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年下の上司 story14〜Feburuary@

陰謀渦巻く職員旅行(5)


「へぇぇ〜、写真で見るより、随分綺麗なところですねぇ」
 バスを降りた水原が感嘆の声を上げた。
 潮の匂いがした。海が近いのだろうが、周囲は森に囲まれていて、海岸らしきものは見渡せない。
 森と海に囲まれた自然の温泉……というのがセールスワードだったが、それは誇張でもなんでもなかった。
 冬にも鮮やかな常緑樹に囲まれた森の中、山の中腹に目指す温泉旅館が見えている。
 花流亭。
 温泉というより、今はむしろ食事が売りの旅館らしい。創業は古く江戸時代にも遡る。
 メジャーな温泉旅館とは少しばかり一線を画しているが、由緒正しい旅館であることは間違いない。
 りょうが、こんな所のお嬢様だった―― 事前に手渡されたパンフレットを見ながら、果歩はしみじみと意外さに打たれたものである。
「んん? これはいったい……どこに泊るんだね」
 すでにバスの中で完全に出来上がり、千鳥足で降りた那賀が、不思議そうに目をすがめた。
 那賀康弘―― 都市計画局のトラブルメーカーで、この旅行の実質的な言いだしっぺでもある。
 バスの中でも、さぞかし無理難題を―― と、ひそかにミルクまで用意していた果歩だったが、那賀は思いのほか普通だった。
 むしろ拍子抜けするほどに大人しく、周囲と談笑しながらチビチビ日本酒を飲んでいたようだ。
「随分、沢山の建物があるようだが……どこが、宿になるのかね」
 その隣で中津川も呟く。
 実は果歩にもよく判らなかった。
 正面に母屋らしき建物が見えるが、小さな建物が細かく分かれて斜面のあちこちに分散している。どうやらこの旅館は一つの建物ではなく、母屋と複数の離れで成り立っているようだ。
「離れに二部屋、ご用意してあります」
 背後から柔らかな声がした。
「相部屋で申し訳ございません。でも、先日改装が終わったばかりの、すごく素敵なお部屋なんですよ、局長」
 果歩は顎が落ちそうになっていた。
 全員が、水を打ったように静まり返っている。
 女神降臨―― 。
 白地に薄紅模様が入った着物を身につけ、髪を美しく結いあげて―― いや、それより何より、果歩にしても初めて見た。
 眼鏡を外したりょうが、フルメイクを施した姿。何もしなくても綺麗なんだから、何かしたらどうなるんだろうと思ったことがある。
 それは……およそ同性であれば、羨望と諦めしか思いつかない、陽光をまとったような美しさであった。
 りょうが瞬きをするたびに、美のオーラが仄かに舞い上がるようである。
 ある意味、メデューサ。
 実際、ここに立つ全ての男たちの目が、今や石のように固まって、世にも希有な美貌を持つ市職員にくぎ付けになっている。
 果歩なんか、もう藤堂の目を塞ぎたい衝動にかられ、それはおそらく乃々子も流奈も同じはずだった。
「君は……まさか、どこのクレオパトラかと思ったら、人事の宮沢君か??」
 親父ギャグを交え、その沈黙を真っ先に破ってくれたのが那賀だった。
「ええ、名前を覚えていただいて光栄です」
 控え目に微笑してりょう。
「本日は当旅館においでいただき、まことにありがとうございました」
 しとやかに頭を下げるりょうに、那賀ですら再び言葉を失くしたようだった。
「着物って、女性を5割増しに見せるって本当ですよね」
 顔をひきつらせた流奈の嫌味も精彩がない。どころか、誰も聞いていない。
 乃々子は感嘆の目で、南原と水原は夢でも見ているような目で、―― 藤堂の目にすら明らかな賞賛の色が浮かんでいる。
 果歩は、ただ口をあんぐりと開けていた。
 何が……旅館業は自分に向かないだろうか。
 導入部で、すでに10人近い客を虜にしているではないか。
「じゃ、まずは本館にご案内します。お手続きをさせていただきますので、その間、くつろいでお待ちになってくださいませ」
 慣れた所作で、りょうはその場にいる全員をいざない、石が敷き詰められた道を先導して上がって行った。
「いやぁ。まさか人事の宮沢さんが、ああもしとやかな和美人だったとはねぇ」
「あの人、いっつも屋上で煙草すっぱすっぱ吸ってる人ですよね?」
「こりゃあ、最高の目の保養だよ」
 上機嫌の男たち―― に反して、明らかに心乱れる女たち―― 流奈、真央、そして何故か乃々子まで。
 とはいえ、果歩は別の意味で、多少穏やかではないものを感じていた。バスの中で、晃司から聞きかじった話である。
(俺も、なんであんなことになったのかはよく知らねぇよ。たまたま居合わせただけだし……)
 晃司の口調は、終始言い訳がましかった。
 その辺りには多少の不審を覚えたものの、それよりもっと信じられなかったのが、晃司の口から語られるりょうの行動である。
(うっ、嘘じゃねぇって。つか、俺があの人のことで嘘なんかついて一体なんの得があるんだよっ)
 果歩は首を締めんばかりの勢いでにじりよったが、晃司の言葉がぶれることはなかった。
 なんとなれば、りょうはその夜、5人の男相手に泥酔し、酔い潰れ、駆けつけた緒方に自宅まで送られたというのである。
(緒方さんとは、……知り合ったんだよ。お前らが警察と合コンした夜に、須藤が酔っ払ってどうにもならなくなったから。……まぁ、なんの因果か俺が呼び出されてさ)
 そこで、原因は判らないが晃司が刑事たちと一触即発になり、仲裁に入ったのが緒方だったという。
(そん時に名刺もらって……。まぁ、刑事にしては話の判る奴みたいだったから)
 11月に知り合ったばかりの刑事が、知らない間に果歩の交友関係に入り込んでいたのには驚いたが、結果として、今回はそれが幸いしたようだった。
  ―― りょう……何があったのよ。
 先を行くりょうの背中を追いながら、果歩は軽く唇を噛んでいた。
 思えば、実家に泊りに来てと言われた時から、どこかりょうの様子はおかしかった。
 私……自分のことばっかりで……。
 りょうの変化に気づきながら、深く気にすることなく流してしまった。
 いつも冷静でクールで辛辣な親友に、今、一体何が起きているんだろう

