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年下の上司 story13〜JanusryA

メモリーズ(3)


 黒服の弔問客が、ぞろぞろと葬儀会館の中に吸い込まれていく。
 果歩は腕時計を見た。
 乃々子、どうしたんだろう、時間にはこれ以上ないほど几帳面な乃々子が、15分も遅れているなんて―― 。
 その時、タクシーが目の前で停まり、春日次長と志摩課長がその車から降りてきた。
 果歩はぎょっとして慌てて木陰に身を隠している。
 ――か、春日次長も来てたのか。
 まぁ、それはそうだ―― ある意味今日は、市の役付き殆どが顔を出すだろう。
 その時、バッグの携帯が震えたのが判った。木陰に半身を隠したまま、果歩はそっと携帯を耳にあてる。
「的場さん、ごめんなさいっ」乃々子だった。
「どうしたの?」
「それが―― 目茶目茶お父さんに叱られて。……私、朝帰りなんて初めてだから」
 まぁ、それはそうだ。果歩も焦って携帯を耳に押し当てている。
「私が、お父さんと話してみようか」
「そういう段じゃないんですよ。あっ、やぱっ、電話してるのがばれたらまた叱られるんで―― すみません、また電話しますからっ」
 的場父よりなお厳格な人がいたか―― 。が、大切な娘の初めての朝帰りなら、確かに雷は落ちて当然。果歩は心底、乃々子に申し訳ないと思っている。
 携帯をバッグにしまった果歩は、やや途方に暮れた気持ちで、途切れることのない弔問客の列に目をやった。
 どうしよう―― 。
 結局、1人か。
「…………」
 まぁ、いいや。乗り越えなきゃいけない壁だ。それに、今さら失うものは何もない。
 それでも心臓がざわつき、両手に汗が滲んだのは、この場で―― もし、……。
「………」
 落ち着いて……。
 果歩は、自分に言い聞かせた。
 大丈夫、あれから8年もたってるんだもの。
 私にも過去だし、彼にはもっとそうだろう。私なんて、おそらく沢山いたはずの彼の恋人の1人にすぎない。
 大丈夫―― 落ち着いて、落ち着いて。
「的場さん?」
 それでも背後から声をかけられ、果歩はのけぞらんばかりに驚いていた。
「何驚いてるのって―― 驚いたのはむしろ俺なんだけど」
 あっけにとられた顔をしているのは、果歩の元同僚―― というか、上司に近い関係だった、市長秘書の御藤だった。
 
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「いや……よく来たね。これは悪い意味でもいい意味でもないんだけど」
 その頭の回転の速さと手際の良さから、現市長が手元から離そうとしない―― おそらく市で一番の切れ者の男は、驚きを隠そうともしない目で、果歩を上から下までじろじろと見まわした。
「一言でいえば、その度胸に呆れたというか」
「お、お久しぶりです」
 果歩は、赤くなったり蒼くなったりしながら、頭を下げた。
 この場合、そうするしかない果歩だったが、実のところ、先日、不意打ちのように総務課にやってきた御藤に思いっきり無視されて、少しばかり―― いや、かなりのショックを受けていた。
 もう、自分とは一切関係のない過去の人―― 御藤の事務的な態度はそう告げているように思えたし、完全に彼の世界から切り離されているのだと思い知らされたからだ。
 それが、今、こうして声を掛けてくれるなんて――。
「補佐、お急ぎにならないと」
 御藤の背後から、妙に険のある声がした。
 顔をあげた果歩は、なんとも言えない気分になって再び視線を下げている。
 現市長秘書―― 安藤香名。なんの因果か、元カレ晃司の今カノである。
