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年下の上司 story14〜Feburuary@

陰謀渦巻く職員旅行(最終話)


「ど……どうしよう……」
 足が小刻みにがくがくと震えている。
 まさかと思った。いつも正確にくるわけじゃないから―― でも、今夜はお酒を飲むことになるだろうから、念のため―― 自分を安心させるつもりで試してみたのだ。
 何かの間違いだろうと、ずっと自分に言い聞かせていた。
 が、結果は―― 昼間と全く同じものだった。
 検査スティックに、しっかりと滲みでた陽性ライン。
 妊娠―― 。
(まだ正式な内示ではないが、君は来春の4月、局総に異動ということになるだろう)
(的場さんの後任であり、新局長の秘書役ということだ。私がそれを内々に君に伝えるのは、万一君に、結婚、妊娠等の予定があってはいけないと思ったからだ。理不尽に思えるだろうが、そういったことはままあるのでね)
 ――どうしよう。
 どうしたらいいの。
 私……本当に、どうしたらいいの。
「……電話、」
 乃々子は震える手で、携帯電話を取り上げた。
 とにかく、話さなきゃ……。
 彼に―― 藤堂さんに、相談しなきゃ。
 
 *************************
 
「あっ、藤堂さん、いいところに!」
 襖を開けて入って来た人を見て、水原は思わず歓声をあげた。
「たっ、助けてください。人数足りないとかで無理矢理面子に。僕、麻雀なんて出来ないですよ」
 男性部屋。
 藤堂は顔を上げ、卓を囲んでいる中津川、大河内、谷本、―― そして水原を見た。
「麻雀ですか」
 と、藤堂が言いかけたところへ、
「いや、藤堂君の参加は、わしが拒否する」
「係長が参加したら、一人勝ちになるのは目に見えてますからねぇ」
「同感です!」
 水原を除く3人から、次々と拒否の声が上がった。
「藤堂さん」
 寝そべってスポーツ新聞を読んでいる南原が、面倒そうに声をあげた。
「さっきから、あんたの上着が煩いんだけど。携帯、何度も鳴ってたみたいだぜ」
「すみません」
 急いで、壁に掛けてある上着の元へ行く藤堂を、水原はうらめしく見送った。
 すでに宇佐美は健やかに就寝中。その隣には、まるで守護神がごとく志摩課長が床を並べている。
 携帯を持った藤堂が部屋を出て行く。水原も同時に立ちあがっていた。
「すみませんっ、トイレ行かせてください」
「おい、逃げるのはナシだぞ」
 と、仏頂面で中津川。
「だっ、大丈夫です。その間、南原さんに代わってもらいますから」
「はあ? 勝手に決めんなよ」
 背後の騒ぎを思いっきり無視して、水原は部屋を飛び出した。
 トイレを我慢していたのは本当だが、これを機に上手く抜けるつもりでもあった。頼りの藤堂があてにならない以上、このままでは朝までつきあわされるに決まっている。
 廊下の端にあるトイレに駆けこんで、洗った手を拭きながら外に出た。
 問題は、これからどうやって時間を潰すかだが……。
「そうですか」
 藤堂の声が、うす暗い廊下にいきなり響いた。
 水原はドキッとして足を止めている。
 暗い影が、水原の方に伸びていた。
 少し離れた場所で、藤堂が誰かに電話しているのだと水原が悟った時だった。
「それは……そういうことなら、僕の子供に間違いないと思います」
 はい?
 え―― ?
 僕の子供に間違いないと思います。
 僕の子供に間違いないと思います??
 なんだ? 今の? 聞き間違いか、幻聴か?
「すみません……少し、考える時間をいただけませんか。判っています。ええ、こちらから、また連絡を入れますので」
 電話を切る気配がして、同時に深い嘆息が聞こえた。
 水原は壁に背中を張りつけたまま、息さえできずに固まっていた。
 ま、まさかと思うけど、係長の彼女が妊娠…………。
 それは、…………それは現時点で一番可能性が高い相手は…………。
 的場さん??
 上げそうになった声を、水原は両手で押さえて懸命に飲み込んだ。
 いや、まてよ。冷静になれ、将来の幹部生候補(自分)。
 今夜の的場さんはどうだった? 日本酒をがばがば飲んで、大騒ぎして引っくり返って、あれが妊娠した女性の姿と言えるのか? ……違うだろう。
 が、だとしたら相手は誰だ?
 それもそれで、大問題なんじゃないか?
 密やかな闇の中、微かな音が研ぎ澄まされた水原の耳に響いてきた。
 なんだ、これ? 携帯のボタンを押している音……?
「百瀬さん? 僕です」
 続いて聞こえて藤堂の声に、水原は凍りついていた。
 心臓ごと、背後の壁に串刺しにされた気分だった。
「……先ほどはすみません。僕も、急な話だったので、動揺して」
 ――え?
「明日の朝、一緒に灰谷市に戻りましょう」
 え……?
「いえ、……まだ事情は伏せておきましょう。場合によっては、僕のほうからそちらの課長に説明に上がりますので」
 は……?
「大丈夫ですよ。それに―― これは、僕の責任でもあるんですから。いえ、悪いのはむしろ僕だと思います」
 ………………。
 やがて廊下から人の気配が消え、水原はへなへなと腰を落としていた。
 まさか、……まさか嘘だろ。冗談だろ。
 あの百瀬さんが妊娠して、その相手が係長?
 そんな―― そんなことって……そんなことって!!
 
