「宴会芸? それを僕がやるんですか?」 「局長を前に、ただ飲むだけってわけにはいかないでしょ。2年前の旅行でもやったから、大河内さんあたりが心得ていると思うけど」 「は、はぁ……」 水原は固まっている。 「とにかくその辺り、南原さんと詰めてもらえるかな。女子は……4人か」 果歩は指を折った。 私と乃々子と流奈と―― 。 まぁ、さすがにその輪の中にりょうを含ませるわけにはいかない。 「3人で何かするから。そっちは私に任せて置いて」 「は、はい」 ぎこちなく行程表を受け取りながら、水原は果歩を見上げた。 「にしても、旅行の幹事って、結構面倒なものなんですね」 仕事が片付いた午後9時すぎ。 果歩と水原は、再び次長室にこもって打ち合わせの最中だった。 なにしろ、本格ではないにしろ、局長の送別会めいたものも兼ねている。 ただ、漫然と騒いで飲めばいいというものではない。 「まぁ、来年は一人でやってね」 果歩は軽いため息をついた。下心計画はもろくも崩れ、今となっては、2日間、どう藤堂を守るか―― それだけである。 2日間の綿密なスケジュールと宴会の段取り。会費の計算。旅行会社との打ち合わせ。まだやることは山のようにある。 総務課の幹事は、慣例的に男がすることになっており、果歩がこんな役目を担ってしまったのは、全くいきがかりとしか言いようがなかった。 そもそも南原が、年度当初に幹事としての自覚をもってさえいれば―― 「本当なら南原さんに引き継ぎして欲しいところだけど、去年は旅行がなかったから……南原さんもよく判らないだろうしね」 「えっ、去年はなかったんですか」 「確か選挙と被って流れたんじゃなかったかな。職員のイベントは、何か事件があれば二の次になるから。4年前も、高架橋工事の事故があって、その時も流れたと思うよ」 「へぇ……」 納得した風に頷いた水原は、が、すぐに訝しげに果歩を見上げた。 「でも、百瀬さんに聞きましたけど、住宅計画はずっと旅行なんてしてないそうですよ。政策部も、ここ数年はやってないって話ですし」 「……ああ」 それは―― 職員の考え方と、課全体の雰囲気に寄る部分が多い。 住宅計画も政策部も、都市計画局でトップの忙しさを誇っている。そんな余裕、多分誰にもないだろうし、―― 何より、課全体の雰囲気がぎすぎすしていて、そういった遊びを噛ませる隙間すらないのだろう。 「うちは、局長次長を抱えてるから、お2人の希望があれば、ほぼ義務的にやるんだけどね」 果歩は言った。 「ここ数年、そういった遊び心が役所全体から薄れてきているのは確かかな。公務員への風当たりも強くなったし―― それだけじゃなく、積極的な盛り上げ役がどの課からも消えちゃった気がする」 「そうなんですか」 「……うちだって、今年は計画さえしなかったでしょ。人が減って仕事ばかりが多くなって、人間関係はぎすぎすして……そういう余裕、南原さんだけじゃなく、多分誰にもなかったから」 果歩が役所に入った頃は、仕事始めや仕事収めは、半日休みで、着物を着て挨拶まわりをしているような余裕があった。 春には、勤務中に若手職員が役所を抜けだして場所取りをして―― そんな逸話を耳にしたこともある。今の時代、そんな馬鹿な真似をしてしまえば、一発で懲戒処分だ。 いい時代だったと言っていいのか。血税で給料をもらっている意識が希薄だったと言えばいいのか。 「まぁ、確かに、超過手当もつかないのに、残ってこんな真似してんのは、バカバカしいな、と思いますけど」 「そうね」 水原の真面目な不平を、果歩は微かに笑ってやり過ごした。 結局、親睦なんて面倒な真似から、みんなが逃げているのが現状なのだ。 まとめ役を買って出ても、面倒な仕事を押し付けられるだけで、誰かに感謝されるわけでもない。