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年下の上司 story13〜JanusryA

メモリーズ(最終話)


「あ、やっぱりいたんだ」
 1人で飲んでいたりょうは、その声に訝しんで振り返った。
「日曜なのに、案外寂しい人ですね」
「お互いにね」
 前園晃司は、特段断りを入れることもなく、りょうの隣に腰を下ろした。
 りょうは眉を寄せている。なんなの、この図々しさは……この間まで、人の顔みりゃ縮みあがってたくせに。
「俺も仕事だったんですよ。人事の前通ったら、宮沢さんが見えたから」
「へぇ」
 見えたから?
 こんな時間にバーまで追いかけてくる必要ないと思うけど……。
「元気ないっすね。もしかして、男に逃げられたんですか」
「君はとても元気そうじゃない」
 頬杖をつき、りょうは軽いジャブを放った。
「今日一日、果歩は思い出にどっぷりつかって、君どころじゃないってのにね」
「そ、それは、あの木偶の棒だって同じじゃないっすか」
 むっと、晃司が不機嫌そうに眉を上げる。
「そう思ったら、ちょっと一日気分がよかったんですよ。昨日は俺と一緒にいたし、最近はややリードしてる感じになってますからね」
「ほんっと……」
「な、なんですか」
 器が小さいというかなんというか。
 こりゃ、どう考えても果歩の恋人役に返り咲くのは無理そうだな。
 あまりに可哀想だから、果歩の家に電話したことは、内緒にしておこう。
(果歩なら、藤堂さんと出かけて、少し帰りが遅くなるって……りょうちゃん、どうなのかしら? あの子と藤堂さんって上手くいっているの?)
 にしても、やっぱり出たか。葬式に。
 果歩は……本当に、馬鹿だなぁ……。
 そんな風にいつまでも割り切れないでいると、いつか足元をすくわれるんだから。―― 忘れていたと思った過去に。
 ふと気付き、りょうは晃司をまじまじと見ている。
「……なんすか」
「ううん」
 まぁ、ここまですっぱり忘れられる過去ってのも、ちょっと可哀想な気がするけど。
「飲もう!」
「い、いや、少しはつきあいますけど、もう、がっつり飲むのは……」
「大丈夫、今度はきっちり見捨てていくから」
「そんなところで保障されても……」
 相当警戒しながら、晃司はウィスキーの水割りを受け取った。
「報われない努力に」
「そんな乾杯いりません」
 が、頑なだった男は、2杯目になる頃には、少しばかり砕けていた。
「……まぁ、実は、今日はお礼を言いに寄ったんですよ」
「お礼?」
 恨まれることは沢山したけど、お礼なんて言われる筋合いあったっけ。
「年始に……あれ以来、あの女子高生、一切連絡してこなくなったから」
「ああ」
 長妻真央―― 大河内さん事件の女子高生か。
「そりゃ、残念なことをしたわね」
「なっ、何言ってんすか。あの子のおかげでアパート中の住人から白い目で見られるし、大変だったんですから」
「相当な美人になると思うけどな」
「まぁ……そうかもしれないけど、今はただの目茶苦茶な女の子ですよ」
「ふぅん」
 りょうは素っ気なく言って、自分のグラスを持ち上げた。
「じゃ、手は出さなかったんだ」
「あ、当たり前じゃないですか。こう見えて俺、身持ちは固いほうですから。――あ、 いや、確かにそういう過去はありましたよ、ありましたけどね!」
 りょうがじろっと睨むと、晃司は閉口したように視線を逸らした。
