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年下の上司 story12〜Janusry@

年末年始 役所は暦通りです(3)


「はじめまして、松本です」
 二度会った父の会社の好青年は、さすがに緊張しているようだった。
 すらっとした黒っぽいスーツに、髪はちょっと流行りっぽく上のほうだけワックスで立てている。
「的場部長には、いつもお世話に……」
「まぁ、まぁ、堅苦しい挨拶はいいから」
 と、叔父叔母や母に促されて、松本遼平は客間にあげられた。
 朝から美容院に連れて行かれて、髪のセットやら着つけやらをさせられた果歩は、久々の着物の締め付けに、半ば貧血を起こしそうになっている。
 が、顔だけは、その険しさを微塵も見せずに、笑顔で彼を出迎えた。
「松本さん、お久しぶりです」
「わぁ、お綺麗なので、誰だか判りませんでしたよ」
「まぁ」
 果歩は少し頬を赤らめ、松本も照れたように赤くなった。
 いやー、本当に素直でいい人だ。
「素敵な人じゃない」
「イケメンっていうのかしら、今風の言葉で」
 叔母も母も満足気である。
 万人の歓待ムードの中、ただ一人、なんとも言えない気持ちなのが、果歩だった。
 ほんっと、藤堂さんさえいなかったら……。何の不足もない相手なのに。
 結局断るのだと思ったら、気が重いと言うか、申し訳なくて仕方がない。
 毎度のことながら昨夜の怒りは1時間ともたず……何度も電話しようと迷ったものの、向こうからないので癪に障り、何もせずにそのままにしている。
「すみませんでした」
 廊下を歩きながら、松本がそっと囁いてきた。
「その……なんというか、断り切れずに」
「いいですよ。口止めしたのは私なんですし」
「早々に引き揚げますから」
「お車ですよね」
 果歩は少し眉を寄せて松本を見上げた。
「多分、とんでもなく飲まされると思いますよ。父は泊める気満々ですし」
「……まいったなぁ」
 松本の困惑に、心の底から同意している果歩である。
 が、礼儀正しい松本青年は、砕けた雰囲気にくつろぎながらも「明日は用事があるので」と頑なに酒を口にせず、結局「じゃあ、あとは若い者だけで……」というお決まりのセリフで散会となった。
「いやぁ、本当にお見合いだったんですね」
「私も、半信半疑だったんですけど……」
 昼食後のひととき、朝から何も食べられなかった果歩は、正直、足もとがふらふらするほど干からびている。
 庭から田に囲まれたあぜ道を、……まぁ、行って戻って20分くらいだが、それでも2人で散歩しようということになった。特段見るような景色もなく、それもまた、松本に申し訳ないと思う果歩である。
「着物、似合ってますね」
「あ、ありがとうございます」
 一刻も早く脱ぎたいと思っていた果歩は、慌てて作り笑いを浮かべる。
 松本は少し目を細め、眩しそうに果歩を見下ろした。
「……残念だなぁ、まだ彼氏とはつきあってるんですか?」
「え、ええ、まぁ」
 つきあっているというか、なんというか。
「上手くいってない?」
「いえいえ、そういうわけじゃ……」
「あまり、自信なさげですね」
 痛いところを突いてくる。
 つきあっていると、はっきり言っていいのだろうか。
 強いて言えば、恋人予約中みたいな。婚約ならぬ、恋約だ。
「なんだかなぁ、そう曖昧にされると、未練が残っちゃいますよ」
「ごめんなさい、そんなつもりはないんですけど」
「はっきり言われても辛いけど」
 松本が笑ったので、果歩もつられて笑っていた。
「じゃ、もう少し歩いて帰りますか」
「そうですね」
 ああ……こっちが残念に思うくらいいい人だ。
 誰に言われた言葉だっけ、恋はタイミング……その通りだ。
 もっと別の時期に出会っていたら、この人との縁も違った形になっていたのかもしれない……。
 その時、草履のつま先が石か何かにひっかかって、果歩は前につんのめっていた。
「あっ……」