昔と違って、出世の足しにさえなりはしない。 親睦など無駄にはからなくても、仕事ができればそれでいい。そんな雰囲気が、いつの間にか主流になってきているから……。 「おーい、買ってきたぜ」 外から声がして、ダンボール箱を抱えた南原と藤堂が入って来た。 「酒とおつまみ……酒は取りあえず、藤堂さんの車に積んでるから」 「ありがとう」 立ち上がった果歩に、箱を降ろした藤堂が視線を向けた。 「おつまみや紙コップの類は、今夜、補佐が持って帰って下さるそうです。バスの待ち合わせ場所に、僕らが直接運びますから」 「南原さん、宴会芸って何したらいいんですか」 いきなり水原が立ち上がって、南原に泣きついた。 どうやら真面目な水原は、ずっとそのことが頭から離れなかったらしい。 「知るかよ、そりゃ大河内さん担当だろ」 「嫌ですよ。僕……あんな歌、死んだって歌えません!!」 あんな歌? と、藤堂が眉を寄せる。果歩は軽く咳払いをした。 11月の忘年会で大河内が披露した、やや……セクハラのきらいのある、口にしがたい宴会ソングである。 「まぁ、大河内さんに相談してみて。カラオケ程度の無難なものと、後は全員でできるゲーム……そんなものでいいと思うから」 「ストームなんていいんじゃないかって、こないだ大河内さん、言ってたぜ」 「ああ、あの5人組アイドルの?」 「そう、歌って踊れば、それなりに場も盛り上がるだろ。大河内さんが成瀬で、俺がりょうくん、藤堂さんが聡で、水原が憂、それで将君が前ちゃんだよ」 果歩は盛大に吹き出していた。「南原さん、それ、私観たいかも!」 片や、水原は蒼白になっていた。 「……し、死んだって、嫌です」 「ばーか、新人のくせに何言ってんだ。裸で踊らされないだけマシだと思ってろ」 「踊りなんて大変そうですね、藤堂さん」 果歩は笑いながら藤堂を見上げたが、彼は―― 意外なことに、わずかも笑ってはいなかった。それどころか……。 「と、藤堂さん?」 「新人ですよね。係長さんも」 南原がにやっと笑った。 「なんだか心外な顔をされておられたから。一番役が上なんだから、しっかりリーダーシップを発揮してくださいよ」 「ええ」 藤堂は微笑したが、その笑顔はかなりの忍耐を強いているようだった。 「努力しますよ」 「あー、腹へった。水原、なんか食って帰ろうぜ。それから今夜はカラオケの特訓な」 あ、じゃあ、今夜はもしかして2人? 果歩は、躊躇いがちに藤堂を見上げたが、すぐには声が掛けられなかった。 黙って眉を寄せる彼の横顔には―― 明らかに「困った」という表情が浮かんでいたから。 ************************* 「もしかして、宴会芸が苦手な人ですか」 帰途、エレベーターを待ちながら果歩が訊くと、「え?」とこちらを振り返った藤堂は、すぐに意味を察したのかわずかに苦笑した。 「まぁ……苦手というか」 「苦手というか」 「うん……」 藤堂は沈思し、何かを考えるような眼差しになる。 「想定していなかったので、少し驚きはしました」 「そういえば、去年の庶務の飲み会の時も、司会が苦手そうでしたよね」 その帰りに彼と二度目のキス……。思い出した果歩は少しばかりドキドキしたが、藤堂はまるで感じていないようだった。 「ああいった席での司会は初めてだったので」 「そうなんですか」 「ええ。……宴会というのに、そもそも馴染みがないせいかな」 やはりわずかな困惑を見せたまま、藤堂は首のあたりに手をおいた。 「今回も、正直言えばちょっと息を飲みましたね。まぁ、何事も経験ですから、頑張りますよ」 ―― 経験……。 職場は市役所が初めてではないと思うけど、前の職場では、そんな機会がなかったのかしら。 