「まず、君が役所に入った動機だが」 中津川の真面目な質問は、「はいはいはいはい」という女子たちの声でかき消された。 「藤堂さん、好きな人はいるんですか」 「好きな女性のタイプを教えてください」 「初恋はいつですか」 「初体験は?」 なんて露骨な―― これじゃ、あからさまな逆セクハラである。果歩は立ち上がっていた。 「皆さん、公務員としての節度を持った質問にしましょうよ。いくら酒の席とはいえ、ここは民間の旅館なんですから」 「じゃ、初恋ってことでいいんじゃない」 りょうが、貫録たっぷりに締め括った。 「さすがに現在の話だと、リアルで言いにくいだろうから」 流奈は明らかに不満顔だが、それでも渋々と頷いた。 果歩も、少しばかり興味を引かれて、ごくりと唾を飲んでいる。 藤堂さんの初恋……香夜さんかもしれない。実際彼は、自分の兄の婚約者のことを、どういう感情を持って見ていたのだろうか。 知りたいようで、知りたくない。なのにやはり、気になっている。 「……初恋ですか」 藤堂は、真面目に考え込んでいるようだった。 「それは、……上手く言えないのですが、どの程度の」 「小学校の先生とか言われてもつまんねーから、リアルに好きだって思った段階でいいんじゃねぇの」 リアルに好き。 南原の意味を問い質すのは気が引けたが、多分、皆がそれぞれの解釈で飲みこんでいる。 それまでの反応から、渋ると思いきや、藤堂は心得たように頷いた。 「10代後半……、そのくらいですね」 わざとぼかしているのか、相当曖昧な返答である。 果歩は目まぐるしく計算している。誰? やっぱりそれは香夜さん? 彼女の傍から逃げ出したのが、確か17歳のことだったから……。 「それ、広すぎじゃない?」 「高校? 大学? 早いのか遅いのかわかんねーじゃん」 「その人とは、つきあってたんですか?」 訝しげに乃々子が次いで質問した。 「いえ、……つきあってはいません」 少し迷いを帯びた回答だったが、あっさりと答えられる。それで二つ目。 「ちょっとぉ、くだらない質問で貴重な罰ゲームを消化しないでよ!」 と、流奈が眉をあげて抗議した時、 「じゃ、失恋したってことですよね。一体何年くらい片思いしてたんですか」 真央が、意外なほど真面目な目で質問した。これで三つ目。 「……うん……」 それには、藤堂はしばらく考え込んでいたようだった。 「片思いというよりは、忘れられなかったという意味ですけど、8年くらい、……そうだったと思います」 それには場内はやや騒然とし、果歩は、棒を飲んだようななんとも言えない気持ちになっていた。 なにその長さ。 10代後半から8年間。つまり彼の青春の大半は、その女性に捧げられたことになる。 最低―― 聞くんじゃなかった。 「果歩、まだ飲むの?」 「いいの、じゃんじゃん注いじゃってよ」 過去は過去として割り切っていたつもりだったけど、こうも一途な初恋談を聞かせられたら、どうしたってへこんでしまう。 一体、その憎らしい人は誰かしら。 やっぱりそれは……香夜さんだったのだろうか。 「じゃ、この辺りでそろそろゲームは終わりということで……」 ようやく、水原が締めに入った時だった。 「じゃあ、最後に僕から、果歩さんに質問してもええですか!」 と、宇佐美が、ゲームの趣旨を全く理解していないとしか思えない言葉を吐いて立ちあがった。 「もし、今日がこの世の終わりとして、ですね。ひとつだけ願いがかなうとしたら、何を望まはれますか?」 「え……?」 この世の終わり……? これまた、考えにくい状況である。 「何だよ、その質問」 「いや、心理ゲームでですね。これで果歩さんの恋愛傾向が……」 男性陣のごちゃごちゃした会話を聞きながら、果歩は真面目に考え込んでいた。 藤堂さんと結婚―― てか、なにもその日にしなくてもな。最後なら、結婚とかもうどうでもいいからラブラブしたい。 別に、どこに行きたいとかもないし、何かを言ってほしいわけでもないけれど。 ただ、藤堂さんと2人でいて、それで―― ……。 「果歩さん?」 そう、果歩さんって、名前を呼んでもらえたら、どんなに幸福で夢見心地だろう。 