――クリスマスか……。 子供時代、あれほど恐れていた季節は、大人になってしまえば、こんなに薄っぺらいものだったのか。 アーケードの中は、ぎらぎらと輝くモールがあちこちに吊り下げられている。 けばけばしいまでにライトアップされたツリー。サンタの衣装を着て呼び込みに必死になっている女の子。チラシを配る太ったサンタクロース……。 その中を、若い男女や、酔っ払った会社員や、飲み会帰りの若者の団体が、ぞろぞろ歩いたり、屯したり、大声を張り上げたり、思い思いに騒いでいる。 ここも昔は、もう少しましな街だった。 良心的な店が揃った、温かな商店街だった。 いったい何時から、この街の主役は、こんな連中に移ったのだろう。 「おじさーん」 明るい声に、ふと顔をあげている。 「ごめんね、待たせちゃって」 「いや、いいんだ」 白い息を吐きながら、甘い匂いが中津川にまとわりついてきた。 「みて、このスカート、おじさんにもらったお小遣いで買ったんだよ」 切れ長の目を細めて少女は笑った。 膝までの白いフレアスカート。中津川は思わず微笑んでいる。 「うん、いいね」 「どうしたの? きょろきょろして」 「ああ……」自身の無意識の行動に、中津川は少しばかり驚いている。 「いや、知り合いがいるんじゃないかと思ったものだから」 「ふぅん」 「気のせいだったようだ」 しょせん、口先だけだったか。 あれきり一切姿を見せなくなった男のことを、中津川は冷めた気持ちで考えている。 本心では、いなくなってせいせいしている癖に―― ああいう偽善者ぶった態度が気に入らんのだ。 仕事が出来るのはよく判っている。 わしなどいなくても―― むしろ、円滑に総務は回っていくだろう。 「どこいく? 蒼衣、お腹すいちゃった」 「そうだな……」 ぼんやりと空を見つめる。今日は、もう何日だったかな。 「何か、プレゼントでも買ってやろうか」 「えーっ、本当にぃ?」 「おかしでも漫画でも、なんでもいいぞ」 「なにそれ? おじさん、蒼衣をいくつだと思ってるの」 くすくすとくすぐるように笑われる。 「クリスマスだからな」 「プレゼント? だったらもっといいものが欲しいなぁ。コスメとかアクセとか」 「それはまだ早い。高校生だろう」 「昔の人だなぁ、おじさんは」 蒼衣はますます楽しそうに笑った。 「じゃ、おじさんが子供だった頃は、クリスマスのブレゼントはお菓子かマンガだったの?」 「わしは……そうだな。そういったものは何ももらえなかったな」 「ふぅん」 「貧乏だったからな。……こんな風に言われていたんだ。クリスマスは人攫いがくるから、家で大人しく勉強していなさいとな」 「えー、なにそれ」 「白髭の、真っ赤な服を着た怪物が、親の言うことをきかない悪い子供をさらいに来るんだ。……いくつまで信じていたかな。今思うとバカバカしいが」 「マジ?? それってサンタのこと? マジ受けるー、おじさん、本気で信じてたの?」 「子供だったからな」 笑い転げる少女を見つめ、中津川は、ただ黙って微笑した。 こんなことが―― 。 こんな簡単なことが、何故、生きている間にできなかったんだろう。 「あー、おもしろかった」 笑いすぎた涙を拭うようにして、蒼衣は中津川を見上げた。 「なんか都市伝説みたい」 「都市伝説?」 「口裂け女とか―― ううん、わかんないならいいや。でも、ちょっとばかりリアルで、本当の話っぽいのが面白いね」 「…………」 いや、結局本当になったんだ。 クリスマスの夜、いきなり大男がやってきて、それきり娘は、本当に遠くに行ってしまったんだ。 「そろそろ行こうか」 呟くように言って、中津川は歩き出した。 「あまり遅くなると帰りのバスがなくなるぞ」 数歩先を行っても、何故か少女はついてこなかった。 訝しんで振り返ると、その場で佇んだまま、少女は不思議な笑みを浮かべる。 「おじさん、それがね……ちょっと困ったことになっちゃったんだ」 「……困ったこと?」 「蒼衣が昔つきあってた彼氏がね、おじさんと蒼衣がやってること、援交だって言うんだよね」 「援交……」 中津川は無感動に繰り返した。 「それでね、そういうことする大人は警察に突き出すべきだって言うんだよ」 「……なるほど」 彼女の背後にある輸入雑貨店から、3人の少年たちが出てきた。 少年――といっていいのか、中津川からみれば子供だが、かなりの大柄で、1人は顎に髭まで蓄えている。 「おっさん、市役所の人?」 色白で、髪に爆発したみたいなパーマをあてた青年が言った。茶の皮ジャンに、ジーンズ。それはずたずたに引き裂かれている。 「そういうの、マズイんじゃない」 「おっさんが、女子高生お金で買っちゃ、大問題っしょ」 髭をたくわえた青年がにやにやと笑った。「こないだも痴漢だなんだって大騒ぎになったばっかなのにさ」 「違うって言ったんだけど」 蒼衣は、爪をいじりながら、それでも口調だけは甘えたままで続けた。 