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年下の上司 story10〜 DecemberA

史上最低のクリスマス トラウマがソリに乗ってやってくる(3)


「役所の人なら、あんた、そう言いなさいよ。最初から」
「申し訳ありません」
 言おうとしたところを、やたらめったら叩かれたのだ、とは言えかった。
「眼鏡、壊しちゃって……」
「いえ、安物ですから」
 女が恐縮しながらカットバンを手渡してくれたので、藤堂は一礼してから受け取った。
 結果として、眼鏡が壊れたことが、近隣住民たちの冷静さを呼びもどしてくれた。
 あまりに可哀そうだから、言い訳くらい聞いてやったら、と誰かが言いだし、そこでようやく藤堂は、自分の身分を名乗る自由を許されたのである。
「こんなとこで悪いんだけど、今、お茶でも淹れてくるから……」
「いえ、お気遣いなく」
 室内がひどく錯乱しているのは察しがついた。生ゴミのにおいも、わずかだが鼻につく。
「そんなこと言わないで。すぐに持ってくるからさ。あんた、そこに座ってて」
「はぁ……」
 女がさっさと部屋の奥に消えたので、藤堂は仕方なく玄関に腰を下ろした。
 靴以外に何もない。
 靴箱の上には、大抵こういった造りの家によく見られる―― 家族写真や飾り物の類もない。それが、逆に不自然に思えた。
 そのスペースには、代わりに大量のダイレクトメールが積み上げられたままになっている。
「…………」
 ここ数日、中津川がいかに荒んだ生活を送っていたか、それがうかがい知れるようだった。
「いつもは几帳面な人だから安心してたんだけどねぇ」
 部屋の奥から声がした。
「ご主人とは、連絡は?」
 すでに、この妻と中津川が別居中だという説明は受けている。
 電話応対がないことから、そんな予感もしなくはなかったが、やはりな、という感じだった。
「まぁ、時々、必要に応じてね」
 部屋の奥から、ざーっと水を流す音がした。
「月に一度はこうして部屋の掃除に寄らせてもらってんのよ。まぁ、正式に離婚してるわけじゃないし、ここには気安い友達も沢山いるから」
 そうか……。
 もう随分前から、補佐はお一人だったのか―― 。
「あっ、いけない、御田黄門が始まっちゃう。ちょっとテレビつけさせてもらうわよ!」
 ばたばたと足音がして、すぐにお馴染のテーマ曲が藤堂の耳にも聞こえてくる。
「それより、連絡が取れないって話だけど」
 結局、女が出してくれた茶を、藤堂は目礼してから受け取った。
 ちらちらとテレビの方を気にしているようだったが、女は、玄関に藤堂を座らせたまま、自分も腰をおろして話し始めた。
「どうだろうねぇ、昨日も行きますってメールしたけど、勝手にしろって返事がきたから、心配するようなことはないと思うけどねぇ」
「……そうですか」
「つつけば余計に意地になる人だからねぇ。連絡はあたしの方で取れるんだし、役所の人は、ほっといてあげてくれないかしら。いい年した大人なんだから」
 妙に言い訳がましいな、と、藤堂は思っている。普通は、そのいい年をした大人が職場を無断で欠勤していると聞いたら、もう少し動揺の色を見せるものだ。
 が、それを表情には出さずに藤堂は頷いた。
「メールのやりとりは、頻繁になさっておられるんですか」
「今月はね……まぁ、色々行事あるし、でも、普段はさっぱりだけど」
 藤堂は、軽く息を吐いた。
「今、ご主人はどちらにおられるかご存じですか」
「さぁねぇ……仕事以外に趣味のない人だから、役所にいないんなら、どこにいったのやら」
「できれば……やはり、僕と会うように話をしてみてもらえないでしょうか」
「…………」
 藤堂は居ずまいを正した。
「お願いします。ご主人が、仕事上で悩みを抱えているなら、やはり直接話したほうが、ご主人のためだと思うんです。ご迷惑をおかけするのは百も承知ですが」
 おそらく、連絡があっても取り次ぐなと、あらかじめ念を押されているのだろう。
 が、この人が、補佐と常に連絡が取れる立場であったとしても―― 今、補佐が陥っている事態までは知りえないはずだ。