「大丈夫ですか」
 いけない。食べてないせいか眩暈が……。
 松本の腕に抱き支えられて、果歩はよろよろとよろめいた。
「す、すみません、ちょっと貧血……」
「だ、誰か人呼んで来ましょうか」
「へ、平気です……」
 うー……最悪。なんかもう、吐いちゃいそう。
「……的場さん」
「すみません、もう少しこのままで」とんでもない迷惑かけてますが。
「いや、その、僕はいいんですけど」
 その口調が、どうも普通じゃないような気がしたので、果歩は訝しく顔をあげている。
「―― こ」松本の目が、一点を見据えて怯えている。
 こ?
「……この人、誰ですか」
「…………」
 この人……?
 強張った松本の視線を追って、果歩も怖々振り返った。
「―― と」
「藤堂といいます」
 果歩が―― 唖然と口にするより早く、その人が自分を名乗った。
「的場さんと、お付き合いをしている者です」
 時が凍りついたような間があった。手を取り合ったままの果歩と松本にとって。
「す、すみませんっ」
 まず、松本が半ば顔色を失くして、マンガみたいに後ずさった。
「これは―― その、行きがかりというか、たまたまこうなったというか」
「いえ、別に」
 藤堂に腕を取られ、果歩は引き寄せられている。
「怒っているわけではありませんので」
 そ、そうだろうか。
 強く腕を掴まれたまま、果歩は、冷え冷えするような寒さを感じている。気のせいでなければ、ここまで表情を無くした藤堂を見たのは初めてだ。
 眼鏡越しの双眸には、確かに怒りの色はない。どころか、全くといっていいほど感情がない。
 いったいどういう経緯でここまで辿り着いたのか、この寒空に、藤堂は上着を脱いだシャツ一枚の姿だった。ネクタイも外している。
「か、彼女、貧血みたいで」
 よく知っている果歩が恐ろしいなら、知らない松本にとってはなおさらだ。すでに、完全に逃げ腰になっている。
「そうですか」
 こっちの気が悪くなるほど素っ気なく答えると、藤堂はやおら果歩を横抱きに抱え上げた。
 いきなり空に浮いたので、果歩はびっくりして藤堂の首に両腕を回している。少しだけ、触れた首筋が熱かった。
「家まで、案内してもらえますか」
「あ、そ、その……まっすぐ行ったとこの一軒家ですから」
 わたわたと家の方角を指差して、松本は焦った視線を果歩に向けた。
「じゃ、僕は、騒動になる前にお暇するんで」
「ほ、本当にごめんなさい」
「いや、僕のほうこそ、失礼しちゃって」
 ああ―― 本当に、なんて謝っていいんだか。逃げるように走っていく松本の背中を見ながら、果歩は心の中で両手をあわせている。
 それにしても―― 。ただただ善意の人に、なんて冷たい振る舞いだろう。
 自分の立場も忘れて、果歩は藤堂を睨んでいる。
「本当に気分が悪かっただけなんですよ」
「へぇ」
「…………」
 そ、それだけ??
「今の人は、父の部下で」
「本当にお見合いだとは思わなかった」
「…………」
 な―― 何故それを?
「それならそう言えばいいのに、僕が結納だから、あてつけですか」
 彼の言葉の乱暴さに、果歩はさすがに驚いている。
 なんだろう、その言い方。
「あのですね、藤堂さん、私だって知らなかったんですよ」
「へぇ」
「…………」へぇって……。
「いきなり知らされて、今朝まで、本当にそうだとはですね」
「へぇ」
「…………」
 か、完全に目が静止している………。
「自分だって結納だったじゃないですか」
 果歩は、少しふてくされて呟いている。
「してませんよ」
「だって、確かに」
「昨日は……」
 苛立ったように何かを言いかけ、藤堂は唇を閉じた。
「まぁ、後で説明します。今は、別の説明をしないといけないようなので」
 その時には、果歩も彼の言葉を理解している。
 家の前には、呆気にとられたような父と母と―― 手を振っている美怜。
 ちょっ、藤堂さん。
 果歩はさーっと青ざめている。
 これ、どうやって収めてくれるつもりなんですか。

