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年下の上司 story13〜JanusryA

メモリーズ(5)


「こんな時間まで、おられるとは思わなかったので」
 やがて発した藤堂の弁明を、香夜は笑って遮った。
「的場さん、信じては駄目ですよ。そんな嘘」
 果歩は、何も答えることができず、ただ固まったままで立ち続けている。
「瑛士さんは虫も殺さないような顔をして、狡猾な悪だくみをされる方ですから。さて、罠にかかったのは誰でしょう。私? それとも的場さん?」
 香夜は1人でくすくすと笑う。藤堂は答えず、視線だけを下げる。
 果歩には―― それは、彼が肯定したというより、ただ反論を諦めたように見えた。
 足元の砂利が、まだ雨に濡れている。
 藤堂さんは、嘘を言ってるわけじゃない。
 果歩は、自分に言い聞かせた。
 一時、相当激しい雨が降ったから―― きっと香夜さんは、到着が遅くなったか、帰るタイミングを逸したのだろう。
 よりによってこんな日に、藤堂が果歩をあえて傷つける真似をするとは思えない。
 が、この偶然は、果歩には少しばかり痛手が大きく、もう気持ちがくじけそうになっている。
 香夜は余裕に満ちた目で果歩を一瞥し、あたかも勝者のような微笑を浮かべた。
 こうして見ると、彼女が決して若いだけの子供ではないと窺い知れる。
 きりっとした眼差しも、意思の強さを窺わせる唇も、灰谷市で見た時とは別人のようで―― むしろ果歩よりいくつも年上の女性のようにも見える。
「瑛士さん、せっかくいらしたんだから、正安様にご挨拶なさってこられたらよろしいのに」
「それは、別の機会にしますよ」
「いいえ、ぜひ行っていらして、先日はあんな形でお帰りになられたのだから」
 きつい、咎めるような口調だった。
「その間、的場さんのお相手は私がしますから」
 厳しさを込めた眼差しが、今度は果歩に向けられる。
 果歩は何も言えず、怯えたように一歩下がり、藤堂がそれを気遣うように振り返る。
「それとも、的場さんに聞かれたら困る話でもありますか? 亡くなられた脩哉さんのことなら、瑛士さんより私のほうがよく知っているのに」
「彼女には、まだ何も話してはいないんですよ」
 果歩を庇うように前に出て、藤堂は落ち着いた口調で反論した。
「それに、僕には、特段隠すようなことはありませんから」
「じゃ、正安様のところに行っていらして」
 香夜はさらに落ち着いていた。
「そうでないと、的場さんも気になるでしょう。私と2人にしたくないなんて、まるで瑛士さんに、何かやましいことがあるようじゃないですか」
 藤堂がわずかに息を吐くのが判った。
「そうはいきませんよ」
「自分の都合のいいことだけをお話しになるのは、フェアだとは言えませんわ」
「そういうつもりはありません」
 香夜の視線が、そう答えた藤堂を無視するように果歩に向けられた。
「的場さんも、もちろん、お知りになりたいでしょう?」
 果歩は何も言えずに、全身を強張らせている。
「瑛士さんの本当の姿……あなたの、まるでお知りにならない、東京にいた頃の私とこの人の関係を」
 柔らかな刃を首につきつけられている気分だった。果歩は、何も言えないままでいる。
 どうしよう……。
 ここは大人の女らしく、「ええ、ぜひ聞かせてください」と余裕で受け答えたいところである。何を聞いても動じませんから、だって、私、藤堂さんを信じているんです。
 そんな風に言いきって、この最大のライバルに立ち向かいたい。
 ――でも……。
 果歩は迷うように立ったまま、結局は何も言えないでいた。
 香夜はそんな果歩を、冷やかに見つめ、憐れみさえこめた微笑を浮かべた。
「随分、お弱いんですね」
「…………」
「瑛士さんに好かれている自信がないのかしら。それとも、逆なのかしら」
「…………」
「断言してもいいですけど、今、ここでお引きになった方があなたのためだと思いますよ」
 再度藤堂が、諦めにも似た息を吐くのが判った。
「なんと言われても、今、彼女を1人で置いていくような真似はできません」
「そうですか」
 意外にも香夜は、あっさりと引いた。彼の性格を知り尽くしたような引き際に、果歩はますます圧倒されるものを感じている。