そう言えば、以前、こんな風に誰かと一緒に仕事をしたことがなかった、みたいなことを言っていたっけ。 しまった。忘れていた。藤堂さんって、結構なお金持ち……当たり前だけど、仕事だって同僚と机を並べてわいわいって感じじゃなかったはずだ。 きっと個室を持って、電話一本で部下がへいへいと何もかも済ませてくれていたに違いない (果歩の勝手な想像)。 そ、そりゃ、宴会芸なんて、観る立場であって、間違ってもする立場じゃないはずだ。 「私、藤堂さんは無理そうですって、南原さんに言ってあげましょうか」 果歩は慌てて言っていた。こんな些細なことで藤堂さんが旅行に行きづらくなるのなら元も子もない。 「いえ。やる以上は、完璧にやってみせます」 が、彼はきっぱりと言い切った。「できないと思われるのも癪なので。的場さんも、観たいと言ってくれましたしね!」 なんて律儀な―― いや、単なる負けず嫌いなのかもしれないけど。 一度上階に上がってしまったエレベーターは、まだ当分来そうもなかった。果歩はおそるおそる切り出してみた。 「あの……もしかして、旅行そのものに、あまり乗り気じゃなかったですか」 「どうしてですか?」 不思議そうに聞き返されると、逆に何も言えなくなる。 果歩はもじもじとうつむいた。 「まぁ、なんとなく―― そんなに行きたそうには、見えなかったので」 「ああ」 藤堂は、腑に落ちたように頷いた。 「わざわざ泊らなくても、とは確かに思いました。皆さん、仕事も忙しい時期ですしね。そもそも僕に―― 」 「…………」 「職場で旅行に行くと言う意識がなかったのかな。旅行と言われても、すぐに、意味が判らなかったのかもしれないです」 そっか……。 果歩は、少しだけ温かな気持ちになっていた。 藤堂さんにとって、役所というのは―― 本当に何もかもが初めての経験だったんだな。単に公務員というのではなく、きっと、一社会人としても。 そんな人をいきなり係長職に据える人事も人事―― 。とはいえ、彼が役所に入ってから10カ月と少し。色々あったけど、都市計画局は随分風通しがよくなった。 特に総務課は、ぎすぎすしていた人間関係が抜群によくなり、相乗効果のように仕事の能率も上がっている。 「旅行は、……先月の釣りと同じような意味じゃないですか」 果歩は言った。 「……藤堂さんは、多分その意味を誰よりよくご存じだと思いますよ。どんな仕事も、元をただせば人が手でするものだから……上手く言えないですけど」 感情の歯車がかみ合わなければ、当然上手く動かない。 仕事とは、ただ個に課せられた作業だけを効率よくすればいいというものではないのだ。人の心という難しいネットワークを結びつけなければ、全体の成果は上がらない。 それを果歩は、この職場で初めて学んだような気がしていた。 「そうですね」 藤堂は苦笑した。 「……去年までの僕は、その辺りがあまりよく判っていなかったのかもしれません。ただ、やみくもに焦っていただけような気がするな。自分のやり方を押し通そうとして」 「本当ですか?」 それは少し謙遜がすぎるというか、悪い言い方をしたら厭味というか……。 が、藤堂は真面目な目で頷いた。 「ええ。……思えば、一日一日が勉強でした。でも、いい経験になった。今では本当にそう思っています」 「…………」 なんだろう。その言い方。 まるで、いずれ役所を辞めることがもう確実みたいな、そんな―― 。 「ただ、旅行のことは」 が、果歩がその疑念を口に出す前に、藤堂が先に口を開いた。 「正直言うと、別の意味で、あまり穏やかではなかったのかもしれません」 え? と果歩は眉を寄せた。 穏やかではない? 「なにが、ですか?」 一瞬絡んだ2人の視線を、先に逸らしたのは藤堂だった。 「……色々、です。