「なるほどねぇ……」 果歩の服装を慮ってか、三宅が選んだのは国道沿いのファミリーレストランだった。 しかし、いかにも強面の黒服刑事と、喪服の公務員。 この組み合わせは、いったい何に見えるんだろう。 少しばかり周囲の目が気になる果歩は、肩をすぼめるようにしてコーヒーを口に運んだ。三宅の前には肉厚のステーキ。彼はそれをものの数分でたいらげてしまっている。 ―― ちょっと藤堂さんと似てるかなぁ。 ほんの少し、年上の警察官に親近感を覚えている。体格はほぼ同じ、藤堂が知的な体育会系なら、三宅は武闘派的体育会系といったところだ。 「ごめんなさい、相談ってほどの話でもないんですけど」 「いや、誘ったのは俺だから」 果歩がひたすら恐縮するのを、三宅は生真面目に遮った。 「で、ストーカーってのは、本当に覚えがないの?」 「何度も言いましたけど、それは全然」 果歩は大慌てで手を振った。 「タクシーであんな目にあった場合、運転手さんに素直に従うべきか、拒否すべきか分からなくて、……なんだかすごく怖かったものですから」 「結局、いいなりになっちゃったんですか」 「はぁ……」 うーん、と三宅は唸り、厚い唇に親指の爪を当てた。 が、彼が沈思していたのは、ものの数秒だった。 「そのタクシー会社と、運転手の名前、記憶してますか」 「あ、名前はうろ覚えですけど、会社名は判ります」 三宅が差し出した手帳に、果歩はタクシー会社と、曖昧に記憶している運転手の名前を書いた。 「照会かけてみますよ。前歴に嘘がなければ、案外、ただの親切な運ちゃんなのかもしれないし」 「すみません、なんか……こんなしょうもないことで」 果歩は恐縮してうつむいた。 本当にいいのだろうか。忙しい警察官を、たかだかいたずらかもしれない、ささやかな杞憂に巻き込んで。 しかも―― 果歩が、つい彼の誘いに乗ってしまったのは、タクシーの一件を相談したいというのは口実で、実のところ寂しくてどうしようもなかった時に、ふと知り合いに出会ったからかもしれないのだ。 「いやぁ、美女と少しでも同伴したいという運転手のスケベ心ならいいんですけどね。そうじゃなかったら、ちょっと心配だなぁ」 が、三宅の目は思いのほか憂鬱そうだった。 「でもストーカーなんて、私、全然覚えないんですよ」 「まぁ、他に兆候もないようだし、十中八九、運転してたオヤジの勇み足だとは思いますがね」 言葉を切って、三宅はグラスの水をあおった。 「なんにしても、用心するにこしたことはないですよ。今の世の中、どんな奴が、人間の面の下に獣面を隠しているか、わからないですから」 「私の周りに、そんなワイルドな人がいたかしら?」 少し冗談めかして言うと、三宅の唇にようやくわずかな笑みが浮かんだ。 ――ストーカーねぇ……。 そこまで深くは心配してないんだけど―― まぁ、いいか。三宅さんには、それも仕事なのだろう。 「じゃあ、私、そろそろ帰ります。いつまでも喪服でうろうろしてたら、親がうるさいんで」 「送りましょうか、本部まで戻れば車出せますし」 「いえ、それは本当に」 立ち上がろうとした時、「―― あの」三宅が少し真剣な面持ちで果歩を見下ろした。 「ひとつだけ聞いてもいいですか」 「あ……はい」 その目が、別人のように鋭くなっていたから、果歩も少し緊張している。 が、彼の問いは、果歩が想像してもいなかったものだった。 「もしかして、緒形さんと昔お知り合いでした?」 緒方―― ? あの面白くて変わり者の、イタリアテイストの刑事さん? 「いえ、初めてお会いした方ですけど」 「合コンで?」 正確には合コンではなく、その前の事件で知り合ったことを、果歩は三宅に説明した。 三宅は眉を寄せたまま、にこりともせずに聞いている。逆に果歩は、ひどく不安になっていた。 「あの……緒方さんが、何か?」 「いや、ちょっと、……」三宅は曖昧に言葉を濁した。 「俺が個人的に嫉妬してるのかな。