「あ、前園さん」 え、なんで俺の名前―― 、と思ったが、この店には、もう常連といっていい頻度で通っている。 「こんばんは」 前園晃司は愛想よく言って、闇鴉みたいな髪を持つマスターに笑いかけた。 役所からほどよい距離にある、都会の隠れ家みたいなショットバー「Dark Crow」。 晃司がこの店の常連になったのは、いつ来ても閑古鳥が鳴いているのとマスターが余計な口を利かないのと、なんとなく―― 居心地がいいからだ。 「今夜は、随分賑やかみたいですね」 コートを脱ぎながら晃司は言った。 正直言えば、帰ろうかなと思っていた。 静かに飲めるのだけが取り柄のショットバーだが、今夜は、客の笑い声が店の外にまで聞こえてきたからだ。 「それが……」 マスターが、困惑気味の目を店内唯一のボックス席に向けた。 騒ぎの元凶は、その席に陣取る5、6人の男女のようだった。 ―― なんだ、感じの悪い奴らだな。 晃司は即座に眉を寄せた。 若いリーマン風だが、全員がひどく泥酔している。今も男連中が手を叩いて、中央に座る女一人に酒を飲ませているようだ。 イッキイッキって、大学生じゃねぇんだから……。 女も女だ。どこのアバズレか知らねぇが、下手すりゃ全員に輪姦されるぞ。 が、こんなところで無駄に正義感ぶるつもりは毛頭ない。 公務員は、それがたとえ私生活であっても、公務員の仮面を外してはいけないのだ。 「……あー、悪いけど、俺今夜は」 「宮沢さんなんですよ」 マスターは声をひそめた。 「そうなんですか。じゃ、また来ますんで―― ええっ??」 晃司はぎょっとして振り返っていた。 男5人に囲まれて、まさに女王様みたいに持ち上げられている女―― 美人だな、とは遠目にも思った。が、いかにも蓮っ葉な笑い方といい、度を超えた陽気な振舞いといい、晃司の基準では、最低ランクの女である。 「マジっすか」 半ば、呆然と晃司は訊いた。 まさか、ウソだろ。信じられない。 今見ている光景が現実なら、いったいなんの幻だ? 「宮沢さんなら問題ないと思ってますけど、連中、性質が悪いから」 マスターは囁き声になった。 「……悪いって?」 「誘い慣れてる匂いがするんですよ。それに、宮沢さんの後を追うように店に入って来たから。うち、一見が入りやすいような店じゃないでしょ」 まぁ……それは。 表看板の電飾は常に消えているし、窓ひとつない地下の店は、何があるか判らない不気味さを醸し出している。確かに、知っていなければ、おいそれと入れる店ではないだろう。 「でも、あの人……枠だって自分で」 「いくら枠でも、薬入れられたらおしまいですよ」 マスターはあっさりと言った。 「まさか、それ、犯罪じゃないっすか」 晃司は吃驚して身を乗り出している。マスターは苦い眼で首を横に振った。 「これだからお堅い公務員さんは……夜の街ではよくある話ですよ。薬なんて、今はどこでも手に入るじゃないですか」 「…………」 「まずい空気になったら警察に通報しようとは思ってるんですけど、宮沢さん、公務員なんでしょ」 背後で「もう一杯」という掛け声が聞こえる。よほど振り返ろうかと思ったが、何故か二度と先ほどの光景は見たくなかった。 てか、何馬鹿なことやってんだよ。あの人は―――。 晃司は眉根を寄せていた。 本性はただの馬鹿女か。 俺が、ただ買い被ってただけだって言うのかよ。 とはいえ、放っておくわけには―― しかし、一体どうすればいいのか。 相手は相当酔っ払っているし、おそらく集団で勢いづいている。ここで下手に絡めば、喧嘩になるのは火を見るより明らかだ。 この間も喧嘩して、役所や家族にとんでもない迷惑をかけたばかりだ。二度と、同じ真似をするわけにはいかない。 「……まぁ、宮沢さんは大人なんで」 言い訳のように、晃司は言った。 大人だから、何が起きても自己責任……。 だいたい、今の態度を見たって本人に責任があるわけで……。 