「……あれは、まぁ、なんかこう……そういう時期だったんですよ」
「時期、ねぇ」
「……今思えば馬鹿げてるけど、……俺、多分」
 晃司はふと、考え込むような目になった。
「果歩と別れたかったのかな……」
「は?」
 りょうは、自分の顎が落ちたのかと思っていた。
 言うに事欠いて、別れたかった?
「だったら一言そう言えば、果歩はあっさり身を引いてたと思うけど?」
「はは……すげ、あっさり言いますね」
 不意にその横顔が寂しげになった。
 ああ―― と、りょうは突然全てが判ったような気がしていた。
 果歩の一番好きな相手は、もしかして自分ではないのかもしれない。
 男が感じるその不安と苛立ちを、果歩みたいな基本楽天家で鈍い女が判るはずもない。
 ――そうか、それが……怖かったんだ。
 別れたいと言って、あっさり了解されることが。
 もしかしてこの子は、果歩の気持ちをどこかで確かめたいと思っていたのかもしれないな。
 あんな無様な真似でもしなければ、自分から別れられないと思ったのかもしれない。
「にしても、往生際、かなり悪いよ」
「わ、判ってますよ。ほっといてください」
 ぶつぶつ言いながらグラスを置いた晃司は、そう言えば、と不意に口調を改めた。
「俺、なんか、失礼なこと言いました?」
 りょうは、きょとん、と瞬きをしている。
「……誰に」
「……宮沢さんに」
「私に?」
「あ、その切り返しは、完全に俺の考えすぎですね」
「なんの話?」
 ほっとした晃司の横顔に、ますますりょうは意味が判らなくなっている。
「いや、果歩に……宮沢さんは傷つきやすくて繊細だって説教されたから……俺が何か無神経なこと言ったんじゃないかって」
 はぁ……。
 果歩もまた、面白い話をしてくれるなぁ。
「私が傷つきやすくて繊細なのは本当だけど、それは君とは一切関係のない部分での話だからね」
「は……はは、俺だって傷つきやすくて繊細なんすけどね」
 晃司はひきつった笑いを浮かべている。りょうは首をかしげていた。
「果歩の誤解は、解いたつもりだったんだけどなぁ」
「あいつ、一度思い込むと、結構しつこいところがあるから」
「まぁね、ただ」
「……ただ?」
「ううん、なんでもない」
 君の場合は少しばかり違うような―― が、りょうは自分の分析結果を当事者に伝えるのはやめにした。
「まぁ、まんざら誤解でもないしね」
 少し意味深に笑って見せる。
「え……」
 たちまち、晃司の顔色が紙のように白くなった。
「あの……もしかして」
「ふふ……もしかして?」
「い、いえ……」
 石みたいに固まった人を、りょうは珍しい生き物でも見るような目で見まわして笑った。
「記憶がないって怖いわね、飲みすぎには用心しないと」
「……………」
「あなたの子供ですって、見知らぬ女が抱きついてきても、言い訳できなくなるわよ」
「こ、子供??」
 晃司は椅子を蹴って立ち上がった。
「冗談よ」
 りょうは、冷めた目で見上げている。てか、そのくらいわかるでしょうに。童貞じゃないんだから―― 。
 まぁ、あの夜起きたことは、私一人の胸にしまっておこう。
 あまり、やっかいなことに、これ以上巻き込まれるのも嫌だしね。……なにかこう、おかしな勘違いをされても困るし。
 りょうは時計をちらっと見る。電話、ないなぁ。
 ―― 果歩、上手くやりなさいよ。
 いざとなったら、私がいくらでも言い訳考えてあげるから。

