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年下の上司 story15〜FeburuaryA

こんにちは赤ちゃん、あなたがパパよ(1)



 ――――――――――――――
 
「こちらのお屋敷が、今日から瑛士様のお住まいになります」
 瑛士は黙って、雨にけぶる和風の建物を見上げた。
 どこかで見た風景だと思った。去年、母親と一緒に旅行で行った北京の街並みに似ている。しかし、ここは街ではない。銀杏並木、広大な庭園、噴水に果樹園、延々と続く入母屋造りの建物、なのにここは、どこまで行っても個人が住む住宅の―― 敷地内なのだ。
「ここに、家族の皆が住んでいるのですか」
 瑛士の問いに、黒服の青年はわずかに笑んだ。
 今朝、自宅のアパートまで、瑛士を迎えに来てくれた青年だった。名前は片倉。下の名は今まで一度も名乗らない。
 伯父という人が、母と2人で暮らすアパートを訪ねて来る時、片倉という青年はいつも伯父の運転手を務めていた。だから瑛士は、彼をずっと伯父の―― 二宮という家の運転手なのだと思っていた。
(片倉は、我が家の執事の1人なのだ)
 アパートで話した最後の夜、伯父が、そう説明してくれた。
(二宮の家に来たら、片倉に何でも言えばいい。落ちついて見えるがまだ年は18で、二宮の家では最も若い執事になる。瑛士には、いい相談相手になるだろう)
 静かな双眸と微笑を絶やさない優しい口元。やがて瑛士は、それが自身の感情を他人に見せないための最も効率的な表情であることを、この片倉から学ぶことになる。
 その片倉が、灰色の空模様に視線を巡らせながら、言った。
「いえ、こちらの棟にお住まいになられるのは、瑛士様お一人になります」
 1人?
 驚きを無言の目にこめた瑛士を見下ろし、片倉は切れ長の目をわずかにすがめて見せた。
「旦那様に、お聞きではございませんでしたか」
 傘を下ろし、黙る瑛士の目線まで、長身の青年は身をかがめた。
「二宮の家では、ご子息の方々は15の年までお身内と寝食を共にしてはならないという伝統があるのです。身の回りのお世話をする者は大勢ございます。なれど、ご家族の皆さまと、共に生活することはありません」
 そのような話は、何も聞いてはいなかった。
 あまりに思いがけない展開に、瑛士はただ沈黙で答えるしかなかった。
(瑛士、二宮の家に行けば、世間の常識では考えられないことが沢山お前に降りかかるでしょう。お前は決して驚いたり畏れたりしてはなりません。そんな時は、何もかも判った顔をして黙っていなさい。沈黙ほど人を賢くみせるものはありませんからね)
 母の言葉の意味が、今ほど理解できたこともない。
 ここは、外界とは何もかも違う。いわば地上に造られた異世界なのだ。
「お寂しいとは存じますが、今日からこの館が、瑛士様のお城です。瑛士様は、一国一城の主となられるのです。これもまた、将来二宮会を背負って立つための訓練だと思し召しくださいませ」
 そう続ける片倉の髪を、額を、粉糠雨が音もなく濡らしていく。
 手にした傘を、瑛士は片倉の頭にかざしていた。
「私のことなど、お構いになってはなりません」
 微笑んで片倉は立ち上がり、瑛士は頷いて傘を持ち直した。
 使う者と従う者。その差異も、伯父から教えられた。上に立つ者は、下の立場に決して迎合してはならないのだと―― 10歳の瑛士に、その意味はよく判らなかったが、今、濡れる青年に傘をかざした行為が、誤りではないことだけは判っていた。
