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年下の上司 story10〜 DecemberA

史上最低のクリスマス トラウマがソリに乗ってやってくる(最終話)


 12月24日。
 午前7時半。
 海風が吹きつける港に停泊中の船を見て、果歩は、呆然と呟いていた。
「釣りって……船に乗るんですか」
「何当たり前のこと言ってんだよ」
「補佐が船をチャーターするって言ってたじゃないですか」
 その傍らを、あくびをしながら南原が、重たげなリュックを担いだ水原が、相次いで通り過ぎていく。
 ふ……船??
 買ったばかりのダウンジャケットが、風に吹かれてぱたぱたと揺れた。
 ――船??
「いやー、いい天気になりましたねぇ」
「少し風が出ていますが、海は凪いでいるし、大丈夫でしょう」
 笑顔で頷きあいながら、谷本と大河内が通り過ぎていく。
「流奈、こう見えても、マリンスポーツ、なんでもオッケーなんですよ」
 流奈と藤堂―― 。
 藤堂の傍らにまとわりつくようにして、流奈は完全にはしゃいでいる。
「もし海でおぼれたら、私が助けてあげますね。あ、でも無人島に2人で流れ着くのもロマンチックで素敵ですね」
「はぁ」
 藤堂は、相変わらずの受け答えである。
「でも……」
 足をとめ、流奈はうっとりと藤堂を見上げた。
「今日の藤堂さん、なんだかワイルドでとっても素敵。流奈、ますます好きになっちゃいました」
 まさに舌好調である。
 く……いったいどうして、よりにもよってクリスマスイブに、こんな光景を見せつけられなければならないのか。
「的場さーん」
「わー、船や、楽しみやなぁ。これで沖に出るんでっか」
 乃々子と宇佐美が爽やかに登場する。
 ――まずい……。
 全員が、ゆらゆら揺れる小型船に乗り込むのを見届けてから、果歩は改めて途方に暮れていた。
 まさか、人生における三大トラウマのひとつ―― 船が待っていようとは!
 船がダメだと知ったのは、小学校の修学旅行である。1時間のフェリー……しかも、凪いだ海をただ進むだけの旅で、吐くほど気分が悪くなって、その日1日ぐったりしていた。
(これくらいで酔う人なんかいないわよ)
(珍しいというか、気の毒な体質ねぇ。あなた、ブランコでも酔っちゃうんじゃない?)
 思えば、その時の保健の先生の言葉がトドメだった。
 以来果歩は、本当にブランコにも乗れない少女になってしまったのである。
「なにをしとるんだね、さっさと乗らんか」
 中津川の嫌味な声が、果歩を過去から引き戻す。
「あの……補佐」
 果歩を通り越した補佐に背中に、果歩はすがるようにして聞いていた。額には、すでに冷や汗が伝っている。
「その……時間にしたら、どのくらいかかりますかね。お昼はやっぱり、陸上で食べるんでしょうか」
「天候次第だが、2時にはここに戻る予定になっておる」
 2時??
「これから2時間……って意味ですか」
「ぱかもの、何を言っておる、昼の2時に決まっとるだろうが」
 き…………。
 きゃーーーーーー っっっ。
「上物が釣れたら、船の上でそのままさばいて食べることもできる。まぁ、今日は天気もいいし、遠くまでいけるだろう」
 いやーーーーっっ
 だ、誰か、助けて。誰か、これは全部夢だと言ってぇーっ。
 今からスタートして、2時……ってことは、正味6時間??
 無理、無理、絶対無理。絶対に死ぬ。
「ほ、補佐」
「なんだね、煩いな。ぼさぼさしないで早く乗りたまえ」
「あの……私、極端に酔いやすくて」
「当然、酔い止めくらいは飲んできたんだろう?」
 訝しげな眼で、じろりとねめつけられる。
「それが……船で出るということを、失念しておりまして」
「ふむ……船に酔い止めは常備してあるが、辛いというなら、残るかね」
「はぁ……」
 その時、船のデッキで、寄り添いあって立っている流奈と藤堂の姿が飛び込んできた。
 正確には流奈がべったりと寄り添っているだけなのだが。
 めらめらっと果歩の胸中に、白い感情がこみあげてくる。
 なんなの、それ。
 本当なら、彼の隣でそうしているのは私なのよ?
「い、行けると思います」
 多分、最後の蜘蛛の糸みたいなチャンスを、果歩は自分で断ち切っていた。