緒方さん、君に気があるようだったから」 「まさか」 そんな気は、さらさら感じられない果歩である。三宅の笑い方もまた、どこかわざとらしかった。 「確かにちょっと、気にはなってましたけど」 果歩は、ためらいがちに口を開いた。 「暴力団担当の刑事さんが、なんで……その、痴漢の事件と、どういう繋がりなんだろうって」 「的場さんが合コンの席で、妙に緒方さんのことを気にしてたから」 三宅も仕方ないといった風に、初めて本音めいた口調になった。 「俺も少し気になったのかな。確かに、本部の、俺らみたいなマル暴担当が、普通は関係のないわいせつ事件に口を出したりはしないですよ」 三宅は軽く嘆息した。 「まぁ、俺の考えすぎならいいんだけどなぁ」 ************************* 三宅と別れて1人になると、再び、忘れていた胸の痛みが押し寄せてくるようだった。 雨はもう止んでいる。 三宅は、しきりに家まで送ると言ってくれたが、あえて固辞して1人になった。 これ以上、無意味に―― もしかしたら本当に自分に好意を持っているかもしれない人に、甘えてはいけないような気がしたのだ。 それにしても、この間の夜は、緒方さんを尊敬しているようなことを言っていたのに……。 1人で国道沿いを歩きながら、果歩はわずかに眉を寄せている。 あれから、何かあったのかな。 今日の三宅さん、まるで緒方さんを疑ってるみたいな雰囲気だった……。まぁ、警察内部のごたごたは果歩にはよく判らない。多分、自分には関係のないことなんだろうけど……。 あれほど黒衣の人たちが溢れていたのに、祭事場に続く沿道からは、もう人影が消えている。 果歩は脚をとめ、その場で手を合わせて目を閉じた。 互いの人生がすれ違ったのは、一度だけだった。 でもそのささやかな邂逅は、22歳の果歩にとっては、多分―― 胸に深く刺さるほど印象的なものだった。 もちろん、今日火葬にふされた人の記憶に、果歩のことなど一欠片も残ってはいないだろうし―― よしんば残っていたとしても、最悪の思い出でしかないだろう。 (胸を張って、頭を上から引っ張られるような感じで) (そう、……綺麗だ……) (俺は君が好きだ。そうでなければいいと思っていたが、どうもそうらしい) (―― 果歩……) ―― あ……。 果歩は両手で耳を塞いだ。 だめ、気持ちが……。 崩れて、壊れて、溢れそう……。 「的場さん!」 一瞬果歩は、三宅が追いかけてきたのだと思っていた。 道路脇に停まった車から、大きな人が飛び降りてくる。可愛らしいほど小さなミニバンを見ただけで、果歩は、それが誰だか判っていた。 ―― 藤堂さん? 嘘、どうして? なんで、彼がこんな場所に―― 。 「あの、どうしたんですか」 目の前に立つ藤堂に、呆然と果歩は聞いていた。小雨が、再び降り出している。 彼はうつむき、低く答えた。 「……通りかかったので」 通りかかった? 藤堂は眼鏡を外し、少し乱れた髪を払った。 「的場さんは、お葬式ですか」 「え、ええ、あの……すぐそこで」 むろん、春日や志摩が出席している以上、藤堂が彼らのスケジュールを知らないはずはない。 「私、以前真鍋市長の秘書をしていたので、ご挨拶だけでも、と思ったんです」 「そうですか」 「藤堂さんも、ですか?」 「いえ、僕は」横を見たままで藤堂は低く続けた。 「母が来ていたので、今、駅まで送った帰りです」 ああ、そうなんだ―― 。 確かに駅からここまでは一直線で、この先に藤堂が住む町がある。 じゃあ、本当に偶然? だとしたら、すごく素敵なことだけど……。 2人の背後で太いクラクションがした。果歩ははっとした。バスが、ゆるゆると藤堂の車の傍に近づいている。 「もしかして、そこ、車停めたらまずいんじゃないですか」 藤堂は何も答えず、いきなり果歩の腕を掴むと駆けだした。 ―― 藤堂さん? 果歩は驚いたものの、逆らわず、彼の車に乗り込んでいる。 