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年下の上司 story12〜Janusry@

年末年始 役所は暦通りです(4)


「食事がすんだら、3人で散歩しません?」
 美怜が言い出したのは、その食事の片付けを果歩と宮子がしている最中だった。
 藤堂は議論好きの叔父と、政治について語り合っている。まぁ、彼は相変わらずで、「はぁ」とか「なるほど」とか、そんな相槌しかうっていないのだが。
 果歩には、まだ信じられなかった。
 あの藤堂さんが……うちの実家で、家族の輪に加わって、おせちの残りやすき焼きをつついてくれたなんて。
 父とピールを酌みかわすレアな光景は、「美怜、カメラ!」と思わず命じたくなったほどである。
 風呂上がりの彼が来ているのは、従兄の明良の、お世辞にもセンスがあるとは言い難いトレーナーとスポーツジャージである。が、それも彼が身につけると、ひどく洗練されたように(少なくとも果歩には)見えてしまう。
「こんな時間から?」さすがに宮子が眉をひそめた。
「この辺りは山しかないし、電気がないから、真っ暗よ」
「だって、星がすごく綺麗だし、藤堂さん都会の人だから、田舎ってだけで珍しいんじゃない?」
「まぁ、確かに今夜はよく晴れてるけど」
「ちょっと川のあたりまで歩いて帰るだけよ」
 美怜は食い下がった。
「丁度、水を見に行く時間じゃない、私とお姉で行ってあげるからさ」
「まぁ、……お父さんも寝てるし、少しくらいなら大目にみるけど」
 と、宮子の許可が降りた所で、果歩と藤堂は、無理矢理引きずられるように寒空に連れ出された。
「マフラーと上着、忘れないでね」
 宮子に懐中電灯を手渡され、3人は揃って、真っ暗な田舎道を歩き出した。
「水ってなんですか」
 マフラーを首に巻きながら藤堂が訊いた。
「えっとですね。このあたりは共同の水源使ってるんですよ。そこに枯れ葉や草がたまると水が詰まることがあるんで、交代で見張りにいってるんです」
「じゃあ、上水が井戸なんですか」
 藤堂の驚きが、少し恥ずかしい果歩である。都会育ちで、多分いいところのお坊ちゃんである彼に、あまり自慢したくない自分のルーツを知られてしまった気分だ。
「いいですよー、井戸水は、なんたって無料ですもん」
 美怜はあっけらかんと言って笑った。
「昔は全部井戸だったんですけど、今はさすがに、飲み水だけは水道なんです。お風呂とか、洗濯の水とか、一部でまだ使ってるんですよ」
「なるほど……」
 藤堂にとってはまるで未知の分野なのか、彼は妙に感心しているようだった。
「じゃあ、僕が見に行きますよ。場所さえ教えてもらえれば」
「いいです、いいです、滅多に詰まることなんてないんだから。あんな足場の悪いところにわざわざ行かなくていいですよ」
 ――なんていい加減な……。
 その足場の悪いところに、この正月の間、果歩と母は2人して何度も見張りに行ったというのに。
 が、それでも美怜の思いやりに、果歩は少し嬉しくなっている。
 だって、こうでもしないと絶対に2人で話せなかったと思うから。
 なんだか、色んなことが畳みかけるように起きたから、つい見過ごしてしまったけど、藤堂さんがうちに来てくれた。
 私を追いかけて来てくれた―― これって、すごいことじゃない?
