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年下の上司 story14〜Feburuary@

陰謀渦巻く職員旅行(4)


「ねぇ……今日はコンタクト、まずくない?」
 美怜の不安気な声を、果歩は苛々しながら遮った。
「判ってるけど、仕方ないじゃない」
 ずっしりと重たい旅行鞄を担ぎ、それよりさらに重い気持ちを抱いて立ち上がる。
「行ってきます……」
 旅行当日、午前7時。
 右目が瞬きするたびにチリチリする。軽い結膜炎症状……判っているが、こんな日に眼鏡なんてどうやっても掛けられるはずがない。
「果歩」
 リビングから、父憲介の鋭い声がした。
「判っていると思うが、くれぐれも結婚前の女性としての慎みを、だな」
「……はい。判ってます」
 昨夜から何度同じ説教を繰り返されたことか―― 。
 父にしてみれば、課内旅行イコール婚前旅行ということになるらしい。
 真っ向から否定できないのが辛いところだが、――が、そういった意味合いは限りなく薄まってしまった。
 しかも、りょうの毒針が後になって胸にじんじん染みてきて、なんだかもう憂鬱というか辛いというか……。
 それに、目だ。
 こいつはやばいぞ、と果歩は内心ぞっとするほどの恐怖を感じている。
 激務に追われてコンタクトの装着時間が長くなった時に起こりうる惨劇のひとつで、軽いとはいえ、おそらくは立派な結膜炎の一種である。
 若い頃、その症状が高じて目脂で目が開かなくなったことがあった。そこでようやく眼科に行って―― コンタクト絶対禁止と言い渡された。
 どうしたか? 片眼だけで一週間過ごしたのである。
 とはいえ、それは慣れた日常を繰り返している間だけ出来た危険な技で、旅行などという未知の世界では、とても行う勇気はない。
 ――まあ、いいわ。いざとなったら、片方取るから。乃々子に事情を話して、なんとかフォローしてもらおう。
 果歩は腹を括って歩き出した。
 とにかく、今日は楽しまなくちゃ……。一人底抜けに沈んでいたら、周りの人に申し訳ない。
 りょうの言いたいことは、判っている。
 自分でも、多分心のどこかで理解していた。
 晃司の気持ちから―― 意識的に逃げ続けていたことに。
 だからあの時、自分は「困った」と思ったのだ。晃司が旅行に来るかもしれないと聞いて、流奈と同様に邪魔だと思った。
 なんて卑怯なんだろう。晃司の前では、彼の気持ちを黙殺し続けていたくせに―― 。
 マンションのエントランスを出ると、寒風が吹き付けてきた。果歩は、マフラーを巻き直して歩き出した。
 ―― 私、晃司が好きなんだ……。
 あれほど嫌な目にあわされた元彼だけど、今は―― 大切な友達だと思っている。
 できれば、今のままで、今の関係で、ずっと仲良くやっていきたい。
 ずっと目を逸らし続けていた自分の気持ちに、果歩はようやく気がついていた。りょうの放った矢で、無理矢理目覚めさせられたのかもしれないけれど……。
 ぼんやりと、コンビニの前まで歩いてきた時だった。
「やぁ」
 深みを帯びた男の声が、いきなり朝の静寂に響き渡った。
 果歩はなんだろう、と思いつつ声の前を素通りした。
 コンビニ前の駐車場。一台だけぽつんと停まった黒塗りの車があったが、あまり関わり合いになりたくない匂いがしたからだ。
 悪い言い方をしたらヤ○○の車みたいな……。
 ブーッと、通過した車の方からクラクションが鳴らされた。
 ――えっ、マジで?
 何かの間違いだと思いたい。果歩は蒼白になりながら、ダッシュした。その時である。
「的場さん、僕ですよ!」
 僕?