僕も男だから」 「…………」 「的場さんのことを、もっと知りたいと思うし……だから余計に、今は距離を開けたいと思っているのかもしれませんね」 「…………」 え、どういう意味? どういう意味? 聞き質そうと思ったが、何故だか顔があげられなかった。 自分の心音だけが、妙に高く聞こえてしまう。 その時エレベーターが着いて、2人は中に乗り込んだ。2人の他に誰もいない。 「もしかして……」 胸に収めたリングを、心音ごと衣服の上から押さえながら、果歩は訊いた。 今年の誕生日に藤堂からもらった12号の巨大リング。 今はネックレスの飾りにしかならないが、4月になれば、2人でサイズ直しに行く約束になっている。 「4月までの、……約束のことを言われているんですか」 「自分で言いだしたことなのに、みっともないですね」 藤堂は苦笑して、微かな息を吐いた。 「でも今は、素直に楽しもうと思っています。こんな機会は、多分二度とないですから」 「はい……」 ―――一緒だ……。 温かな沈黙が、エレベーター内に満ちた。 果歩は、ここ数日の杞憂が晴れたように、ようやく嬉しさを噛みしめていた。 「早く4月にならないかな」 少し勇気を出して言った言葉だが、見上げた藤堂の横顔が微笑していたので、果歩はますます胸がいっぱいになっていた。 ――なんだろう。今夜は、久しぶりに2人の距離が近づいた気がする。 多分彼が、故意に離していた2人の距離。でもそれは、逆に近づきたいという気持ちの表れだったのかもしれない。 いけない、また、彼の仮面を剥がしたくなっている。 果歩は慌てて、今の高揚を深呼吸して追いやった。 そうしてしまえば、また、前と同じように後悔される。あとたった1ヵ月半の辛抱だ。今は―― 少しばかり物足りないけど、同僚という2人の立場を楽しもう。 それもまた、過ぎてしまえば二度と戻らない時間なのだ。 ―― ……せっかくだから乃々子のこと、聞いてみようかな。 ふと思ったが、果歩はそれも、自制心で追いやった。 どうせ何かの誤解に決まっている。今は、2人の雰囲気を変な邪推で壊したくない。 「食事……どうですか?」 少し、遠慮がちに果歩は訊いた。 「そうですね」 腕時計を見た藤堂の目が優しかったので、多分OKだと、果歩は思った。 「今夜は、迫ったりしませんから」 「その言い方だと、まるで僕が、的場さんを畏れているみたいですよ」 「あら、違うんですか?」 互いに笑いながら、2人はエレベーターを降りた。 少しばかり無防備になっていたのは、もう夜も遅い時間で、エレベーターホールにもエレベーターにも、2人以外誰もいなかったからだ。 だから、次いで正面のエレベーターが目の前で開いた時、果歩はまだ、笑顔の余韻を顔に張り付けていた。 「……おつかれ」 晃司は、さほど驚いた顔も見せず、そっけなく言ってコートを翻した。 わずかな時間差で停まったエレベーター。 晃司は、果歩と藤堂が2人でエレベーターを待っている間、ホールの片隅で、黙って2人の会話を聞いていたのかもしれない。 先日、晃司に間違って名前を呼ばれただけで嫌な顔をした自分は、エレベーターホールで、藤堂と何を話していただろう。 なんだか、申し訳なさと胸苦しさでいっぱいになって、果歩は声をかけていた。 「お疲れ様、前園さん」 戻ってくる返事はない。 覇気のない背が、闇に消えて行くのを見送りながら、果歩は小さなため息をついていた。 ************************* 「りょう?」 果歩は携帯を耳に当てた。 自宅に帰ってすぐにかけた電話。 結局、食事はまたの機会に、ということになった。用事を思い出したと言うのが藤堂の理由だったが、多分、気が晴れない果歩の気持ちを慮ってくれたのだろう。 「ん? なに、どうしたの?」 いつも通りのりょうの声を聞いて、少しだけほっとした。 