 *************************

「的場さん……大丈夫ですか」
「話しかけないで、……吐く……」
 船底で、果歩は縮こまるようにして横になっていた。うとうとしては、強烈な吐き気で目が覚める。最悪だった。
「船長さんが、これだけ凪いでるのに酔う人も珍しいって……」
 乃々子が、心底気の毒そうにつぶやいた。
 ええ、私は世にも珍しい体質の持ち主なんですよ。そんなに何度も言われなくても判っていますとも。
「上の様子は?」
 半ば朦朧としながら、果歩は訊いた。
 時折、歓声や笑い声が聞こえるから、クリスマスの船釣りが、大いに盛り上がっているのは想像がつく。
「みんな楽しんでるみたいですよ。あ、今から甲板で魚をさばくから、的場さんも元気になったら」
 想像しただけでこみあげるものを感じ、果歩は口を両手で覆って、くぐもった嗚咽を漏らしていた。
「だっ、大丈夫ですか??」
「へ……平気、大丈夫だから」
「せ、洗面器は」
「本当に、大丈夫」
 というか、もうあまり嘔吐を連想させる言葉を言わないでほしい。連鎖が連鎖を呼んで、本当に胃がひっくりかえってしまうから。
 朝ご飯を抜いてきたのがよかったのか悪かったのか―― 吐きそうで吐けない、でも吐くよりマシな状況で、眠るに眠れない果歩なのである。
「じゃ、私戻りますけど」立ち上がった乃々子が、申し訳なさそうに果歩を見下ろした。
「藤堂さんも宇佐美君も、随分心配してましたよ。様子見に行きたいって」
「絶対にダメ!!」
 そこは、血相を変えて断言していた。
 鏡など見るまでもない。七転八倒で苦しんだせいで、髪はぼさぼさ、目は落ちくぼみ、顔は真っ白。水分さえとれないから、唇も乾ききってばりばりである。
 それ以前に、こんな情けない姿、絶対に藤堂さんには見せたくない。
「す、少し疲れて、休んでるだけだって伝えて」
「なにも、そこまで見栄を張らなくても……」
 さすがに呆れたのか、乃々子がぼそっと呟いた。
「何か言った?」
「い、いえいえ、判りました。お昼食べたら、じきに港に戻りますから。あと少しの辛抱だと思いますよ」
「……ありがと」
 眼を閉じた果歩は、あっと気づいて乃々子の背中に声をかけた。
「本当に大丈夫だって、ちゃんと伝えてよ」
「わかってますけど」
「せっかくみんな楽しんでるのに、心配させたら悪いから」
 乃々子の目が、少し優しくなるのが判った。「了解です」
 とんとん、と、階段を上がる音がして、扉が閉まった。
 ああ―― 自己嫌悪。
 こうなるって判ってたんだから、最初から素直に港で待ってればよかったのに。
 自分史上最悪のクリスマスイブ。
 3割藤堂を恨んではいるものの、あとの7割は自分の軽率さを恨むしかない。
 申し訳ないと思うのは、結局、なんだかんだいってみんなに迷惑をかけてしまったということで……。
 しかし、この船嫌い、どうやったら克服できるんだろう。
 もし、流奈とかぐや姫が、船で藤堂さんを連れ去ったら、私、追いかけていけないじゃない。しかも、極めつけに、浮くこともできない金槌だし……。
「どうしても、行ってしまわれるんですか」
「大丈夫ですよ。任務が終われば、すぐに戻ってきますから」
 果歩は袖で涙を拭った。行かないで―― なんだか今別れたら、二度と会えないような気がするから。
 遠ざかる船の甲板で、夫が手を振っている。