 *************************

「いらっしゃいませ」
 石畳のエントランスをくぐると、広いロビーでは美しい着物姿の女性たちが待ち構えていた。
 薄緑の地味な着物は仲居だろう。その中央に、桜色の、みるからに豪華な着物をまとった年若い女性がいる。
「ようこそ花流亭へ。若女将の由乃と申します。本日は遠路はるばる、誠にありがとうございました」
 若女将―― ?果歩は、咄嗟に、隣立つりょうを見ていた。
 てっきりりょうの母親が出てくるものだとばかり思っていたが、吉乃と名乗った女性は、明らかにりょうや果歩より年若である。
「妹の吉乃です」
 りょうが、控え目に言い添えてくれた。
 妹? 果歩はさらに目を剥いている。りょうとは何年もつきあっているけど、妹の話なんて一度も出てきたことがない。
「女将は、生憎外回りに出ておりまして……大変失礼いたしております」
 柔らかく笑んで、吉乃―― りょうの妹は再度、丁寧に頭を下げた。
 似ていない―― 。と、失礼ながら、この場の誰もが、りょうとその妹の容姿を見比べてしまったはずだった。
 旅館の若女将らしく、なるほど、整った華やかな容姿である。
 が、それは姉という比較対象がなければの話で、咲き誇る薔薇のような美貌の前に立たされると、野に咲くコスモスのような地味な美しさでしかない。
「幹事様はどちらでしょう。よろしければ、お食事の時間など決めさせていただきたいのですが」
 吉乃はにこやかに微笑みながら果歩の方に歩み寄ると、通り過ぎざま、りょうにそっと囁いた。
「姉さん、お客様がお部屋の方で」
 りょうはわずかに頷き、「では、あとで」と、優雅に会釈して、全員の前から姿を消した。
 ずっと、りょうに話しかけるタイミングを窺っていた果歩にしてみれば、いきなり梯子を下ろされた気分である。
 それにしても―― 。
 フロントで受け付けを済ませながら、果歩は改めてりょうへの不審を感じていた。
 旅館を継げって……ちゃんと後継者はいるんじゃない。吉乃さんっていう妹さんが。
 しかも若女将ってことは、別に女将がいるってことで―― 旅館のシステムはよく判らないが、女将と名のつく人を3人も揃える必要はないはずだ。
「宮沢さんとは、ご姉妹なんですか」
 水原が、台帳をめくっている吉乃に声をかけた。
「ええ、七つ違いの妹なんですよ。あまり似ていないでしょう」
 あっさりと返される。まるでこの質問に慣れきっているかのような鮮やかさだ。
 この、どちらかと言えば地味な美貌を持つ女性が、過去、どれだけりょうと比べられたかと思うと……やや同情を禁じ得ない果歩だった。
「僕らも、さっきは吃驚したんですよ。宮沢さん、役所とは別人だから……あんな綺麗なお姉さんがいて、うらやましいですね」
 ナチュラルに嫌味??
 この小坊主は、どうしてこう空気というものが読めないのか。
 果歩は内心冷や汗をかきながら、「あっ、ごめんなさい。手がすべっちゃって」と肩にかけたバッグを水原の脚のあたりに落とした。
 基礎化粧品一式とフルメイク用具。加えてあらゆる状況に備えた着替えが5組。乙女の見栄がぎっしりと詰まった、肩がしびれるほど重たい鞄である。