「ああ、すぐに行くから、先行ってて」
 そうか―― 御藤主幹、今は課長補佐になられたんだ。
 安藤香名は、明らかに嫌悪の目を果歩に向けると、そのままさっと踵を返して会館の中に駆け去っていった。
 あれから8年―― 当時が40前後だったから、今は50前くらいか。本来なら課長になってもおかしくはないが、市長の秘書である限り、課長までの昇進は無理だろう。ある意味、寵愛されているが故に、通常の出世コースから外れてしまった男である。
「あの……私、迷惑だとは判ってるんですけど」
「まぁ、気持ちは判るけどね。……ただ、あまりお勧めはできないよ。君のために言ってるんだけど」
 御藤も、困惑しているのか、こりこりと眉のあたりを掻いている。それでも御藤が脚をとめてくれたのが、果歩への思いやりだと判り、果歩は胸がいっぱいになっていた。
「……せめて、ご焼香だけでもと思いまして」
「面識はあったの?」
「一度だけ……」
(じゃ、オレンジジュースをお願いしてもいいかしら)
(冬馬がそういうなら、私に言うことは何もないわよ)
「肝臓癌だとお聞きしました」
「ずっと肝炎を患ってたみたいだね。……若い頃は細面の美人だったって聞いたけど、どうも病気と薬の副作用で、ああなっちゃったみたいだね」
「…………」
「市長は、随分献身的に看護されていたようだったよ。……あの人にも血が通ってたんだなぁって、俺は少しばかり感動したけどな」
 果歩はやはり何も言えないまま、ただ視線だけをわずかに伏せた。
「じゃあ、俺はもう行くけど」
 御藤は時計を見て、少し急いだ風にきびすを返した。
「できるだけ顔を伏せたほうがいいと思うよ。市長は……まぁ、記憶力のいい人だからね」
 果歩はもう、この場に来たことを後悔しはじめている。御藤の言い方は、市長にとって8年前の出来事が、決して過去ではないと告げているからだ。
「息子さんは来られないみたいだよ」
 脚を止めずに、その背が言った。果歩ははっとして顔をあげている。
「昨日の通夜だけ出て、仕事の関係で急きょ東京に戻られたんだ。葬儀には間に合わないだろうってさ」
「…………」
 ――そう……なんだ。
 そっか。
 張りつめていたものが、不意に緩んだようだった。
 そうか―― 。
 昨日の夜から―― いや、真鍋麻子の訃報を知らされた時から、果歩は暗い扉の前に立っていた。
 その扉は、いつかは開けなければならない。でも、開いたら何が飛び出してくるか判らない―― そんな恐怖とずっと戦い続けてきた。
 でも……。
 今、果歩の前から、その扉はみるみる彼方に遠ざかり、再び、意識の届かない心の底に封印されていく。
 ようやく気持ちが落ち着いた風になって、果歩は顔を上げて歩き出していた。
 
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「妻の……麻子は、皆さまご承知の通り後添いではありましたが、私を支え、励まし、いついかなる時でも、最大の味方であってくれました」
 果歩は、弔問客の列の一番隅の方で、喪主である真鍋市長の挨拶を聞いていた。
 焼香と、それとは別の香の匂いが立ちこめている。折悪しく小雨が降り始め、外に居並んだ客は次々とビニール傘をさしはじめた。
 果歩は―― 迂闊にも傘の用意をしていなかったので、建物の影に、雨をよける人々の背に隠れるようにして身を寄せた。
 親族席には、1人だけ知り合いの顔があった。相手が果歩に気付いたかどうかは判らない。隣にいた綺麗な人と幼い子供は、おそらく彼の妻子なのだろう。死んだ真鍋麻子の実弟―― 吉永冬馬。
