「お礼を言っていいのか悪いのか、微妙なんすけど」 人気のない国道沿い。 晃司は、少し離れて歩く人に、憮然として声をかけた。 確かに、長妻真央にはいい薬になった―― いや、むしろ毒薬というべきかもしれないが。 が……。 「か、果歩の誤解、ちゃんと解いといてくださいよ」 「そりゃ、解くけど」 うっかり電話で助けを乞うたばかりに、今夜のとんでもない事態を演出してくれた人は、軽く肩をすくめている。 「果歩、多分そんなに気にしてないわよ」 「気にしても、してなくても!」 晃司は語気を強めていた。 「これ以上、俺の印象悪くしたくないんですよ。ただでさえ、二股したこと根にもたれてるのに」 「それは自分が悪いんじゃない」 「っ……ま、まぁ、そうなんすけど、今だって、秘書課の子とつきあってるって思いこんでるみたいだし」 「思い込んでるも何も、それは君が、あえて思い込ませてるんでしょ」 「…………」 何ひとつ反論できない晃司である。 「彼女持ちの安全牌を演じてるつもりでしょうけど、果歩みたいな鈍いタイプには、そんな少女漫画みたいな回りくどい方法、百年たっても通じないわよ」 な、なんて嫌味な人だろう。恥ずかしさと悔しさで、何も言葉に出来ない晃司である。 「好きなら好き、抱きたいなら抱きたいって、はっきり言えばいいだけなのに。君だって一度はそれで、果歩のこと落としたんでしょ」 「お、落としたって、人聞きの悪い」 あの時と、今は違う。あの時は好意が前提だった。でも―― 今は。 「……逃げられるだけじゃないっすか」 晃司は呟いていた。今は―― 最低男が前提だ。 「今はまだ、俺、あいつの友達でいいんです。てか、まだその域にも達してないかもしれないけど」 「…………」 「信頼取り戻したくて、ある意味カッコつけのやせ我慢してますよ。……まぁ、今んとこ、何もかも空回ってますけどね」 「……ふぅん」 眼鏡を指で押し上げ、ひどく素っ気なく呟くと、宮沢りょうは再び軽く肩をすくめた。 「ま、君の内面まで私には関係ないし。じゃ、ここでいいわよ。果歩の誤解なら―― してればだけど、解いておくから」 「お、お願いしますよ」 「はいはい」 ひらひらっと手を振って、冷めた目をした人はきびすを返す。 「あ、一応タクシー拾えるとこまでついてきますから」 晃司は慌てて後を追う。 ふぅー。本当にとんでもない人と関わり合いになってしまった。 しかし、他にどうしようもなかったとはいえ、なんだってこんな人に電話なんかしちまったんだ? おかげでゆっくり休もうと思っていた最後の休日が台無しだ。 「そういや、宮沢さんはコンタクトにしないんですか」 「なんで?」 なんでって……。 「果歩が、眼鏡を絶対かけない女だったから、――女なんてそんなもんだと思ってたけど」 ごめん、コンタクトの時間があるから―― と、いつも、泊らずに帰っていった。まぁ、門限も厳しかったようだが、どんなに目が充血していても、絶対に眼鏡をかけない頑固さが、晃司にはいまいち判らなかった。 ただそれも、容姿に関する拘りなのだろう。 目の前の人に関して言えば、さっき初めて素顔を見た。教師か教育ママみたいな印象のきつい眼鏡を取った方が、割と可愛いっていうか、多少は女に見えるというか。 そんな意味のことを適切な言葉で言おうとした時、ポケットの中で携帯が震えた。 取り上げた晃司は、眉を寄せている。 「……須藤?」 不審に思いながら、出るべきかどうか迷いつつ、同じく足を止めたりょうを見る。 「出てあげれば?」 「え…? ああ、はい」 「じゃあね、今夜かかった費用は、後できっちり請求するから」 「え、請求って、まさかまたあのワインまで―― ちょっ、宮沢さん!」 