「お前……、いったい、何しに来たんだ」 「帰れ! あんたのせいで、うちの息子はこんな様になったんだ」 「この―― 人殺しめ!」 果歩はうなだれて、膝をついた。 「申し訳、ありませんでした……」 冷たい石畳、空からは小雨が降り注いでいる。 目の前では、喪服に身を包んだ人たちが、口ぐちに呪詛の言葉を投げかけている。 「帰れ、帰れ!」 「お前は、灰谷市の恥だ、なんでお前みたいな女が、まだ本庁に残ってるんだ」 「とっとと、灰谷市から出ていけ!」 「―― せめて」 果歩は、弱々しく声をあげた。「せめて、ご焼香だけでも、あげさせてもらえないでしょうか」 「何言ってんだ! この女」 「お前が焼香なんてしたらな、仏さんも安心して成仏できないんだよ」 「帰れったら、帰れ!」 ばっと砂を掴んで投げつけられる。 それは、果歩の額にあたり、ぱらぱらと膝に落ちた。 果歩は立ちあがっていた。「なめたら……」 「なめたらいかんぜよ!」 ―― …………。 チッチッチッ、と時計の秒針が鳴っている。 果歩は、闇の中で、額に汗を伝わせたまま、大きく息を吐いていた。 す、すごい夢を見てしまった……。 ************************* 「おはようございまーす」 からっと明るい声がした。 果歩は顔をあげて、声のほうに視線を向ける。 「的場さん、電話番号簿の修正もってきましたから」 果歩の背後、にこっと爽やかに笑っているのは、乃々子である。 「うち、修正なしです」 「あ、ありがとう」 ……修正なしの場合、連絡は不要ですって書いてなかったっけ。 果歩は、にこにこ笑う乃々子から、依頼文の写しを受け取った。 まぁ、お元気そうで何よりってことで……。 何が原因だったのか(多分藤堂のことだろうけど)、新年会でいきなり泣き崩れた乃々子は、その翌日―― 仕事始めには、すっかり元気を取り戻していた。 元気というのも少し違うけど、まぁ、普段どおりという感じだ。 まるで、新年会のことなど記憶から消し去ったかのように、果歩が「乃々子、昨日はさ」と訊いても「え? 何かありましたっけ、私、酔ってて憶えてないかもしれません」と、しれっと返される。 その態度には、少々腑に落ちないものを感じたが、それ以上つっこんでも訊けず、結局そのままになっている。 藤堂に訊いてみても「別に、特段のことはなかったですが」それだけである。 てか、私が心配してることくらい判ってたでしょ? せめて電話の1本でもしてくれればよかったのに―― と言ってやりたかったが、まぁ、藤堂の無精は今に始まったことではない。 というより、目下の問題は、そんなことじゃなくて―― 。 「おはようございます〜」 別の方角から、上機嫌な声がした。 顔をあげるまでもない、流奈である。 「藤堂さんっ、電話番号簿の修正持ってきました。うちの部は修正なしです」 いや……だから修正ないなら、連絡不要だって―― それ以前に、そもそも依頼したのは私なんですけど。 「ありがとうごさいます」 「今日も素敵ですね。藤堂さんはいつも素敵なんですけど。あっ、今週の予定ってどうですか? もし暇があったら」 やや困惑気味ながらも、藤堂は続く流奈の質問責めに、淡々と答えている。 「あ、百瀬さん」 苛々する果歩の背後では、水原が乃々子に話しかけている。 「明日の映画のことなんだけど、待ち合わせ場所、どこがいいかな」 最近、意外な積極性を発揮するシーズーを、やや見直しかけている果歩である。 そっかぁ、デートは明日か。 頑張れ、水原君! まぁ、乃々子の相手としてはあんまり……だが、乃々子もまんざらではないのか、割りと積極的に水原の誘いに乗っているようでもある。 「的場さん」 再び別の方角から声がした。 今度は誰? と思ったら、カウンターには晃司が立っていた。 「どうしたの?」 「うん、ちょっと」 晃司が目で促すから、仕方なく後について廊下に出た。 新年会で、あれだけ災難? に見舞われていた晃司もまた、仕事始めには、すっかり自分と自信を取り戻している。 つまるところ―― 果歩を取り巻く状況は、去年と全く変わらないのだった。 「映画? 私も?」 が、晃司の誘いは、少しばかり意外だった。 「水原と宇佐美が、百瀬さんを誘ってるのは知ってるだろ。男2人と女1人じゃちょっと行きづらいって百瀬さんが言ってるみたいでさ」 いや、それは判るんだけど、そこで何故私と晃司?? 「俺だって知るかよ」 そう問うと、晃司はやや不機嫌そうに視線を逸らした。 「う、宇佐美が的場さんもとか言ってんじゃないの? 