 *************************

「え? 藤堂さんと百瀬さん、帰っちゃったの?」
 朝食の席で、果歩は隣の南原を振り返った。
「そうらしいぜ」
 南原は、味噌汁をすすりながら、寝ぼけ眼で頷いた。
「百瀬さんは体調が悪くなって、係長はご実家に急用ができたとかで、それで一緒に帰られたそうですよ」
 対面の大河内が、充血した目で言い添えてくれた。
「……どういうこと?」
「さぁ、夜遅く、何度も電話があったみたいだから、なんか不幸でもあったんじゃねぇの」
「何時頃……?」
「宴会の後だから、軽く12時は回ってたかな」
 そうなんだ……。
 果歩はなんとも言えない気持ちのまま、食台の茶碗を持ち上げた。
 そんな遅い時間に電話があったのなら、確かに不幸か、急を要する事態が発生したのだろう。
 でも、なんだって私には何も言わずに?
 それに乃々子が一緒だなんて―― それはただの偶然だろうか?
「オハヨー、ございまぁす」
「うわっ、朝はトーストじゃないと駄目なんですよねー、私」
 その時、若い女子2人が同時に食堂に入って来た。流奈と真央である。
 朝からほぼ完ぺきなメークをして、晴れやかな表情で入って来た真央と対照的に、流奈はげっそりと落ちくぼんだ目をしていた。
 一体何が? と、果歩でさえ目を剥くほどの憔悴ぶりである。
「……あの、乃々子が帰ったって聞いたんだけど……」
 声を掛けるのさえはばかられたが、仕方なく果歩は訊いた。答えてくれたのは真央の方だった。
「私たちもよくわかんないんですよー。彼女、昨日の夜はずっと戻って来なかったから。ね」
 と、隣の流奈に同意を求める。
 流奈は、「ああ……そういえば」みたいな表情で、覇気のないまま頷いた。
「明け方戻ってきて、荷物まとめて出て行かれたんでー。体調悪かったんですかね? そういえば、夕べもちっとも飲まれてなかったですもん」
 真央はあっけらかんと言うと、「おはよっ、ウサちゃん」と、上機嫌で宇佐美の隣に席を取った。
「…………でした」
 その時、か細い声と共に、ふら〜っと立ち上がった人がいた。
 果歩はようやく、その人の存在に気付いている。
 まるで透明人間のように、存在感の欠片さえ感じさせない……水原であった。
 何もないところでお約束のように転ぶと、水原は膝で這うようにして出て行った。
「……どうしちゃったんですか?」
 怖々と果歩が訊くと、
「さぁ? 夕べからあんな感じなんだよ。おかげで俺が朝まで麻雀の犠牲に……。ふぁぁ、眠い」
 南原も南原で、いまだ目が覚めずぼんやりしているようである。
 なんだろう……。なにか、すごく変な雰囲気だ。
 それに、やっぱり藤堂さんと乃々子が気になる。絶対に変だ、おかしいよ。私に何も言わずに帰るなんて――。
 食事を終えた果歩は、藤堂の携帯に掛けてみたが、すぐに留守電のメッセージに切り替わった。結局何も言えないまま電話を切り、果歩はますます不安が膨らんでいくのを感じていた。
 なんだろう、すごく嫌な予感がする。
 藤堂さん、早く連絡して。
 一体、今、何が起きているの……?
 