 自分の深い所にある、芯のようなものだけは失うまいと瑛士は思った。
 たとえ、ここがどのような別世界であったとしても。
 再び2人は歩き出し、片倉は続けた。
「この御屋敷には、今、3人のご子息とご令嬢がお住まいになっておられます。御親戚にあたられる松平帝様、その妹の香夜様」
 松平帝。
 松平香夜。
 その2人の名を記憶に刻みながら、瑛士は訊いた。
「親戚ですか」
「遡れば、先々代の旦那様の御兄弟にあたる方のご系譜に当たられる方々です。いずれも後継者候補として、この御屋敷で教育を受けておられます」
「女の、方もですか」
 かぐや―― 改めて感じる不思議な響きに、首をかしげながら瑛士は訊いた。
 まるで月のお姫様のような名前だ。
「香夜様は、また別の意味で」
 片倉はわずかに笑んだ。
「とても優秀で、お美しいお嬢様です。今の旦那様は、性差や血筋を問わず、優秀な方を登用するご方針であられるので、うかうかしておられると、後継の座を奪われてしまうかもしれませんよ」
「……僕に、そういった意味で、誰かと争う気はありません」
 言い差した瑛士がうつむくと、そっと肩に片倉の手が置かれた。
「瑛士様がどう思われようと、ここへは戦うために来たのだということを忘れてはなりません。執事である私は、瑛士様の願いならどのような無理でも聞きとげましょう。が、ひとつだけ、絶対にできないことがございます」
 ひとつだけ―― ? と、瑛士が問いかけた時だった。
 灰色の景色の中に、不意に白い燐光のようなものが現れた。
 その瞬間の光景を、あれから17年たった今でも、まだ瑛士は夢にみることがある。
 それはまるで、灰色の世界に降り立った一羽の鳥―― 気高い天使のように、瑛士には思えた。
 肩に流れる亜麻色の髪、黒真珠のような切れ長の瞳、透き通った白い肌に、珊瑚の唇。
 この世とは一つ違う世界で生きているような、月光をまとう玲瓏たる美貌の人に、瑛士は言葉を失くしていた。
 古くは皇家の血を引くとも言われている。
 戦後の財閥解体を経てもなお、日本屈指の財力と政経ネットワークを維持し続けた名門、二宮家――。
 この家で、その後様々な出来事が瑛士を襲うことになるが、この瞬間ほど言葉を失い、かつ、みっともなく忘我したこともなかったのかもしれない。
 何故、傘をささないのか。
 何故、濡れたままで佇んでいるのか。
 何故―― これほどまでに美しいのか。
 何故……。
 不意に、その人の額から零れた滴が、瞬きもしない瞳を伝って頬に落ちた。
 瑛士は、はっと息を飲んだ。それは、一滴だけ地上に落ちたその人の涙のように見えた。
 が、次の瞬間、その美しい天上人は、唇にぞっとするほど冷やかな笑みを浮かべた。
 侮蔑と威嚇―― 黒曜石のような双眸からは、ぶしつけに自分を見る者への強烈な怒りが凄まじく発散されている。
 瑛士は慌てて眼を逸らし、何故か、自分の口のあたりに手を当てた。
 気のせいであればいいと願ったが、自分の顔が、ひどく熱くなったような気がしたのだ。
 ――この人が、香夜という人だろうか。
 ――本当だ、まるで月に住んでいるような美しい人だ。
「修哉様です」
 片倉の声に、瑛士は忘我したまま顔をあげた。
 ―― 修哉?
「修哉様のことは、旦那様からお聞きおよびだと思います。瑛士様には二歳年上の……これからは、お兄様になられる方です」
 では、……男?
 瑛士は再び、その人の方を見たが、そこには細い雨が降る、灰色の景色が広がっているだけだった。
 