 早朝によく通る声―― 。
 足を止めた果歩は、怖々と振り返っていた。
「ひどいなぁ、まるでナンパした女の子に振られたみたいじゃないですか」
 運転席側の窓から、顔を出して手を振っているサングラスを掛けた男―― 。
 果歩は、あっと小さな声を上げていた。
「緒方さん?」
「名前を覚えていただいて、光栄ですよ」
 にこっと笑うと、緒方はサングラスを外して片手を振った。
 
 *************************
 
「吃驚しました。どうしてここに?」
「この近所で、ちょっとした張り込みをやってましてね。さっき交代して、今から本部に帰るところだったんですよ」
「はぁ……」
 そういえば、ひどく遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
「あれですか」
 果歩が訊くと、緒方はわずかに眉をあげて音の方を振り返った。
「違いますよ。普通、張り込みでサイレンは鳴らしません。被疑者が逃走でもしない限りね」
 くすりと笑うと、イタリアの太陽みたいな伊達男はアクセルを踏み込んだ。
「じゃ、行きましようか。駅の北口でよかったですよね」
 厚い唇には火を点けない煙草を挟みこんでいる。
 彫りの深い眼鼻立ち、癖の強い真っ黒な髪、ピンストライプのダブルのスーツ。
 ハンサム……と言えなくもないが、まるでアメリカンコミックから抜け出てきたような男である。
「吃驚したのは僕ですよ」
 ハンドルを切りながら緒方は言った。
 緒方潤一――  県警本部の警察官。暴力団担当係に所属しているという話だが、役職までは果歩は知らない。
「休憩がてらコーヒーを飲んでいたら、美しい人がひどく憂鬱な顔で歩いている……的場さんでした」
「は、はは」
 果歩は強張った笑いを返していた。
 この男は、ど真面目な顔でとんでもないお世辞を言うから性質が悪い。
「でもいいんですか。夜勤明けで疲れていらっしゃるのに、わざわざ送って下さるなんて」
「構いませんよ、通り道ですから」
 なんとなく断り切れずに助手席に収まっているが、少しだけ軽率だったかしら、とも思っていた。
 三宅と同じ警察官でも、この人はどこか得体が知れない。怖さとは違うが、底が見えない不気味さがある。
 それでも果歩は、機会があれば、ぜひこの男ともう一度会ってみたいと思っていた。
 11月に起きた事件の件で、どうしても腑に落ちないことがあったから―― とはいえ、それをどう自然に切り出すのかが問題だった。
「そういえば三宅君から聞きましたよ」
 逡巡する果歩を尻目に、先に口を開いたのは緒方だった。
「何かと、ご心配をおかけしたそうですね」
「もしかして、タクシーのことですか」
 果歩はさっと頬を熱くしながら聞き返していた。
 三宅君とは、緒方の同僚刑事で、果歩とは合コンで親しくなった。
 その後、真鍋麻子の葬儀の後に偶然出会い、食事をして、少しだけ―― 相談に乗ってもらった。
 たまたま乗ったタクシーの運転手に「ストーカーが後をつけているのでは」という意味のことを言われ、ひどく恐ろしい思いをしたからだ。
 その三宅から電話があったのが、つい先週のことである。
(判りましたよ、タクシーの運転手。百パーセント安全な相手です。聞いて驚かないでくださいよ。―― 白井さんと言って、警察のOBだったんです)
 果歩は電話の前で、いっそ消えてなくなりたい気持ちだった。
 そんな親切な人相手に―― 私ったらなんて疑いを持ってしまったんだろう。
(白井さんとは電話で話しましたけど、あの夜のことはよく記憶されておられましたよ。元刑事のカンが利きすぎたんだと、本人、恐縮しきりでした。あまり過度に気にしない方がいいだろうって、いや、気にさせた本人が言うのもおかしな話ですけどね)
 三宅の声は晴れ晴れとしていたし、果歩もようやくわずかばかりの心の重荷が晴れた気になっていた。
 自分にストーカーなんて、まずあり得ないと思ったけれど、それでも少しだけ気持ちが悪かったからだ。
「それも報告を受けましたが、もう一つ」
 緒方の横顔が、いたずらを楽しむ子供みたいな笑いを浮かべた。
「僕が、どうして大河内さんの事件にしゃしゃり出てきたか、ですが」
「え……っ」
 さーっと果歩は青ざめている。
 み、三宅さんのお喋り! よりにもよって本人に話しちゃうだなんて。
「す、……すみません。別に悪い意味があって聞いたわけじゃ」
「いえいえ、ご不審はごもっとも。三宅君にも釘を刺されましたよ。市民の不審を買うような行動は慎むように、と」
「は、はぁ……」
「あれはですねぇ……うーん、なんていうのかな。公務員さんなら判るでしょう」
「……? はい」