須藤も行くって言ってるし、これで3対3になるじゃん」 数字の上ではそうだけど―― 「……まぁ、いいけど」なんだか全く気乗りしないなぁ。 「お前だって、水原と百瀬さんが上手くいったら安心だろ」 「なによ、その言い方」 まぁ、その通りと言えばその通りだけど。何故それを、晃司に言われなくてはならないのか。 ただ、乃々子には、本当に好きな人と幸福になってほしい。が、その相手がどうしても譲れない藤堂さんとあっては―― ああ……複雑。 「おい、それより」 執務室に戻ろうとしたら、不意に晃司が声をひそめた。 「み、宮沢さんと、ちゃんと話しただろうな」 「りょうと?」 何を? 「だ……だから、あの夜のことは、あの人が俺を助けようとしてくれて」 「―― ああ」 きれいさっぱり忘れてた。 「聞いたけど、あまりりょうを、変なことに巻き込まないでよ」 「なっ……」 晃司が絶句しているのが判った。まるで、巻き込まれているのは俺―― とでも言いたげなその晃司を、果歩は疑心に満ちた目で睨みつけた。 「りょうは、ああ見えて繊細で傷つきやすいんだから」 「………誰の話?」 「軽い気持ちでちょっかい出したら許さないわよ。だいたい、秘書課の安藤さんはどうなったのよ」 「…………」 妙に真剣な目でうつむかれたので、その反応には果歩がやや戸惑っている。 「ま、まぁ、とにかく私が言いたいのは」 「あのさ」 「え?」 「……安藤のことは」 ごほんっと、2人の背後で死神の咳払いがした。 果歩は蒼白になって、「あっ、そろそろお客様の来られる時間かしら。じゃあ、前園さん、その案件のことなら承知しました」と、ダッシュで執務室に駆け戻る。 憮然とした春日次長が執務室に入ってくる前には、元通りに席についている。 しかし……。 本当に、何も変わらないな。 先月は、その変わらなさが嬉しかった。でも―― 今は、少し違う。 果歩は、大河内と話している藤堂を横眼で窺い見た。 休みの間にあんなことがあったのが嘘みたいに、藤堂の態度は昨年と全く変わらない。 果歩的には、再びただの上司部下に戻されたような味気ない気分である。 今年の目標―― ひとまずは、彼のアドレスゲット……てか、そんなことさえまだだったんだ、私たち。 まぁ、藤堂さんが職場で素っ気ないのはいつものことだし、忙しくてプライペートに会ってもらえないのもいつものことだし、電話ひとつないのもいつものことだし、特段気にすることでもないんだけど……はは。 自嘲気味にそこまで考え、果歩は、ふとため息をもらしている。 それでも、何かが違うと思うのは気にしすぎなのだろうか。 たとえて言えば―― 彼を覆う透明な殻みたいなものが、もう1枚増えたような―― そんな漠然とした不安を感じずにはいられない。 が、果歩の不安はもうひとつあって、正直言えば、それが今の心の大半を占めていた。 ――だから、昨日は、あんな夢みちゃったんだろうなぁ……。 なめたらいかんぜよ。 果歩は嘆息して、パソコンに向きなおる。今夜はりょうと飲む約束をしている。多分説教されるだろう。―― 正直言えば、今夜はそれを期待してもいる。 果歩はもうひとつ、ため息をついた。 藤堂さんのことも、りょうに相談してみるかなぁ。どうせ、鼻で笑ってあしらわれるだけだろうけど……。 ************************* 「で? 何が不満なわけ?」 案の定話を聴き終えたりょうは、ひどく辛辣な目で果歩を見た。 「てか、そんなに藤堂君とセックスしたいわけ? いいじゃない、心さえ繋がってれば。身体の繋がりなんてどうだって」 「だっ、だ、だ、誰がそんなこと言ったのよ!!」 果歩は真っ赤になって、慌てて周囲を見回している。 『Dark Clow』 今夜も客は2人しかいない。カウンターの中では、闇鴉みたいな謎めいたマスターが、無言でグラスを拭いている。 「いや、話を要約すると、そうとしか聞こえなかったから」 「あのねぇ、いったい何をどう聞いてたのよ。私はただ、藤堂さんがちょっと遠いと言っただけで」 「まぁ、落ち着きなさいよ」 りょうは、冷やかに遮って、グラスの中身を一口飲んだ。 「その遠い人が、わざわざ身内の法事を蹴って、果歩の実家に来てくれたんでしょ」 「ま、まぁ、そうだけど」 「それはねぇ……」 しみじみとりょうは、再びグラスに唇をつけた。 「それは、言っちゃ悪いけど、相当の覚悟を決めてたと思うわよ。