 
 
 *************************

 
「おはようございまーす……」
 不思議な動揺と、ざわめくような胸騒ぎを抑えてくぐったカウンター。
 月曜日―― 都市計画局総務課の執務室。
 登庁した果歩が視線を巡らせても、この時間、必ず来ているはずの人の姿はなかった。
 ―― 藤堂さん……。
 昨夜からずっと不安にさいなまれていた果歩は、自分の顔がたちまち力なく曇っていくのを感じた。
「うーっす」
 と、その時、傍らの給湯室から、ポットをぶらさげた南原亮輔が出てきた。
「だりー、……旅行の翌日に出勤って、……公務員なんかになるんじゃなかった」
「民間の方がもっと厳しいんじゃないんですか」
 苦笑してそう言った果歩は、気を取り直すようにして、バックを椅子の上に置いた。
 ―― そうだよね。
 旅行の次の日だもん。いつもより眼が覚めるのが遅くなることだってあるかもしれない。もう少し待っていれば、必ず……。
 先週の土曜日、課内旅行の初日の夜に、いきなり姿を消した藤堂と乃々子。
 それぞれ、事情は違うのだろうが、共通していることがひとつだけあった。
 どちらの携帯電話にかけても、繋がらないのだ。
 藤堂の電話は、留守電には繋がるものの、いくらメッセージを残してもまるで返事が返って来ない。乃々子に至っては―― ずっと電源が切れている。
 まさか、旅館に携帯を忘れてるとか。
 それとも、灰谷市に戻る途中、2人揃って何かの事故に巻き込まれたとか。
 そんな途方もない想像ばかりが膨らんで、昨夜は殆ど眠れなかった。南原も妙に腫れぼったい瞼をしているが、果歩はもっとひどい顔になっているに違いない。
 給湯室に入ろうとした時、背後で庁内電話のベルが鳴った。
 果歩が振り返るより早く、南原がその電話に出ている。
「はい。こちら、都市計画局総務課―― あー、なんすか、こんな時間に」
 改まった口調が、たちまち面倒そうなものになる。
 この時間―― 始業前に鳴る電話は、たいてい職員の遅刻か休みを告げる電話である。
 果歩は飛びついて、「代わって!」と南原から受話器をもぎとりたい気持ちだったが、もちろんそんな真似ができるはずもなかった。
「え? 年休? そりゃいいっすけど、仕事のほうは大丈夫なんですかね。はぁ? 春日次長にまた電話されるんですね。明日までですか? はいはい、そりゃ大変ですね。お大事にー」
 あっと、声を掛ける間もなく、電話は切れた。
「藤堂サン」
 振り返った南原は、果歩の中を駆け抜けた嵐など、一向に気づかぬようにあっさりと言った。
「東京の実家で急用ができて、今日明日と休ませて欲しいんだってさ。的場さん、年休簿回しといて」
「……急用って、不幸でも起きたんですか」
 動揺する果歩が訊けたのは、それだけだった。
「さぁ? 不幸なら特別休暇を申請すんじゃねぇの。んなこと一言も言ってなかったけど」
 急用?
 それは何……? 電話にも出られないようなこと……?
 だとしても、それを、どうして私に一言も言ってはくれないの?
 帳票類を収めたトレーから藤堂の年休簿を取り出しながら、果歩はひたすら動揺していた。
 今の電話だって、一言「的場さんに代わってください」と言ってもよかったはずだ。果歩は庶務で、藤堂は庶務係長。二日も休むのなら、仕事上の引きつぎをしても、なんらおかしいことではない。
 ―― 実家で急用。
 それはもしかして、やっぱり香夜さん絡みのこと……?
 不意に果歩の胸に、昨夕初めて会った男との会話が蘇った。
(いやぁ、お噂だけはかねがね。随分しつこく妹から聞かされていましたからね)
(ずっとお会いしたかった。初めて見た時にビビッと来ました。あなたが、噂の的場果歩さんですね?)
 あの人の出現は……一体何の意味があったんだろうか。
「おっはよーございまーす」
 と、その時、いきなりハイテンションな声が、果歩の回想に割って入った。
 