「いわゆる、表に出来ない筋からの依頼だと思ってくれればいいんですよ。僕が個人的に親しかったので、名指しで指名されたんです。一日も早く、長妻真央の事件を隠密に解決するようにとね」
 果歩は眉を寄せていた。
「……議員筋、ということですか」
「さすがは公務員さんですね」
「……長妻さん、サイドからですか?」
「その辺りは墓場まで持って行かなきゃまずいでしょうがねぇ」
 くすくすと、楽しそうに緒方は笑った。
「三宅君はいい男ですが、やや真っ直ぐなきらいがありましてね。警察とは、時に正義以外の観点からも動かなければならないのですが、真面目すぎる三宅君には、それが少しばかり難しい」
「はぁ……」
「だから筋モノの仕事は、なるべく一人で受けるようにしているんです」
 言葉を切って、緒方はふと苦笑を浮かべた。
「そういう言い方をすると、僕が悪徳警察官で、三宅君が正義の味方みたいに聞こえるかな? とはいえ、正義だけで突っ走る人間ほど危険なものはないんですよ。考えてもご覧なさい。どの時代の大量殺戮者も、元を正せば正義の御旗のもとに、だ」
「……三宅さんが危険だと……」
「そうは言っていないですよ」
 それでも何かを含むように、緒方は笑った。
「まぁ、僕らは同じチームとして動いていますが、そういった意味で、多少の衝突があるという話ですよ。大した話じゃありません」
「そうなんですか……」
 果歩は、ファミレスで緒方の話をした時の、三宅のやや暗い眼差しを思い出していた。
 もしかすると、2人の亀裂は緒方が思うほど簡単なものではないのかもしれないと思ったが、さすがにその杞憂を口に出すのは憚られた。
「三宅君が、純粋に正義だけを追及する男なら、僕のほうでそんな相棒は願い下げですね。僕はね、正義なんていう他者に思考停止を強いる言葉が大っきらいなんですよ」
「…………」
「戦争も民族紛争も、全てその名のもとに起きている……。僕は、ヤクザを監獄に叩きこむことを生涯の仕事にしていますが、それは間違っても正義のためなんかじゃない」
「……じゃあ、なんのため、なんですか」
「好きなんですよ、この仕事が」
 緒方は不思議な笑いを浮かべた。
「僕には信念も矜持もない。宗教も信じる者も何も持たない。家族さえない。……ただ、自分が楽しいことだけを追い求めて生きている。――だから僕は、警察官を続けているんです」

 *************************
 
「なんにしても、長妻真央さんのミッションは、なかなか厄介なケースでした。どういった事情か、全国規模でマスコミがニュースを垂れ流しにしてしまった。隠密にこと進めようにも、さすがに難しい」
 果歩は黙っていた。
 心の中では、少しだけ不思議に思っていた。
 三宅さんともそうだったけど、この人との縁も、これから何かの形で続いて行くのだろうか? 
 自分の人生で、警察の人と親しくなる機会が来るなんて、想像してもいなかったけど……。 
「あの時、僕が取るべき方法はひとつだけでした。一日でも早く、どんな手を使ってでも事件を収束させること。まぁ、少しばかり姑息な手を使いましたが、許される範囲内でしょう」
「……姑息な手?」
「おや、もう忘れてしまいましか? 君と僕で、最後に長妻さんに会いに行ったでしょう」
 ああ、と、果歩は頷いている。
 11月―― 喫茶店で、果歩は長妻真央と対峙した。同席したのが緒方だった。その時真央は、涙ながらに自分の本心を吐露したのだ。
「……都合が良すぎるとは、思いませんでしたか?」
「え?」
 果歩が顔を上げると、緒方はわずかに目を細めた。
「あの朝、長妻真央の友人が、彼女の模倣犯として警察に痴漢被害を訴えた。―― 真央さんは、それで観念したでしょう」
「…………」
「あなたにも、墓場に持っていく秘密のお裾わけですよ。あれはね、ちょっとした罠でした。真央さんの友達はそそのかされたんですよ。その少し前から彼女が偶然―― 偶然としか思えない形で知り合った、ある連中にね」
「どういう意味ですか?」
「そういった末端の連中を、刑事というのは、幾つも飼っているということです」
「…………」
「あの事件に関して言えば、他にも裏で動いていたことがありますが、今回はここまでの種明かしにしておきますよ」
 緒方の言葉の意味を察し、果歩はさすがに自身の眉が曇るのを感じていた。
「つまり……長妻真央さんのお友達をそそのかして、故意に痴漢冤罪事件をやらせたって―― そういうことなんですか」
「そういった形でしか、あの強情なお嬢さんを落とす方法はないと判っていましたからね」
「……なんで、そんなことを私に?」
 果歩は困惑しながら、眉を寄せた。
 この場合、緒方の行動の善し悪しは自分には判らない。確かに真央の頑なだった心はそれで壊れた。でも―― でも……。