 *************************

「的場さん」
 あと少しで、高速が終わるという時だった。
 果歩は、藤堂と2人の時間が終わることを、少しだけ名残惜しく思っている。
 せっかくこんな時間まで2人きりなのに―― 高速を降りてしまえば、ほどなく果歩の暮らす街につく。
「もしよかったら……」
 それまで何か考えていたような藤堂が、少し真剣な口調で切り出した。
「明日から、僕が家まで送りましょうか」
「……え?」
 遅れてその意味を理解した果歩は、少し驚いて藤堂を見上げている。
「それって、仕事が終わったらという意味ですか」
「ええ、遅くなった時には、ですが」
「でも―― 」
 自転車で? と聞くより先に、藤堂が口を開いた。
「これから残業も多くなるので、自動車通勤に切り替えようと思っていたんですよ」
「本当ですか?」
 やや疑念をこめて果歩はきいた。結構遠くまで自転車を走らせるこの人が? なんだかにわかには信じられないけど―― 。
「忙しくなるから滅多に2人では会えませんけど、少しの間なら、2人でいられるでしょうし」
 えええ―― っっ
 あまりにも藤堂らしからぬセリフに、果歩は飛び上がらんばかりに驚いている。
「それ、素面で言ってます?」
「当たり前じゃないですか、運転中なのに」
 ほ、本当だろうか?
 今まで会うことはおろか、電話さえかけてくれなかった藤堂さんが―― 。いったい、どういう風の吹き回しだろうか。
「ああ、そうだ。ついでに水原君も送れますしね」
 その言葉には、がくっときている果歩である。
 そうか―― そういうオチつきよね。どうせ。
「じゃ、お言葉に甘えます。助かります。うちの近所、少しばかり寂しいので」
「僕が駄目な時は、お父さんに迎えに来てもらうといいですよ」
「そんな、心配しすぎですよ。みんな大げさなんだから」
「……みんな?」
 果歩は、自分の失言に気がついている。
「あ、高速の出口、そろそろじゃないですか」
「……まぁ、いいですけど」
 隠し事の気配を察したのか、藤堂がやや憮然としているのが判った。
 この人、態度にはあまり出さないけど、意外に嫉妬深いのかな? 果歩はそんな藤堂をちらっと横目で見上げている。それとも、今年の願いに一歩近づいたのかしら。
 彼が、身も心も私に夢中になりますように。
 昼間、あれだけ憂鬱に囚われていたのが嘘のように、清々しい気持ちになっていることに、果歩は気がついていた。
 そうだ。
 おかしな期限付きだけど、私にはもう、藤堂さんがいるんだ―― 。
「藤堂さん」
「はい」
 返事をしながらも、彼は後部ミラーを気にしているようだった。
 高速を完全に降りてから、果歩は再び口を開いた。
「私……車輪になりますよ」
「え?」
「少し―― 」いや、かなり「とろくさいかもしれないけど、今度は私が、藤堂さんと一緒に走りますから」
「…………」
「だから、……置いていかないでくださいね」
 とんでもなく足手まといだけど―― いいかな。
 むしろ、迷惑だったりして……。
 しばらく無言になった藤堂が、わずかに息を吐くのが判った。
「どうして、別れ際にそんなことを言うかな」
 低い呟きに、果歩は少しドギマギしている。
「……そ、そんなに悪いこと言いました?」
「ええ」
 ええって……。
 藤堂は車を停め、果歩を見下ろした。
「……帰したくなくなりますよ」
 暗い焔を宿した目に、果歩はかすかな眩暈を感じている。
 一体彼を戒めているものの、本当の正体は何なのだろう。
 こんなにも今―― 彼に求められている自分を感じるのに。
 シートベルトを外し、果歩は藤堂の胸に寄り添った。彼の手がそっと背中に添えられるのが判る。それでも彼は、自分のシートベルトを外そうとはしなかった。
「キス……してもいいですか」
 顔をあげて、おそるおそる果歩は聞いた。
「駄目です」
「どうしてですか」
 勇気を出して切り出しただけに、果歩は少し赤くなっている。
「だってこの前は―― 」
「もう僕が、我慢できなくなるからです」
「…………」
「限界です……勘弁してください」
 囁きにも似た声に、むしろ果歩は全身が熱を帯びるのを感じていた。
 藤堂さん……。
 私だって、色んな意味で限界ですよ。
「我慢、しなくていいですよ」
 果歩は、うつむいたままで言っていた。
「私……藤堂さんの感覚で言えば、軽いのかな。でも後悔はしないと思います。もし、別れるようなことになったら辛いけど、その辛さと、……今の気持ちは、やっぱり別だと思うから」
「…………」
「てか、もうどっちにしても辛いですよ。今だって、もし藤堂さんと別れるんじゃないかって、想像しただけで泣けるくらいだし」
 本当にじわっと涙がにじみ出てきて、果歩は慌ててそれを拭っている。
「―― 的場さん……」
 呟いた藤堂に、いっそう強く抱きしめられる。果歩は熱に浮かされたように彼を見上げ、2人はそのまま額を合わせた。
「約束してもらえますか」
 藤堂が、低く囁いた。
「約束……?」
「的場さんは、絶対に開かないでください」
 え……?
 唇を親指でなぞられた後、不意に彼の唇が被さってきた。
「―――?」
 果歩は驚きながらも、反射的に彼の背に手を回し、そのキスを受け入れようとしている。
「だめ」
 唇の間隙で彼が囁いた。
「だって」
「開かないで」
「…………」
 ――そんな……。
 キスを続けながら、彼が自分のシートベルトを外すのが判った。
 抱きすくめられ、彼の重みと体温が一気に被さってきて、果歩はもう半ば失神しそうになっている。
「や……」
「喋らない」
「ん……」
「こら、逃げるな」
 ひ、ひどい。人には、制限ばっかかけておきながら。―― そんなキスしないでよっ。
 なんだか、もう、拷問みたいな……。
 溶けちゃいそう……。
 …………。
「……意地悪」
 やがて唇が離れて、果歩は小さく呟いている。
「まぁ、お互い様なんじゃないでしょうか」
 藤堂はわずかに笑って、そのまま果歩を抱きしめてくれた。
 