「的場さん、瑛士さんは、一種の天才なんですよ」
 が、香夜は息さえつかず、淡々と話を継いだ。
「きっと亡くなられたお父様の血を受け継がれたんでしょうね。一度見ただけでどんな文書も記憶してしまわれるし、複雑な数式も解いてしまわれるんです。二宮の家にはそういった才を持つ人間が隔世おきに排出されて、代々当主として一族を率いていたんですわ」
 二宮の家とはなんだろう。果歩は改めて疑問に思っている。
 それまでのいきさつや墓の豪華さから、彼の実家が相当な資産家であることは、漠然と理解している。
 が、香夜の口ぶりからは、あたかも一族そのものが特別な存在であるように聞こえる。会社社長とか、地主とか、その程度のレベルしか想定できない果歩には、香夜の言っている一族という感覚は、あまり現実味をもって伝わってこない。
「非嫡出子だった瑛士さんが、本家に引き取られたのはそういった理由からですわ。仮に瑛士さんが凡人だったら、見向きもされなかったでしょうけれど」
 果歩を静かに見据えながら、穏やかな口調で香夜は続けた。
「でもねぇ、的場さん。本家にもそういった才能を持つ者として、幼い頃から英才教育を受けていた子がいたんですよ。直系が次々早世した後の一人息子でしたから、それはそれは期待を一身に背負わされて」
「…………」
 香夜の目が、そびえ立つ黒い御影石を見上げた。空からは再び小糠雨が降り始める。
「突然現れた本物の天才の前で、ただ過酷な努力だけで天才だと言われ続けてきた人は、いったいどんな気持ちだったでしょうね。瑛士さんはひどく残酷に、彼の被っていた仮面を剥がして、最後は死を選ぶしかないところにまで追い詰めたんです。彼の大切にしていたものを次々と奪い取って」
 果歩は、重い衝撃を受けたまま、咄嗟に藤堂の背を見つめていた。
(兄を殺したのは僕だからです)
 彼の告白が、鈍い痛みとなって蘇る。何かの比喩だと思っていたし、実際その通りなのだろう。
 でも―― それでも、藤堂の背中は、重すぎる罪に身動きがとれなくなっているような気がした。
「あの……」
 耐えきれずに、口を挟んだのは果歩だった。
 藤堂の背中を、これ以上見られないと思ったのだ。
 というより、何故香夜さんは、こんな意地の悪い言い方をするんだろう。
 この人は―― 藤堂さんを好きなのではないのだろうか。
「それが、本当の話だとして」
「本当ですわ」
 にっこりと香夜は答える。果歩は、拳を脇で握って深呼吸した。
「本当だとしたら、藤堂さんは、随分ひどい人だということになりますね」
「ええ」
 一拍置いて、香夜は静かに微笑した。「彼は、残酷な人だと思います」
「だったら何故、当時も今も」果歩もまた、一拍置いて、香夜を見つめた。
「香夜さんは藤堂さんと、結婚なさろうとしたんですか」
「何故?」
 香夜は逆に問い返すと、子供のような顔で笑った。
「まず8年前のことを言えば、その時、私、瑛士さんの子を身ごもっていたんですもの」
 地面が崩れたような衝撃があった。
 藤堂の背は動かなかった。
「今回も―― てっきりそうだと思ったのだけど、ただの生理不順だったみたい。ね、瑛士さん」
 藤堂の背は答えない。
「でも、安心なさって。8年前の子供は流れてしまいましたし、少なくともその時の瑛士さんは、私が好きだからそのような振る舞いをなさったわけじゃありませんから」
 心臓が、重苦しく高鳴っている。
 女性への罪悪感―― 嫌悪感―― 。
 彼が、何をされても動じない理由―― 。
「その証拠に、瑛士さん、逃げてしまわれましたからね」
 再び、藤堂の告白が、果歩の胸を締めあげる。
 部屋に置いてあった診察券。そうだ、確かに全てが腑に落ちる。でも―― でも。
「亡くなられたお父様と同じことを自分もしてしまうなんて……やはり、親子なのね、瑛士さん」
 香夜は、探るような目で藤堂を見上げた。
「何か反論したいことがあれば、どうぞおっしゃって、瑛士さん」
「いえ……」藤堂は低く答えた。
「何も、ありません」
 果歩は眩暈を感じていた。
「ね、言ったでしょ、的場さん。今、引いたほうが身のためだって」
 香夜はにっこりと微笑んだ。