 焼香を終えた際、ちらっとだけその表情を窺い見たが、はっと息を引くほど、かつての傲慢で嫌味な男は憔悴しきっていた。いや、憔悴―― と、いうより、つい先ほどまで号泣していたことを隠せないほど無残な顔をしていた。
 果歩はますます胸が苦しくなり、逃げるようにして最後尾に戻った。
 市長はうつむいた顔をあげようともせず、明らかに果歩を認め、そして無視していた。列の半ばは殆どが市長部局の局長級で、果歩は彼らの批判の目をありありと感じながら、震える脚で元の場所に戻らなければならなかった。
「もしかして嫌がらせ?」
「市長の息子と、あわよくば寄りを戻そうと思ったんじゃないの」
「図々しい……」
 明らかに聞こえる声でそう言って通り過ぎたのは、市長秘書の安藤と秘書課の女子職員たちだった。
 胸のどこかがねじ切られるような思いで、果歩はただうつむいていた。
 彼らの中では、的場果歩とはこう認識されている。
 婚約者がいる市長の息子に言い寄って、市長秘書を追放された女。
 しかも、訴訟をすると言い張って、無理矢理市長部局に残ることを市に認めさせた女―― 。
 訴訟するという可能性をほのめかした時点で、果歩は市にとっての危険人物だとカテゴライズされてしまった。人事部のブラックリストに載っている。―― それは、本当の話だろうし、那賀が退職してしまえば、本当にどこに飛ばされるか判らない。
 どこかの区だろうな、と漠然と思っていたが、大河内主査の事件で、それもどうやら怪しくなった。今、また、こんな形で市長の前に顔を出してしまえば―― それこそ、どんな報復が待っているか判らない。
 それでも果歩は、今日の葬儀だけは顔を出したかった。
 たとえどんなリスクがあろうと―― これまで固く閉ざしていた扉を開くことになろうと――それでも。
 ―― あの時は、本当にすみませんでした。
 祭壇の中央では、若かりし日の真鍋麻子が微笑している。
 色白の細面で、目元がきりっとした美人だった。長い黒髪はひとつに束ねて肩のあたりに垂らしている。
「妻は、いずれこの日が来ることを、随分前から覚悟しておりました。……私も……覚悟は決めていたのですが、どうしても……受け入れることができず、随分医者にも無理を言いました」
 挨拶をする真鍋市長の声が震えている。
「妻の病も、もとはと言えば、私が苦労をかけた故でございます。麻子は、素晴らしい妻でした。……できるなら、もう少し楽に生きさせてやりたかった……」
 そのままむせび泣いた真鍋市長を、無数のフラッシュが取り囲んだ。
「少し芝居がかってないか」
「そりゃ、市長選を見越してるからに決まってるだろ」
 果歩の背後で囁くような声が聞こえた。
 確かに、市長の弔辞はそういう意味で計算し尽くされているはずだった。沢山呼び集められたマスコミも、市長選を意識したものに違いない。
 が、果歩はそれでも―― 今見せた真鍋市長の涙は、真実だと思った。
 8年前、果歩にとっては悪夢と幸福がないまぜになった立食パーティの席で、彼の妻に見せた思いやりは本物だった。市長は麻子さんを愛していたのだ―― 心から。
 優しい人だった……。
 果歩は、そんな人を騙したまま、こんな風に故人と弔問客として別れなければならないことが、悲しくて仕方なかった。
 もう、誰にとっても遠い過去の話だろう。でも……。
 もし、あの時、果歩にそんな立場が与えられていたら、麻子さんと真鍋さんを仲直りさせてあげたかった。せめて―― 今は、彼と彼の義理の母が和解したことを祈りたい。
「息子の雄一郎は、生憎急な仕事で、今日の葬儀には間に合いませんでした。が、雄一郎の家族が来ております」
 市長の声が、果歩をいきなり過去と、そして忘れようと努めていた残酷な現実に引き戻した。