「そろそろかな……」
 美怜が呟いた時、闇の中にヘッドライトがきらめいた。
 隣の家の車かな……と思った時には、ライトはみるみる接近し、3人の前で、こじんまりしたセダンが停まった。
「わりー、遅くなった」
「ううん、丁度よかったよ」
 果歩は凍りついている。
 ま、まさか美怜……。
「紹介します、私の彼、映画館でバイトしてるまー君です」
「……ちわー」
 車の男は、軽く会釈して頭を掻く。若い、目鼻立ちの整った青年だが、口髭が生えているのが果歩には少し気にいらない。
 多分、父が見たら塩をまいて追い払っているタイプだろう。
「まさか、この車でどこかに行こうってんじゃ……」
 今にも車に乗り込みそうな妹のマフラーをひっぱって、果歩は訊いた。
「うん、ちょっとそのあたりをぐるっとね。だって判ってよ〜、まー君と1週間も会ってなかったんだよ?」
「あんた、明日には家に帰れるじゃない」
「それが、明日からまー君が実家に帰省すんのよ。お願い、大目にみて! 持ちつ持たれつで今までやってきたじゃない」
「何が持ちつ持たれつよ……」
 持ってばっかの気がするけど。―― ま、いっか。
「藤堂さん」
 美怜が、呆気にとられている藤堂に向きなおった。結構真剣な目をしているので、果歩も訝しく妹を見ている。
「……1時間で、いいですか」
「……? はぁ」
「ちょっと無理かな……私たちは慣れてるけど」
 その呟きで、果歩は妹の言ったとんでもない言葉の意味を理解した。
「30分!!」
「ぐっ、くるしい、死ぬっ」
 果歩は妹のマフラーをぎりぎりと引っ張った。まったく、こいつだけは……。
「それ以上は絶対にダメ、お母さんに言い訳できないし、私たちが凍死するから」
「だから温めあって―― わかったわかったから、それ以上締めないで!」
 ちっ、30分かぁ……。
 ぼやきながら妹はさっさと車に乗り込み、その場には2人だけが取り残された。
「ほんと、いいかげんな妹ですみません」
 なんだか心底情けなくなって、果歩は藤堂に謝っている。
「いや……いいですけど」
 彼が少し困惑しているのが、果歩には判った。
 困った立場に追い込まれたのは、果歩もまた同じである。
「どうしましょ、……あいつが戻ってくるまで、私たちも家に戻れないですけど」
「そうですね」
 視線を伏せる藤堂の横顔を、何故か正視できなくなる。
 美怜が口にした言葉の意味を、この人は理解しただろうか? して欲しいような、して欲しくないような……。
「ひとまず、水を見に行きましょうか」
 顔をあげた藤堂が笑ったので、果歩もようやく安心して頷いていた。

 *************************

 結構とんでもない場所に、その水源は作られている。
 田の間の細い畔道―― しかも結構な急こう配をせっせと上がり、帰りは同じルートで帰らなければならない。
 どっちかと言えば、帰りのほうがきつく、果歩は何度もバランスを崩して、その度に藤堂に支えてもらった。
 まだ時間は大分残っていたので、川沿いのあぜ道を散歩することにした。ここからなら、少し高台になっているので、車が戻って来た時にすぐに判る。
「……あの」
 果歩はようやく、藤堂と向き合っていた。
「今日は……来てくれて、ありがとうございました」
 美怜が、とんでもない電話をしてくれたみたいで……。
 そこは、消え入りそうな声で付け加える。
「よくよく話を聞いたら」
 藤堂が、わずかに苦笑するのが判った。
「逆に、とんでもないご迷惑をかけてしまったみたいですね」
「松本さんは、本当に悪くないんですよ」
 名誉挽回、とばかりに、果歩は慌てて言い添えている。
「むしろ父の被害者というか」
「そうかな」
 が、そこは何故か、素直ではない藤堂だった。
「そうかなって……藤堂さんは何も知らないくせに」
「まぁ、知らないのかもしれませんけどね」
 やばい、なんだか不機嫌モードに入っていきそうな予感がする。
 こういう面では扱いやすいと思っていた年下男の思わぬ頑固さに、果歩は少し戸惑っている。
「あ、そうだ、着物、どうでした?」
 話題を変えようと果歩は言った。
「何年ぶりかに着たんですけど、藤堂さんに見てもらえるなんて思わなかったから」
「似合ってましたよ」
 えらく素っ気なく答えられる。
「そ、そうですか?」
「ええ」
 え―― ー……それだけ??