「それは、……まぁ、話せっていうなら、話してはみますけどね」
 憮然とした口調だった。
「ただ、言っときますけどね。もし、うちの人が自分の意志で逃げ回ってるなら、多分、あたしが何言ったところで無駄ですよ。ああいう人だから、他人の忠告なんて一切聞かないだろうし」
 相当腹立たしげなものが、言葉尻に滲んでいる。
 そこに、何か物言いたげな気配を察し、藤堂はあえて反論せずに、妻の言葉の続きを待った。
「頭ごなしに怒ってばかりで、全然人の話をきかない人だからね。話しますよ、話しますけどね。どうせバカとか役立たずとか、そんな風に言われるに決まってんだから」
「…………」
 それでも藤堂が黙っていると、ふっと妻は、しわがれた唇から溜息を漏らした。
「30年我慢しましたよ。我慢して我慢して、31年目に家を出たんです。……あんたみたいな若いお兄さんに話しても仕方ないんだけど」
「いえ……」藤堂が無言で続きを促すと、よほど話したかったのか、堰を切ったように女は早口になった。
「バカだの無能だの、ただ飯食らいだの、何言われても若い頃からずっと辛抱してきましたよ。寝た切りだったあの人の両親看取ったのもあたしです。学校を出て、ほどなくあの人と見合結婚しましたからね。そういうもんだと思ってたんですよ。夫婦なんて、妻が奴隷みたいに夫やその親に仕えるもんだって」
「………」
「子供生まれてやりくりも苦しいのに、あたしには絶対働くなって言うんですよ。その上、死にそうな両親のためにこんな家まで買っちゃって……中古ですけど、場所いいですからね。しかも地価高騰の真っただ中で買いましたから、今もローンがかなり残ってるんですよ。ほんと、バカはどっちだって感じで」
 藤堂には何も言えなかった。黙って、マシンガンのような妻の話に耳を傾けている。
「逆に教えてもらえませんかね、あの人、役所ではどうなんです?」
 女は、ひどく陰惨な目になって、藤堂に膝を進めてきた。
「いつも嫌味や皮肉ばかりで、人に世話になったり何かしてもらったりするのを当たり前みたいに思っちゃいませんかね? 男は神様みたいな存在で、女はただそれに服従すればいいんだと。そんな風にふるまっちゃいませんかね」
「………」
「ああいう人でも、役所じゃ、上司にへつらって、へいこら頭さげてんですかね。あたしには想像もできないですけど」
「………」
「娘が家を出たのを機に、あたし、こっそり働きはじめたんですよ。娘の留学費用や家のローンも厳しかったし、少しでもいい暮らしがしたくてね。なのに、……バレちゃうもんなんですねぇ。年末調整で、あたしに給与があるのが知れちゃったみたいで、初めてあの人に叩かれましたよ。税控除から外れたとかで、バカのくせに何勝手なことしてんだって」
「………」
「それ以来、なし崩しで働くことは許してもらえましたけどね。あの人、家事を一切しないんですよ。ゴミひとつ捨てないんです。お前が勝手に仕事を始めたんだから、家事の手を抜くことは許さんってね。どう思います?」
「あなたが、それをおかしいと思うなら」言葉を選びながら、藤堂は続けた。
「それは、ご主人に非があると思います」
「ゴミを捨てに行けというなら、わしはゴミを出さんって言って、自分が出したゴミはまとめて全部外のゴミ箱に捨てにいくんです。あの時は、この人本気で頭おかしいんじゃないかと思いましたよ」
 藤堂が思わず苦笑したので、女の目がぎょろっと怒りをにじませた。
「何がおかしいんです? 笑いごとじゃないんですよ!」
「いえ、―― 失礼しました。それで」
「本当に本気で聞いてくれてるんだろうねぇ……。まぁ、いいですよ。もうあらかた話は終わりましたから」
 ふんっと、女は鼻の両穴から、荒い息を噴き出した。
「これで判ってもらえましたかね? あんたの気持ちはありがたいけど、あたしが何言っても無駄ってことが。あたしなんかが小賢しく意見をすれば、多分、余計に怒り狂って、ヤカン頭は瞬間沸騰―― って、あんた、何さっきから笑ってるのよ!」
「いや……すみません、本当に失礼しました」