「まぁ……巻き込んでしまいましたからね。勝手に飛び込んできたという言い方もできますが。――ただ、長妻真央を揺さぶるためには、あなたも重要なファクターでしたから」
「私が、ですか?」
「判りませんか? あの子はね、ひどく残酷に他人を踏みつけることができる半面で、自分が傷つけた友達を何年も忘れることができないほど、純粋な心を持っているんですよ。あなたは、姿を見せられない大河内さんの代弁者であり、喧嘩沙汰を起こした前園晃司君と同列者であり、また長妻真央に追いつめられた被害者の一人でもある。あなたの顔を見るだけで、あの子の神経は、相当な葛藤を覚えていたはずなんですよ」
「…………」
「あの日は、僕にとっても最後のカードを切る大切な日でしたからね。絶対に失敗は許されなかった―― 。だから的場さんに、同席していただいたんです」
 果歩は黙っていた。なんとも言えない真実だった。が、これで全ての謎が解決したことになる。そうか―― そういうことだったのか。
「私、警察の方は、……やっぱりあまり好きになれそうもないです」
「三宅君が聞いたら、泣くなぁ」
 やはり緒方は楽しげに笑った。
「とはいえ、便利なこともありますよ。警察官を友達に持つと」
「それはそうかもしれませんけど」
 駅が目の前に迫っている。ハンドルを切りながら緒方は続けた。
「つい先日も、面白い事件に巻き込まれましてねぇ。僕は一度出会った人、特に美人は絶対に忘れない性質ですが、まさかあんな場所でお目にかかるとは思わなかったな」
「……なんの話ですか?」
 果歩は眉を寄せている。
「おや、聞いていませんか?」
 緒方は含むように笑って、唇を開いた。
 
 *************************
 
「よう、おはよう」
 果歩は唖然として、バッグを落としそうになっていた。
 駅前の大型バス専用ロータリー。―― 待ち合わせ場所には、既に何人かの職員の姿が見えたが、一番先に振り返って果歩を見つけてくれたのは晃司だった。
 果歩は、顎を落としそうになっていた。
「あの、こ……前園さん?」
「おはようございます、的場さん!」
 その時、水原が、ネジを巻きすぎたからくり人形みたいな勢いで駆けよって来た。
 どうやら初めての旅行幹事で、テンションが極限を超えているようだ。
「前園さん、昨日の夜急に参加できるって電話くれたんですよ。前日はまずいでしょうって断ったんですけど、なんとかなるって強引に押し切られたもんですから!」
「は、はぁ……」
「宮沢さんの了解は取ってるから」
 晃司は肩をすくめるようにして果歩に向きなおった。
「観光とか? チケット取れないなら別にいいよ。俺、適当にブラブラすっから」
「……うん、それは多分、大丈夫だと思うけど」
 それより晃司の、からっと晴れた別人みたいな態度のほうが―― いや、それもあるけど、もう一つ。
「ちょっと」
 果歩は、晃司の袖をひっぱるようにして隅の方に連れて行った。
「なんだよ、こないだは名前呼んだだけで青くなってたくせに」
 口調はふてくされていたが、それでも晃司の態度は悠然としていた。
 果歩はますます判らなくなった。
 ――なんだろう、今朝の晃司……。
 それとも先日まで、私が少し気にしすぎていたのだろうか。とはいえ今は、もっと大切な問題が他にあった。
「あのさ、りょうのことだけど」
「? 宮沢さんなら、新幹線で先に行ってんだろ」
「そうなんだけど、そうじゃなくて―― 、りょう、一体何があったの」
「何がって?」
 意味が判らないのか、晃司はきょとんとしている。果歩もまた、全てが初耳すぎて何から切り出していいか判らなかった。
「てゆうか、晃司、何時から緒方さんと知り合いになったのよ」
「………あ」
 低く呟いた晃司は、初めて何の話か理解したようだった。
「りょうが飲み過ぎて警察呼ぶ騒ぎって、一体どういう話? りょうが酔うなんてあり得ないでしょ。何がどうなったら、緒方さんがパトカーで繰り出す騒ぎになるわけよ」
「…………」
 晃司は黙って視線を下げると、小さく息をついた。
「聞きたい?」
「……聞きたいっていうか、今聞いてるんだけど」
 なんだろう。その態度……。
 果歩は不審さに眉を寄せている。
「んじゃ、バスの中でな」
 晃司はあっけらかんと言って顔を上げた。
「え? バスって」
「俺の隣に座れってことだよ」
「はい??」
 そのまま歩き出した晃司の背を、果歩は慌てて追っている。
「ちょ……、無茶言わないでよ。こんなガラガラのバスの中で、2人で座ったらおかしいじゃない」
「じゃ、しーらない」
「…………」
 果歩はただ、唖然としている。
 どういうこと?