きっと美しい笑顔を浮かべて天に召されるに違いない。 (―― 果歩さん……) (―― 果歩) 彼の、優しくて愛おしい声を聞きながら。…… 「宇佐美、……的場さん、多分、また自分の世界に入ってるから」 「も、もうええです」 てゆっか、頭がぐるぐるしてる。 藤堂さん。 「ちょっと、果歩。あんた、そんくらいで潰れる気じゃ」 「的場さん? 大丈夫ですか?」 藤堂さん、私の名前を呼んで……。 呼んで……。 ************************* 「悪いわね、とても私には運べそうもないから」 「いえ……」 困惑気味に微笑する男の背には、性質の悪い酔っ払いが背負われている。 「それにしても、何もかもカミングアウトしちゃったわねぇ……」 りょうは苦笑して呟いた。 はからずも、酒癖の悪さまで全員の前で披露してしまった果歩―― 。 明日素面になったら、多分地の底まで落ち込むんだろうな。ま、それもそれで面白いけど。 「この上ですか」 「うん、もう一個上の階」 3人が向かっているのはりょうの部屋だった。 寝てしまった果歩を背負った藤堂と、りょう。 かつて、今と似たような状況があったことを、りょうはふと思い出していた。 「藤堂さん!」 その時、背負われた果歩がいきなり大声をあげた。 「絶対に私が、記録更新しますからね」 びっくりしたりょうは、思わず足を止めた藤堂と顔を見合わせている。 「なんの寝言?」 「……さぁ」 それでも、微笑して再び歩き出した藤堂の横顔は、何かを察しているようだった。 少し考えてから、りょうは言った。 「ねぇ、藤堂君」 「はい?」 「私さ、妙なところで記憶力がよくてさ。一度見た人間の顔は、絶対に忘れないんだよね」 「……それで?」 「8年前……ホテル・リッツロイヤル」 「…………」 「君を初めて役所で見た時、どこかで見た顔だと思ってたんだよね。あまりにかけ離れてたから、すぐに結び付かなかったんだけど」 「…………」 「あの頃、君は18歳、灰谷市にいたんだね。そして果歩と私は22歳。お互い、リッツロイヤルには苦くて甘い思い出があるの……って想像をたくましくしすぎかしら?」 「僕は当時、東京にいましたよ。大学生でしたから」 初めて藤堂が口を挟んだ。 「何のお話か判りませんが、人違いだと思います」 「そうねぇ、きっと恋愛小説の読みすぎね」 「読まれるんですか」 「ううん、全然」 りょうは、自分の部屋の扉を開けた。 「君はどうして果歩が好きなの? ううん、質問を変えた方がいいわね。果歩のことがすごく好きだったのに、どうして気持ちを抑えているの?」 「……そう見えますか?」 「以前、君が、酔い潰れた果歩を今日みたいに背負ってくれたのを覚えてる? 私が電話したら、店に飛んできてくれて、店員の手助けを拒んで一人で果歩を抱き起こしてくれたでしょう? あの時、初めて判ったの。ああ、この子は本気で果歩を好きなんだなって。それも果歩が思っているよりずっとずっと深く、情熱的に」 「…………」 「果歩は、君に振り回されているようなことばかり言ってるけど、私にはまるで逆に見えるの。――どう? 違ってる?」 りょうが用意した布団に、藤堂は気持ちよさげに眠っている果歩を下ろした。 「どう答えたらいいのかな」 「できれば正直に……年下らしく」 りょうを振り返って、藤堂はわずかに視線を下げた。 「僕は、的場さんを好きですよ。それは、もう彼女も知っていると思います」 「…………」 「失礼します」 一礼して通り過ぎた大きな背に、りょうは再び向きなおった。 「私の読みを、もうひとつ教えてあげようか」 藤堂の足が止まる。 「ホテル・リッツロイヤルは、3年前に事実上破産して、創業一族は経営から手を引いたの。その支援に乗り出したのが、株式会社アルテメットファイナンス―― 新興の投資ファンドだけど、社長の名前はご存じかしら」 「……残念ながら」 「社長の生家の建設会社が、同ホテルのオーナーと懇意でね。その関係もあって、買収はすんなり決まったそうよ」 「…………」 「18歳の君が、どうして名門リッツロイヤルの従業員になれたのか、それがずっと不思議だった。