 松本さんでさえ、綺麗だとか、色々褒めてくれたのに……。
「ああ」思いついたように藤堂が呟いた。
「ああ?」
「少し太って見えましたね」
「……………………」
 サ、サイテー……。
「タオルとか色々詰めてるんですよ。着物はね、寸胴が基本なんです!」
「知ってますよ」横顔だけで藤堂は答えた。
「香夜さんが、日舞をしていますからね」
 もう、果歩は、絶句状態である。
 な、なんなの、いったい、何者なのよ、今夜の藤堂さんは。
 もしかして、皮だけ藤堂さんで、中身は南原さんでも入ってるんじゃないでしょうね。
「そんなに不機嫌になるなら、こんなとこまで来なきゃよかったのに……」
「4日にどうしても会いたいって、しつこいくらい言われたので」
 言い返してくる藤堂が、果歩にはちょっと信じられない。
「のこのこ出かけてみれば、見合いの最中だし、普通の男なら不機嫌になりますよ」
「束縛しないって言ったじゃないですか」
 む、と彼の額にその不機嫌の欠片が滲みだす。
「してませんよ」
「してるじゃないですか、今だって怒ってるし」
「別に怒ってはいないでしょう」
「今、自分で不機嫌になったって言いました」
 理不尽な抗弁に、藤堂がわずかに言葉に詰まるのが判った。
 ささやかな意地の張り合いが、次第にエスカレートしていく。
「言ったのは今ですが、不愉快になったのは、今ではありません。そもそもあなたが、人の話をちゃんと聞かないから」
「じゃなくて、今の態度とか言い方が、そもそも怒っているっていうんですよ」
「怒っていません、だいたい、いつ僕が怒ったんですか」
「怒ってるじゃないですか」
「話にならないな、僕は―― 」
 果歩は、藤堂の腰に両手を回して抱きついた。
「…………」
 藤堂が言葉を飲み、驚いているのが判る。
「……お、怒らないでください」
 胸に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で、果歩は言った。
「ごめんなさい……私が、……」
 我儘でした。それは、判ってるんですけど。
「…………」
 藤堂は黙っている。
 どうしていいか判らずに、そのままでいると、そっと背中に手が回された。
 頭を抱かれ、引き寄せられる。
「僕のために着てほしかった……」
 耳元で、囁くような声がした。
「怒っているとしたら、それだけです」
 藤堂さん……。
 果歩は、もう胸がいっぱいになっている。
 どうしよう、可愛すぎる、愛しすぎる―― 。また彼の戒めを、私が解きたくなっている。
 その高ぶりをぐっと堪え、精一杯の虚勢を張って、藤堂の胸から顔をあげた。
 どうせ後悔されるのなら、最初からそんな気持ちにさせたくない。
「東京の用事は、よかったんですか」
「…………」
 藤堂も微笑して、果歩の身体から手を離した。「ええ」
「なんの……ご用だったんですか」
 聞いてから、果歩は慌てて言い直している。
「あ、言いたくないなら、別にいいですけど」
「兄の、命日だったんですよ」
「…………」
 果歩は、一瞬言葉に詰まった。「お兄さん、ですか」
「……ええ」藤堂は、落ち着いた表情で頷いた。
「と、いっても、亡くなったのは随分昔のことですけどね。僕の家は、何をするにも大仰なので、毎年、かなり大きな法要をするんです」
「……いつ頃、お亡くなりになられたんですか」
 ためらいながら果歩は訊いた。藤堂がまだ26だから、兄と言う人が数歳年上だとしても、かなり若い時期に亡くなったことになる。
「8年……今年で9年かな。僕が17歳の時ですから」
「…………」
「ただ、直接血は繋がっていないんですよ。血の繋がりで言えば従兄同士になります。僕は養子だったので」
 ますます果歩は、何も言えなくなっている。
「僕は以前、兄の二宮姓を名乗り、最近になって、ようやく藤堂に戻したんです。……二宮の家には色々世話になりましたし……」
 藤堂はそこで言葉を切った。
「誤解を恐れずに言えば、この時期だけは、香夜さんの傍にいるべきだと思ったのかもしれません」
「…………」
 なんで、ですか。と聞きたくて聞けない自分がいる。そこは、みっともなく嫉妬する場面ではないと判っているから。
 が、彼は淡々とその続きを口にした。
「亡くなった兄は、いずれ香夜さんと結婚するはずだったんです」
「…………」
「そして……」
 藤堂は再び言葉を切った。今度の沈黙は長かった。
「兄が死んだのは、僕のせいだからです」

 *************************

 藤堂は、それ以上を語らなかったし、果歩もまた聞かなかった。
 2人で手を繋いで、月明かりだけが頼りの山道を、ただ寄り添うようにして歩き続ける。
 ――私……今までずっと、藤堂さんは特別強い人だと思ってたけど。
 果歩はそっと、藤堂の横顔を見上げている。