果歩は上着を脱いで、ベッドに腰掛けた。 「ごめんね。まだ仕事だった?」 「んー、まぁ、そんなとこかな。何? 何かあった?」 「うん……」 果歩は、しばらく迷った後、旅行についての晃司の顛末を説明した。 「ま、本人行かないって言ってんなら、それでいいんじゃない?」 案の定、りょうの答えはあっさりしていた。 「まぁ、そうなんだけど、ちょっと心苦しいというか、気づまりというか」 「そりゃ」りょうが笑う気配がした。 「別れた男と女が、心苦しかったり気まずかったりするのは、当たり前でしょ」 「それは……」そうなんだけど。 「で?」 りょうの声は笑っている。 「果歩としては、前園君に来てほしいわけ? それはいったい何のため?」 「なんのって……」 果歩は口ごもっている。 「別に特別な理由はないけど、最近はいつも一緒だったじゃない。ほら、新年会とか映画もそうだし」 「私に同意を求められても」 冷やかに切り返され、う、と果歩は詰まっている。 「その―― 上手く言えないけど、最近は一緒にいるのが、当たり前みたいになってたから。今さらへんな感じに気まずくなりたくないだけよ」 りょうは、しばらく黙っていた。 「果歩」 「なに?」 「人はそれを、時に二股というんじゃないの?」 「はいっ??」 「あ、無自覚か。ゴメン」 果歩は愕然としていたが、りょうはあっさり自身の言葉を引っ込めた。 が、果歩の胸にりょうの言葉は抜けない棘のように刺さったままで、りょうもそれを自覚しているはずだった。 「まぁ、機会があれば、私からも誘っておくわよ。いたらいたで、結構面白いキャラだしね」 「うん……」 嫌な動揺を堪えながら、果歩は頷いた。 「まぁ、できたらでいいよ。……りょうに頼むようなことでもなかったし」 「ふふ……どうかな。最近は果歩より仲がいいかもよ」 何故か笑えないまま、果歩は強張った笑みだけを無理に浮かべた。 「ただ、果歩も覚悟――」 「うん」 「…………」 果歩は、さらにきつい言葉を覚悟したが、何故かりょうは、しばらく無言のままだった。 「ま、いっか。じゃあね、何か進展あったら電話するから」 「あ、うん、……ありがとう」 ――覚悟、か。 果歩は携帯をおいて、着替えるために立ちあがった。 りょうが何を言いたかったか、判るような気がした。 でも、何故話を途中で止めてしまったのか、それはよく判らなかった。 ************************* 「だってさ」 りょうは、携帯をカウンターに置いて、傍らの人を振り仰いだ。 「意味は、判ったと思うけど」 「行かねぇし」 前園晃司は、グラスの水割りを飲み歩した。「おかわり」 「何、子供みたいに拗ねてるのよ。果歩にその気がないのは、今に始まったことじゃないでしょうに」 「うるさいなぁ、ほっといてくださいよ」 「はいはい」 りょうは肩をすくめて、困り顔のマスターを見上げた。 「出してあげて。ただし一杯だけね」 「あんた、俺のなんですか、保護者ですか」 たちまち隣の酔っ払いが絡んでくる。 「先日のささやかなお返し……。公務員でしょ、前園君。酔っ払って騒ぎでも起こしたら、大変なことになるわよ」 「……あんたが言うかな」 ふてくされたように言って、晃司は頬づえをついて、ぼんやりと空を見つめた。 りょうは、再び肩をすくめている。 「ま、気持ちはわかるのよね」 「へー」 気のない声が返される。 マスターが用意したグラスを、りょうは受け取って晃司の前に進めてやった。 「ぴーんと張りつめてた糸が切れちゃったか。原因はよく判らないけど」 「ふぅん」 「意外に冷静で計算高い君は、実はちゃあんと判ってたんだよね。果歩にいくらアピールしても、可能性なんて全然ないってことくらい」 「…………」 「それも君がスポーツ選手だったせいかな。