 *************************
  
 須藤流奈―― 。
 振り返った果歩は、しばし言葉を失っていた。
「須藤さん、……どうしたの」
 と、いう問いが喉元までこみあげかけている。
 旅行中、妙に沈み込んでいた流奈は、今朝、驚くほど晴れ晴れとした顔をしていた。
 それだけではない。メイクも平常以上に完璧で、髪などキューティクルが燦然と輝いている。
 服も、公務員らしからぬキメっぷりで、流行のトップスにふわりとしたフレアスカート。首には細身ながらネックレスが輝いており、誰であっても振り返らずにはいられないほど、完璧な―― 合コンスタイルで決めていた。
「藤堂さん、おられます?」
 驚くほど綺麗にデコレートした爪をひらめかせながら、流奈は挑発的に微笑した。
 その爪、いつ……?
 と、果歩は訊いてしまいたかった。
 やったとしたら、昨夜しかないが、旅行帰りで疲れているだろうに、一体何のためだろう。
 が、それは愚問に違いなかった。流奈のお目当ては藤堂なのだ。旅行中に思いが遂げられなかった反動が、今になって出ているに違いない。
「お休みよ」
 あえてなんでもないように果歩は答えた。
「今日と明日。ご実家で急用ができたんですって」
「……へぇ」
 一瞬意外そうに眉を上げたものの、流奈の表情にさほど失望は見られなかった。
「てか、それってただの偶然かしら? 今日、実は百瀬さんも休みなんですよねー」
 ――え……?
 果歩は自分の表情が、さっと曇るのを感じた。
「体調不良。旅行の途中で体調崩したって話……。百瀬さんのお父さんから、昨日の夜電話があったみたいですよ。住宅計画課長の家に」
「本当?」
 果歩は身を乗り出していた。
 課長の自宅に家族から電話。それは、穏やかではない話である。
 よほどの重体か……本人が掛けられない事情があるか。
 流奈は呆れたように肩をすくめた。 
「詳細は知りません。ただ、住宅課長からおたくの志摩課長に話がいくんじゃないですかねー。普通、総務の旅行で何かあったんじゃないかって思いますもん」
「…………」
 そういえば、そろそろ来てもいいはずの志摩課長の姿が見えない。
 果歩はますます、得体の知れない不安を感じた。
 自分の知らないところで、何か異変が起きている。でも―― それは一体何だろう。
「そんなことより」
 流奈に、その件での不安はないのか、流奈は果歩の腕を引くようにして、給湯室に連れ込んだ。
「あれから、どうなったんですか」
「あれから?」
 興味津々、きらきら輝く流奈の目に、果歩は戸惑って瞬きをした。
「例のフェラーリの人ですよ。駅まで的場さんを迎えにきた、ほら」
 ―― あ。
 解散した駅のバスロータリー。
 停まっていた白のフェラーリから出てきた人。
「いや、……あの人は、別に私を迎えに来たわけじゃ」
「びっくりしましたよ。まさか的場さんに、あんなリッチでイケメン風のキープ君がいたなんて。正直、的場さんを見直しました、今日から師匠と呼ばせてもらってもいいですか?」
「はい?」
 唖然とする果歩の手をがっちり握り、流奈は意味ありげに声をひそめた。
「……で、ぶっちゃけ、誰なんですか、彼。まさか役所で噂になってる、元恋人の……」
「まさか!」
 果歩は大慌てで振りほどいた両手を振った。
 まさか、そんなとんでもない誤解をされていようとは。
 そもそも市長の息子と関係があったことさえ、今となっては絶対に口に出したくない過去である。
「……あの人は……」
 果歩は言いさして、俯いた。
(うーん。灰都総会……聞き慣れない日本語だ)
 明らかに不法駐車していた白のフェラーリ。その傍らにいた人は、にこやかに果歩たちの傍に歩み寄って来た。そして、貸し切っていた中型バスの前で足を停めた。
 品のいいストライプのスーツに、サーモンピンクのネクタイ。
 背が高く、短い漆黒の髪はややウェーブがかって波打っている。
 何故だか不思議なノスタルジーを感じたのは一瞬で、すぐに果歩は、その人と知り合いでもなんでもなければ、今までの人生で垣間見たことさえない人だと気がついた。
 その不思議な男は、腕を組み、眉を寄せ、いかにも思案深げに果歩たちが乗っていたバスを見上げている。
 そして、独り言のように呟いた。
「灰……灰谷市。都……都市計画局。……総は総務課。つまりこのバスは、灰谷市都市計画局総務課のバスということですね。すごいなぁ。最近の市役所は自前でバスをお持ちなのですか!」