同時に雨脚が驚くほど強くなり、果歩はひどく濡れてしまった髪を手で払った。 「助かりました、傘持ってなかったんですよ」 うわぁ、スカートもひどいことに……。裾から、ぽたぽたと水が滴っている。 「ごめんなさい、車、濡らしちゃったかもしれません」 ざーっという雨音が、車内にまで響いている。 無言で車を発進させた藤堂の横顔の暗さに、果歩はようやく気がついていた。 「あの、……藤堂さん」 藤堂の返事はない。 仕方なく果歩も黙りこみ、冷えた身体を両手で抱いた。 車はすぐに、停められた。殆ど急停車といっていい勢いに、果歩はびっくりして、運転席の藤堂を見上げている。 彼がシートベルトを性急に外すのが判った。そのまま、抱きしめられていた。 ―― 藤堂さん……? なに? どうしたの? 意味が全然わかんないよ。 激しい雨が窓という窓を覆い尽くしている。うす暗い車内で、息も止まりそうなほど強く抱きしめられ、果歩は身動きひとつ取れないでいる。 呼吸の在処を探りながら、果歩は、自分もそっと彼の背中に手を回した。 いっそう強く抱きしめられ、そのまま果歩も、彼を強く抱きしめている。 どうしたの……? なんで、何も言ってくれないの……? そっと触れた彼の髪から、微かに焼香の匂いがした。 果歩はその瞬間、なんとも言えない気持ちになって、気がつけば、双眸から涙をあふれさせていた。 「……ごめんなさい」 何に謝っているのか、自分でもよく判らなかった。 「ごめんなさい、藤堂さん」 彼は何も言わず、黙って抱きしめる腕の力を強くする。 彼は、今日の葬儀に出席したのだ。果歩が判ったのはそれだけだった。そこで、彼はどんな噂を耳にしたんだろう。怒るようなことだろうか、それとも、悲しませるようなことだろうか。 果歩が何も言わなくても、いずれは知られることだと思っていた。 その時は、そんな過去もあったんですよ、と笑って話せるはずだった。今は関係ないですよ、だって、藤堂さんがいるんだし。―― そんな風に……。 現実には、果歩はただ泣き続け、藤堂はあやすように髪を撫でてくれている。 あたたかくて、優しい手。 嗚咽も胸苦しさも少しずつ収まり、果歩は彼の胸に顔を預けるようにして、しばらく動けないでいた。 藤堂もまた、一言も口を開かないまま、果歩の髪を撫で続けている。 彼は、何を考えているんだろう。 どんな噂を聞いたんだろう。 どうして私に、何も訊こうとしないのだろう。 「……このまま」 藤堂が、不意に低く呟いた。「どこかに泊りましょうか」 え……? 顔を上げようとしたら、遮られるように頭を抱かれて引き寄せられた。 「僕の部屋に来ますか」 「…………」 ――それは……。 胸がぎゅうっと締め付けられ、心臓が、強い鼓動を刻み始める。 なのに、嬉しさより戸惑いが勝っているのは、彼がこんな風に戒めを解く理由が判らないからだった。 「……いいんですか」 「…………」 「私は……嬉しいです。でも、藤堂さんが、また後悔するなら」 もし。 もし―― 同情で、彼が戒めを破ろうというのなら、それは……。なんだかますます、自分がみじめになりそうな気がする。 しばらく黙った彼が、長いため息を吐くのが判った。 「よく考えたら、明日は月曜でしたね」 腕が離れ、見下ろす彼は、いつもの藤堂に戻っていた。 「ちょっと、無理がある計画だったかな」 「じゃあ、それ、いつか実行してくれるんですか?」 果歩もまた、いつもの自分を取り戻している。 「そうですね、4月に」 しれっと言って、藤堂は再びステアリングに向きなおる。 「もうーっ、だったら意味深なこと言わないでくださいよ」 ちょっと期待して損しちゃったじゃない。ああ―― 結局、そこに落ちて行ったか。この場合、私がバカな意地をはっちゃったのかしら。 今更ながら、胸がドキドキ高鳴り始める。藤堂さんの部屋にお泊りする―― ってことは、つまり、つまり彼が釈迦ではなくなるということで。 さようなら、ヤソーダラ。 