つまり君は勝負師だから、勝ち負け以外の価値観がないわけだ。その代わりにあるのが根性と精神論。成功者がよく口にする言葉。成せばなる、努力すれば叶わない夢はない―― つまり、敗者とは努力が足りない者を指すってこと?」 「…………」 「残酷だね。そんな無責任な言葉に縛られて、勝つ見込みのない戦いをエンドレスに続けなきゃならないんだから。本当にイチローになれるのは、その中のごく一つまみなのに」 「……何が言いたいんすか」 「無駄だと判って、なお頑張る君の気持ちを分析してあげてる、つ、も、り」 「…………」 男の横顔に、ぴりっと痙攣じみたものが走るのが判ったが、構わずにりょうは続けた。 「今の君は、まるで、わずかのたわみもなく張りつめた糸みたい。それって、実はちょっとした衝撃に弱いって知ってた? 軽く触れただけで、プツン」 「あんた……」 初めて、激しい怒りを含んだ目がりょうを見下ろした。 「あんたに、人が真剣にやってることを茶化す権利があるのかよ」 りょうは微笑して、その眼差しと対峙した。 「糸が切れた理由は、先日の騒ぎで警察を呼ぶしかなかった君の非力さに起因してる? 君の思考回路って不思議だね。それが果歩の手助けが出来ずに逃げるしかなかった11月の事件の無力感を芋づる式に呼び覚ましちゃったなんて」 「ちょ、宮沢さん」 声を挟んだのはマスターだった。 既に晃司は立ち上がっている。 「……あんた、いい加減にしろよ」 顔は蒼白になっていた。握った拳が震えている。 「女じゃなかったら、殴ってた所だった」 「そう言う奴に限って、相手が男でも女でも何もできやしないのよ」 「宮沢さん!」 マスターの手が、本当に振りあげた晃司の腕を掴んでいた。弾みでカウンターの酒瓶が落ちて砕け、強いアルコール臭が立ち昇った。りょうは冷笑して足を組み直した。 「もっと言ってあげようか。先日は本当にお世話になったからね。君も果歩も、今の現状に甘えてるだけ。お互い今の立ち位置が気持ちよすぎて、現実から目を背けて茶番劇を演じてるだけよ。君は果歩と復縁できないことくらい百も承知だし、果歩は君の気持ちなんてとっくの昔に知っている―― 無自覚な馬鹿な子だけど、今日気付かせてあげたからね」 「…………」 「畏れているのは何? 自分の負けを認めること? それとも果歩を失ってしまうこと? まだ判らないなら教えてあげようか。どっちもね、とっくの昔にそうなっているのよ」 「…………」 「果歩の君への気持ちは、もうとっくの昔に友情よ。果歩は君が好きなのよ。昔とは違う意味でね。……判っているなら、そろそろ受け止めてあげてもいいんじゃないの」 いつの間にか、晃司の腕は落ちていた。 りょうは肩をすくめて立ち上がった。 「さぁて、帰るかな……。マスターごめんね。駄目になったお酒、私が買うから」 「そういうあんたは、なんなんすか」 コートを羽織っていると、背後から低い掠れ声がした。 りょうは振り返った。再びスツールに座った男の目には、暗い嘲りが透けて見えた。 「他人に神様みたいに説教するあんたが、先日は男5人と乱痴気騒ぎですか。それともああいうのが、あんたの本性なんですか」 「……前園君」 りょうは笑った。 「君と私は似てるのよ。同類嫌悪……見ていて腹が立つほどにね。あの日は私の糸が切れたの。私もね、張りつめてなきゃ生きていけない人だから」 「……は?」 「最も、君よりは何倍も強い糸だけどね。―― じゃ」 意味が判らない風の酔っ払いを置いて、りょうは夜の街に出た。 それでも君は幸せだと、本当はそう言ってやりたかった。 |
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