 冠直衣姿も凛々しい藤堂さん。ああ、なんて素敵なんだろう。その姿がどんどん波の彼方に遠ざかっていく。―― 
「馬鹿ですねぇ、2人ともお人よしを絵に書いたような性格だから騙されるんですよ。藤堂さん、二度と戻ってきませんよ」
 流奈が背後で囁いた。
「えっ」
「そうですよ。月に着いたら、カグヤさんと結婚することになってるんです。早く追いかけて捕まえないと」
 乃々子が背中を押してくれる。
 そんな―――。
 果歩は慌てて駆けだした。波打ち際、気づけば水着になっている。嘘、泳げってこと? もしかして。
「的場さん、早く!」
「手おくれになっちゃいますよ!」
 えいやっと、鼻をつまんで飛び込んだ。しまった、コンタクトのこと忘れてた。いけない、コンタクトが……波に流れて―― 。
 何も見えない、どうしよう、このままじゃ、あの人を追っていけない。どうしよう、どうしよう。
 そのままで―― 
 誰の声?
「ああ、動かなくていい」
「―――!!」
 ぎょっとして、果歩は目を見開いていた。
 ゆ、―― 夢……?
 どこまでが???
 目の前に座る人の顔を見て、果歩は反射的に目を閉じている。夢なら、もう一度目覚めた時には消えているはずだと信じて。
 が、おそるおそる眼を開けた時、まだその人はそこにいた。
 果歩の傍らにしゃがみこみ、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「具合はどうかね」
「だ……大分楽に、なりました」
 な、なんだって、よりにもよってこの人が来るんだろう。
 果歩にとっては悪夢の続きと同レベル―― 中津川補佐である。
「あと30分もすれば、陸に着く」
「す、すみません、ご迷惑をおかけして」
「全くだ」
 それ以上、何も言えない果歩である。
 さ、最悪に気まずいんだけど。
 一体、何の用だろう、話がないなら、さっさと上に戻ってほしい。
「魚をクーラーボックスに入れてあるから」
「はぁ」なんの話だろう。
「家に持って帰りなさい。釣りに出かけて手ぶらでは帰りづらいだろう」
 そんなこともないというか、そもそも成果など誰一人として期待していない的場家である。
 しかも魚と聞いて、おさまった吐き気が再びこみあげそうになっている。
「ありがとうございます」
 ひきつりつつも、果歩はかろうじて笑って見せた。
「……的場君」
「は、はい」なに、まだ何かあるの?
「月曜でいいから、コーヒーの淹れ方を教えてくれんかね」
「……………」
「わしも、独りになったからな。……自分のことくらい自分でせんといかんだろう」
「……………」
 ――補佐……。
 果歩はただ、言葉も出ないまま、補佐の横顔を見つめている。
 この偏屈な男が、今、どれだけの勇気と努力を持って今の言葉を吐いたかと思うと、それだけでもう、胸がいっぱいになって、「そんなことしなくていいですよ! 補佐にコーヒーなんて淹れさせられません」と言ってあげたい気持ちでいっぱいになっている。
「そんなところだ」
 中津川は特段の感情も見せずに立ち上がった。
「決して、君らの言い分を認めたわけではないからな。それだけは誤解しないように!」
 傲慢で横柄な言い方も、不思議と腹が立たないのは何故だろう。
 ――そっか。
 期待してたのとは全然違うけど、いいか、今年のプレゼントは、これで。
 藤堂さんがくれたのかな。
 それはちょっとばかり、彼にとって虫のいい解釈かもしれないけど。