 まだ、思いだし笑いの余韻が残っている。藤堂は咳払いをして、姿勢を正した。それでも、自然に表情は優しくなっている。場違いな感情だとは判っていても……。
「奥さんは、お優しいんですね」
「は?」
「補佐はお幸せですね。確かに、ああいう気難しい方だから、ご家庭ではどのように振舞われているのだろうかと思っていましたが、奥さまがお優しそうな方なので」
「―― は?」
「補佐もつい、甘えられてしまうんだな。それがよく判りました」
「………あんた、人の話、ちゃんと聞いてた?」
「だって、僕には真似できないですから」
 藤堂は微笑した。
「そうやって別居にまで踏み切ったのに、月に一度は様子を見に戻られているんでしょう。……心根が優しい方でないと、そんな風にはできませんよ」
「……………」
「泥棒って、僕に殴りかかってきた時の剣幕もすごかったですからね。この家のことも、とても大切に思われているんじゃないですか」
 悪態をつけばつくほど、そこに、断ち切れない未練を感じる―― それは、言葉にはしなかった。
「それが、すごくよく判りましたから」
「そりゃ……あんた」
 女は、モゴモゴと口の中で何かを呟いた。
「何十年も一緒だったからね」
「素敵なことですね」
「ただ、いただけだよ」
「それでも、素敵なことだと、僕は思いますよ」
「…………」
「僕はまだ独身なので、誰かと一緒に暮らしたことはありませんが……、誰かと長く寄り添って生きるということは」
 自分の中の、封じ込めていた感情の一端が、ふと顔をのぞかせている。
(瑛士―― )
(俺たちは映し鏡だ。気づけばいつも、同じ速度で走っている)
「ご主人にとっては、ご自分と……あなたの人生、2人分を背負って生きていくことだったんでしょうね。だからご主人も、……必死だったんでしょう」
(……俺はその関係に、少し疲れてしまったのかな)
「必死?」
 訝しげに女が訊き返す。
「あなたの分まで」藤堂は笑った。
「必死で走ろうとしたのかな。せっかちな補佐らしいと思いますよ」
 ふと女の横顔に、はじめて苦い笑いが浮かんだ。
「あたしが、バカだからだよ」
「大切だったからですよ」
「あたしが、間違ってたのかい?」
「……あなたの気持ちを汲み取れなかったご主人に、非はあると思いますよ」
「…………」
 しばらく、女は無言だった。藤堂は今さらながら、この人の名前すら聞いていなかったことを思いだしている。
 中津川の家内です―― この人はそうとしか名乗らなかった。何十年もの間この人は、よくも悪くもその傘の下で生きてきたのだ―― 。
「……あんた、不思議な人だね。若いくせに落ち着いてて、初めて会ったのに、なんでも判ってるみたいなもの言いをする……」
「よくそれで、ご主人に叱られます」
 藤堂はさすがに恐縮して、苦笑した。
「落ち着いていると言われましたが、先ほどは、相当慌てていましたよ」
「…………」
 背後から、いきなり時代劇と打って変わったロック調の音楽が聞こえてきた。
『パリコ、クリスマス大バーゲンセール明日からいよいよスタート!』
 よく聞けば、それはジングルベルのメロディである。
 女はわずかな微笑を漏らした。
「また、怒鳴られるねぇ。余計なこと言いやがってって」
「え?」
 言葉の意味が判らないでいる藤堂を見上げ、女はため息を吐くようにして寂しげに笑った。
「あの人がおかしくなったとしたら、それは多分、12月だからですよ」
 つかえていた何かを吐きだすような言い方だった。
「――12月?」
「もう、とうに勘当した娘なのにねぇ。最後まで涙ひとつこぼさなかった。そんな頑固な人だったのにねぇ」
「…………」
「すみませんねぇ……あたしも、考えたくないっていうか、いまだ信じられないんですよ。あの人は多分……もっとなんでしょうねぇ」

 *************************
 
「やぁ、おかしなところでお会いしますね」
 腕時計を見ていた藤堂は、さすがに驚いて眉をあげた。
「張り込みですか。同じ公務員なら、警察のほうがあなたに向いているような気がしますがね」