「納得してくれなくて、どうしてもおじさんと話がしたいんだって」 「おっと、逃げるなよ」 中津川の背後に、男の1人が回りこむのが判った。 「騒ぐと、困るのは公務員のおっさんだろ」 「へへ、クビになっちゃうよー」 「ここじゃなんだからさ、俺らの店で、きっちり話をつけようよ」 「その必要はない!」 中津川は大喝した。 「貴様らはなんだ! 誰が、そんな汚い脅しなどにのるものか!」 役所なら近々クビになるし、退職金も入らない。 「なんだ、この親父」相手の1人が、やや唖然とした風に、ひとさし指で自分の頭を示して見せる。「もしかして―― こっちか?」 「君の友達か」 中津川は訊いた。蒼衣は、不思議そうに眉をあげる。 「だったら、今すぐ、こんな連中と縁を切りなさい!」 しばし、まじまじと中津川を見ていた蒼衣は、やがてはじけたように笑いだした。 「それ、本気で言ってる? もしかして」 「来るんだ」中津川はさっと身を翻し、蒼衣の手を取ろうとした。 「わしと逃げよう」 「ばっ、離してよ、エロじじぃ」 蒼衣はびっくりしたように、中津川の手を振りほどいた。別人のように毒々しい形相になっている。 「あんた、自分のしてることが犯罪だって認識ないの? あたしは被害者だよ? 二度とあたしに触らないでよ」 「君は騙されているんだ!」懸命に中津川は続けた。 「目を覚ましなさい、こんな連中とつきあってはいけない」 「じじぃ、往生際が悪いぞ」背後から背を思い切り叩かれた。ぐうと呻いて、中津川は咳き込んでいる。 「おい、おっさん、警察に突き出してやろうか」 「ひとまず、店の中で話し合おうね―、おじさん」 両腕を掴まれて引き起こされる。中津川は暴れた。 「は、離せっ、警察に行くなら行ってやる。わしに怖いものは何もないんだっ」 「だからー、とにかく話は店の中で聞かせてよ」 「もうすぐ閉店だしー、朝までゆっくり話そうよ、ね」 「はっ、離せっ」 道行く人たちは、この騒ぎに一応の視線を向けるものの、誰も取り合おうとしない。 くそっ―― 。 抗う術もなく引きずられていく中津川の視界に、真っ赤な巨体が転がるようにして近づいてくるのが見えた。 すぐにそれは、白い袋をかついだ―― いや。 中津川は目をこすった。わ、わしは幻を見ているのか?? それとも子供時代のトラウマが現実に?? 何度も何度も悪夢を見た。 白髭の、真っ赤な服を着た怪物が。 悪い子をさらいにやってくる―― 。 「補佐っ!」 夢でも幻でもない証拠に、その人さらいは、そう叫んで袋をふり回した。 いや、そうやって暴れるまでもなく、あまりにも異常な事態に、中津川を取り囲む3人の男は完全に凍りついている。 やおら袋を振り回した巨大なサンタクロースは、その袋を投げ捨てると、いきなり、腰を抜かした中津川に突進してきた。 「たっ」 助けて―― ! さらわれる!!! 「うわあああっ」 叫ぶ間もなく、サンタクロースに担ぎあげられた中津川は、蒼白になって手足をばたばたさせている。こ、これは夢か? それとも性質の悪い幻覚か? 「ひとまず逃げます!」 一声叫び、サンタは、抱きあげた中津川を肩に担いだままで走り出した。 「まっ、待て!」 「こら、おっさん、このままで済むと思うなよ!」 声も人も、どんどん流れる景色の彼方に消えていく。 白髭と帽子の下から黒い髪が見えた。 その時にはもう、人さらいの正体は判っていたが、中津川はただぼんやりと、顔に受ける冷たい風を感じている。 高いなぁ……。 こんな高さから、景色を見たことなどあったかなぁ。 ああ、あったな、あれは何歳の時だったろう。 とてもとても小さな頃、親父の肩に乗せられて夕焼けを見たのは。 ************************* 「公務員は、アルバイトをしてはならんのだぞ」 「自前です」 逃げ込んだのは、繁華街を抜けた公園沿いの河川敷だった。 藤堂は、被っていた帽子とつけ髭をむしりとった。「ふぅ……暑かった」額には、さすがに汗をかいている。 「しかし、ピラを配っておったろう」 「それも自前です。……実際、雇ってもらおうと考えはしたのですが、後々のこと考えると、それは少しまずいと思いまして」 「バカか、君は」 差し出されたチラシの文面―― 年末です。道路を綺麗に使いましょう。―― を見て、中津川は心から呆れて眉をあげていた。 そういえば、ここ最近、やたらでかいサンタがビラ配りをしているな、と思ったのを記憶している。 まさか、夢にも思わなかった。いくらなんでも、あんな形で動向を見張られていたとは……。 「君は、バカだな」中津川はもう一度繰り返した。 「いや、皮肉でも嫌味でもない、本当の意味で言ってるんだ。君はバカだ――大馬鹿だ」 「お叱りは覚悟しています」 藤堂は姿勢を正した。 「ただ補佐が……首に縄をつけて、実力で引っ張っていけと言われましたので」 「そ、それは言葉のあやだ。