やっぱり行きますって……今更言ったら、かっこ悪すぎるかな。 とはいえ、ちらっと窺い見た藤堂はすでに落ち着き払っていて、そんな話を蒸し返せるムードではない。 ――まぁ、いいか。 果歩は、ふっと息をはいて、再び雨脚の強くなった空を見上げた。 この空と同じ気持ちのままじゃ、なんだか彼に失礼だ。もっと、こう―― からっと晴れた青空の下で、堂々と彼の恋人になりたい。 大丈夫、今日は特別だったんだもの。 また明日からは、いつもの私に戻ることができる。―― 大丈夫。 「……少し、遠くに行きませんか」 「え?」 振り仰いだ藤堂の横顔は、どこか別の場所を見ているようだった。 「遠く、ですか」 「ええ」 雨降ってますけど……。果歩は空を見上げたが、彼は気にする風でもなく続けた。 「今からだったら……そうだな、帰りは9時頃になると思います。大丈夫ですか」 「時間はなんとでもなりますけど、―― あの、遠くって」 「的場さんの喪服姿が素敵なので」 「なっ、何言ってるんですか」 藤堂らしからぬジョークに、果歩は耳まで赤くなっている。 「みせびらかしたくなったんですよ。遅くなるようだったら、僕がご両親に電話を入れます」 なんだろう……。 少しだけ不審を感じたものの、果歩は黙って頷いた。 ************************* 「東京に行くんですか」 「ええ」 高速に乗った時にそれだけ判ったものの、藤堂はまだ行き先を告げようとはしなかった。 それどころか、いつも以上に無口なまま、黙ってステアリングを握っている。 なんだろう……。 果歩は、次第に不安になってきた。東京、つまりは藤堂さんのテリトリー。 そこに、彼の実家があって、極妻みたいな和装美人の母親がいて、多分、香夜さんもいる。 「あ、あの、藤堂さん」 そこに私が―― しかも、こんな格好で? 喪服は秘書課時代に買ったものである。当時にしては可愛いデザインで、その頃と体型がひとつも変わっていないことは、ささやかな誇りであったが、今となっては明らかに時代遅れ。 髪は雨のせいですっかり萎れ、だらしなく額と肩に落ちている。 こんな格好で、敵陣に出て行けと? 服、メイク、そして髪型。全てをなんとかしないといけない。 「も、もしよかったら、どこか……そうですね、デパートにでも寄りません?」 「デパートですか?」 「ええ、なんだかお腹空いちゃって」そこでなら、なんでも揃う。 「それは……少し難しいかな。帰りが遅くなりますよ」 藤堂はちらっと時計を見た。 「お腹が空いたんなら、サービスエリアにでも止まりましょうか」 いや、それじゃ意味がなくて―― 。 しかし、確かに門限を考えたら、寄り道している暇はなさそうだった。 どうしよう……。この女心、頼むから察してよ、藤堂さん。 彼は再び無言になり、果歩も何も言えなくなる。 もしかして、怒ってるのかな。 私が何も言わなかったから。 でも8年も前の話だし、藤堂さんは晃司のことも知ってるし、……はたから見れば、特段驚くような過去でもない。 いってみれば、おとぎ話みたいなチープな話。 灰谷市の王子様に、灰被りの娘が恋をして捨てられた。簡単に言えば、それだけのことだ。 少しばかり引け目に思うのは、灰かぶりの娘が、いまだ王様にとことん嫌われているということで――それは出世を目指す男にとっては、少しばかり足手まといな経歴になるのだろう。 ただ、藤堂さんが、晃司みたいに出世にがつがつしているとも思えないし……。 「…………」 今日、いったい彼はどんな噂を耳にしたんだろう。 彼から口火を切ってくれればいいのに、どうして何も訊かないんだろう。 「お母さん、いらしてたんですか」 果歩は、話題を変えることにした。話題というより、切り口を変えようとした。彼が話やすいように、こちらから誘導するために。 「ええ、こちらに用事があったので」 「なんのご用だったんですか」 「さぁ、友人と会うとしか」 なんだろう、とことんとぼけるつもりなのかな。 