことなんて判らないし―― って、まぁ、そうなんだけど、そういう話じゃなくて、私が言いたいのは、そこまで極端に離れなくてもいいってことよ!」 「離れてるんだ」 「あれ以来、近づいただけで硬直される感じなのよ。てか、それじゃまるで、嫌がる藤堂さんを私が無理やり誘惑してるみたいじゃない」 「そうなんでしょ?」 「………、………、………」 「無意識ってのが、一番罪が重いからね。ほんと、同情しちゃうよ、藤堂君には」 果歩は絶句したまま、しばしりょうを睨んでいる。落ち着け……、落ち着け、自分。 「いや……りょう。私の話、ちゃんと聞いてた?」 「こう見えても一度聞いた話は忘れない方だけど」 「じゃ、言うけど、最初私は、彼の言う通り、きちんと距離をあけておつきあいしようと思ってたのよ。それをよね」 いくら寝ぼけていたとはいえ、いきなり―― 藤堂さんが。 ばりばり乱暴に破ってきたんじゃないの。 次の時だって、やっぱりいきなり藤堂さんが―― あとはもう、なし崩し的に。 「そんなに自分の無神経さ加減が知りたいなら、ワトソン君」 煙草を唇に挟み、りょうは皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「私が分析してあげようか。果歩が知りたがっている藤堂君の理解できない行動の理由を」 「お……」果歩は、どきっとして硬直している。 「お願いします。ホームズさん」 「ほんと、バカなんだから……」 煙草に火をつけながら、りょうは小さく呟いた。 「そんなの自分で考えなさい」 ************************* ピンポーン、ピンポーン。 うるせぇなぁ……、誰だよ、こんな時間に。 晃司は目をこすりながら半身を起こした。 「はーい、今出ますよ」 スポーツニュースを見ながら、いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。 「うー、喉痛」 ヒーターをつけっぱなしにしていたせいか、唇が乾いて喉にちくちくした痛みがある。 回覧板かな? それとも共益費の集金かな。くそ、この電子時代、なんだって町内のおばはん連中はいつまでもアナログなんだよ。 回覧はメールで十分だし、共益費も自動で引き落としにしてくれりゃいいのに。 「おまたせし」 「ダーリン!」 開けた扉を、晃司はそのまま締めていた。―― 嘘だろ。 「どうしたの? ねぇ、なんで締めるの? ねぇったら、ダーリン!」 そのバカでかい大声は、小さなコーポ全体に響いているはずだった。 「ねぇ、開けてよ、ダーリン、ダーリンったらぁ」 どんどん、どんどんどん。 な、なんで、どうしてこの女が、俺の家を知っている? わざわざ携帯の電源まで切って、しかも今夜は、役所に忘れてきたというおまけまでついているのに。―― 「ちょっと前園さん、なんなんですか、これは」 大家のおばさんの声がした。月に一度の草むしりに一度も出たことのない晃司を、何かにつけて眼の仇にしている50過ぎの大家夫人である。 「誰だか知りませんけど、出てあげてやったらどうなんですか。ご近所迷惑なんですよ!」 最低だ……。 晃司は冷や汗をかきながら、作り笑いを浮かべて扉を開けた。 「……親せきの子なんですよ」 「聞いてませんよ、そんなこと」 「ちょっと頭のおかしい子で……」 「言い訳は結構です!」 ぎろりと睨んだ大家夫人が去った後には、ぺろっと舌を出した女子高生が立っている。 「あがっていい?」 「……どうぞ―― じゃねぇ、そこで待ってろ、俺が外に出るから。そしてソッコーでタクシー拾ってやるから」 「え―― っ、寒い〜、ひもじい〜、何かあったかいもの飲みたい〜」 「うるさい、これ以上騒ぐと警察呼ぶぞ」 扉を閉めようとすると、がっと足を挟みこまれる。こいつ―― プロか? 「耳よりな話があるんだけど」 「―― は?」 先ほどの甘えた声はどこへやら、小賢しい小悪魔な目が、下から晃司を見上げている。 「お兄さん、もしかしなくても、好きな人いるでしょ」 「は? いねぇよ、そんなの」 「おかしいなぁ。真央のカンじゃ、それはあの時のお姉さんなのに」 「関係ねぇよ」 扉の内がわに、少女の身体はするっと入り込んできた。 「あっ、こら、入るな」 「お姉さん、お人よしのおせっかい焼きなんだよね。ねぇ、そのお姉さんのいる課で、またもや波乱の予感なんだけど」 「…………」なんの話だ? 「お花畑って携帯サイト知ってる? 沢山の花がいてね。選んで注文すると、可愛い女子高生をデリってくれるの」 「しらねぇよ、興味もないし」 「ただし、エッチもおさわりもナシ。表向きはね? 一緒におしゃべりしてご飯食べて、2時間コースで5千円くらいかな」 次第に晃司はいらいらしてきた。もともと短気な―― ただし無自覚な―― 性格である。 