マスターが、微かな溜息をついた。 「確かに今も、酔っ払ってるように見えて、実は素面なんでしょうけどね」 素面―― ? 晃司はますます判らなくなる。 そうだとしたら、なんだってあの冷静で頭のいい人が、あんなバカ相手にそれよりもっとバカな真似をしてるんだ? 「……まぁ、いいですよ。いざとなったら警察を呼びますから」 晃司の葛藤を察したのか、マスターが諦めたように微笑した。 「いざとって?」 「さすがに何か揉め事でもなければ難しいので、そこは適当にでっちあげるか何かして」 「いや、それは」 それはそれで、もっとやばい。 でっちあげが発覚してもまずいが、事態が大きくなって職場に連絡が行くことになれば、将来局長とまで言われた宮沢さんの経歴に傷がつく。 そしてその場に居合わせた俺も、絶対に無関係ではいられない。昨年も警察沙汰になり、職場に大迷惑をかけてしまった。あの二の舞は絶対にできない。 ――くそっ、一体俺は、どうすりゃいいんだ? やはりここは、この場でなんとかするしかない。俺に、暴力沙汰になっても、ちっとも問題にならない知り合いでもいればいんだけど。 藤堂―― 馬鹿か俺は。よりにもよってなんて相手を思いついたんだ。 だいたいあいつも公務員だ。 こんなことで、藤堂が警察に捕まったりしたら、果歩が悲しむじゃねぇか……。 それ以前に、暴力を振るっても許される人間なんて、この社会に存在するはずもない。 ――ん、待てよ? 「ちょっと」 晃司は携帯をポケットから取り出しながら、マスターに目配せした。 「電話してきます。これなら、上手く収まるかもしんない」 いるじゃねぇか! この世界に、相手を脅そうと殴ろうと、最悪殺してしまおうと、全て正義で片付けられる人間が。 警察官だ。 110で呼ぶのはまずいが、それが知人なら―― 丸く収めてくれるのではないか。 晃司は先日、その警察官と初めて知り合いになったばかりだった。 ************************* 「なぁんで、こんなに大袈裟にするかな」 りょうはグラスを持ち上げた。「せっかく、気持ちよく飲んでたのに」 「そんな風には、見えませんでしたけどね」 マスターは苦笑した。 静けさの戻った店内。外からは、パトカーのサイレンがまだ聞こえている。 職務質問だけで震えあがった一部上場企業のエリートサラリーマンたちは、外で調書を取られているようだった。 多分、出て行ったきり戻らない<通報者>も、その場にいるに違いない。 想定以上にことが大げさになったことに、調書を取られている連中よりも青ざめていたが。 「まさか、前園さんに警察の知り合いがいるなんて思わなかったから。――とはいえ、軽い運命を感じたんですけどね」 「……運命?」 りょうはグラスの中身をあおった。気持ちはますます冷めて、ただ、むしょうに眠たかった。 「あまり、飲まない方がいいですよ。今夜は」 「なんで?」 「警察の前では黙ってましたけど、薬、飲まされてるかもしれないから」 「ああ……」 やたら眠いのはそのせいかな。 「前園さんに送らせますよ。彼、百パーセント安全牌なんでしょう?」 「むしろ、その安全牌がびびるんじゃない?―― 運命って?」 「白馬の王子が、颯爽と宮沢さんを助けてくれるような気がしたから」 りょうは眉を寄せ、誰もいなくなった店内を見回した。 「ん? どこに王子がいるって?」 「いえ。私の思い過ごしのようでした」 マスターは微笑して、冷水をりょうの前に置いた。 「なんにしても、今夜は少し軽率でしたよ。宮沢さんみたいな人には判らないと思うけど、人が闇に落ちて行くのなんて、吃驚するくらいあっという間のことですから」 「……吃驚するくらいあっという間……それ、日本語として間違ってない?」 「人生、変わっちゃいますよ」 「…………」 「変えたいと思ったんですか」 りょうは、水を一口だけ飲んで肩をすくめた。 