 路地裏の影から――まるで闇からにじみ出てくるように、歩み寄ってくる人影がある。
「偶然ですか」
 藤堂は視線を動かさないまま、背後に立つ人に言った。「そうでなければ、目的は何ですか」
「あなたと同じですよ。ただし、僕の目的は内偵です」
「…………」
「先月に引き続き、同じ局の同じ課から、懲戒免の対象者が出る。……前代未聞の不祥事でしょうね、灰谷市にとっては」
 人事課の死刑執行人は、そう言って冷笑した。
 皇庸介―― 人事課の主査である。
 人事部長、勅使河原の懐刀と称されていたが、その部長は今月一日の人事異動で本庁から消えた。
「なんのための内偵ですか」
 公営駐輪場前の広場に集まりつつある若者の集団を見ながら、藤堂は訊いた。
 ラビット広場と呼ばれるそこは、元々は小さな児童公園なのだが、市内屈指の繁華街の駐輪場裏とあって、夜は若者たちの格好のたまり場になっている。
 対面には商店街に続くアーケードがあり、夜の8時だというのに、賑やかな人並みで溢れていた。さっきからひっきりなしに、クリスマスソングが聞こえてくる。
「全て、ご存じだったというわけですか」
 皇は答えない。憤りを抑えて、藤堂は続けた。
「知っていて、忠告も助言もなさらないつもりですか」
「藤堂さん」
 囁くような声だった。
「今、市の財政が、破たん寸前まで悪化していることは、あなたならご存知でしょう」
「…………」
「もう、うちの市にはね。無能なくせに年間7、800万以上の金を食う職員を、飼い続ける余裕はないんですよ」
「以前は、別のことを言われていましたね」
 藤堂は反論した。
「弱い奴でも細く長く使え、ですか。いやだな、表向きの理屈ですよ」
 闇に息を吐くように皇は笑った。
「だって身分保障のある公務員を、そう簡単には解雇できないでしょう」
 こらえきれないように、立て続けに皇は笑った。
「直情型の春日さんならともかく、あなたのような頭のいい人が、その程度の社交辞令を間に受けるとは思わなかったな」
「人をいくら減らしても、根本を解決しなければ同じことではないんですか」
「ふふ、……でもそれは、残念ながら僕の仕事ではないんですよ」
 闇の中に、皇の吐く息だけが白い濁りとなって滲んでいく。
「たとえば君が、ソフト面でそういった問題解決に当たるのなら、僕はハード面でその問題を解決するのが仕事です。それは最初から、よくご存じのはずなのでは?」
「…………」
「今、市役所が無為に給料を払い続けている人事課付、慢性的な病休職員が、いったい何人いるかご存じですか? 120人です」
「…………」
「そこに、人事部が把握している素行不良、勤務態度不良の職員を含めれば、200人を軽く超えますね。彼らの生涯年収を合算したら、いったいいくらになると思いますか」
「…………」
「200億ですよ。藤堂さん。これはあなた方事業課がひとつの事業を起こし、その結果を市に還元させる収益より、遥かに多いといってもいいんじゃないですかね」
「その数字は」
 深夜近い繁華街。駐車場裏広場のにぎわいは、今が最高潮だった。藤堂の声は、いっとき、バイクの集団のけたたましいエンジン音で遮られる。
「その職員が、市に利益を還元した時期を含んではいませんよ」
「含める必要はないでしょう。代わりなどいくらでもいるんだから」
「それこそ、感情的な理屈ですよ。……数字のはじき方としては、妥当とは言えないですね」
「……ふふ」
 何がおかしいのか、皇は鼻で笑うような素振りを見せた。
「まぁ、妥当ではないでしょうね。しかし、あなたは本気でそう思っていますか?」
「…………」
「この底なしの不景気のただ中、本気で市民の血税を、使えない職員に支払い続けるべきだと思っていますか? あなたのような経営のプロが?」
「……ただクビを切るだけならプロは必要ないですよ」
 藤堂は静かに遮っていた。
「公務員のような、様々な制約と引き換えに身分保障がなされているような職種なら、なおさらだと思いますがね」
「法に守られている身分なら、法で奪い取るまでです」
 皇は冷やかに微笑した。