「彼は家を出たつもりでしょうけど、二宮の後継者という立場は、彼がいくら名前を変えようと変わりはしません。それにもう、二宮の直系は瑛士さん1人しか残っていませんから」
「…………」
 藤堂は黙っている。
「その責任を放棄するのは卑怯というものですわ。巨大な利権には様々な軋轢や争いがつきものです。的場さんのような平凡な方が、この人を支えていこうなんて到底無理な話なんですよ」
 果歩は何も言えないまま、ただ動かない藤堂の背を見つめている。
 そしてふと思っている。
 何故、私は逃げないんだろう。
 いつもの私なら、ここで激怒して、藤堂さんをぱしんとひっぱたいて―― 。
 まぁ、そんなムードでもないんだけど。
 今は……全部を聞いておこう。
 果歩は、自分の気持ちが不思議に落ち着いているのを感じていた。
 ここまで最悪の過去を聞いた以上、もう開き直る以外の何ができるだろう。とっちめるのも軽蔑するのも後の話だ。
「香夜さんは」果歩は言った。
「藤堂さんのお兄さんと、結婚されるはずだったとお聞きしました」
 つっこんだ質問だった。いや、つっこみすぎていると言ってもいい。
 果歩は自分史上初めて、ライバルと言える相手に闘いを挑んでいる自分を感じた。
 が、一瞬自身を駆り立てた勢いみたいなものは、悠然と微笑する香夜の前で、早くも崩れそうになっている。
「ええ」
 果歩の弱気を見越したように、香夜は涼しげに微笑した。
「私、子供の頃から脩哉さんと婚約していたんです。それも、決して本意ではありませんでしたけど」
 勝者の余裕をありありと浮かべて、香夜は続けた。
「イミテーションの宝石より、誰だって本物がよく見えるものでしょう? だから私、脩哉さんを裏切ったんです。きっと瑛士さんは、私のことを好きでいてくれると、その時は本気で信じていましたから」
 くすっと何かを思い出すように香夜は笑った。
「でも瑛士さんにとっては、私はただの―― 脩哉さんを追い詰めるための、道具にすぎなかったわけですけどね」
「そんな、最低な人と」
 こみあげる激しい感情を、それをどう言い表していいか判らないまま、果歩は訊いた。「どうして、また結婚しようと思ったんですか」
 一瞬、香夜が表情を曇らせるのが判った。が、それはすぐに消える残り香りのように、あっさりと別の表情にとって代わられる。
「感情と義務と、……それには、二つの理由がありますわ」
 ひどく静かな口調だった。
「的場さん、この人を好きですか」
「…………」
「でも、身を引いていただかなくてはいけません。だって私たちは、脩哉さんの犠牲の上に生きているんですから。いまさら、一人だけこの十字架から逃げ出そうなんて、絶対に許されることではないでしょう」
「…………」
「私はどんな手を使ってでもこの人と結婚します。お気の毒ですけど、その過程で傷つくのは、おそらく的場さん一人になるでしょうね」
 揺るぎのない自信に満ちた口調に、果歩は何一つ言葉を返すことが出来なかった。
「残念だけど、その時に瑛士さんを頼っても無駄ですよ。今のこの人に誰かを守るなんて……気の毒なほど無理な相談ですから」
「…………」
「そして、どうせ逃げてしまうに決まっているんです。この人はそういう弱い人なんですよ」
 
 *************************
 
「帰りましょうか」
 藤堂に声をかけられて、固まっていた果歩は、はっとして顔を上げた。
「送りますよ。……嫌なら、タクシーを拾いますが」
「…………」
 果歩は藤堂を見上げ、それから小雨の降りしきる空を見上げた。
「傘……」
 思わずそう呟いている。
「ささなきゃ。持ってるのに、バカですね。私」
 果歩は手にしていたビニール傘を開いた。藤堂の車に置いてあったものを、もしものことを考えて持ち出してきたのだ。
 彼にかざすと、少し躊躇ってから藤堂はそれを受け取り、果歩のほうに向けてくれた。
「タクシーは、……ちょっと怖い思いをしたんですよ、この間」
 歩きながら、果歩は先夜の恐怖体験を藤堂に話した。
 三宅のことは話さなかった。こんな場合なのに、少しばかり引け目に感じる自分をおかしく思いながら。
「いつもなんの気なしに利用しているのに、よく考えたら怖いですね、タクシーって。だってあんな密室に、知らない男の人と2人きりなんですから」