 *************************
 
 結局、藤堂とは一切連絡が取れないまま、帰途のバスは灰谷駅に到着した。
 現地解散―― 。
 なにかもう、抜けがらとしか言いようがない水原に代わって、結局果歩が、2日目の幹事の全てを引きうけて、最後も果歩の挨拶で散会となった。
 ――疲れた……。
「的場さん、お疲れ様」
「今日はありがとう、楽しかったよ」
 と、局長や志摩にねぎらってもらえたことだけが、ささやかな喜びだったが、明日から通常どおりの勤務だと思うと、さすがにとほほな気分だった。
 とはいえ、昨夜コンタクトを外していたせいもあって、目の調子はすっかりよくなっている。
 それにしても実に奇妙な旅行2日目だった。
 原因不明の廃人化現象を起こした水原もそうだし、まったくテンションの上がらない流奈―― まぁ、流奈の場合、原因は藤堂だろうが。
 そして、昨夜帰宅した晃司に、早朝帰宅したという藤堂と乃々子。
 絶対に何かおかしいのだが、その原因がまるで判らないという不可解さ。
 新幹線で、別途帰途についているはずのりょうのことも気がかりだった。
 彼女自身は、何かの壁を破ったようだが、実家の旅館はどうなるのだろう。なんだかんだいっても、りょうが実家を見捨てられるとは思えない。
 また、何か無茶な真似をするつもりではないだろうか……。
「げっ、フェラーリが停まってる」
 真央の、囁くような声がした。
「あれ、最高級のグレードですよ。何千万もするタイプ……ほら、周囲の車がみーんな避けてます」
 残っていた全員の注目が、その車に集中した。
 バスの停留場所から一本離れたレーンに、その車は停まっていた。
 大型の白のフェラーリ。ボンネットに夕日が映えて美しく輝いている。
「しかも、あそこ駐禁じゃね?」
「バス専用レーンですよ。常識がないっていうか、大胆というか」
 案の定、迷惑顔のバス運転手が駆け寄って、フェラーリの窓ガラスをノックした。
「あ、出てきた」
「ヤーさん?」
「いやぁ、ヤーさんって感じじゃないでしょ。むしろ芸能人かスポーツマン……」
 果歩は、なんの気なしにその光景を見ていた。
 運転席の扉が開いた時、ふと不思議なノスタルジィを感じたのは何故だったのだろう。
 車種も場所もまるで違っているのに―― 何故……。
 その人の姿は夕日で逆光になっていた。すらりとした長身の男の人。
「あ、こっち見た」
「人を探してるみたいですよ。……あれ? もしかして的場さんのお知り合いですか」
 ――私……?
 果歩は驚いて顔をあげた。
 逆光―― 眩しい。
 その人が片手を上げて、軽く手を振ったのが判った。
 視線は、間違いなく立ちすくむ果歩を捕えている。
 誰……?
 果歩は眩しさに目を細める。
 ―― 誰……?
 その人が、歩み寄ってくる。――

 


陰謀渦巻く職員旅行(終)
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