「守る価値があるほど、大した人生でもないんだけどな」 「卑下しすぎですよ」 マスターの声は、りょうにはひどく遠くに聞こえた。 「誰の目からみても、宮沢さんほど完璧な女性はいないと思いますけどね。……宮沢さん? こんなとこで寝ちゃ駄目ですよ」 ―― 白馬の王子様、か……。 (……りょう、帰ってこいよ) 「…………」 私には、絶対的に欠けているものがある。 それは……。 ************************* 「じゃ、バスのチャーターお願いします。ええ、来週の土曜、朝の8時で」 果歩はバスの予約を済ませて、携帯電話を切った。 後は、人数の最終チェックをして。それからバスの中で飲むお酒やおつまみ、お菓子を買って、と。 それ以外にも、まだまだやることは沢山ある。 初めてだけど、旅行の幹事って結構大変な仕事だったんだ―― ……。 「なんか、すごいですね、的場さん」 気づけば水原が、感嘆の目で見上げていた。 昼休憩―― 次長室。 昨日から東京に出張中している春日の部屋は、終日会議室代わりである。 果歩は、幹事の水原と一緒に、旅行の準備と打ち合わせをしていた。 「普段は、こう……控え目な感じなのに、実はかなりの仕切り屋だったんですね。いや、悪い意味で言ってるんじゃないですよ」 「……ありがとう」 だったら、もっと言い方を覚えればいいのに。強張った笑みを返している果歩である。 「そういや水原君、宇佐美君はどうするって?」 「昨日の夜、電話したんですけど、……うーん、あんま乗り気じゃないみたいだったな」 「そうなの?」 宇佐美には、ぜひ参加してほしかった。 短い間とはいえ、総務課の一員だったし、11月の事件の時は、率先してビラ配りを引き受けてくれた。総務に在席して7年になるが、果歩が知る限り、宇佐美ほど職員に愛された臨時もいない。 「まぁ、金もかかるし。志摩さんへの遠慮もあると思いますよ」 水原も、気持ちは果歩と同じなのか、どこか残念そうな口調だった。 「あいつ、今、なんの仕事もしてないから。……貯金だって、そんなにないと思うし」 そっか―― 。 確かにバイトの身で、7万近い旅行代を捻出するのは難しい―― というか、返って誘う方が迷惑というものだろう。 志摩課長の甥だから、その辺りは志摩がなんとかすると思っていたけれど、それは甘えた発想だったのかもしれない。 「宇佐美君、これからどうするつもりなのかな。もうバイトに戻ってくるつもりはないのかしら」 「資格取るみたいなこと言ってたけど、ちょっと判んないですね。でも、色々考えていると思いますよ。将来のこと」 「…………」 治ったといえ、宇佐美は病気を抱えている。大学も中退し、この就職難の昨今、就職先を確保するのは難しいだろう。 小遣い稼ぎならともかく、役所のアルバイトでは生計が立てられないのが現状だ。果歩にしても、なんとも言いようがなかった。 「あの……あのですね、的場さん」 気づけば、水原が、妙に顔を赤くして視線を彷徨わせていた。 「……? なに?」 「いや、これは僕の……なんていうか、思いつきというか、ささやかなご提案なんですけど」 「はぁ」 なに、気持ち悪い。なんか恋の告白をされるみたいな雰囲気だ。 「的場さん、女子一人じゃないですか」 「ああ、でも宮沢さんが一緒だから」 「いやいやいや、そうじゃなくてですね。旅行だから色々回るじゃないですか。その―― 古寺とか、美術館とか神楽とか」 「ああ……」 一応それらしい観光地も見て回る予定になっている。「それで?」 「ひ、一人じゃ寂しいじゃないですか。宿だって……宮沢さんの実家なら、彼女、自室があるんでしょう? 的場さん一人っきりですよ」 まぁそれはそれで、願ったり叶ったりというか……「で?」 「ま……的場さんが寂しいと思うから、言ってあげているんですよ? 的場さんの、一番仲のいい局の女の人を、ですね。誘ってみたらどうでしょうか!」 「……………百瀬さんのこと?」 