正直言えば、果歩は母親が来た云々の話は、藤堂のでまかせだろうと思っている。 彼は今日、市長夫人の葬儀に顔を出したのだ。そこで―― もしかすると、私を見かけたのかもしれない。 でなければ、今日みたいなタイミングで偶然出会うなんて考えられない。 「どうせ東京に行くなら、お母さんを送ってさしあげたらよかったのに」 「そう思ったのですが、急ぐと断られたので」 「お忙しい方なんですか」 「色々教室をやっているので―― 今度、あらためて紹介しますよ」 あ、そうなんだ。 じゃあ、今日会いにいくわけじゃないの……? 探りを入れた果歩は、少しだけ安堵している。 それきり、再び会話が途切れる。 なんだろう―― 私に引け目があるせいか、この沈黙が気づまりで仕方ない。 「何か……音楽でもききません?」 果歩は言った。カーステレオ……この四角い入口はカセット? 今時珍しいというかなんというか。 「すみません、何も用意してないんですよ」 あまり情緒あるドライプを楽しむ人じゃないんだなぁ。だから、車にもこだわりがないんだろうけど。 諦めかけた果歩は、コンソールの中に、カセットテープのケースがあるのに気がついた。 「あ、でもカセットがありますよ。ほら」 「ああ、じゃあ母の忘れ物かな。聴くように言われたんですが、すっかり忘れていたんですよ」 「ふぅん……」 果歩は、透明のカセットケースを取り上げた。マジックでAYANOと記されている。 あやの……つじあやのかな? それともお年(雰囲気)を考えたら演歌系……。でも、いかにもセレブで雅そうな人だから、演歌ってのも少し違う気が。 「かけてみてもいいですか」 「ええ」 果歩はカセットをケースから取り出すと、デッキの中に差し入れた。まぁ、これで少しでも雰囲気が明るくなれば―― 。 「えー、一口に中高年と申しましても、色々幅がございます。30過ぎたら中高年、あなたも私も中高年」 「…………」 「…………」 果歩は停止スイッチを押していた。 「……面白い趣味のお母さまですね」 「そ……、そうですね」 つじあやのではなく、綾乃小路なんとやら。 なんだろう。偶然だろうか? 会う前からとんでもない先制攻撃をくらった気が―― 。 「……まいったなぁ」 藤堂が、初めてクールな横顔を崩して困惑している。 果歩はなんだかおかしくなって、口を手で押さえて吹き出していた。 「おかしいですか」 「だって」 あの取り澄ました凄味のある美人が―― 趣味にしても嫌がらせにしても、可愛いというか憎めないというか。 「藤堂さんのお母さんって感じですね」 「なんですか、それは」 彼の横顔も笑っている。 空は、少しずつ晴れてきたようだった。 ************************* 「ここ……」 彼が向かったのは、東京都内ではなかった。 高速を手前で降り、平坦な田舎道をしばらく道なりに進んだ先には―― 石塀に囲まれた寺院があった。 夕刻、すでに周囲は薄闇に閉ざされ、先を歩く藤堂の背中さえ見失いそうになる。 「お寺、ですか」 「ええ、うちの家族が祀られているんです」 果歩はようやく、彼の意図を理解した。 そうか、私が喪服だから……。でも、家族に会う前にいきなり祖先ってすごくない? そこで果歩は気づいている。 ああ―― そうだ。 正月休みの最中、果歩が電話をしてしまったあの日が、おそらくここで眠る人の命日だったのだ。それを彼は、私に会うために途中で抜けてしまったのだ。 長い石の階段を上がった先には、広々とした霊園が開けている。 天候のせいか時刻のせいか、2人の他に人影はない。果歩は緊張しながら藤堂と進んだ。 一度、箒を手にした僧侶とすれ違った。 「これは、二宮様」 老いた僧は、少し驚いた眼差しで藤堂を見上げ、「みどもがご案内いたしましょうか」と慇懃に頭を下げた。 藤堂は目礼だけをそれに返し、果歩を促すようにして様々な墓が立ち並ぶ霊園の奥深くに入っていく。 