ただの比喩だよ、藤堂君」 「いずれにしても、今夜の場合、緊急避難としていたしかたなかったと思います」 「…………」 まったく……。 素直そうな顔をして、どこまで強情なんだ、この男は。 「それでも十分まずいことをしたんだ」 中津川は呟いた。 「わしにもその程度の自覚くらいはあるさ。わしは、犯罪をおかしたんだろう? 大河内君よりなお性質が悪い。……売春だからな」 「補佐は」藤堂が、きっぱりと口を挟んだ。 「ご自身でそれは違うとおっしゃいました」 「言葉ではなんとでもいうさ」つい、皮肉な口調になっている。 「誰だって自分が可愛いからな」 「僕が、証人になれると思います」 落ち着いた声で、藤堂は続けた。 「この何日か、ずっと補佐の動向を窺っていましたから。そういったご関係ではないと、客観的な立場から、証言できると思います」 「なにが客観だ」つい、冷笑を浮かべている。 「身内を庇っていると思われるだけだ」 「僕は、補佐をクビにする理由を見つけるために見張りをしていたんですから」 「…………」 「そこに、庇う要素はひとつもありません。春日さんも志摩さんも、そう言ってくれるでしょう」 「…………」 そこで藤堂は、初めて肩の力を抜いたように息を吐き、控え目な微笑を浮かべた。 「そういうことで通しましょう、中津川さん。本当に罪を犯したというご自覚があるなら、僕も警察に同行します。いってみれば、僕も逃亡ほう助の罪をおかしたわけですから」 「そっ、それはいかん」中津川は咄嗟に遮っている。 「それだけはいかんぞ、藤堂君」 藤堂は微笑する。 「でも、そうでないなら、僕は補佐を信じますよ」 「…………」 「補佐の、あの子を見る目には優しさしかなかった。……そのお気持ちが、相手に伝わらないのが、少し残念に思いますよ」 「…………」 ふっと、何かがこみあげそうになっている。「今夜のことが」中津川は慌てて、視線を余所に逸らしていた。 「人事に通報でもいったら、大問題だぞ。君みたいな大男はそうはおらんからな」 「まぁ、……」 藤堂は汗に濡れた頭を掻いた。 「ばれないように気をつけましたが、そうなったらもう仕方ないです」 「ふん、わしと一緒にクビになるか」 「民間出身は気楽でいいな、ですか? 大丈夫ですよ、多少の懲戒はくらうでしょうが、免職にはなりません」 「わしはもう、6日も無断で休んでおるぞ」 「最初の2日は、年休伺いがでています」 「………大問題だな、わしは書いた覚えがない」 「いえ、確かにお電話をお受けしました」 「…………」 伸びた髭を手のひらで撫で、中津川はしばらく黙っていた。 「女房に会ったんだな」 「お聞きになりましたか」 「……君に惚れたと言っておった」 「は、はは………」 ひきつったように笑った藤堂は、額の汗を手の甲で拭っている。 「でも、お優しい奥さまでしたね」 「……うん、そうだな」 それきり2人は無言になる。 師走の、凍りつくような静寂の中、互いの吐く息だけが、白く濁って闇に溶ける。 「クリスマス休暇には、いつも日本に帰っていたんだ。わしが最後まで結婚を許さなかったアメリカ人の優男とな」 「…………」 「あんな子供を留学なんぞに行かせるんじゃなかった……それきり、……帰って来ないと、判っているなら…………」 「…………」 歯を食いしばっても零れた涙を、中津川は手のひらで拭った。 「それでも、クリスマスだけには帰って来た。もう話すことさえないわしらは、ただ黙ってイブを過ごし、互いに不愉快になって、年が明ける前に別れた。孫が生まれたのは昨年だよ。わしは今度こそ娘に謝ろうと、沢山のプレゼントを買って待っておった」 すでに話を聞いてるのか、藤堂が視線を伏せるのが判った。 「……あんな物騒な国になど住むからだ。遺体は戻ってこなかったよ。……孫共々、向こうで荼毘にふされたそうだ」 鼻の脇を伝った涙を、指で押さえるようにして、中津川はしばらく何も言えなくなった。 「……どうかしているな、わしも……」 「…………」 「君に、こんなことまで話してしまうとはな。……話したところで、何がどうなると言うわけでもないのに」 藤堂は黙ったまま、空を見上げているようだった。やがて、やおら彼は呟いた。 「飲みに行きますか」 「その格好でか」 「いや、下にはちゃんと着ています。役所に戻るつもりでしたので」 「わしは奢らんぞ」 「じゃあ、割り勘で」 「君と分かり合うつもりもない」 「まぁ、それは成り行きしだいということで」 「全くもって、無駄なことだよ」 中津川は立ちあがっている。 「しかし……君に担がれた時は、少しばかり気持ちがよかった」 高みから見る景色。顔に受ける風。誰かの体温の温かさ。 「自分にも子供だった頃がある。それを、久しぶりに思い出せた気がするよ……」 |
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