 い、一体クールな晃司になんの異変が……。
「あ、的場さーん」
「おはようございまーす」
 女2人の明るい声がした。見るまでもない、乃々子と流奈である。
 デート? と見まがうばかりに可愛く着飾った女2人の間には、当然のように藤堂が立っている。
 藤堂は果歩を認めて顔をあげ、控え目に微笑した。その眼がわずかに困惑を浮かべていたから、既に、女2人の波状攻撃が始まっているに違いない。
 果歩は軽い眩暈を感じつつ、冷静な微笑を彼らに返した。
 なんだろう、これってまるで新年会のデジャヴ、みたいな……。
 が、驚きはそこに留まらなかった。
 というより、果歩より早く、隣の晃司が「げぇっ」というような奇妙な声をあげて、後ずさった。
 バスの隣に滑り込んできたタクシー。その中から、男女2人が降りて来たのだ。
「ええっ、宇佐美?」
「お前、来られないんじゃなかったよ!」
「てか、彼女連れってありなのか?」
 たちまち水原と南原が驚きの声を上げる。
 宇佐美祐希、続いて―― 長妻真央。
 ――え? 宇佐美君もだけど、どうして真央ちゃんが?
 果歩はあんぐり口を開けたし、その場にいる全員が不審さに声を上げたが、最後にタクシーから降りてきた人をみて、全員がぴたっと口を閉ざした。
 志摩課長である。
「……的場君」
 ぼそぼそとした志摩の声が果歩に届くように、全員が息を殺して協力してくれている。
 縞模様のセーターに茶色のスラックスという、普段とは別人のようなラフな格好をした志摩は、表情を微塵も変えずに続けた。
「祐希が、ぜひとも自費で参加したいと言っている。本当は交通機関で行くと言ってきかなかったんだが、バスには随分空きがあると聞いたので」
「は、はい」
 果歩は緊張して頷いている。
「料金は折半して払いたいと言っている。ただし、正規職員の旅行に同行というのは、本人も私も分不相応だと思っている。単に宿泊先が同じ者として、扱ってはもらえないか」
「それは、……もう」
 宇佐美の律儀さもそうだが、志摩の几帳面さにも、果歩はむしろ、笑いと紙一重の何かを感じている。
 宇佐美だったら、多分総務の全員が大歓迎だ。むしろ、こちらからお願いしたいほどだったのに―― 。
「というより、課長……その隣の女の子は」
 釣りに行く時となんら遜色のない格好をした中津川が、そこでおずおずと口を挟んだ。
 志摩は、わずかに眉を動かしたが、それだけだった。
 知らん―― 。
 果歩もそうだが、全員が課長の沈黙をそれと察した。―― とは言え、知らん?
「私なら」
 そこで、初めて全員の注目を集めていた―― 正確には背を向けた晃司を除いてだが―― 少女が口を開いた。
 長妻真央。18歳、現役女子高生である。
 いつもどこか掴みどころがない少女だが、今日は最初から表情が硬かった。硬い―― ある意味、何かの覚悟が透けて見える硬さである。
「私なら、宮沢さんに直接誘われたんです。暇だったら旅館に遊びに来ないかって」
 りょうに?