「だからなんだよ。まだるっこしいな、はっきり言えよ」 「続きは、この部屋でお茶してくれたら」 「帰れ」 即座に、晃司は真央の肩を掴んで押し出している。 「二度とくんな。マジで警察に通報するからな」 「ちょっとちょっと、最後まで聞いてよ。そのお花畑にふらふら〜っと近寄ってきた、間抜けな働きバチの話なのに」 「は?」 「お姉さんの職場の人だよ」 誰だ? まさか南原さん? まずいだろ、この時期女子高生相手にデリヘル……まぁ、そこまでしてないのかもしれないけど。 が、しょせん、俺には関係ない。 そのあたりの割り切りは、誰よりあっさりしている晃司である。 「じゃ、そういうことで」 「ちょっと、待ってってば!」 さしもの真央も、少し慌てたように扉に手を差し入れてきた。 「わかんないの? バカだなぁ、お姉さんに片思いしてるんでしょ? 真央、いい話題を提供してあげてんだよ」 「…………」 多分、その刹那、晃司の頭の中でめまぐるしい計算式が乱れ飛んでいる。その隙を見逃さず、少女は再び扉の内がわに入り込んでいた。 「というより、少しばかりやっかいな問題は、そのお花畑の経営者が、ちょーっとヤバイ筋だってことで」 真央は、勝ち誇った目で晃司を見上げた。 「この続きは、1時間部屋の滞在権。で、さらに追加で聞きたい場合は、お休みの日にデートしてくれること」 「最初の条件は、飲んだ」 晃司はドアノブから手を離した。 ふと、嫌な予感がかすめている。3日前から、中津川補佐が休み続けているが―― まさかな。 「次のは話次第だけどな。―― まぁいいや、聞いてやるから、とっととあがれ」 ************************* 「ちょっとトイレ」 りょうは携帯を持って席を立った。 「ついでに電話かけたい所があるから、少し待ってて」 「はーい、いってらっしゃーい」 果歩はひらひらと右手を振る。 あーあ、いい気なものね。すっかり出来あがっちゃって。 そう思いながら、りょうはサニタリーの前で足を止めて、携帯を持ち上げた。 ここらで、先日の埋め合わせを、と思うのは、ほんのちょっぴり気の毒なことをしたと思っているからだ。 酔っ払った前園晃司を、部屋に泊めてあげた一件である。 果歩は気にしてもいないが、あれで、前園晃司は夜も眠れないほど憔悴していたようだった。まぁ、あの直後に女子高生が来て、よりにもよって果歩の目の前であんなことになっちゃったから、そっちの痛手が大きかったのかもしれないが。 それにしても、あまりに気の毒だったので、――気休めかな、と思いつつも電話で励ましてあげた。 (果歩さ、逃げ出したじゃない。君と女子高生のキスシーンを見て) まぁ、間違いなく嫉妬でもショックでもなかったんだろうけど。 (あれは、少しばかり君に未練があるからじゃないの? 女性心理ってそういうものよ。ずっと自分のことを好きだと思っていた男が、不意に他の女のものになっちゃうと、多少は妬いちゃうものなのよね) 次の日から、再び前園晃司は自信を取り戻したようだった。―― まぁ、意外に簡単というか単純というか……。 アドレスから番号を呼びだしてコールする。あ、もう寝てるかな……あまり夜に強いタイプじゃなさそうだし。 「はい」 聞こえた女の声に、りょうは吃驚して、携帯を落としてしまうところだった。 「誰ですかぁ、私、この人の携帯預かってる者ですけどぉ」 甘ったるくて滑舌の悪い喋り方。 りょうは、即座に電話を切っていた。 と―― 切ってから気がついた。何も切らなくてもよかったのに。 声の主は察しがついた。 というより、先日、これとは全く逆のパターンで、りょうが電話を受けて切られたからだ。 後で履歴を確認し、すぐに相手は判明した。 須藤 ―― ああ、須藤流奈。 「あれ? 早かったね。電話もう終わったの?」 「うん、まぁね」 しかし、なんだか微妙な立場になっちゃったぞ?…… マスターと話しこんでいる果歩を尻目に、りょうは唇に指をあてる。 当然、向こうも履歴で相手を知っただろう。前園晃司の携帯に、自分がどう刻まれているかは知りようがないが。 「ねぇ、果歩?」 「んー? そうよ、私が何もかも悪いんです―― あははは」 「いや……今だけちょっとシラフになって。須藤さんって、まだ藤堂君のことが好きなわけ?」 不意に果歩の目が据わった。 「……は? なんの話よ?」 「いや、もういい」その反応で十分だから。 しかし、……どう考えてもおかしいぞ、これは。 もしかして、私と須藤さんが、今、微妙な敵対関係に入りつつある? いやぁ、それはちょっとないだろ。 好きな男を巡ってならともかく、双方にとって、おそらく玩具としか扱われていない男のことで―― 。 |
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