 *************************
 
「だいたい嫁入り前の娘がだな」
「まぁ、いいじゃないですか、ちゃんと電話もあったし、帰りは家まで送ってくださったんですから」
 両親の言い争う声を聞きながら、果歩はそっと自室に戻った。
 ふぅー……。
 息をついた途端に、背後でガラッと襖が開いた。
「やっぱ、その喪服で藤堂さんを悩殺」
 果歩は、妹の眼前で、襖を力いっぱい閉めている。全く―― みんな、人の気も知らないで。
 ――切ないなぁ。
 あんなキスをして、それ以上はお預けなんて、藤堂さんって見かけによらず、結構酷い性格してるのかも……。
「4月かぁ」―― 果てしなく遠いよ、藤堂さん。
 ベッドに仰向けに倒れこみ、果歩はまだ熱の残る唇を押えている。
 にしても、4月。いったい、なんの謎かけだろう。
 彼の家の事情とはなんだか趣が違うような―― もしかして、人事異動で上司部下の関係から解放されたらってことなのかな。うん、それが一番近いような。
「…………」
 しかし……、これからどうなるのかな。
 香夜さんはますますヒートアップしそうだし。
 知らなかった……あの冷たさが、彼女の本性だったんだ。
 藤堂さんは、いったい彼女に対して、どんな感情を抱いているんだろう。
 香夜さんの藤堂さんに対する気持ちは……なんだろう、愛情というより、憎しみみたいな。
(十字架から逃げようなんて、――絶対に許されません)
 彼女は、藤堂さんを好きなわけじゃないのかな……。
 それを愛と呼べるにしても、果歩と同じような意味ではないのかもしれない。
 じゃあ、なんだって、ああも彼との結婚にこだわっているんだろう。
 愛情じゃないなら―― どうして。
 しかも8年もたって、今さら……。
 ふと、混沌とした思考の中に、何かの光が差し込んだような気がした。
 何か、そこに特別な理由があるんじゃないだろうか。
 何か……彼女にしか判らない理由が。
 彼女ほど積極的な人なら、8年も藤堂を放っておきはしないだろう。
 十字架と言う以上、彼女は幸福になるために、彼との結婚を望んでいるわけではないのだ。むしろ―― 。
 その時、いきなり机の上の携帯が震えた。
 せっかくまとまりかけた思考が、あっと言う間に霧散していく。
「ああ……もう」
 あっ、でも、藤堂さんからかな、もしかして。
 急いで携帯を耳に当てると、すっかり忘れていた人の声が響いた。
「的場さん?」
「……乃々子?」 
「ご、ごめんなさいっ、私」
 うわ……綺麗に忘れていた。謝りたいのは、むしろ果歩のほうである。
「こっちこそ、ごめん、電話すればよかったね」
「いいんです。結局、お昼まで家から一歩も出られなくて―― 」
 本当厳しいなぁ、乃々子の家は。
 まぁ、まだ20代だから仕方ないかな。
 果歩にしても、この年になって少しだけ父の束縛が緩んだ感がある。
「あの……結局、どうされました?」
 おそるおそる聞いてくる乃々子の口調に、果歩は、彼女にまで余計な心配をかけていたのだと気がついた。
「あ、全然大丈夫。あの後知り合いに会ったんで、お茶して帰ったの。心配かけて本当にごめんね」
「……そうなんですか」
 乃々子は何かを言い淀んでいるようだった。
「あの……的場さん」
「ん、なぁに?」
「あの、その、オ……」
「……オ?」
「い、いえっ、なんでもないです。じゃあ明日、おやすみなさいっ」
 プツリ、とそれで電話は切れた。
「……ん?」
 なんだろう、意味不明だ。もしかして乃々子も、何かを勘付いたのかな。
 まぁ、明日説明しよう。……乃々子から何か聞かれたら、だけど……。
 