可哀想に……、どこのどいつが、結婚する覚悟さえ固まってない女の親に、正月早々会いに行こうって思うのよ」 「いや、だからそれは、私が頼んだわけじゃなくて」 偶然というか、行きがかりというか。 「しかも、腹括って出向いてみれば、果歩は呑気にお見合いしてるし。そりゃどんな寛容な男でも怒るわよ。話を聴く限り、私はいっそ、藤堂君が釈迦かガンジーに見えるわね」 「な、なによ、それ」 まるで私一人が悪いみたいに―― 。 「ああ、そうよ」 が、りょうは何かに得心したように頷いた。 「釈迦よ、そしてガンジーなのよ、藤堂君は!」 「…………は?」 「2人とも奥さんいたけど、禁欲してたからね。今で言うところのセックスレス。果歩、あんたは釈迦かガンジーの生まれ変わりを好きになったのよ。そう思って、心の繋がりだけで諦めなさい」 「……酔ってる?」 「一度くらい、気分よく酔いたいと思ってるんだけどね」 りょうは、空になったグラスをマスターに差し出した。「同じのね」 心の繋がりかぁ。 確かに、少し欲張りすぎたのかな、私。 よく考えれば、何もかもりょうの言うとおりだ。 土星探索より難しいと思っていた藤堂さんの実家来訪。しかも、うちの両親の前で土下座までさせちゃって、……しかも、しかも。 「指輪……もらったんだ」 すっかりりょうに報告するのを忘れていたことを、果歩はぽつりと呟いていた。 冷たいリングは、今も鎖に繋がってニットの下に収められている。 (4月になったら、サイズを直しに行きましょう。) ――藤堂さん、それは、どの指のサイズでもいいんですか。 それは……それは、もしかして……。 「マスター、そこの果物ナイフしまってくれる? なんか殺意すら覚えてきたから」 「りょっ、りょう、やっぱ酔ってるでしょ??」 「いっそ、酔ってしまいたいわよ」 凄味のある目で、ぎろりと睨まれ、果歩は震えあがっている。 「まぁ、いいわ。今夜の用件は別にあるから。判ってると思うけど―― 」 「うん、まぁ」 果歩は、遮っていた。 「心配してもらわなくても大丈夫。折よく、明日はへんな予定が入っちゃったし」 「へんな予定?」 果歩は、トリプルデート(そう言っていいなら)をする羽目になったいきさつを説明した。 「前園君と須藤さんも?」 りょうは、少し意外そうな目になった。「へぇ……」 「てか、私が行く必要あると思う?」 果歩がぼやくと、りょうは本日初めて、そのクールな表情に驚きの色を浮かべた。 「……まさかと思うけど、ないと思ってる?」 「だって……宇佐美君? そんな感じのことみんな言ってるけど、何歳年下だと思ってるのよ。あり得ないわよ、向こうだってジョークでしょ」 「……………」 りょうはしばし、本当に気の毒そうな目で果歩を見ていたが、やがてふっとため息をついた。 「まぁ、いいんじゃない? どうせだから、明日は夜まで一緒に遊んで飲んじゃいなさいよ」 「そんな気分じゃないんだけどなぁ」 「藤堂君は?」 「一応、ちらっと予定きいたんだけど、土日とも用事が入っててダメなんだって」 「……へぇ」 唇に指をあて、りょうはしばし、何かを考えているようだった。 「まぁ、いいや。そっちは仕方ないとして、日曜の予定はどうなってる?」 「日曜は」果歩は、咄嗟に嘘をついていた。「乃々子と、買い物に行こうって話をしてるから」 「そ、ならいいけど」 りょうが、ようやく安堵するのが果歩には判った。 「何も予定がなかったら、私が押しかけようと思ってた」 「…………」 「果歩のことだから、どうしても行くって言うような気がしてたからね。行くべきじゃないよ。……判ってると思うけど」 「………うん」 「さて、私の杞憂も解決したことだし、今夜はもう少し飲んじゃおうかな」 ようやく機嫌を直してくれたりょうの優しさに、少しだけ胸の奥がじんとする。 休み明け、多分、とんでもなく忙しいはずだろうに、こうして果歩のために時間を割いてくれたのだ。 りょうが男だったらなぁ……今頃、りょうの奥さんに……いや、それはやめとこう。なんだかそれもそれで、大変な人生が待ってそうな気がするから。 逆に自分が男だったら、りょうをお嫁さんにもらうだろうか? もらうと言い切りたい所だが、今度は逆に、りょうを幸せにする自信がない果歩である。 こうして考えると、りょうを妻にする男のハードルの高さが窺い知れる。りょうより頭がよくて、りょうより仕事が出来て、りょうより美男子で……りょうよりかっこよくなければいけない。そんな人―― 。 「…………」 頭の中に浮かんだ面影を、果歩は少し驚きながら急いで打ち消した。 ああ……まったく今日はどうかしている。