 彼はいない―― が、彼の妻は代理としてこの場にいるだろう。果歩は不意打ちのように眩暈を感じた。
 今でも、たったひとつだけ、果歩がどうしようもなく後悔していることがある。
 それは―― それだけは自分の胸ひとつにしまって、りょうにさえ打ち明けてはいない。
 不意に胸苦しくなり、果歩はその場に座りこみそうになっていた。
「妻の弟の冬馬が、会社を継ぎ、雄一郎と共に、今日の光彩建設を作ってくれました。私は会社の経営から身を引いた人間ですが、妻が最後まで愛した会社と家族をこれからも支え、共に手を携えて、妻の遺志を継いでいきたいと思っています」
 ぱらぱらと拍手が鳴った。
 助けて―― 。
 果歩は短い呼吸を繰り返しながら、動悸が収まるのを待っていた。
 喪服の下、胸の上で、ひんやりとしたリングの感触がする。
 ―― 藤堂さん……。
 服の上からそれを握りしめ、ようやく、少しだけ呼吸が楽になった。完全に平静を取り戻した時、葬儀はもう終わっていた。
 やっぱり、来るんじゃなかったな。……
 雨が降っているのも忘れたまま、果歩はぼんやりと客の流れに沿って歩き始めた。
 りょうの言うとおりだった。今までりょうの忠告が外れたことなんて一度もなかったのに……馬鹿な私。
 全然、立ち直れてはいなかった。結局は、それを思い知らされただけだった。
 過去が―― あまりにも重くて、もう。
 ……押しつぶされそう……。
 これ以上歩けなくなった果歩は目を閉じ、震える手を拳にして、自分の唇にあてていた。
 
 *************************
 
「瑛士さん、どこに行くの?」
 母の声で、藤堂は足を止めていた。
 自分でも無意識に立ちあがっていたことに、その時初めて気がついた。
「役所の上司に挨拶をと思いまして」
「よしなさい」美しい母は、眉間にわずかな皺を寄せた。
「あなたは今、市職員の立場で来ているのではないでしょう」
「仰るとおりです」
 微かに息を吐いた藤堂は、元通りに座り直した。
「火葬が終わるのが、1時だったかしら」
「もう少し早まるようなことを言われていました」
「まぁ、お忙しい方ですものね。市長さんは」
 それには答えず、藤堂はもう一度、弔問客の列に視線を戻した。もう、その人の姿は人の波に流されてしまっている。
「……いらしていたわねぇ」
「え?」
 母が不意に囁くように呟いたので、藤堂は再び視線を戻している。
「一度お会いしたでしょう。瑛士さんの職場の女性の方。名前までは思い出せないけれど」
「…………」
 言葉を切った母は、切れ長の目を帰り始めた弔問客に向けた。彼女は最初から、息子が何に気を取られていたか知っているようだった。
「香夜さんとの婚約を解消したいって本気なの、瑛士」
「申し訳ありません」
「そう……」母は、物憂い目を再び祭壇に戻した。
「でも、お母さんは反対ですよ。香夜さんでないと嫌だというのではないけれど、あの娘は駄目」
「何故でしょう」
「何故って」
 冷やかに母は笑った。
「私を見て逃げ出すような女に、あの家の嫁が務まるものですか」
「僕は、もう家を出た人間ですよ」
「出たところで同じでしょう。後継者候補は、8年前からひとつも変わっていないんですもの」
 藤堂は眉を寄せ、視線をわずかに伏せている。
 母の言葉は、正直、あまり頭に入ってこなかった。
 ――何故、的場さんは来たんだろう。
 傷つくと分かっていて、何故……、何のために。
「あなたは若いから熱を上げていると思うけど、あの娘は、あなたが思うほど、本気ではないと思いますよ。――瑛士さん?」
 母の声で我に返る。辛辣な言葉の意味は、それでもしっかりと胸に届いていた。
 藤堂は、わずかに笑んで立ち上がった。