 *************************
 
(こないだ聞いたんだけどー。的場さんの昔の彼氏って、オーランドブルームを縦に伸ばしたみたいな、すっごいイケメンだったんだって)
(噂ですよ? 本当の話じゃないかもしれないけど、相手は市長の息子で、結局は別の人と結婚しちゃったんだって。なんか都市伝説ならぬ、役所伝説みたいな?)
 あれは、どこまで本当の話だったんだろう。
 乃々子は、困惑したまま、自分で切ってしまった携帯電話を見つめた。
 須藤さんも私も、とんでもなく酔ってたから……なんかこう、記憶も曖昧ではっきり覚えてないんだけど。
「…………」
 今日―― 乃々子が待ち合わせの場所に着いた時には、3時をとうに過ぎていた。
 携帯は父親に取り上げられ、その時点ではまだ返してもらえていなかった。果歩と連絡が一切取れないまま、とりあえず喪服に着替えて葬儀会場まで行ってみた。
 当然、葬儀はとうに終わり、待ち合わせをしていた人の姿もない。
 1台の車が、乃々子の横をすり抜けて、少し前の歩道沿いで停まった。黒塗りのリムジン。そのデラックスな長さに乃々子は少しばかりびびっている。
 ――まさかと思うけど、真鍋市長?
 ど、どうしよう。こんな時間に、1人喪服でうろうろしてる私って……。
 たちまち別の方角から、黒い背広姿の男が2人、駆けよって来た。
「すみません、こんな時間までお待たせして」
「すぐにご案内いたします」
「いい」
 降りてきた男の人は短く言った。ひどく冷たい声だった。乃々子は、その顔にくぎ付けになっている。
「選挙前に、俺をマスコミの前に出したくなかったんだろう。親父らしいよ」
 須藤さんはなんて言ってたっけ。えー……えーと、でも、まさか。
 でも―― でも、もしかしなくてもこの人は。
 縦に伸ばしたオーランドブルーム? ……印象は随分違うけど、端正で甘い雰囲気が似ていなくもない。というより、こんな綺麗な男の人を初めて見た……。
「母の弔問にいらした方ですか」
 気づけば、その人が目の前にいた。乃々子はただ棒立ちになっている。
 最初の印象とは別人のように、その人は優しく笑んでいた。
「ありがとう。でも葬儀はもう終わったようですよ」
 それに―― どう受け答えしたのだろうか。
 過ぎてしまえば、まるで幻のように実感のない一場面―― 。
 的場さんに……言ったほうがいいのかな。
 でも何故だろう。口にしてしまえば、誰よりも優しい人が悲しむだけのような気がしてならない。
 言わない方が、いいんだ、きっと。
 あれだけ一人で葬儀に行くことを恐れていた。的場さんにとっては―― もう思い出したくない過去なのかもしれない……。
 自分一人の胸にしまいこむことに決めて、乃々子はそっと目を閉じた。
 誰にだって、触れてほしくない思い出がある。
 ―― 的場さんだけじゃない、私も……。
 父が携帯を一日中取り上げていたのは、決して、先夜、的場家に泊ったことだけが理由ではない。
 自分にもそんな過去が出来てしまったことが、ひどく辛いことのように、乃々子には思えていた。




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