 その強さは、おそらく彼が、自身の感情を頑なにガードしているから感じられるものだ。幾重もの壁で包み込み、決して触れられないようにしているから。
 今も―― 。
 垣間見せた心の深遠は、再び彼の、いつもの表情に覆い隠されている。もう、果歩がどれだけ揺すっても、二度と見せてはくれないだろう。
 それは、この人の強さであると同時に、もしかすると繊細な心の裏返しなのかもしれない……。
 ―― 藤堂さんか、1人で抱えている孤独や寂しさみたいなものを、いつか一緒に支えていくことができるのだろうか。
 彼が、何も打ち明けてくれないということは、まだ私に、そういった役割を求めていないのだろうけど。――
「そういえば」
 先ほどの会話を微塵も感じさせない普段通りの声で、藤堂が果歩に視線を向けた。
「なんで、今日だったんですか」
「え?」
「いやに4日にこだわってたから」
 それは―― 。はっと動揺し、果歩は視線を泳がせている。
「あ、明日は、ほら、仕事始めの前日で疲れるから」
 慌てて言い訳を考える。
「三が日はお互い予定が入ってるし、今日がベストだと思ったんですよ」
「そういうものなのかな」
 藤堂は不思議そうに首をかしげている。
「もしかして、明日の間違いかな、と思ったので」
 ドキッと果歩は視線を彷徨わせている。まさか、家族にさえ、禁句にさせていたあのことを……。
「的場さんの」
「藤堂さん、このあたり、あけびが取れるんですよ!」
 果歩は声を張りあげていた。
「あけび?」
「えっと……見たことないですか、薄紫の茄子みたいな? あのあたりの木に沢山なっていて、秋になると、お爺ちゃんがよく取ってくれたんです」
「そうなんですか」
 藤堂が、不思議そうな視線を月光に照らされた木々に向ける。
「お爺さんとは、あの仏間にあったお写真の方ですか」
「え? あ……はい」
 彼に訊かれたことで、逆に、果歩は気づいている。
 ――そっか……。
 この道は、子供の頃、お爺ちゃんと2人で散歩していた道なんだ。
 あの頃の果歩には、祖父は絵本の中のガリバーみたいに大きな人で、―― 今、それと同じ目線の先に、藤堂が立っている。
 周囲の木々が、ざわざわと揺れ た。
 さぁっと風が吹き抜けた時、まるで幻のように、ひょろりと背の高い、短い白髪の老人と、手を繋いで歩くおさげ髪の女の子の姿が闇に浮かびあがる。
(果歩や、あけびをとってやろうか)
 それは……確かに、ここにあった情景で、果歩は、その時の風の匂いも、繋いでいた掌の硬さも、全部憶えている。
 なのに―― 。
「……藤堂さん」
 ふと、切ないような儚いような、そんな気持ちに囚われて、果歩は彼の手を握りしめていた。
「私たちもいつか、消えちゃうんですよね」
「……え?」
 何十年か何百年か先。
 この山の景色は、そのままかもしれないけど、ここで歩いた私たちは、もうこの星から消えている。
 彼の手も。
 今感じている温もりも幸福も。
 やがて、記憶からも消えていく。
「消えた人とは、何をしたって、もう二度と会えないけど……」
 果歩は、目の端の涙をぬぐった。
「…………」
「だから、目の前の人を大切にしなきゃいけないんですね。……ごめんなさい、何か意味不明なこと言ってますけど、私」
 藤堂は、微笑して首を横に振る。
 果歩は顔をそむけたまま、もう一度目の端に滲んだ涙を拭った。
 風がもう一度、今度は優しく木々を揺らした。
 夜が見せた幻想のように、小さな女の子の手を引いた老父が、女の子と笑いあいながら、闇の中に溶けていく。
 ふと、天啓のように果歩は思っている。
 ここに、彼と今立っているのは、偶然ではないのかもしれない。
 もう何十年も前から、決まっていたことなのかもしれない―― 。
「藤堂さん」
「はい」
「……いえ、なんでもないです」
 言葉に出来ない思いの代わりに、彼の手をそっと握りしめる。
 今夜、この場所に、あなたと来られてよかった。
 言葉では上手く言えないけど、本当によかった……。
「もしかして、あれがあけびですか」
 藤堂が、不意に言った。
「え?」
 果歩は訝しく顔をあげている。いや、まさかこんな時期にあけびはないでしょ。
「違いますよ。だいたい、秋の果実ですから」
「だって、的場さんが言ったのと同じだから」
「ええ?」
「ほら、あの下から3本目の枝の下に」
 彼が指で示すので、訝しみながら果歩もその方を凝視する。
 確かに藤堂が言う枝の下にそれらしい形があるけど―― あれは、葉っぱじゃない? どう見ても。
「あれのことですか?」
「あれって?」
「だから、あの、下に垂れさがってる感じの」
 果歩は、手をかざして指で示した。その手を不意に後ろから掴まれる。
「―― え?」
 手首を掴んだ藤堂は、それを果歩の頭の上のほうにまでひっぱって、「うーん」と唸りながら見つめている。
「ちょ、なんの真似ですか」
「どの指がいいかと思って」
 ――指……?