「そうかもしれません」
「そうかもしれません、とは?」
 同じく、優雅に喪服の裾を翻した人に、意地悪く反復される。
「彼女が、僕のことをさほど好きではないという意味ですよ」
「あら、頼りないことを言うのね」
 掠れた声で、母は笑った。
「じゃ、私の心配しすぎだったかしら。いざとなったら、無理にでも別れさせようと思っていたけれど」
「ええ、心配しすぎですよ。だから香夜さんの片棒を担ぐのは、もうやめていただけませんか」
「知っていたの」
 全く悪びれずに、母はちらりと舌を出す。その時、祭事場の係員がやってきた。
「御親戚の皆さま、火葬に立ちあわれる方は、どうぞこちらにいらしてください」
 ぞろぞろと人が動き出す。背後の人たちに道を譲って、藤堂は母を促すようにして歩き出した。
「本当に、私の心配のしすぎ?」
「ええ」
 藤堂はやんわりと切り返した。
「僕らはまだ、別れるような関係ではありませんからね」
「あら、そうだったの」
 肩をすくめる母に、藤堂は静かに微笑した。
「推察どおり、僕が一方的に好きなだけなんです。だから、彼女に何を言ってもあまり効果はありませんよ」
「ま……」
 やや、あっけにとられた母に、藤堂は傘を開いてかざしてやった。
「はっきり言うのね。瑛士さんらしくもない」
「仕方ありません。他に言い訳しようがないので」
「あんな子の、どこがいいの?」
「そうですね」
「香夜さんのほうが、よほど可愛いし若いじゃない。第一素直で、一途だわ」
「そうですね」
 成り立たない会話に、母が不満げに音をあげた。肩をすくめ、少しうらみがましい目で息子を見上げる。
「30歳は、女として……どうなのかしら。そんな年増の嫁、私は上手くやっていく自信がありませんよ」
「それでも、あなたよりは年下ですよ」
「瑛士さんのお嫁さんは私の子供も当然なのよ。私に、どう頑張ったって、30の娘は産めません」
 子供のような言い草に、藤堂は思わず苦笑する。
「実は、今月で31なんです。彼女はひどく気にしていたようでしたが」
「まっ……」
「僕は……」
 藤堂は、雨空を見上げながら呟いた。
(言わないでくださいっ)
(だって、今日で、30……)
「あの時、……自分が、31にも2にもなれればいいと思いました。悔しいけどそればかりは、いくらお金があってもできませんね」
 母はもう、何も言おうとしなかった。
 ただ呆れたように肩をそびやかしている。
 やがて、2人の前に、弔問客の挨拶を受ける真鍋家の輪が近づき、母は足をとめて、息子を見上げた。
「私はここでお暇するから、瑛士さん、あとはお願いね」
「……挨拶だけをして、僕も直にお暇します。駅まで車で送りますよ。この辺で待っていてもらえますか」
 2人はある意味、招かれざる客だった。個人的に懇意でなければ、決して顔を出せはしなかったろう。
「来てたって本当?」
「ほら、昔噂になった、雄一郎様の不倫相手の……」
「ああ、あの恥知らずの市職員」
 通りすがりのひそひそ声は、光彩建設の女子社員たちのようだった。
 ―― 今にも、倒れそうだったな……。
 胸苦しさとやるせなさを押し殺すようにして、藤堂は、火葬場に向かうバスに乗り込んだ。
 財産も権力も、何の意味もない。
 もし、時を戻せるなら―― 。
 もし、……本当に時を取り戻すことができたなら―― 。
 
 *************************

「あれ? 的場さん?」
 明るい大声に、軒下で雨を拭っていた果歩は、少し驚いて顔を上げている。
「ああ、やっぱりそうだ、僕ですよ、僕」
 駆けてくる黒服の大男―― ぎょっとした果歩は、半分逃げ腰になっている。
 ――だ、誰??