だからあんな夢を見ちゃったんだ。 「あ、そうだ、これ返すね」 果歩は、忘れていた紙包みをバッグの中から取り出した。 「去年、ここでもらった香水……結局、使わなかったから」 「嫌いな匂いでしたか」 初めて、黙っていたマスターが口を開いた。 「あ、いえ、すごく素敵な香りだったんですけど」 果歩は慌てて言い添えている。男のはずなのに、時に女に見える中世的なハンサムマスターは、にこりと笑った。 「だったら気が向いた時に使ってください。それ、ただの香水ですから」 「へぇ、そうな……―― ええっっ??」 「なぁんだ、信じちゃった?」 隣で、りょうがくすくすと笑っている。 「言ってみれば恋のおまじないよ。どう? そう思い込んで使ってみれば、少しばかり自信も出てくるでしょ」 「……いや、結局使わなかったから」 ――な、なぁんだ……。 ただの気休めなら、それこそ本当に使ってみればよかったな。そもそも香りに弱い人だから、案外ころって……ああ、いやいや、そうなっちゃいけないから、あえて使わなかったんじゃない! 「まぁ、現地では、本当にそういう触れ込みで売られていたんですけどね」 やはり、楽しそうにマスターが言い添えた。 「信じる者は救われる、ですよ。案外、本当に効果があったのかもしれませんよ」 「は……はは」 果歩は冷や汗をかきながら、紙に包んだ香水をカウンターの上に置いた。 「なんにしても返します。その話を思い出すだけで、妙に意識しちゃう気がするから」 「そうですか」それ以上逆らわずに、マスターはあっさり紙包みを受け取った。 「よっ、ヤソーダラ」 りょうが、冷やかすように声を掛けた。 「なによ、それ」 「釈迦の奥さん」 「ああ……」 藤堂さんが釈迦の生まれ変わりね。はいはい、そういうことにしときましょ。 「ま、第三夫人までいたって話だけどね」 「え……えええ??」 そ、そんな生まれ変わりは勘弁してほしい。 しかし、結局、流奈と乃々子はあの香水をどうしたんだろう。 あれから、藤堂さんの周囲に特段の変化もないし、結局は、なんの効果もなしに終わった……と信じたいけれど……。 ************************* 「お客さん」 帰りのタクシーの中で、少しだけうとうとしていた時だった。 運転手の声で、果歩ははっと我に返っている。 「あ、ごめんなさい、つきました?」 「いや、もう少しあるんですけど」 初老の運転手は、ちらっと背後を振り返った。果歩は訝しく周辺を見廻してみる。静まり返った商店街、確かに家まではまだ少しの距離がある。 「変なこと聴くようでごめんなさいね」 前を見ながら、低いしゃがれ声で運転手は続けた。 「おたくさん、誰かにつきまとわれたりしてませんかね」 「はい?」 果歩は咄嗟にバッグを抱きしめている。いきなり上昇した警戒心は、むしろ運転手に向けられている。 「いや、さっきから同じバイクが後をつけているような気がしてね」 果歩の警戒を読み取ったのか、運転手は申し訳なさそうに続けた。 「私の勘違いだったらいいんだけどね。私、以前は警備関係の仕事をしてたんで、ちょっとこういうのに、敏感なところがあるから」 ――え……? 果歩は、おそるおそる背後を振り返っている。 暗い闇の向こうに、ひとつだけ煌めくライトが見えた。 「……本当ですか」 「いや、わかんないよ。おたくさん若くて綺麗だし、ほら、最近流行ってるでしょ、ストーカー」 「……はぁ」 そんなやっかいなトラブルに巻き込まれたことは一度もないけど……。 この場合、2人きりの密室で閉じ込められている運転手のほうが、心理的に恐ろしいとはとても言えない。 運転席の背後に張ってある会社名と運転手紹介欄を、果歩は急いで確認する。 灰谷市役所でも公に使っている大手タクシー会社で、連絡先も身分もしっかりと記載されている。 「料金、止めるから」 運転手は果歩の返事もきかずに、勝手に料金ゲージを止めてしまった。 「ちょっと、このあたり無駄に一周してみようか。私の勘違いなら、そこで別れるだろうし、そうでなかったら、少し警戒した方がいいからね」 「……わ、わかりました」 そう答える以外に、どうやら選択肢はないらしい。 ええー、どうしよう、なんだかとんでもないことになっちゃった。い、いざとなったら藤堂さんに電話……。 果歩は携帯を握りしめたまま、背後にきらめくライトを不安な面持ちで振り返った。 |
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