ひらひらと手を振りながら、ほっそりした後ろ姿が闇の中に消えていく。 「……なんだよ、ったく」 晃司は首をかしげながら、携帯を耳に当てた。 ************************* 「なんだよ、用があるなら、明日でもいいだろ」 20分後―― 。 自宅から少し離れた国道沿いのファミレスで、晃司は須藤流奈と向き合っていた。 「急ぐから今日だったんですよ」 わざわざ人を呼びつけておきながら、流奈はいつも以上に不機嫌そうだった。 「なのに、家の前にはへんなのがいるし……」 「お前と鉢合わせになったから、ますます話がややこしくなったんだろうが」 「知りませんよ。私、5日に会えませんかって、ちゃんとメールしたじゃないですか」 「俺がいつ承知したよ。そもそも返事なんてしてねぇだろ」 店内のまばらな客が、いきなりケンカをはじめたカップルを物珍しげにみている。 「だいたい、なんなんですか。いい年して高校生に振り回されっぱなしなんて、情けない……」 「うるせぇよ」 「百瀬さんに聞いて仰天しましたよ。2人でデートしてるとこを的場さんに見られたって……ほんっと、何やってんだか」 「だから、お前には関係ないだろうが」 むっとして、拳でテーブルを叩く。が、即座に逆ギレした流奈が噛みついてきた。 「ありますよ。そっちがしっかりしてくれないと、いつまでも藤堂さんと的場さんが別れてくれないじゃないですか!」 む……。 そこを突かれると、何も言えなくなる晃司である。 「まぁ、とにかく、だ」 晃司は軽く咳払いした。 「とにかくお前にも責任あるんだ。損失分くらいは、半分持てよ」 「は? 何の話ですか」 「あの人が今夜一人で飲んでたワインはな」 思い出すだけで、胸が悪くなるようだ。 「ボトル3万もするとんでもねー代物なんだよ。くそっ、こないだも酷い目にあったばかりだっつーのに」 「……宮沢さんですか」 「他に誰がいるんだよ」 「ふぅん……」 ひどく冷えた目で流奈は視線を逸らし、グラスの水を一口飲んだ。 「前園さん」 「あ?」 「ちょっと、こっちに座りません?」 「………は?」 なんだ、そりゃ? 呆れて流奈を見下ろす晃司を、流奈はいたずらめいた目で手まねきした。 「ちょっと、少しでいいですから」 「い、や、だ、ね」 こっぱずかしい。時々テーブル席で並びで座るカップルを見るが、その度に情けねぇなぁ……と思ってしまう。しかも、須藤なんかと冗談じゃない。 「いいから」 「知るかよ。用事ないなら帰るぞ、俺」 「これも的場さんを落とすための、策略のひとつなんですよ」 流奈は意味深に声をひそめる。 「5分でいいですから」 「…………」 「3分」 結局、渋々流奈の言うとおりにしている晃司である。 隣に座る女は、何故かぐっと距離を詰めてきた。 「……? なんだよ、恥かしいから離れろよ」 「ほんっと、変わらないなぁ、晃司君は。とことん女に冷淡なんだから」 「うるせぇな、もうお前には関係ねぇだろ」 なんで、一時の気の迷いとはいえ、こんなのに引っかかってしまったのか……。そのせいで果歩を失ったのだと思うと、なんだか憎悪すらかきたてられる晃司である。―― まぁ、その対象は自分だけれど。 「で、なんだよ、いったい」 「いいから、しばらく私を見ててくださいよ」 見ろって……。いまさら珍しい顔でもあるまいに。 が、妙に潤んだ上目遣いで見上げられ、晃司は少しばかりひるんでいる。 ――ん……? なんだ? なんだかいつもと違うような気がするぞ? なんだろう、どこがって言うわけじゃないけど……。 ちょっとこう、雰囲気っていうか。 「……須藤」 「なんですか?」 何かを期待したように、流奈がますます距離を詰めてくる。 