たちまち水原は、顔を真っ赤にして立ち上がった。 「!! そっ、そんなこと、僕一言でも言いましたっけ?? 言ってないですよ、言ってないですよね?」 いや……。 もう、いっそはっきり言ってもらったほうがマシ、みたいな。 「……まぁ、一応誘ってみるけど、でも、他の皆さんの許可をもらわないと」 「そ、それは僕が根回しを―― いえいえ、南原さんがしてくれるって言ってました。南原さんも的場さんが女一人で可哀想だって!」 ふぅん……。 ま、いいけど。こと、下心に関して言えば、私も人のこと言えないし。 にしても、乃々子か……。 少しばかり憂鬱な気持ちになって、果歩は次長室を出ていた。 都市計画局住宅計画課の百瀬乃々子。 かつては藤堂を巡る最大のライバルだった。とはいえ、果歩にとっては、一番可愛い後輩であることは間違いない。 (―― もう本当にふっきれたんです) (私のことなんて気にしないで、2人でラブラブしてください) そんな可愛くていじらしいことを、先月言われたばかりでもある。でも―― 。 「あ、的場さん」 その乃々子が、総務課の執務室に立っていた。 果歩が驚いて顔をあげると、困惑気味に駆けよって来る。どうやら、それまで南原と話していたらしい。 「今、南原さんから聞いたんですけど、私、本当にこちらの旅行に同行してもいいんでしょうか」 「ああ……」 なるほど、私は事後承諾だったということか。 果歩はちらっと南原を見たが、南原は素知らぬ顔でコンビニ弁当を食べている。 「うん。乃々子さえよかったら。住宅計画は、今年旅行がなかったんだっけ」 「ええ……、こちらの迷惑になるんじゃなかったら、私に異存はないんですけど」 まぁ、そうだよね。断る理由は何もない。 しかも乃々子は、去年の夏、一時だけど総務の一員も同然だった。 乃々子の参加に、嫌な顔をする面子は誰もいないだろう。 「じゃ、決まりでいいかな。よかった、私も女一人で寂しかったんだ」 「そう言っていただけると」 果歩は笑い、乃々子も笑った。 が、多分お互いが、どこか他人行儀な笑い方なのを察していた。 以前、りょうが言っていた。人の心は映し鏡―― その言葉の意味が、最近ようやく判った気になっている果歩である。 最近の乃々子は、どうして私に壁を作っているんだろう。 その乃々子が、ためらい気味に藤堂の方に向きなおった。 「藤堂さん……そういうことになりましたけど」 「ええ」 藤堂は微笑した。「いいんじゃないですか? せっかくの機会ですから、皆さんで楽しく過ごしましょう」 乃々子が、ようやくほっとした表情になる。 なに―― なんだろう。 この、2人にしか判らない空気、みたいなものは。 最近の乃々子は、やたら藤堂と親密になっている。 気づけば誰もいない給湯室の中で、ロビーの片隅で、まるで人目をはばかるように、2人きりで話し込んでいる。 一度だけ、果歩がうっかり給湯室に踏み込んだ時には、あたかも情事を見られた人のように、ぱっとわざとらしく視線を逸らして―― 。 乃々子の態度がいまひとつ腑に落ちないから、果歩の心にも少しずつ警戒心がわいてきている。 大切な後輩を、疑いの目で見たくはない。が、間違いなく乃々子は何かを隠しているし、藤堂はそれを知っている。 果歩が、藤堂にそれを問い質せないのは、藤堂からも同様の壁を感じるからだ。 先月、2人で東京に行って戻ってきて以来、藤堂は再び、元の藤堂に戻ってしまった。 4月までは他人という誓いを、彼はどうやら本格的に守る決意を固めたらしい。 先月交わした約束通り、帰宅が遅くなった日は必ず自宅まで送ってくれるが、常に水原が一緒だし、しかも果歩を先に降ろすと言う徹底っぷりなのである。 いまや、つけいる隙はわずかもないほどの鉄壁のガード……と、言ってよかった。 「えーっ、やだぁっ、局長ったらぁっ」 局長室の扉が開いて、甘ったるい声が響いたのはその時だった。 ************************* 「あ、的場さーん」 都市政策部の須藤流奈―― 。 存在自体は脅威ではないが、その執拗な、いっそ執念としか言いようのない思いには敬意さえ感じてしまう。 現在進行形の、恋のライバル。 「あら、須藤さん」 果歩は大人な微笑を返した。へぇー、流奈が局長室に。珍しいこともあるもんだ。 その流奈の後から、那賀局長が上機嫌で出てきた。 「いやぁ、感動だよ。わしの最後の旅行を、こうして若い者がみんなで盛り上げてくれるとはね!」 ――ん? 黒雲のような悪い予感を覚え、果歩は流奈の得意満面の笑顔を見ている。 「藤堂さぁん」 流奈はわざとらしく、藤堂の席のほうに駆けよって行った。 「流奈、局長に誘われちゃったんです。一緒に旅行に行かないかって。吃驚した、セクハラかと思っちゃったぁ」 「ははは、ある意味言い訳できないねぇ、それは」 と、呑気に笑っている那賀局長。 果歩は……自分の血流が、みるみる滞っていくのを感じていた。まさか。 「そうですか……それは、よかったですね」 心なしか、藤堂の笑顔も翳っているように思える。 マジかよ。と南原がぎょっとした風に呟き、ええっと、水原が驚きの声をあげた。 乃々子と違って、間違いなく歓迎されていない流奈である。 「でぇー」 気付かないふりで、流奈は続けた。 「そうは言っても、さすがに流奈一人じゃ心細いじゃないですかぁ。だから局長にお願いしたんです。もう一人若い人を、政策部から連れて行ってもいいですかって」 えっ? 果歩は、局長の白髪頭を振り返っていた。まさか、またとんでもないおせっかいを思いついてくれたんじゃ。 「そしたらぁ、前園君はどうかって。いいですよね、藤堂さん!」 来た―― 。 那賀が、その刹那果歩を見上げ、いたずらめいた目配せを返してくれた。いや、局長、それはむしろ迷惑なんですよ! 「はぁ……」 藤堂は、ますます困惑したように笑っている。が、すぐに彼は普段の穏やかさを取り戻した。 「局長がいいと仰るなら、僕らに異存はありませんよ」 その目が、同意を求めるように果歩に向けられる。口ごもる果歩に、隣の南原がぼそっと囁いた。 「どんな無理でも叶えてあげたいんだろ、的場さん」 ぐっ……。 「もちろんです。よかった、人数多い方がバス代も浮きますしね!」 未だかつて、笑顔を維持するのにここまで忍耐を強いたことがあっただろうか。 まさか課内旅行に、流奈と晃司が参戦しようとは。 想像しうる限り最もひどい展開になってしまったが……。 が、ちらっと窺い見た藤堂の横顔は、何故だか安堵しているようにも見えた。 ――なんだろう、それ……。 まるで流奈や晃司の参加を喜んでいるみたい。まぁ、私の考えすぎかもしれないけど。 「じゃ、的場さん、そういうことでぇー」 と、勝ち誇ったように言いかけた流奈の表情が、何故かいきなり凍りついた。 ん? と果歩は流奈の視線を追って振り返っている。 その時には、すでに総務全体が静まり返っていた。 「なんだね」 仏頂面の春日次長が、鞄を手にカウンターの中に入ってくるところだった。 果歩は、自身の表情がさっと曇るのを感じた。今日が出張2日目の春日は、役所に顔を出す予定ではなかったはずだ。 局次長、春日要一郎―― 。 果歩とは浅からぬ因縁のある男で、局のナンバー2である。 春日を苦手にしているのは、果歩だけではない。おそらくは局中から敬遠されている。厳しさと厭味と皮肉にかけては他の追随を許さない男―― 。 「はっはっはぁ、春日君。休みのはずの君がいきなり出てきたから、全員吃驚してるじゃないか」 気まずい沈黙を破ったのは、ある意味空気が全く読めない那賀であった。 もちろん誰も笑う者はいなかったし、春日も眉一筋動かさない。 「仕事を残していますので」 むっつりとそう答えた背中が、休む間もなく次長室の扉を開ける。 「春日君」 再度那賀が、のんびりと声をかけた。 