 掴まれた手の親指に、冷たいリングが落ちてきた。
「え……?」
 驚くというより、むしろ仰天して、果歩はぶかぶかのリングが嵌った親指を見つめている。
「親指ですか」
「そうですね」
 淡々と、藤堂は答える。
「それでも、かなり緩いんですけど」
「一番大きいのを買ったので」
 ……なんで……。
「……4月に、サイズを直しに行きましょう」
「…………」
「本当は、明日の夜に渡すつもりだったんですけどね。誕生日だったから」
「…………」
 それは―― 。
「藤堂さん!」
 果歩は親指をリングごと握りしめて、藤堂に向きなおっていた。喉に、熱の塊がこみあげる。感動で、ちょっとまともにものが言えなくなっている。
「……今日で、……最後だったんです」
「え?」藤堂は、訝しむように眉を寄せる。
「最後?」
「…………30……歳」
「ああ」ようやく得心したように、藤堂は頷いた。
「明日から31」
「しっ」
 言いかけた藤堂の唇に、果歩は素早く指をあてている。
「別に、年なんてどうでも」
 意味が判らないのか、藤堂は辟易したように眉をあげる。
「僕も、来月で27ですよ」
 知ってますよ……それくらい、恋する乙女の常識事項です。
 それまで、4歳差が5歳差になるんです。5歳差ですよ? 四捨五入の四と五の差は大きいんです。今までずっと4歳差で通してきたのが、1か月だけ5歳差なんて……。
 それに……。
 見上げると、その呼吸を酌み取ったように、藤堂がそっと腕を伸ばして果歩の肩を抱いてくれた。
 抱きしめてくれる彼の腕の確かさを感じながら、果歩は目を閉じている。
 藤堂さんと出会えた30歳最後の日を、2人で過ごしたかったんです。
 説明したところで、多分理解してもらえない、乙女なこだわりなんですけど。
「……キス、してもいいですか」
 果歩が小さく呟くと、予想通り藤堂の身体が固まるのが判った。
「いや……それは、やめておきましょう」
 果歩は黙って、その唇に、指ですっと線を引く。
「……だめですか?」
 意味を解したのか、藤堂が迷うように視線を逸らすのが判った。
「……いいですよ」
「…………」
「僕も、すごくしたいから」
 なんかもう、胸が痛くて……。
 互いに、唇を固く閉ざしたままで、そっと触れ合うだけのキスをした。
 すぐに離れると思ったけれど、藤堂がそのまま動かないから、果歩も唇を合わせたまま、彼の鼓動と熱を感じ続けている。
 やがて唇が離れて、果歩はしっかりと抱きしめられている。
 まるで初めてキスした時みたいに、心臓がどっくんどっくんと鳴っている。
 好き……。
 藤堂さん、大好き………。
 黙って抱きしめてくれる藤堂も、今、同じように思っているのがすごく判る。
 幸福で、もう、胸が溢れそうになっている。
 神様お願い。
 このまま、2人の時間を止めてください……。
 もう、大切な人を、私から連れていかないで―― 。




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