「もしかして、また整形した?」 「―――!」 ぶんっと振りあげられた腕を、「おっと」晃司は慌ててよけている。 「なんだよ、どうせ元々してんじゃねぇか」 「してますけど、してますけどね、信じられない、言いますか? 普通」 「いや、だって知ってるのに、知らないふりしても意味ねぇだろ」 「ーーーーっっっ」 「オイオイ、落ち着けって」 が、どうにも収まらないと思われたその怒りは、何故か、いきなり沈静化した。 「……ま、それは褒め言葉とも取れますね」 「そ、そうだよ」まぁ、褒めたわけじゃねぇけど。 「で、なんだよ。結局何が言いたかったわけ」 「ふふふ……」 晃司が元通りの席に座り直すと、女は勝利者のような笑みを浮かべた。 「これ、なんだと思います?」 「……?」 テーブルの上に、小指の先ほどの小瓶が差しだされる。晃司は眉をひそめながら、その瓶をつまみあげた。なんだ、これ? 「媚薬なんですよ」 両肘をついて身を乗り出すようにして、流奈が囁いた。 「媚薬?」 「とある筋から手にいれたんです。香水なんですけどね、それを意中の人の前でつけるだけで、……ふふ」 「ふふって……」 晃司はまじまじと流奈を見つめた。 「今、つけてるわけ? お前」 「ほーんの少しですよ、だってもったいないもん。本番でもないのに」 「…………」 「試してみたかったんですよ。でも、鈍くて冷酷な前園さんでさえ勘付いたんだから、これは相当な効果ありですね。いけますよ、これは」 「いける……」 「新年度を待たずして、できちゃった婚も夢じゃないってことですよ!」 晃司は言葉を失くしたまま、ただ、しばし唖然としていた。 ほんと…………。 どこまでバカなんだ、こいつ。 もしかして、あのアホ女子校生以下じゃねぇのか? 頭ん中。 「……へぇ」 晃司は、力を込めれば潰れそうな小瓶を目の高さまで持ち上げてみた。 媚薬ねぇ。 「ちょっと俺も、匂ってみていい?」 「匂うだけですよ」 無言で、花の形に広がっているプラスチックの栓を捻り取る。 甘い果実にも似た香りが広がった。そのまま、それを傍らの水が入ったグラスに流し込んだ。 「あーーーーーーーーっっっ」 最後に瓶ごとグラスに落として、晃司は濡れた指をナプキンで拭った。 「すみません」 流奈の大声にびっくりしているウエイトレスを呼びよせる。 「これ、中にゴミ落としちゃったんで、変えてきてもらえますか」 「す、棄ててもよろしいんですか」 「どうぞ」 そのやりとりの最中にも、流奈は、蒼白になって口をぱくぱくさせている。 「わ……私と、藤堂さんの赤ちゃんが」 「馬鹿じゃねぇの、お前」 「わーーーーっっ、私と藤堂さんの赤ちゃんがーーーっ」 ようやく我に返ったように、ウエイトレスを追おうとした流奈を、晃司は腕を掴んで止めていた。 「おい、性格ブス」 「ひっ、ひどい、前園さん、いったい何の権利があって」 「やめとけよ、お前らしくもない」 まだ抵抗する女の頭を、ごんっと拳で叩いている。 「いたっ」 「お前は性格も顔もブスなんだから……」 「ほ、ほっといてくださいよ」 まぁ、性格は、俺も人のこと言えねぇけど。 「姑息な真似なんかせずに、ガッツでいけよ。お前の取り得なんてそれしかねぇだろ」 その底なしのガッツに、まぁ、俺も一度は……今となっては苦すぎる過去だけど。 流奈はもう完全に膨れたまま、運ばれてきた苺パフェを睨みつけている。 「食えよ、奢ってやるから」 「そんなものじゃ追いつきませんよ」 「……じゃあ今度メシでも奢るから」 「フルコースじゃなきゃ嫌ですよ」 「ああ、ああ、3月のボーナスが出たらな」 どうでもいいけど、なんだか、えらい出費続きだ。 