果歩は、――胸が重苦しく塞がるのを抑えることができなかった。 今、果歩が入っていこうとしているのは、単に霊園の内部ではない、今、果歩は、彼が閉ざしてきた心の奥に入ろうとしているのだ。 彼が閉ざしてきた―― というより、果歩自身が逃げ続けていた場所に。 「お兄様のお墓ですか」 ひときわ大きな、化粧砂利がしきつめられた見事な墓の前で、藤堂は足を止めた。 覚悟を決めて果歩が訊くと、彼は控え目に微笑して首を横に振った。 「累代墓なので、……僕の近しい人としては、父と兄が収められています」 「……そうなんですか」 お父様。果歩は表情には出さずに驚いている。 そうか、彼は養子だと自分で言っていた。 迂闊にも実の父親の存在を全く失念していたことに、果歩は今さらながら申し訳なく思っている。 「そんなに硬くならないでください。父と兄に、一度的場さんを会わせたかっただけなので」 藤堂はわずかに微笑んだ。 「単に、ドライブの行き先が思いつかなかったという理由もありますけどね」 「まぁ」 果歩もまた、少しだけ気が楽になって微笑している。 「お父様のこと、お聞きしてもいいですか」 「いいですよ」 彼は、自分の全てを話すつもりで、今日、ここに果歩を連れてきたのかもしれない。 果歩はふと思っている。 それは、私の過去を知ってしまったから―― ? それとも、私の秘密だけ聞いて、自分が何も打ち明けないのはフェアではないと思ったから……? 少しだけ不安になる。 彼が背負ってきたものを―― それが何かはまだ判らないけれど、私は、受け入れることができるだろうか。 「父のことは……」 言いさした藤堂は、そこで言葉を途切れさせた。 「とはいえ、特段語るような経歴もなければ、僕は父を写真でしか知りません。僕が生まれた時彼は学生で、僕が二つか三つの年に亡くなったんですよ。車の事故だったと聞いています」 「学生、結婚だったんですか」 「結婚はしていないんです」 淡々と、藤堂は遮った。 「故人を悪く言うのは気がひけますが、この人に母と結婚する意志は、最初からなかったんだと思います。事故で亡くなった時には、別の方と結婚していたという話でしたから」 「…………」 「ただ、それでも男女の間のことですからね。母が一人で産むと決めた以上、そこには僕などが量りようもない愛情があったのかもしれない。僕はね、母が父を悪くいうのを一度も聞いたことがないんです」 墓を見上げる藤堂の目は、確かに遺恨とは真逆の表情を浮かべていた。 「父のことはよく知りません……恨んでもいません。母については、心から尊敬しているし感謝している。あの人の幸福のためなら、僕はどんなことでも出来ると思っているんです」 微笑した横顔からは、やはり、特段の感情を読み取ることはできなかった。 「お母様は、今もお一人なんですか」 「ええ、あの人はずっと一人です」 藤堂は微笑して頷いた。 「僕を産んだことで、あの人は人生の可能性の殆どを棄てたんです。あれだけ綺麗で才気あふれる人が。―― あの人は後悔などしていないと言うでしょうが、僕には……ひどく残酷なような気がしてならないんです」 「…………」 それは、藤堂が背負うこととは少し違うような気がする。 もしかすると、果歩が女だから思えることなのかもしれないが、もし、藤堂が本当に自身をそんな風に思っているのなら、母と言う人は、逆に辛いだろうという気がした。 もちろん、彼が抱いている気持ちは否定できないし、するつもりもない。 女性に対する罪悪感―― それは、乃々子が言ったことだ。 そこに、藤堂という人の根源があるのだろうか。だとしたら、彼は実の父親を反面教師としてずっと否定し続けてきたことになる。―― 果歩は何も言えないまま、彼の隣で膝を折り、墓前に向かって合わせた。 雨のせいか湿り気を帯びた墓石には、二宮家累代、と記されている。 