 ************************* 

「的場さんと同じ職場で仕事をしている、藤堂と言います」
 父母、叔父夫婦と何故かその息子夫婦まで出揃った仏間で、藤堂と果歩は、並んで頭を下げていた。
「一度、果歩を送ってくださった係長さんね」
 宮子が、助け舟を出してくれた。
「職場の上司が、部下に手を出したのか」
 当然のことながら、憲介は完全に怒っている。その怒りは、多分藤堂より―― 何一つ交際を語らなかった果歩に向けられている。
 藤堂は答えず、ただ頭だけを下げた。
「お父さん、あの、私たちまだ」
 果歩はおずおずと口を挟んだ。
「うるさい! お前は黙ってろ!」
 そういう関係じゃないんだけど……。ああ、どうしよう。なんだかもう最悪の事態すら通り越してしまったみたいだ。なんでこんなことになっちゃったのか……。
 着物を脱ぐゆとりさえなく、治りきらない貧血で、まだ頭がくらくらしている。
「こんなことになって、責任を取るつもりはあるのか」
 しかも、話がぶっとんでるし。
 藤堂は答えずにうつむいている。そう、答えられるはずがない。嘘をつくずるさもなければ、今、本当のことを話すほど馬鹿でもないはずだ。
 えー、実は僕には婚約者がいましてね。いやいや自称なんすけど、ま、そっちとの手が切れないんですわ。ぶっちゃけた話、その話が片付くのが4月ですか? まぁ、そないな感じなんで、それまでおたくの娘さんと結婚とかそんな話、しとる場合やないんですよ。ほんま、すんませんなぁ。
 どう言葉を尽くしても、そこに要約される言い訳を、うちの父が許すはずがない。
「まだ……」
 ようやく、藤堂の唇が動いた。「結婚の約束は、できません」
 ああ……正直に言っちゃった。
「なんだと?」憲介が血相を変えて、膝を立てる。
「でも」畳についた彼の手が緊張しているのが、果歩には判った。
「彼女のことを、とても大切に思っています」
「…………」
「絶対に、無責任に傷つけるような真似だけはしません」
 そのまま頭を下げる藤堂を、果歩は胸がいっぱいになったまま見つめている。
 ――藤堂さん……。
 そんなに、必死に、頭なんか下げないで。
 なんだか、本当に夢を見てるみたい。
 今の言葉を、今日という日に聞けただけで、もう……。
 何もかも許せるほどに幸せです。幸福すぎて、視界がぐるぐる躍り出すほどに。
「まぁ、お父さん、まだおつきあいをはじめたばかりのようですし」
 沈黙を破ってくれたのは宮子だった。
「そんなに、結論を急がなくともいいんじゃありません?」
「こんな所にまで乗り込んできて、何を言っとる!」
「美怜に聞いたんですけど、まだ26なんですって。果歩が4つも年上ですよ。案外、果歩がたぶらかしたのかもしれませんよ。ほら、いかにも果歩好みのいい男じゃありませんか」
「お前は黙っとれ!」
 お母さん、それ、ある意味正解……。
 だって、今だって……。
「お姉?」
「果歩??」
 今だって、……私の片思いみたいなもんだもん……。
 でも、今日はちょっと前進したかな。
 ふっと視界が暗くなる。
 意識を保てていたのは、そこまでだった。

 *************************

「お兄さん」
 縁側で佇んでいた藤堂は、その声に振りかえっている。
「って呼んでもいいですか? 前からお兄さんが欲しかったんですよねー」
 仏間の方から歩いてくる的場美怜を見上げ、藤堂は答えずに微笑した。
「的場さんの様子は?」
「ぐっすり寝てるから大丈夫ですよ。昨日から殆ど寝てない上に、食べてないから、気分が悪くなったみたい」
「……そうですか」
「あ、起きてもすぐに様子見に行かないでくださいよ。あの人、コンタクトいれてメイク直さなきゃ、絶対出てこない人ですから」
 藤堂は思わず笑っている。
「それから、車のほう、修理屋が引き取っていきましたから」
「何もかもすみません」
「しっかし、あの距離からよく徒歩できましたねぇ。まぁ、車がボロすぎだって、父はそっちに驚いてましたけど」
「たちまち、貯金がなかったので」
 藤堂は頭を掻いた。
「少し無理をさせすぎたみたいです。ご迷惑をおかけしました」
「まぁ、おかげで泊るしかなくなったし」
 へへっと笑って、美怜は藤堂の隣に腰掛けた。
「しかし、泊れと言った父も父ですが、よくこんな敵陣に泊る決心をなさいましたね?」
「今さら、逃げるわけにもいかないので」
「許さんとか若すぎるとか言ってますけど、父はあれで、お兄さんを信頼したんだと思いますよ? だって、かっこよかったもん。あれで結婚しますって言ったらサイコーだったんだけどなー」
「…………」
 ふっと、美怜の横顔が陰った。
「私、家からずっと見てたんですけど、お兄さんが走って来た道、……あそこね、もう随分前になるけど、ピカピカのベンツで、やっぱりお姉のこと、追いかけてきた人がいたんですよ」
「…………」
「お姉は最後まで何も言わなかったけど、結局、上手くいかなかったんですね。あの頃は毎晩泣いて……朝は必ず目が腫れてるから、家族全員が気づいてるんですけど、ほら、あの人無駄にプライドが高いから」
「…………」
「誰も、何も言えないんですよ。だから父も母も、私もですけど……お姉には、絶対幸せになって欲しいんです」
 藤堂は、遠くを見たまま、わずかな微笑だけを返した。
「ごめんなさい、重いこと言って。あ、今のお姉には絶対ナイショですからね」
「わかってます」
 頷くと、美怜は何かを思いついたように、そっと顔を近づけてきた。
「夜、2人になる時間作ってあげますから」
 ぱちんとウインクして、そのまま美怜は家の中に消えていった。




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