「どうやら、今日もわしの負けのようだよ」 ―― え? 答えない春日の姿が次長室に消えた。 意味の判らない言葉を吐いた那賀もまた、よちよちと局長室に戻っていく。 「なんすかね、今の?」 「さぁ……。局長はいつも意味不明ですからねぇ」 南原と大河内も顔を見合わせて首をかしげている。 「まぁ、春日次長が旅行に参加されないでよかったですよ。言っちゃ悪いですけど、次長がいたんじゃ楽しめないですもん」 果歩の背後で、水原が小さな声で呟いた。 果歩は―― なんとも言えない気まずさを感じたまま、黙って自分の席についた。 ************************* 「前園さん」 「ああ、果歩」 横から声を掛けると、覇気のない眼が果歩を見下ろした。 果歩はぎょっとして周囲を見回している。 誰もいないエレベーターホール。が、それでも単なる同僚の晃司に、役所内で名前を呼ばれてはたまらない。 「ちょっと名前は……」 「ああ、悪い」 どこかぼんやりしていたが、晃司はすぐに意味を解したようだった。 エレベーターが停まり、2人は中に乗り込んだ。果歩の行き先は一階の会計室。晃司は地下まで下りるつもりらしい。手に公用車の運転記録ファイルを持っているから、多分今から車で外に出るのだろう。 実のところ、それが判ったから後を追いかけた果歩なのだった。 「どうしたのよ。いやに無防備じゃない、……晃司らしくもない」 中は2人きりだった。 果歩の問いに、晃司は曖昧に頷いた。 「ちょっと疲れてて……ぼやっとしてたのかな」 「なに、仕事?」 「まぁ、な」 本当に疲れた横顔だった。なんだか自分勝手な話題を振ることが、申し訳なくなっている果歩である。 「……旅行のことだけど」 「ああ、断るよ」 あっさりと晃司は答えた。 「そうなの?」 「仕事もあるし……そんな気分でもないしさ」 そっか。 流奈の暴走を止めてほしいと言うつもりの果歩だった。なんだかよく判らないけど、最近の2人は仲がいいし、流奈も、晃司の言うことには妙に素直だったりするからだ。 「まぁ……でも、来られたら来て。須藤さんも一人じゃ寂しいと思うし」 「百瀬さんもいるんだろ、大丈夫だよ」 「うん、まぁ……」 「それに、俺いないほうが、お前だって気が楽だろ」 晃司が、思いっきり素になっているのが、果歩には判った。 何故か、妙な気まずさといたたまれなさを感じ、果歩は視線を下げていた。 「そんなことないよ。だってもう晃司とは……そんなんじゃないじゃない」 何故だか、言い訳のように果歩は言った。 実際は、晃司が参加すると聞いた時、確かに「えー、困った」と思っていた。 それは―― それは何故だったんだろう。 「それに、今は別の彼女がいるんでしょ。秘書課の安藤さん。いまさら、おかしな心配はしてないよ。――ただ、藤堂さんと上手くやってくれるかどうか、それが気がかりなくらいで」 「……ふぅん」 晃司は呟いて、物憂そうに頭を掻いた。 「まぁ、なんにしても、いかねぇから、俺」 「そう」 果歩にしても、それ以上は何も言えない。 少しばかり気づまりな沈黙があって、果歩は、早くエレベーターが目的の場所に着かないかな、と思っていた。 「泊るのってりょうの実家なんだけど、それは聞いた?」 「宮沢さん?」 晃司は、初めて驚いた目で振り返った。 「いや……そこまでは。え? なんで?」 「旅館なんだって。結構老舗の温泉旅館。料金半額にしてくれるから、お得だよ」 「…………」 「じゃ、一応不参加で予定たてるけど、気が変わったらいつでも言ってね」 ようやくエレベーターが一階に着いた。 果歩はほっとしながらロビーに出る。 なんだろう、なんかおかしかったな。今日の晃司。 最近の乃々子もそうだけど、自分の知らないところで何かが変わり始めているような気がする。―― |
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