 その黒服は、喪服とは少しばかり違う気がした。ああ、とその違和感に果歩はようやく気付いている。ネクタイが臙脂なのだ。黒いスーツも、真っ黒というよりややブルーががっている。
「ひどいな、そんな怯えた顔をして」
 果歩の前で足をとめた大柄な男は、閉口したように短く刈った頭に手を当てた。
「まさか、覚えてないですか。この間ご一緒した三宅ですよ。県警本部の」
「……ああ」
 果歩はようやく、思いだしている。「カミセンの!」
「え?」
「あ、ああ、いえいえ、こっちの話です」
 三宅、森田、岡田―― カミングセンチュリー、プラス、イタリア男との合コンの夜に知り合った。割と好感が持てる警察官。
「もしかして、こちらのご葬儀に出られていたんですか」
 傘を果歩にかざしながら、三宅は意外そうに凛々しい眉をあげた。
「私はそうですけど、刑事さんもですか?」
 意外なのは、果歩のほうが上である。
「いやいや、僕は仕事ですよ。市のVIPが勢ぞろいする葬儀ですから、警備に駆り出されたんです」
「そうなんですか」
「ようやく解放されて、帰ろうと思ったら的場さんがいたから……びっくりしたな」
 前は気楽な私服姿で話しかけやすいお兄さんといった感じだった。でも、今の三宅には、その時のとっつきやすさは微塵もない。隙なく身につけた闇色のスーツ。眼差しにもどこか険しさが滲んでいる。
 ああ、本当に刑事さんなんだなぁ、と、改めて果歩は思っている。
「傘、お持ちじゃなかったら差し上げましょうか」
「い、いえいえ、とんでもない。小雨だし、直に止むと思いますから」
 今の状況で、全くの部外者と遭遇するというのは意外に嬉しいものだった。
 とはいえ、特段話が弾むわけでもなく、出会い頭の衝撃が過ぎると、たちまち会話は軽い暗礁に乗り上げる。
 果歩は気まずかったが、丁度目の前の信号が赤で、三宅はそのまま、果歩に傘をかざしてくれた。
「ハンカチ、僕のを使いますか」
「大丈夫です、今日はもう帰るだけですから」
 多分、よほど果歩の濡れ具合がひどかったのか、三宅は心配そうに眉をひそめる。
「なんだか、心配だな。何かありましたか」
「いえ………」
 慌てて取り繕った笑顔で首を振った果歩は、ふと、先夜のタクシー事件をこの人に話してみたらどうか、と思っていた。
 ああいうひっかけられ方をした場合、タクシーの運転手を信じるべきか、もしくは全く別の手段を講じるべきか―― 警官なら、適切なアドバイスをしてくれるだろう。
「あの、お時間は大丈夫なんですか」
「今日はもう上がりなんですよ。どうです? よかったら一緒にメシでも食って帰りませんか」
 阿吽の呼吸で成立する約束。互いに思うことが同じ時はこんなものだ。
 なのに、どうして藤堂さんと自分は、肝心な時にすれ違ってばかりなんだろう。
 今ほど、彼に傍にいてほしいと思うこともないのに―― なのに、果歩は、自分から決してそう言いだせないことを知っている。
 過去をひきずったまま、それを一言も打ち明けられないでいることが―― あまりにも、藤堂に申し訳なくて。
「そうですね……」
 曖昧に頷いた時、信号が青に変わった。
 三宅に促されるまま、果歩は歩き出している。
「あ、でも私、こんな格好で」
「喪服、悪くないですよ。って不謹慎かな。でも前より何倍も美人に見える」
「そ、そうですか?」
 いきなり砕けた三宅の態度に果歩は少しドギマギしている。
「連絡ねぇなぁって、少し残念に思ってたんすよ。休日返上でくだらない仕事に担ぎ出されたけど、思いのほかラッキーだったな」
「あ、あのですね。私、前も言いましたけど」
 そういう誤解をされては申し訳ない。果歩は慌てて言い添えている。
 三宅は、少し興ざめたように眉を上げた。
「彼氏いるんでしょ? なぁんだ、まだ上手くいってんだ。電話してくれたら、いつでもDVで逮捕するって言ったのに」
 果歩はつい笑っていた。「すごい職権乱用ですね」
 これって浮気に当たるのかしら?
 でも、相談に乗ってもらうだけだから、大丈夫よね。というより、今日は、誰かに傍にいてもらわないと、耐えられそうもない―― 。




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