あそこは絶対にアルバイトを雇ったりしないからね。―― もし、あり得たとしたら、何らかの縁故」 「…………」 「もちろん、何もかも私の想像のしすぎかもしれないし、その方が気が楽なんだけど」 返される反応はない。 りょうは軽く息を吐いた。 「今年の春には、市長選があるの、知ってるわよね」 「ええ」 「まだどこもスッパ抜いていないけど、真鍋市長の四選を阻止するために、今回は強力な対抗馬が立つだろうって噂があるの。君も、もちろん水面下で囁かれている、その人の名前くらいは知っているでしょう?」 「…………」 「私だったらその前に、無理矢理にでも自分のものにしちゃうけどな。優しいのね、年下君。それとも、それは確かな自信の表れかしら」 「…………」 「言っておくけど、過去って案外強敵よ。全てが、美しいだけの思い出じゃなくてもね」 藤堂が振り返る。りょうは挑むようにその顔を見上げたが、彼の表情から特段の感情は読み取れなかった。 「申し訳ありません。お話が理解できませんでした」 穏やかな口調でいい、彼は静かに頭を下げた。 「失礼します。今夜はお世話になりました」 りょうは眉をあげ、やがて息を吐いて、耳の後ろを指で掻いた。 「強情ねぇ……ったく」 知らないわよ、どうなっても。 私は果歩の味方であって、君の味方じゃないんだから―― 。 ************************* 「大丈夫ですか」 「いいですよ、ここで……」 人気のないロビーのソファに、男は倒れ込むように横になった。 藤堂は、従業員を探して周囲を見回したが、それより早く「誰も呼ばないでください。一人で部屋まで帰れますから」と、遮られた。 今夜は、とことん酔っ払いと縁があるのだろう。 藤堂は、ここまで支えてきた男を見下ろした。 果歩を送って部屋に戻る最中、暗い廊下の片隅で崩れるように倒れていた男である。 相当のアルコール臭がしたから、急性アルコール中毒を疑ったが、男の意識は思いのほかしっかりしていた。 むろん、藤堂はその男の顔も名前も覚えている。 旅館のオーナーの宮沢貴志。 さきほど別れた女性の兄である。 藤堂は、少し離れた場所にある自動販売機でミネラルウォーターを買うと、再び宮沢貴志の元に戻った。 「ああ、すみませんね」 他人に気を使われるのに慣れきった所作で、貴志はペットボトルを受け取り、のろのろと半身を起こした。 「高いでしょう。通常の何割か増しの料金設定になっていますからね。ああ、代金は宿泊料から引いておきますよ。灰谷市役所の方でしょう? ははっ、その程度の認識くらい残ってますって。こう見えて、旅館経営者の端くれですから」 藤堂は無言で目礼して、男の傍から離れようとした。 「大切なものを、わざと壊したくなる気持ちって判りますか」 「…………」 藤堂は足をとめ、男の方を振り返った。 「僕には、昔っからそんな奇妙な性癖があるんです。欲しくて欲しくてしょうがなかった玩具を、ようやく買ってもらえたその日に窓から落として壊してしまうようなね。手を離す瞬間のなんともいえない気持ちが溜まらない……判りますか。エクスタシーです。ぞくぞくするほど興奮する。そうやって、僕はいくつもの玩具を、その窓から落としてきたんです」 「一種のドーパミンではないですか」 藤堂は答えた。 男は声をたてて愉快そうに笑った。 「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。何度か僕自身が窓から飛び降りようとしましたが、その時の興奮ときたら……僕はきっと変態なんでしょうね。いや、病気なのかもしれない。とても大切なものであればあるほど、壊したくてたまらなくなるんです。後で、死にたくなるほど後悔すると判っていても」 「…………」 人は、死に面した時、脳の中枢から一種の麻薬を発散し、それによって痛みや恐怖を感じなくなるという。いいかえればそれは、失うことへの過剰な恐怖の裏返しだ。 「そのお気持ちは判らないですが」 藤堂は言った。ある女性の顔を頭に思い浮かべながら。 「とても大切なものを、自分で壊してしまった人のことなら知っていますよ」 「あっはは、それは愉快だ。