「あなたがどこまで把握しているか知りませんが、一度病気になって休むような職員は、もう使い物にはなりません。休むことに耐性がつき、また、別の職場で同じことを繰り返してしまう。上司とそりがあわない。仕事が自分にあわない。……そんな馬鹿みたいに簡単で我儘な理由を、果たして市民が耳にしたらどう思うでしょうねぇ」
「人が、限界を超えるのは」藤堂は口を挟んでいた。
「様々な理由があると思います。決して、あなたの言う理由が全てではないでしょうし、あなたの言うような職員ばかりではないでしょう」
「では、藤堂君にお聞きしますが」
 殆ど耳元すれすれで声がした。
「民間なら、即座にクビを切られているケースで、給料を保障しながらいつまでも温情をかけ続けている。それは、身内を庇う甘い体制だと非難されても仕方ないのではありませんか」
「民間の全てが、即クビを切るわけではありませんよ」
「本音を言えば、市幹部は、そんな使えない連中はいらないんです。一刻も早くクビを切りたいと思っている。―― 僕は、そういう連中を合法的に切るための、内偵をしているんですよ」
「中津川補佐も、その一人というわけですか」
「その通りです」
「人には、それぞれ抱えた事情や思いがあります。補佐は」
「知っていますよ」
 素っ気なく遮った皇は、感情のこもらない目で藤堂を見上げた。
「僕が一言で括るならこうです。それがどうした」
「…………」
「実績よりも感情や伝統を重んじる、数字は常にどんぶり勘定、新しい企画やアイデアを頑なに受け入れない」
「…………」
「あなたが何にこだわっているのか僕にはさっぱり理解できませんが、そんな使えない課長補佐には、とっとと引退願うべきでしょうね」

 *************************

「中津川さん!」
 アーケードの入り口付近をふらふらと歩いていた男は、藤堂のその声に、ぎょっとしたように振り返った。
「よかった、ずっとお待ちしていたんです」
「なっ、なんだね、君は」
 みるみる白っぽい顔が、怒りで赤く染まるのが判った。
「失敬な、君は―― なんのつもりだね、探偵にでもなったつもりか!」
 激昂した初老の男を、街ゆく人たちが珍しそうに振りかえっている。アーケードの中は煩いほどのクリスマスソング。サンタの扮装をしたサンドウィッチマンが、ちらしのようなものを配っている。
「補佐」藤堂は声をひそめたまま、逃げようとする中津川に追いすがった。
「失礼は承知しています。それでも僕の話を聞いてもらえないでしょうか」
「ふざけるな!!」
 誰もが立ち止まるほどの大声に、さしもの藤堂も言葉を飲んでいる。
 ダウンジャケットにスラックス、髪はぼさぼさで、少しだけ白髪が増えて見えた。
「ここは職場じゃない、きさまは赤の他人だ、わしには一切関係のない人間だ」
「…………」
「二度とわしに話しかけるな。目ざわりだ!」
 腕を払いのけるようにして、中津川はさっさと歩きだした。藤堂はわずかに唇を噛んでから後を追う。
「どちらへ行かれるつもりですか」
 返ってくる言葉はない。
「……補佐」
「うるさい、あまりしつこくすると警察を呼ぶぞ」
「補佐、……もし、電話の相手とお会いになられるなら」
 がっと足をとめ、中津川は振り返った。怒り任せの腕が藤堂の胸を突き、藤堂はわずかによろめいていた。
「二度とわしにつきまとうな!」
 再び早足で歩きだした男を、藤堂は追った。
「……僕だけでなく、もう人事課でも調査に入っているようです」
「…………」
「相手は、公務員を専門に狙うたかり屋です。被害にあっているのは補佐だけではない。だから人事も調査に乗り出したんだと思います」
「だからどうした」
 自棄のように中津川は薄く笑った。
「たまに会って小遣いをやることが違法だとでもいうのかね。誓ってわしは、破廉恥な真似はしておらんぞ!」
「補佐……」
 それを実証するのがいかに困難かということは、先月の事件で身にしみて判っている。
 このままだと―― 中津川のケースがスケープゴートということにもなりかねない。
「補佐」
「もう放っておいてくれんか!!」