 果歩は唖然としていたが、それは果歩の背後で顔を背けていた晃司も同じことのようだった。
「バスに乗ってもいいですか? 無理なら新幹線で行きますけど」
 真央は平然と顎をあげている。
 態度は相変わらず不遜だが、風になびく黒髪といい、レギンスに包まれたすらりとした美脚といい、正視しがたい美少女であることには変わりがない。
「あのぉ、ほんま、すんません」
 初めて宇佐美が口を開いた。
「こういうの、迷惑やって判ってるんやけど、……この子にもちょっと切羽詰まった理由があって、絶対迷惑かけへんよう、俺が見てますんで、連れてってもらえまへんやろか」
 それだけで、宇佐美がなんのために旅行参加を決心したのか、窺い知れるようだった。
 宇佐美と真央。なんだか判らないが、2人の間には新年会以降交流が継続していたようで、正義感の強い宇佐美は、あんな形で晃司に突き放された真央が、放っておけなかったに違いない。
 おそらくは、旅館に乗り込むと息巻く真央を説得して―― この流れになったのだろう。
「宇佐美君、よく来てくれたね」
 果歩はすぐに気を取り直して宇佐美に声を掛けたし、それは南原や水原も同様だった。
 真央は一人、冷たい眼で遠くを見つめている。
「じょっ、冗談じゃねぇ」
 晃司が、泡を喰ったように呟いた。
「あの人、何考えてんだよ。人をもっともらしい言葉で説得しといて……あの女子高生を呼んだだと?」
「りょうのこと?」
 果歩は、冷やかに言って晃司を見上げた。
 悪いがこの件に関しては、晃司の完全な自業自得だと思っている。
 晃司と真央の関係が正確にはどうなのかは知らないが、高校生相手にあの振り方はひどすぎるし―― 30前の大人が取る態度ではない。
「残念だけど、持ち上げて突き落とすのは、りょうの一番得意なやり方よ」
「な、なんだよ、それ」
「しーらない。とにかく真央ちゃんのことは旅行中になんとかしなさいよ。宇佐美君にまで気を使われて、情けないったら……」
 しかし、ここまで見事に役者が揃うとは―― 。
「皆さん、時間ですので、そろそろバスに乗ってくださーいっ」
 水原が金切り声を上げた。
「藤堂さん、一緒に座りません?」
「藤堂さん、バスの中で、ご相談したいことがあるんですけど!」
「そ、……そうですね。僕は水原さんの手伝いもあるので」
 ああ、もうその3人はどうぞ好きにしてください。
 荷物を持ち上げながら、果歩は軽いため息をついた。
 なんだか、波乱含みの旅になりそう……。
 鞄の中には、昨夜急いで作った手造りのチョコレートが入っている。
 明日は聖バレンタインデー。とはいえ、2人で過ごすなんて、今となっては手の届きそうもない夢である。
 直前に緒方に遭遇したこともそうだが、ようやく実現した課の旅行は、あまり幸先のいいスタートではなさそうだった。
 
 *************************
 
 バスの中のあれこれは、記すまでもないだろう―― 。
 予想を何一つ裏切らない展開に、果歩は一人、最前例に座って諦めのため息をついていた。
 藤堂の周りを、花にむらがる蝶みたいに追いかけ回す流奈と乃々子。
 南原と宇佐美は長妻真央とトランプゲームで盛り上がり、那賀、志摩、中津川などの役付き連中は、バスで流れる落語のDVDに見入っているようだ。
 それなりに楽しい旅―― なのだろうか?
 通路を隔てた席で疲れ果てて眠っている水原を見ながら、果歩は再びため息をついた。
「水原ぁ。何でもいいから、後ろに飲むもの持ってきて」
 南原の声がした。
「はーい」
 水原を起こすのが忍びなくて、果歩が立ち上がっている。
「果歩さん、よかったらこっちで一緒に遊びませんか」
 紙コップを手渡していると、宇佐美が控え目に声をかけてくれた。
 果歩はにっこりと、可愛らしい青年に笑顔を返した。
「ありがとう、宇佐美君。でも前でやることが色々あるから……また旅館でね」
 船に弱い果歩が、車に強いはずもない。
 果歩が最前列に一人で座っているのは、確かにホステスとしての役目を果たすためだが、実のところ酔い防止のためでもあるのだ。
 さすがに船ほどの惨事にはならないだろうが、揺れるバスの中でトランプなんてとんでもない話である。
「宇佐美、ふられたな」
「ふ、ふられたって別に……」
 南原の余計な突っ込みに、生真面目な宇佐美は耳まで赤くしてトランプを切り始めた。
 そこに、隣の真央がにやにやと笑って身体を寄せる。
「なに〜、ウサちゃん、やっぱこのお姉さんが好きなわけ? 若作ってるけど、実はもう三十路だって知らないの?」
 真央……。
 背中でその会話を聞いていた果歩は、手にした紙コップを握りつぶしそうになっていた。
「ま、的場君?」
 受け取ろうとした中津川の目に、初めて見るような恐怖の色が掠めている。
「と、年は関係あらしまへんよ。それに僕……別に果歩さんが、30でも40でも!」
 天使―― !