「信頼できる会社か運転手を決めて、もしもの時は電話で頼めるようにされたらいいですよ」
 藤堂もまた、なんでもないように答える。
「それ、なんだかお金持ちの人の発想みたい」
「そうかな……まぁ、僕に、そういった女性の心理は判らないですが」
「藤堂さんみたいな人が乗り込んだら、逆にタクシーの運転手がびびっちゃうんじゃないですか」
 何を普通に話してるんだろう。私たち。
 首をかしげた時、駐車場に止めてあった車についた。
「僕の車でいいですか」
 藤堂が訊いた。
「僕は……」
 雨が、彼の前髪を濡らしている。
「あるいは、タクシーの運転手より、得体の知れない怪物かもしれませんよ」
「…………」
 果歩は藤堂の手から傘を受け取り、彼にかざした。
「鍵、開けてください」
「…………」
「門限には間に合いそうもないから、電話お願いしてもいいですか。とてつもなく心証が悪くなることだけは請け合いですが」
 互いに車に乗り込んでも、藤堂はしばらく動こうとしなかった。
 果歩は黙って、フロントガラスに流れる雨を見つめていた。
 どうして、私、怒ったり取り乱したりしないんだろう。いつだって最後まで彼の言い訳を聞かず、逃げ出したり嫉妬したりしていたのに。
 もう、そうする価値さえないってこと?
 確かに最低の過去を聞いた。最低―― そうだろうか? そうは思えない私は、いっそ女性の敵なのかしら。
 胸に、ひやりとした金属の感触がした。
 果歩はようやく、藤堂からもらったリングのことを思い出している。
 ――私……。
 大丈夫、彼をきっと、信じることができる。
 この10カ月あまり、私の知っている藤堂さんは、決して香夜さんの言うような人じゃなかった。
 そうだ、大河内さんの時に思い知らされたばかりだった。
 真実は、彼と香夜さんの中だけにある。
 私にできるのは、私が知っているこの人を信じることだけ―― 。
「藤堂さんの口から、教えてもらっていいですか」
「…………」
「言い訳でもいいですよ。多分、何を聞いても、私は藤堂さんの味方ですけど」
「…………」
「わ、若い頃には、誰だって過ちのひとつやふたつありますよ! ちょっとしゃれにならない過ちですけど……」
 さすがに言葉に詰まっている。
「……それでも、だからって絶対許されないことはないですから」
「…………」
 無言のまま、彼はエンジンをかけ、冷えていた車に暖房を入れた。
 果歩はようやく、自分も藤堂も、ひどく濡れているのに気がついた。
「彼女の言うことは、大筋で当たっています。僕は……二宮の家に引き取られてから、2歳年上の兄に追いつこうと、毎日、必死でしたから」
 静かな口調で、彼はようやく沈黙を破った。
「古い柔術のひとつを習得することが、あの家では伝統のようになっているんです。初日、僕は脩哉にものの見事に投げ飛ばされて、1人で起き上ることもできませんでした。彼は華奢で、背も僕の方が高かったのですが、手も足も出なかった。――あんな情けない思いをしたのは生まれて初めてで、本当に悔しかった」
 悔しいと言いながらも、藤堂の口調が思いのほか楽しそうなのが意外だった。
 果歩は黙って、藤堂の言葉の続きを待った。
「高校生の時、初めて彼を破ることができました。……嬉しかったな。僕はそういった方面は不器用なので、柔術の稽古は本当に辛かったですから」
 不器用というよりは、優しいこの人に、そもそも格闘技など不向きなのではないか、と果歩は心中で思っている。
「香夜さんはああ言いましたが、脩哉は優れた人だったと思います。僕は……相当意地になって勉強しましたからね。いや、勉強だけじゃない、運動も柔術も絶対に負けたくはなかった。……とはいえ高校生になるまで、僕は彼に、何をしても敵わなかったのですが」
「…………」
「僕は脩哉のことを、何をしても歯がたたない天才だと思っていました。もし、僕に……悔いがあるとしたら、それが彼の血の滲むような努力の賜物だと、最後まで気づくことができなかったということです」
 ――最後……。
 果歩は、胸が痛むような思いで、彼の告白を聞いている。
「僕が高校生になった頃から、逆に、何をしても彼に勝つようになりました。僕は有頂天でした。……はっきり言えば、僕は脩哉が大嫌いだったし、脩哉もそれ以上に僕を嫌っていましたからね。長い間兄弟として暮らしていましたが、僕らが個人的に口をきくことは皆無でした。――最後の夜まで」