 ぽん、と拳を自身の掌の上で打ち、男は眼を輝かせて果歩を振り返った。
 ただ、呆気にとられ、顔を見合すしかない果歩たち総務課の面―― 。
 ここで男が解析した「灰都総会」とは、都市計画局総務課親睦会の名称である。
 そして、果歩たちが旅行中乗っていたバスに、張り出されている看板でもある―― 「灰都総会ご一行様」
 今の時代、いかにも公務員の団体旅行と判るような名称を、間違ってもバスにぶらさげるような真似などできない。灰都総会とは、総務課の先人が適当につけた名称だが、よもやそれを、すぐに見抜く部外者がいようとは―― 。
 一体、突然現れたこの男は何者なのか。
「ああ、申し遅れました。私、松平帝と申します」
 にこやかに果歩たちの傍に歩み寄って来たその人は、いきなり胸に腕を当て、実に優雅に一礼した。
 まるで、外国映画に出てくる俳優かイギリス貴族のようである。とんでもなく様になっているとはいえ、もちろん、生粋の日本人であるその場の全員がぎょっとする。
「ど、どこの国のお人かね」
「みっ、見るからに日本人だとしか」
「もしかして、劇団の人じゃねぇの?」
 ―― 松平……。
 果歩は1人、別のところで思考をとめていた。
 どこかで聞いた。しかも、すごくよく知っている名前の気がするのは何故だろう。
 松平―― どこにでもある名前じゃない。よく時代劇に出てくるサンバのあの人じゃなくて、どこか、もっと違うところで。
「ん? 瑛士はどこにいったのかな? 確か、今日は灰谷市に戻ってくると、お母様にお聞きして来たのですが―― 」
「あっ」
 ようやくそれと気づいた果歩は、思わず声を上げていた。
 松平―― 松平香夜。
 そうだ、藤堂を巡る最大のライバルにして、藤堂の過去の全てを知る人物にして―― 元婚約者。
 果歩が常々月の住人と呼び、最大限の警戒を払っていたあの女性の名字である。
 偶然? いや、そんなはずはない。
 なにより、今、松平と名乗った男は、藤堂を下の名前で呼びすてにした。 幸い、独り言のような口調だったから、遠巻きに見ている連中には聞こえなかったのかもしれないが―― 。
「あ……っ、あの、藤堂さんなら、一足早く帰られましたけど!」
 果歩は、急いで駆け寄っていた。
 ここで、この男が例のライバルの関係者だと皆に知れたら、またぞろ、どんな騒ぎになるか判らない。
 何カ月か前、いきなり総務課にやってきて堂々と婚約者宣言をした香夜である。
 ようやくその衝撃も薄らいできたというのに―― 今また同じ騒ぎが蒸し返されたら、ますます総務課での2人の立場が微妙なものになりかねない。
「やっぱり君が、的場果歩さん?」
 が、男が見せた反応は、果歩の予想を超えたものだった。
「やっぱりそうだ。最初からそうじゃないかと思ったんですよ。いやだなぁ、僕のことを知っているなら知っていると、最初に言ってくれたらよかったのに。変に物怖じしてしまいましたよ。皆さんが僕を不思議そうな眼でじろじろ見るから」
 ひとつ判ったのは、とてつもなくよく声が通る男だということだった。
 そんなところが、香夜とよく似ていると思いながら、果歩は「あの……ちょっと」と、動揺しながら男を促していた。
「すみません。私の知り合いの方なので、ここでお先に失礼します。今日はお疲れさまでした!」
 慌てて皆に挨拶して、そして―― 。
「的場さん?」
 給湯室―― 流奈の声が、果歩を現実の今日に呼び戻した。
「あ、ああ……。確かに私の知り合いの人なんだけど、そんな、おかしな関係じゃないのよ。つまり……友達のお兄さん?」
「お兄さん?」
 流奈が訝しげに眉を寄せる。
「お互い久しぶりに会ったから、顔を見合わせてもいまひとつピンとこなくて。彼も、何年かぶりに日本に帰国したみたいだし」
「……? それで、駅で待ち伏せされちゃう仲ですか?」
 流奈は不思議そうに首をかしげた。
「フツーに考えたら、的場さんの交友関係にはまず出てこないキャラですよね。松平……どこかで聞いた名前のような気もしますけど……」
 流奈が鋭いのはよく判っていたが、果歩にも、これ以上どう言い訳していいか判らなかった。
「時々、メールだけはやりとりしていたのよ。人を脅かすのが好きな人だから。じゃっ」
 そんなことを適当に言って果歩はそそくさと給湯室を出て行った。

 



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