「ど……どうしよう……」 足が小刻みにがくがくと震えている。 まさかと思った。いつも正確にくるわけじゃないから―― でも、今夜はお酒を飲むことになるだろうから、念のため―― 自分を安心させるつもりで試してみたのだ。 何かの間違いだろうと、ずっと自分に言い聞かせていた。 が、結果は―― 昼間と全く同じものだった。 検査スティックに、しっかりと滲みでた陽性ライン。 妊娠―― 。 (まだ正式な内示ではないが、君は来春の4月、局総に異動ということになるだろう) (的場さんの後任であり、新局長の秘書役ということだ。私がそれを内々に君に伝えるのは、万一君に、結婚、妊娠等の予定があってはいけないと思ったからだ。理不尽に思えるだろうが、そういったことはままあるのでね) ――どうしよう。 どうしたらいいの。 私……本当に、どうしたらいいの。 「……電話、」 乃々子は震える手で、携帯電話を取り上げた。 とにかく、話さなきゃ……。 彼に―― 藤堂さんに、相談しなきゃ。 ************************* 「あっ、藤堂さん、いいところに!」 襖を開けて入って来た人を見て、水原は思わず歓声をあげた。 「たっ、助けてください。人数足りないとかで無理矢理面子に。僕、麻雀なんて出来ないですよ」 男性部屋。 藤堂は顔を上げ、卓を囲んでいる中津川、大河内、谷本、―― そして水原を見た。 「麻雀ですか」 と、藤堂が言いかけたところへ、 「いや、藤堂君の参加は、わしが拒否する」 「係長が参加したら、一人勝ちになるのは目に見えてますからねぇ」 「同感です!」 水原を除く3人から、次々と拒否の声が上がった。 「藤堂さん」 寝そべってスポーツ新聞を読んでいる南原が、面倒そうに声をあげた。 「さっきから、あんたの上着が煩いんだけど。携帯、何度も鳴ってたみたいだぜ」 「すみません」 急いで、壁に掛けてある上着の元へ行く藤堂を、水原はうらめしく見送った。 すでに宇佐美は健やかに就寝中。その隣には、まるで守護神がごとく志摩課長が床を並べている。 携帯を持った藤堂が部屋を出て行く。水原も同時に立ちあがっていた。 「すみませんっ、トイレ行かせてください」 「おい、逃げるのはナシだぞ」 と、仏頂面で中津川。 「だっ、大丈夫です。その間、南原さんに代わってもらいますから」 「はあ? 勝手に決めんなよ」 背後の騒ぎを思いっきり無視して、水原は部屋を飛び出した。 トイレを我慢していたのは本当だが、これを機に上手く抜けるつもりでもあった。頼りの藤堂があてにならない以上、このままでは朝までつきあわされるに決まっている。 廊下の端にあるトイレに駆けこんで、洗った手を拭きながら外に出た。 問題は、これからどうやって時間を潰すかだが……。 「そうですか」 藤堂の声が、うす暗い廊下にいきなり響いた。 水原はドキッとして足を止めている。 暗い影が、水原の方に伸びていた。 少し離れた場所で、藤堂が誰かに電話しているのだと水原が悟った時だった。 「それは……そういうことなら、僕の子供に間違いないと思います」 はい? え―― ? 僕の子供に間違いないと思います。 僕の子供に間違いないと思います?? なんだ? 今の? 聞き間違いか、幻聴か? 「すみません……少し、考える時間をいただけませんか。判っています。ええ、こちらから、また連絡を入れますので」 電話を切る気配がして、同時に深い嘆息が聞こえた。 水原は壁に背中を張りつけたまま、息さえできずに固まっていた。 ま、まさかと思うけど、係長の彼女が妊娠…………。 それは、…………それは現時点で一番可能性が高い相手は…………。 的場さん?? 上げそうになった声を、水原は両手で押さえて懸命に飲み込んだ。 いや、まてよ。冷静になれ、将来の幹部生候補(自分)。 今夜の的場さんはどうだった? 日本酒をがばがば飲んで、大騒ぎして引っくり返って、あれが妊娠した女性の姿と言えるのか? ……違うだろう。 が、だとしたら相手は誰だ? それもそれで、大問題なんじゃないか? 密やかな闇の中、微かな音が研ぎ澄まされた水原の耳に響いてきた。 なんだ、これ? 携帯のボタンを押している音……? 「百瀬さん? 僕です」 続いて聞こえて藤堂の声に、水原は凍りついていた。 心臓ごと、背後の壁に串刺しにされた気分だった。 「……先ほどはすみません。僕も、急な話だったので、動揺して」 ――え? 「明日の朝、一緒に灰谷市に戻りましょう」 え……? 「いえ、……まだ事情は伏せておきましょう。場合によっては、僕のほうからそちらの課長に説明に上がりますので」 は……? 「大丈夫ですよ。それに―― これは、僕の責任でもあるんですから。いえ、悪いのはむしろ僕だと思います」 ………………。 やがて廊下から人の気配が消え、水原はへなへなと腰を落としていた。 まさか、……まさか嘘だろ。冗談だろ。 あの百瀬さんが妊娠して、その相手が係長? そんな―― そんなことって……そんなことって!! ************************* 「え? 藤堂さんと百瀬さん、帰っちゃったの?」 朝食の席で、果歩は隣の南原を振り返った。 「そうらしいぜ」 南原は、味噌汁をすすりながら、寝ぼけ眼で頷いた。 「百瀬さんは体調が悪くなって、係長はご実家に急用ができたとかで、それで一緒に帰られたそうですよ」 対面の大河内が、充血した目で言い添えてくれた。 「……どういうこと?」 