 雨が少しだけ激しくなった。
「希望大学の入試に失敗した時から、思えば脩哉は、少しずつ追い詰められていたのかもしれません。僕自身は、たまたま調子が出なかったのだろうとしか思いませんでしたし、彼もさほど気にした風ではなかった。――でも、僕は知らなかった。その頃から、義父や親類たちは、一族の後継を脩哉ではなく、僕に決めようとしていたんです」
「…………」
「香夜さんは、彼の婚約者でしたが、彼女の両親は僕との縁組を望みました。全ては後になって知ったことですが。――ただ」
「…………」
「彼女と僕が、2人で……彼を裏切っていたのは本当の話です。これは、言い訳になるかもしれませんが」
「いいんですよ」
 果歩は、藤堂の冷えた手に自分の手を重ねていた。
「いっぱい、言い訳してください」
「…………」
 藤堂はしばらく、自身の感情と闘うように黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「僕にとっては、彼へのささやかな優越感のためであり、……彼女にとっては……多分、あてつけだったんだと思います」
「…… あてつけ?」
「彼女は、本当に脩哉が好きだったんですよ。なのに、脩哉は彼女にひどく冷たかった。……僕は、いつも彼女を可哀そうだと思っていましたから」
「…………」
「僕も、熱に浮かされていたのかもしれません。……そういう年でしたから。脩哉と彼女に、男女の関係があるのは知っていましたが、それも――許せなかったのかな」
 彼は、唇を噛みしめるようにして、そのまま言葉を途切れさせた。
「すみません」
「……藤堂さん」
「それでも、どうしても僕には言えないことがあります。それは、僕自身が生涯言い訳しないと誓ったことです」
「…………」
 これほど苦しげな彼の横顔を見るのは初めてだった。
 重苦しい胸の痛みと闘った後、果歩は、ゆっくりと首を横に降った。
「いいんですよ。私は、私の知っている藤堂さんを信じてますから」
「…………」
 私は信じてる。
 この人が、本当の意味で、私を絶対に裏切ってはいないって。
 今は―― 私と出逢ってからは。
 目を鋭く眇めたまま、藤堂の横顔は暗い微笑を浮かべた。
「いずれにしても、彼女の言ったような卑怯な動機で、僕は彼女と密会の機会を持ったんです。それは間違いありません」
 それは、想像するだけで胸が苦しくなる情景だった。
 果歩は黙って、彼の手に自分の手を重ね続けている。
 しばらく無言だった藤堂は、やがて感情を断ち切るように口を開いた。
「後になってみれば、そういったひとつひとつが、脩哉を追い詰めていたんでしょうね。彼は京都の大学に進学して、その日は正月休みのために帰省していました。明日は京都に戻るその前日になって、いきなり飲まないかと誘われました」
「……お酒ですか」
「僕はまだ17だったので」
 当時のことを思い出したのか、藤堂はわずかに苦笑した。
「これは、彼の仕掛けた罠だと思って、かなり警戒して彼の誘いにのりました。実際は違った。……脩哉は初めて見るような優しい態度で、僕らは初めて打ち解けあい、色んな話をしたんです」
「…………」
「今思えば、ひどくたわいない話ばかりでしたが、僕はすごく楽しかった。何年も、ずっと一緒に住んでいて、どうしてこんな簡単なことができなかったんだろうと思いました。今でも……僕の人生で、一番楽しい思い出です」
 果歩の手の下で、彼の指がわずかに強張るのが判った。
「その夜、彼は睡眠薬を大量に飲んで死にました」
 藤堂は初めて言葉を詰まらせた。
「遺書はありませんでした。京都のマンションも綺麗に片づけてあったそうです」
 果歩は何も言えなかった。
 藤堂の胸の痛みが自分にも押し寄せてきて、不覚にも視界がわずかに潤んでいた。
「僕が……あの家にさえ入らなければ」
「…………」
「全てが上手くいっていたんです。僕は、……逃げました。耐えられなかったから。僕が存在していることも含めて、全てが」
 果歩は彼の手を強く握り、そっとその肩に自分を預けた。
 ―― 藤堂さん……。