「私……今となっては失礼な思い込みだったんですけど、お母様は再婚されたのだと思っていました」 「以前、あなたの前で、義父のことを、お父様と呼びましたからね」 藤堂は苦笑した。 「義父は、父の兄に当たる人ですが、僕にも母にもとても優しい人なんですよ。一族の中で母を親類だと認めているのは、あの人だけなのかもしれません。そういう人だから、母も僕を養子に出す決意をしたのでしょうが」 藤堂は立ち上がり、果歩を見下ろしてわずかに笑んだ。 「こんな話をして、不愉快ではないですか」 「いえ、そんな」 果歩は恐縮して、少し頬が熱くなるのを感じていた。 「……話してくださって嬉しいです。私……」 藤堂さんのこと何も知らない。ううん、今まであえて、知ろうとはしなかった。多分故意に、逃げ回っていたから。 「もっと、藤堂さんのこと、教えてほしいです。あの、それこそ不愉快じゃなかったら」 「…………」 「私のことも……」 訊いて欲しいと、そこで言わなければならないのに、何故か言葉が喉に引っかかって出てこない。 「兄の話をしても、いいですか」 静かな口調で、藤堂は言った。 自分の躊躇いを見抜かれたようで果歩は申し訳なくなったが、黙って小さく頷いた。 「兄は―― 義父の一人息子で、僕には従兄に当たります。脩哉という名前で、僕より2歳年上でした」 雨は少しずつ小降りになってきていた。 「僕らの出会いは、決して愉快なものではありませんでした。僕が彼の存在を知らなかったのは勿論ですが、彼もまた、僕の存在など知らなかったのですから」 初めて藤堂の内面に踏み込んでいく怖さと不安で、胸がわずかにざわめいている。 果歩は藤堂を見上げ、その変わらない横顔に勇気をもらった気になって、自分から訊いていた。 「いつ、ご養子に行かれたんですか」 「10歳の時です。夏休みだったかな」 藤堂は早生まれだから、それは小学5年生の夏休みということになる。 「それまでは、お母さまと一緒に?」 「……あの夏のことは、今でもよく覚えていますよ。子供時代、あれほど悲しい思いをしたことはありませんでしたから」 「…………」 果歩がわずかに感じた疑問は、それで簡単に氷解した。 非嫡出子だった藤堂は、生母と引き離される形で、この墓の一族に入ったのだ。 「当時の僕は―― 自分の環境や母の立場に強い憤りを覚えていました。ただでさえ僕は、非常に生意気というか、ませたところのある子供だったので」 その口調には、わずかな自嘲が含まれている。 「もしかすると、母をないがしろにしてきた本家に対して、どこかで報復したいという気持ちがあったのかもしれませんね」 「………」 「そこまで意識して養子に入ったかと言うと、また少し違うのですが……。いずれにしても相当ひねくれた気持ちで、新しい家族の輪に入ったことだけは確かです」 「瑛士さんは、優秀すぎたんですよ」 背後から、優しい声が割って入った。 果歩は、驚いて振り返っている。 驚きは、しかし藤堂のほうが大きかったようだった。 「いらしていたなら、教えてくださったらよかったのに」 薄い闇の中から、すらっとした女性が姿を現した。 かつての印象とは別人のような、地味なワンピースと黒のハーフコート。 髪はひとつに束ね、手には折りたたんだ傘を持っている。 「丁度帰るところだったんです。そうしたら、正安様が瑛士さんがいらしていると教えてくださったので」 ――香夜さん……。 一番会いたくなかった人との思わぬ邂逅に、果歩は声をなくしている。 どうして今この人が? これも偶然?―― 偶然、こんな皮肉な巡りあわせが起きたというの? 「お休みの日は、私、必ずこちらに寄りますのに」 香夜は微笑して藤堂を見上げた。 「瑛士さんもご存じのはずですよね? 私と会わせたくて的場さんを連れて来られたなんて、随分罪なことをなさるのね」 藤堂は何も言わず、ただわずかに目をすがめた。 |
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