しかも、かなり不条理な理由じゃないか? もしかして。 「ケーキも頼んでいいですか?」 「どうぞ、―― 太っても知らねぇぞ」 ま、いっか。 ようやく機嫌が直ったのか、嬉しそうにパフェを食べ始めた流奈の顔を見て、晃司はふと苦笑している。 今は、目的を同じくする同志だからな。 にしても、危なっかしいパートナーだ。 なんだかもう、この馬鹿の保護者になった気分だ、俺―― 。 ************************* 「ごめんなさい、今夜は、つきあってもらっちゃって……」 「いいですよ」 涙を拭って顔をあげる乃々子を、藤堂は優しく見下ろした。 「何か買ってきましょうか」 「いいです……そんな、……こんな遅くまで一緒にいてもらったのに」 「コーヒーでいいですか」 「……すみません」 藤堂は、乃々子にハンカチを渡してから車を降りた。 しかし、そういう事情だったのか……。予想しなくもなかったが……。 歩道沿い、自販機の灯りがすぐ近くに見えている。 ふと時計を見ると、10時を大きく回っていた。 ―― 的場さんに、電話したほうがいいかな。 ずっと忘れていた携帯電話を、上着のポケットから取り出してみる。着信があったことに気がついたのはその時だった。 運転していた時だったせいか、気づかなかった。 見覚えのない番号に、藤堂はわずかに眉をひそめている。 それでも今夜の顛末を、心配しているはずの人に知らせようと思った時、着信音が鳴った。―― 履歴に残っている覚えのない番号から。 「…………」 ――誰だ? 通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。 「はい、藤堂です」 「……瑛士か」 胸の深いところに、静かに響くような声だった。 「俺だよ。――悪いが番号は芹沢さんに聞いた。どうしているかと思ってな」 その刹那、長い夢から覚めたような感じがした。 長い、長い―― 幸福な夢から。 携帯を持ち直し、藤堂はわずかに視線を下げた。 「おかげさまで、変わりないです」 「えらく他人行儀だな」 ふっと相手が、笑うような口調になる。 「まぁいい。俺から逃げ回っていた理由は聞かないよ。――俺も俺で、お前には多少罪の意識を感じているからな。 色々、面倒なことになっているんだろう?」 「……、そうでもないです」 「お前はそう言うと思ったよ。今から、出てこられないか」 「今からですか」 「所用でこっちに来ているんだ。あまり、ゆっくりしている暇はないけどな」 「…………」 電話の向こうから、パソコンのキーを叩く音が聞こえる。 「少し、話しておきたいこともある。出られないなら、俺のほうから行ってもいい」 藤堂は黙っていた。 ―― 的場さん。 (お兄さんが走って来た道、……あそこね、もう随分前になるけど、ピカピカのベンツで、やっぱりお姉のこと、追いかけてきた人がいたんですよ) 「……瑛士?」 (お姉は最後まで何も言わなかったけど、結局、上手くいかなかったんですね。あの頃は毎晩泣いてて……) 「今、人と一緒なので」 「こんな時間に?」 相手の声に、微かな笑いが滲んだ。 「恋人か、だったら邪魔をして悪かったかな」 「友人ですよ」 それだけ言って、藤堂はひとつ息を吐いた。 的場さん……。 この状況を騙しているというなら、僕に許しを乞う資格などないのかもしれませんね。 「また、こちらから連絡します。僕も雄一郎さんに、聞きたいことがあるので」 切れた携帯を閉じることも忘れたまま、藤堂は夜の静寂を見つめていた。 年末年始 役所は暦通りです(終) |
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