「さぁ、夜遅く、何度も電話があったみたいだから、なんか不幸でもあったんじゃねぇの」 「何時頃……?」 「宴会の後だから、軽く12時は回ってたかな」 そうなんだ……。 果歩はなんとも言えない気持ちのまま、食台の茶碗を持ち上げた。 そんな遅い時間に電話があったのなら、確かに不幸か、急を要する事態が発生したのだろう。 でも、なんだって私には何も言わずに? それに乃々子が一緒だなんて―― それはただの偶然だろうか? 「オハヨー、ございまぁす」 「うわっ、朝はトーストじゃないと駄目なんですよねー、私」 その時、若い女子2人が同時に食堂に入って来た。流奈と真央である。 朝からほぼ完ぺきなメークをして、晴れやかな表情で入って来た真央と対照的に、流奈はげっそりと落ちくぼんだ目をしていた。 一体何が? と、果歩でさえ目を剥くほどの憔悴ぶりである。 「……あの、乃々子が帰ったって聞いたんだけど……」 声を掛けるのさえはばかられたが、仕方なく果歩は訊いた。答えてくれたのは真央の方だった。 「私たちもよくわかんないんですよー。彼女、昨日の夜はずっと戻って来なかったから。ね」 と、隣の流奈に同意を求める。 流奈は、「ああ……そういえば」みたいな表情で、覇気のないまま頷いた。 「明け方戻ってきて、荷物まとめて出て行かれたんでー。体調悪かったんですかね? そういえば、夕べもちっとも飲まれてなかったですもん」 真央はあっけらかんと言うと、「おはよっ、ウサちゃん」と、上機嫌で宇佐美の隣に席を取った。 「…………でした」 その時、か細い声と共に、ふら〜っと立ち上がった人がいた。 果歩はようやく、その人の存在に気付いている。 まるで透明人間のように、存在感の欠片さえ感じさせない……水原であった。 何もないところでお約束のように転ぶと、水原は膝で這うようにして出て行った。 「……どうしちゃったんですか?」 怖々と果歩が訊くと、 「さぁ? 夕べからあんな感じなんだよ。おかげで俺が朝まで麻雀の犠牲に……。ふぁぁ、眠い」 南原も南原で、いまだ目が覚めずぼんやりしているようである。 なんだろう……。なにか、すごく変な雰囲気だ。 それに、やっぱり藤堂さんと乃々子が気になる。絶対に変だ、おかしいよ。私に何も言わずに帰るなんて――。 食事を終えた果歩は、藤堂の携帯に掛けてみたが、すぐに留守電のメッセージに切り替わった。結局何も言えないまま電話を切り、果歩はますます不安が膨らんでいくのを感じていた。 なんだろう、すごく嫌な予感がする。 藤堂さん、早く連絡して。 一体、今、何が起きているの……? ************************* 結局、藤堂とは一切連絡が取れないまま、帰途のバスは灰谷駅に到着した。 現地解散―― 。 なにかもう、抜けがらとしか言いようがない水原に代わって、結局果歩が、2日目の幹事の全てを引きうけて、最後も果歩の挨拶で散会となった。 ――疲れた……。 「的場さん、お疲れ様」 「今日はありがとう、楽しかったよ」 と、局長や志摩にねぎらってもらえたことだけが、ささやかな喜びだったが、明日から通常どおりの勤務だと思うと、さすがにとほほな気分だった。 とはいえ、昨夜コンタクトを外していたせいもあって、目の調子はすっかりよくなっている。 それにしても実に奇妙な旅行2日目だった。 原因不明の廃人化現象を起こした水原もそうだし、まったくテンションの上がらない流奈―― まぁ、流奈の場合、原因は藤堂だろうが。 そして、昨夜帰宅した晃司に、早朝帰宅したという藤堂と乃々子。 絶対に何かおかしいのだが、その原因がまるで判らないという不可解さ。 新幹線で、別途帰途についているはずのりょうのことも気がかりだった。 彼女自身は、何かの壁を破ったようだが、実家の旅館はどうなるのだろう。なんだかんだいっても、りょうが実家を見捨てられるとは思えない。 また、何か無茶な真似をするつもりではないだろうか……。 「げっ、フェラーリが停まってる」 真央の、囁くような声がした。 「あれ、最高級のグレードですよ。何千万もするタイプ……ほら、周囲の車がみーんな避けてます」 残っていた全員の注目が、その車に集中した。 バスの停留場所から一本離れたレーンに、その車は停まっていた。 大型の白のフェラーリ。ボンネットに夕日が映えて美しく輝いている。 「しかも、あそこ駐禁じゃね?」 「バス専用レーンですよ。常識がないっていうか、大胆というか」 案の定、迷惑顔のバス運転手が駆け寄って、フェラーリの窓ガラスをノックした。 「あ、出てきた」 「ヤーさん?」 「いやぁ、ヤーさんって感じじゃないでしょ。むしろ芸能人かスポーツマン……」 果歩は、なんの気なしにその光景を見ていた。 運転席の扉が開いた時、ふと不思議なノスタルジィを感じたのは何故だったのだろう。 車種も場所もまるで違っているのに―― 何故……。 その人の姿は夕日で逆光になっていた。すらりとした長身の男の人。 「あ、こっち見た」 「人を探してるみたいですよ。……あれ? もしかして的場さんのお知り合いですか」 ――私……? 果歩は驚いて顔をあげた。 逆光―― 眩しい。 その人が片手を上げて、軽く手を振ったのが判った。 視線は、間違いなく立ちすくむ果歩を捕えている。 誰……? 果歩は眩しさに目を細める。 ―― 誰……? その人が、歩み寄ってくる。―― 陰謀渦巻く職員旅行(終) |
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