「後になって気がつきました。……僕は脩哉が大嫌いだったけど、彼がいたから、過酷な試練にも耐えていけたのかもしれない。……僕らは、同じ速度で走っていたんです」
「同じ、速度ですか」
「……死の前夜に、脩哉に言われたんですよ。俺たちは映し鏡で、互いに、同じ速度で走り続けている車輪みたいなものだと」
 藤堂の腕が、果歩の肩をそっと抱いた。
 が、彼は引き寄せるのではなく、逆に優しく引き離した。
 果歩は、藤堂を見上げている。
「僕もそう思いました。僕は本来怠け者ですから、それまで、何に対しても本気で挑んだことなどなかったんです」
 彼の眼差しは、全てを諦めたような優しさが滲んでいた。
「……ただ、僕の目の前には、いつも脩哉がいたから―― 僕は、全力で走り続けるしかなかった。それは彼も同じでした」
 ―― 藤堂さん……。
「脩哉には、もうその速さは限界だったんでしょう。僕は……何も気づかなかった。気づこうともしなかった。全ては、香夜さんの言うとおりです」

 *************************
 
「すみません、お待たせしました」
 ベンチに腰掛けてコーヒーを飲んでいた果歩は、その声で顔をあげた。
 携帯をしまいながら、藤堂が少し慌てた様子で駆けてくる。
「緊急の用事だったんですか」
「いえ。明日、次長が休まれるそうなので、簡単な事務引き継ぎです」
 電話は、春日次長からだった。
 走行中にいきなりかかってきた着信に、藤堂は大慌てでインターに入って電話を掛け直した。
 まさか、こんなところにまで春日が追ってくるとは思わなかった果歩は呆れていたが、車内で、ずっと無言だった藤堂には、丁度よかったのかもしれない。
「すみません。急ぎましょう、もう9時を過ぎてしまった」
「いえ……」
 果歩はコーヒーのカップを持ち上げた。
「どうせ遅くなるんだからもういいですよ。藤堂さんも少し休みませんか」
「はぁ……」
「ほら、星も綺麗ですし」
 藤堂はしばらく躊躇っていたようだったが、諦めたように果歩の隣に腰を下ろした。
「すみません……」
 ややあって、息を吐くように彼は言った。
「何がですか」
「こんなつもりじゃなかったんだけどな。……もう少し、上手に打ち明けるつもりだったので」
 彼が落ち着きを取り戻しているのが、果歩には判った。少しだけ果歩もほっとして、彼の隣で冬の夜空を見上げている。
「なんで、私に話してくれようとしたんですか」
「……………」
 それには、しばらく答えが帰って来なかった。
「僕は……4月まで、待ってくれといいました」
「……はい」
「それは、何度も言いますが、的場さんをその時まで縛りたいという意味ではないんです。……むしろその間に、僕という人間を見極めてもらいたいと思っています」
「…………」
「だから、僕の口から話せることは全部話しました。知っていて欲しかったから。……その上で嫌われるなら、それは仕方のないことだと思いましたし」
「…………」
 私―― 。
 今度は逆に、果歩が不安にとらわれている。そうだ、私も彼に打ち明けていないことがある。彼が何もかも、自分にとって恥になるような過去まで全て打ち明けてくれたのに。
「藤堂さん、私」
「的場さん」
 柔らかく遮られ、果歩は動揺したまま、藤堂を見上げている。
「僕は、聞きません」
「…………」
「聞きたくないんです。それが耐えられないという意味ではなく、……その時は、自然に訪れると思っているので」
「でも」果歩は言い淀んでいる。「……でも」
「4月に、教えてください」
「…………」
「そのほうがいい……きっと、そのほうがいいんです」
 まるで、自分に言い聞かせているような口調だった。
 落ち着き払った彼の態度に、何故か果歩は、ますます動揺を感じている。
「そ……、その時に、私のこと、嫌いになったりしませんか」
「さぁ、どうかな」
 藤堂は笑って立ち上がった。
「帰りましょうか。それ以前に、的場さんのご両親に嫌われたらどうしようもありませんから」
「えー、なんかずるい……」
 果歩も渋々立ち上がっている。
 それでも、藤堂が笑っているので、今の夜空のように、心も晴れていくような気がした。




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