世の中には僕みたいな酔狂が、いくらでもいるんですねぇ」 「……あまりにも執着が激しすぎて、完全に自分のものにしたかったんだと思います。どれだけ愛し合ったところで、人は完全に他者のものにはなりませんから」 「…………」 「あなたは、他人にもご自身にも強い執着を抱かれている。……よくは判りませんが、強い愛情の裏返しだと思いますよ。その後、どれだけ後悔するかもよくご存じでいらっしゃいますから」 再度目礼して、藤堂は立ち去ろうとした。それを呟くような声が遮った。 「……君は、……好きな人がいますか」 「います」 再び足を止めた藤堂を見上げ、男は喉を鳴らすようにして笑った。 「はははっ、即答ですか。ご結婚は?」 「まだです。――まだ、そういった間柄ではないので」 「そうですか。なら今度は僕からの忠告です。それがどういう相手であっても、どんな障害があろうとも、今日、この日がこの世の終わりだと思って、好きだと言いなさい。愛していると伝えなさい。そして誰が反対しようが、どういったしがらみがあろうが、さっさと籍を入れることです。そうしないと、永遠に後悔する」 「…………」 男は言葉を切り、ペットボトルの水を飲み干した。 「僕は……永遠の後悔の最中です。……君が言う誰かのように壊すこともできず、大切にすることもできず……そうして、永遠の煉獄を彷徨っている……決して、救われることはない……」 「ご自身が仰られたことを、あなたは、実行なさらないんですか」 「妻と子がいます。何一つ執着なんかもっていやしませんがね。それでも僕は、死んだって父と同じような生き方をしたくない」 吐き捨てるような口調だった。が、言い棄てた後、男はわずかに寂しそうな目になった。 「……僕の母は地味で身体の弱い女でね。散々ないがしろにされた挙句、芸者風情に父を奪われて失意の内に病死したんですよ」 「…………」 「もう一つ打ち明ければ、今夜こそ、僕はその煉獄から出られるはずだったんです。長年僕の心を奪い、苦しめてきた女を、完全に壊してしまうつもりだったんです」 自嘲気味の笑いを男は形のいい唇に浮かべた。 「それが無理だと判った時、……けれどとても皮肉なことに、彼女を救ったのは僕ではありませんでした。そうして僕はまた、後悔し続けている……」 「…………」 「すみませんね。お客様に言ってもせんのないことを申し上げました。――忘れてください。酔っ払いの戯言ですから」 男はひらひらと片手を振ったが、藤堂はその場に立っていた。 目の前で傷心している男の横顔に、何故か別の面影が重なった。 それは、子供の頃から傍にいた女性であり、―― 兄とも慕うある人の横顔であり、そして……。 「僕は―― まだ、若輩ですが」 「そうですね、随分とお若そうだ」 もう口をきくのもおっくうなのか、面倒そうに男は答える。 「煉獄の扉の鍵は、多分、最初からあなたが持っていると思いますよ」 「……なんの話ですか」 「外から、いくらでも友人が扉を叩いてくれるでしょう。けれど、鍵は、最初から自分しか持っていないのではないでしょうか」 「君はまだ若い」 鋭い皮肉がこもった声が藤堂を遮った。 「そういうもっともらしいことは、人生の修羅場を経験してからお言いなさい。君に私の立場や気持ちは、多分いくばくも判ってはいませんよ」 「……そうですね。失礼しました」 藤堂は深く一礼してから、きびすを返した。 歩きながらふと思っていた。 自分は、今、誰と会話していたのだろう。 二度と戻らない過去を、いつまでも引きずって生きている。―― それは、香夜だったのか、それとも……。 あるいは、未来の自分の姿を、男に見ていたのかもしれない。 ふと見上げた窓の外には、白いものがちらついていた。 (―― 早く4月にならないかな) 的場さん。 こう言ったらあなたは怒りますか。 僕は―― 。 僕は、4月など永遠にこなければいいと思っているんです。 いつまでもこの季節が、それこそ永遠の煉獄のように、僕とあなたを閉じ込めてしまえばいいのにと―― 。 |
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