「……このままでは」
 藤堂が言い淀むと、中津川は薄い唇を歪めて笑った。
「免職か、おおいに結構だ。本音ではほっとしているくせに、なにを今さら、偽善者ぶった真似をしておる」
「…………」
「志摩さんが、なんで貴様をわしのサポートにつけたか、気づかないとでも思ったのか。わしから仕事の全てを取り上げ、貴様を後任に据えるつもりだったんだろうが!」
 激昂する男の拳がぶるぶると震えた。
「それを―― わしが最も耐えられんと知っていて、あの若い課長は命令したんだ。どうせわしは高卒で、貴様とは頭の作りが根本から違う。いらんというなら、出ていくまでだ」
「それだけが原因ですか」
 藤堂は食い下がった。
 どうにでも今夜、休暇届けにハンを押させなければ、間違いなくこの人は懲戒免職になってしまう。最悪、警察沙汰になる前に、なんとしても、今彼が陥りかけている泥沼から手を引かせなければ―― 。
「あなたは今日まで、色々なことに耐えて来られた。たかだか僕のような若輩が現れただけで、20年以上勤めた役所を、本当にやめてしまわれるおつもりですか」
「うるさい、知ったような口を聞くな!」
「お願いだから、冷静になってください」
「だったら実力でどうにかしてみろ、この役立たずの大男が」
 憎々しげに、中津川は呟いた。
「わしの首に紐でもつけて、ひっぱっていけばいい。わしは、何があっても貴様などの言いなりにはならん! 免職、大いに結構、退職金などびた一文いらんと志摩に伝えておけ!」

 *************************

「藤堂さん……」
 果歩がそっと揺さぶると、机に突っ伏していた人は、はっと驚いたように顔をあげた。
「すみません!」
「……なんの夢です?」
 また襲われるかと思いました、――というジョークは、たちまち人目があるから飲み込んでおく。
「ああ、もうこんな時間ですか」
 藤堂は目をこすりながら、腕時計に視線を落とした。その時計の痕が頬にくっきりと残っている。
 午後の始業開始まであと1分。
 今日も休んでいる1人をのぞいて、全員がすでに着席している。
「なんか、お疲れみたいっすけど」
 南原が皮肉っぽく口を挟んだ。
「いったい最近、何やってんすか。毎晩どっかに出ていっては夜中に戻ってきたりして」
「すみません」
 こちらが気の毒になるほど低姿勢で、藤堂は謝った。
「ご迷惑をかけているというのは判ります。本当にすみません」
「いや……俺らは理由を、……まぁ、いいっすけど」
 そこまで低姿勢に出られると、逆に責めているほうが気が悪くなるものである。
 妙な人掌テクニックを学んだ気になりながら、果歩は内心、気鬱なため息をついていた。
 ――本当に……何やってんだろ。
 眼鏡が壊れたといっていたけど、鼻筋のあたりに結構痛々しそうな切り傷を作っていたり、昼休憩に糸が切れたように熟睡していたり。
 気になることはもうひとつある。あれ以来、中津川補佐の休暇伺いが一度も回って来ないのである。
 休暇簿は藤堂が持っていて、どこにあるのか見せてもくれない。まぁ、課内で処理する話だし、後追いでなんとでもなるのだが、休暇は、事前伺いが鉄則である。
 まさかと思うけど、無断欠勤じゃないよね。
 計画係の谷本、新家両役付きは、さすがに何かを知っているようだが、2人とも貝のように頑なに口を閉ざしている。志摩にいたっては、中津川のなの字も口には出さない。
 なんとなく、そのあたりがすっきりしない……果歩なのだった。
 ―― まぁ、いいか、藤堂さんが、任せておけって言ったんだもの。
 先夜の事件も含めて、なんだか何もかもが曖昧に流されている気がするけど、彼が今、1人で何かの結論を求めてあがいているのだけは判る。
 しかし、いきなり起きぬけに謝るなんて、どんな夢みてたのかな。
 ―― いつも謝ってばかりだなぁ、この人は。
 少しおかしくなって、果歩は笑いをかみ殺しながら、照明をつけるために席を立った。




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