 なんて可愛いらしい発言だろうか。ああ、こんな弟がいたらどんなにいいだろう。あの可愛げのない妹と引き換えに、宇佐美君が弟になってくれたら。
 しかし40というのは、少々行きすぎた例えである。そんなところにまで、三十路のカテゴリーを引きあげてほしくない。
「てか、お前、ナチュラルに的場さんのことを果歩さんって呼んでるけど、そういうのって役所じゃちょっとNGじゃねぇの」
 またもや南原が、余計な口を挟んだ。
「そうなんですか?」
「そらそうだろー、たとえば的場さんが、俺や係長のことを名前で呼んでみろよ。亮輔さん、瑛士さんって、キモいだろ、普通」
「キモいっていうより、さすがにちょっと聞いてられませんよね。風紀的にまずいって感じですか」
 後ろの席の大河内が口を挟む。
「まぁ、宇佐美君の場合、キャラクター的に許される感じはしますけどね」
「でもウサちゃん、水っちのことは水原君って呼ぶし、私のことだって長妻さんって未だ名字呼びじゃない? なんでお姉さんだけ、果歩さんなわけ?」
「そ、それは……それは僕の、き、気持ちの問題ですよ!」
 果歩さんかぁ……。
 果歩は別のところで、ドキドキしていた。
 今まで考えてもみなかったけど、藤堂さんもいつか私のこと、果歩さんって呼んでくれるのかしら。
 ああ、駄目駄目、想像もできない。
 あの真面目な人は、もしかすると結婚してからも、的場さんと呼び続けるかもしれない。
 十分あり得る。今だってもう、2人きりの時は果歩さんと呼んでも問題のない間柄なのに―― 。
「宇佐美。相変わらず、全然聞いてねぇから、的場さん」
「い……言わんとってください」
 自席に帰り際、ちらっと見た藤堂は、窓際の席で目を閉じて眠っているようだった。
 そう言えば、昨日も遅くまで残業だったんだっけ……。
 何か掛けてあげようかと思ったが、その気遣いは全くの無用だった。彼の前後には乃々子と流奈が囲むように陣取っており、彼の膝には2人の上着とおぼしき物が相次いで被せられている。
 ―― まぁ、いいんだけどさ。
 むっとしたものの、それを自制心で抑え、果歩は余裕の一瞥を2人に向けた。
 すでに指輪という最強アイテムを手にした今、些細なことで腹を立てる必要は何もない。藤堂の気持ちは、もう言い訳されるまでもなく判っているのだ。
 が、乃々子と流奈、2人は思いのほか沈んだ表情をしているようだった。
 流奈はぼんやりと窓に頭を預け、乃々子に至っては、暗い眼で自身の膝をじっと見つめている。
 な、何……この雰囲気?
 果歩は少しばかり拍子抜けした気になって、気付かないふりで2人の傍を通り過ぎた。
 流奈は元来掴みどころがなかったが、乃々子に関しては、最近の態度は全く謎だ。
 果歩を避けている風に思えるのもそうだし、やたら藤堂とくっついているのもそうだし……。
 だいたい、諦めたんですと言った端から、今日みたいな態度を取るものだろうか?
 なんだか判らない。可愛いとばかり思っていた後輩だが、正直今の乃々子は好きになれない。
 まるで流奈のコピーを見ているようで……。
「よ、的場さん」
 自席に戻ると、隣には既に晃司が座っていた。
 果歩は軽いため息をついたが、りょうのこともあると思い直し、そのまま晃司の隣に腰を下ろした。

 


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