 *************************

 船から降りても、果歩はまともに歩くことができなかった。
「だ、大丈夫ですか」
 乃々子に支えられ、なんとか、という感じである。
「結局、まるまる半日寝たきりでしたねぇ」
 呆れたように水原が首をかしげた。
「なにしに来たんだかわかんねぇな」南原が肩をすくめる。
「格好だけは、プロみたいに決めてたけど」
 うるさい……。
 あんたらみたいなデリカシーの欠片もない人たちに、この乙女心が判ってたまるもんですか。
「歩けそうもないですか」
「……うん」
 乃々子の手を払って、果歩はその場にへたりこんだ。吐かなかったのが、奇跡だ。マジで。
「ちょっと、目が回って……。少し座ってたら、楽になると思うから」
「じゃ、この辺りで休んでましょうか」
「車椅子、持ってきましょか」
 宇佐美が不安そうに口を挟んだ。
「そんなの港にあるかな、普通」
 大河内主査が訝しげに首をひねる。
「いやぁ、最近の公共施設には、たいがい用意してあるんですわ。俺、何度も倒れたことあるから」
 すごい説得力だが、この場合、全く嬉しくない果歩である。というより、お願いだから、そんなに大袈裟にしないでほしい。
「なんだか、1人になりたいみたいですしー」
 遠巻きに見ていた流奈が、妙に厭味ったらしい声で言った。
「百瀬さんに任せて、私たちは先に行きません? ずっとこうしてても始まらないじゃないですか」
「ま、そりゃそうだな」
「じゃ、的場さん、俺ら先に戻って片付けとくんで、ゆっくり休んでから戻ってきて」
「すみません……」
 流奈の態度は癪に障るが、この場合、むしろその申出はありがたかった。
 藤堂は、中津川と2人で大きなクーラーボックスを抱え、はるか先を歩いている。
 気にかけてくれているのは判ったが、全員の目の前でわざとらしく流奈と張りあうのも嫌だったし、藤堂も、そんな果歩の気持ちを察したのか、あえて距離を開けてくれているようでもあった。
 そういう意味では、全く成果のない愛の祭典、クリスマスイブ。
 ――少しばかり恨みますよ。藤堂さん。
 2人きりじゃないないならせめて、流奈なんて誘ってほしくなかったのに……。
 本当に、女心の欠片も判らない人なんだから。
「……的場さん」
 乃々子が、そっと袖を引いた。
「なに? もう少し休んでたいから、乃々子、先に行ってていいよ」
「いえ、そうじゃなくて」
 不意に日差しが影になる。果歩は目を細めて顔をあげた。
「大丈夫ですか」
 ひどく優しい声がした。
 あれ、藤堂さん? 先に行ったはずなんじゃ……。逆光がまぶしくて、彼の顔がよく見えない。―― その時だった。
「あっ」と乃々子が大声をあげた。果歩は、驚愕のあまり声もでない。
 気づけば、遥か上空から、驚く乃々子を見下ろしている。なにこれ、なにこれ。
「いいですよ、もう」視界の下のほうから、藤堂の声がした。
「的場さんは、僕が連れていきますから」
「は、はぁ……」
 乃々子は呆けたように頷いている。果歩にはまだ、今の事態が飲みこめない。
 わかっているのは、およそロマンスの欠片もなく、まるで親が子供をだっこするみたいに軽々と抱きあげられたということで―― 。
「ちょっ、藤堂さん? な、なに目立つことしてんですか」
 果歩のパニックをよそに、藤堂は、ものも言わずに歩きだす。その速さに、果歩はさすがに面くらって、彼の肩に手を回している。
 周囲の釣り客たちが、もの珍しげに見あげている。少し離れた場所で、足をとめてこちらを見ている集団は、総務課の面々だろう。
 ど、どうしよう―― 。
 藤堂さん。もしかして、頭がおかしくなったんじゃないだろうか。
「い、いいんですか」
 藤堂の肩に手を置いてバランスを取りながら、果歩は訊いた。
「いいんですよ」
 いんですよって、何を根拠に。
「上司命令ですから」
 どこか楽しげに藤堂は言った。
「はぁ?」上司命令?
「中津川さんの指示ですから。時間がもったいないから、力ずくで引っ張って来いって」
「……………」
 え?
「だから、僕は言いなりになるだけです」
「…………」
 そりゃ……、そうかもしれないですけど。
「それは、あれですか」果歩は、おそるおそる声をひそめた。
「はい?」
 もしかして、私たちのこと「……補佐にさえ、勘づかれているという……」
「補佐どころか、みなさん、薄々気がついているような気がしますが」
「ええっっ」
 そんな馬鹿な―― しかし、先月以来、妙なところで大河内主査に気を使われたり南原さんに余計なフォローをされたりと、思い当たる節はあり過ぎるほどにある。
「ど、どうしましょう」
 藤堂の横顔は笑っている。
「まぁ、仕方ないんじゃないですか」
 そんな開き直ったように言われても。
「それに、別にやましい関係じゃないですからね」
 まぁ―― そう割り切られても辛いんだけど。
 ふと果歩は、思わぬ景色に気づいている。今まで経験したこともなかった、180センチ超えの世界。
 わぁ……。
 海風って、こんなに気持ちのいいものだっけ。
 空が、ものすごく近くに感じられる。
 逆に、地面が不安になるほど遠い。
 すごい、最高に気持ちいい。
 もう、酔いなんて、飛んでっちゃったみたいだ。
「…………」
 知らなかった。
 これが、藤堂さんの見ている世界なんだ……。
「藤堂さん」
「はい」
「……私も、少し焦りすぎてたのかな」
 不思議なほど、素直な気持ちになっていた。
 多分、この景色と心地良い風のせいで。
「納得いかないところもあるけど、藤堂さんの決めたことに従います。4月までは部下であり、同時に友人ということで」
「……そうですね」
「でも、私が束縛するのはいいんですよね?」
 わずかに、彼が苦笑するのが判った。「そうですね」
「部下で友達だけど、藤堂さんの一番は私ですよ?」
「そうですよ」
「だったらいいです」
 ちょっとばかり不満は残るけど―― ん? ちょっと待ってよ? 今何か、どさくさ紛れですごく嬉しい言葉をさらりと受け流してしまったような―― 。
「ああ、忘れていました」
 なんだか大騒ぎになっている総務課の集団を追い越した後、藤堂がふと呟いた。
「今回、僕は何点でしたか」
 少し笑って、果歩は、藤堂の顔を引き寄せている。
「百点です!」
 それから、そっと潮風が沁みた髪にキスをした。




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