「いっ、いてっ、的場さん、一泊二日の旅行に、どんだけ大荷物持ってんですかっ」
「まぁ、大丈夫ですか」
 が、大急ぎで拾い上げてくれたのは、申し訳ないことに吉乃であった。
「姉は、昔から目立つ美人で頭もよくて……」
 果歩に荷物を手渡しながら、優しい笑顔で吉乃は言った。
「昔からうちの自慢なんですよ。きっと役所でも、人気者なんでしょうね」
「ええ……まぁ」
「おーい、的場君、ここから見るとゴルフ場があるようなんだか、あれかね。飛び入りでプレーなんてできないのかね」
 那賀局長の大声が、いきなり間に割って入った。
「当館経営のゴルフ場なので、宿泊のお客様であれば、ご案内はできるんですよ。ただ、申し訳ございませんが本日は予約でいっぱいになっておりまして」
 申し訳なさそうに吉乃が応える。
「的場君、局長がゴルフをお好きなことくらい知っているだろう。旅館にそういった施設があるなら、最初からそのつもりで予約を入れておけばよかったんじゃないのかね」
 と、厳しい口調で中津川。
「いや、いいよ、中津川君」
 那賀が、少し慌てたように口を挟んだ。
「春日君がいないんじゃ、ゴルフも張り合いがないからねぇ。無理なら無理で構わんのだ。ゆっくり温泉につかろうじゃないか」
「しかし、せっかくゴルフ場があるのに」
 じろっと、中津川が果歩を睨む。
 いや、そういうことなら水原君に……が、確かに果歩の失念でもあった。
 あれこれ準備が忙しすぎて、そこまで頭が回らなかったのだ。その水原も、え? というような空気の読めない目を果歩に向けている。
「申し訳ありませんでした」
 と、仕方なく果歩が謝った時だった。
「もう少しお待ち頂ければ、ご案内できますよ」
 背後から、ひどく優しい声がした。
 
 *************************
 
 果歩は顔をあげ、その場に立つ役所の面々も一斉にその方に顔を向けた。
 長身の、黒服姿の一人の男が立っていた。精悍で恰幅のいい、いかにも貴公子然とした立ち姿である。
「はじめまして。私、花流ゴルフ場のオーナー、宮沢貴志と申します。灰谷市役所の皆さまですね。妹が、いつも大変お世話になっております」
 りょうのお兄さん!
 果歩はさらなる驚きに声も出なかった。妹ばかりか兄までいたとは。
 それもまた、りょうの口からは一言も語られなかった事実である。
「本日は貸し切り予約が入っていたのですが、すでに皆様、コースを終えられて食事に向かっておられるので、あと少ししたら自由に使っていただいて構わないんですよ」
 男は浅黒く焼けた顔をほころばせ、白い歯を見せて笑った。
 年の頃は30半ばくらいか。一目で元スポーツマンだと窺い知れる見事な体格である。いかにも女性に不自由しないといった感じのリッチなイケメン風だが、やはりその顔は……りょうの造形とはほど遠かった。
 たとえば、りょうが素材で勝負しているなら、この兄という人は加工で勝負している。そんな感じだ。尤もそう思えるのも、りょうが際立って綺麗すぎるからなのかもしれないが。
「道具なども確かなものを揃えておりますし、服などの貸出サービスもございます。よければ初心者の方には、私がお教えいたしますよ」
 果歩を見て、宮沢貴志はにっこりと微笑んだ。
「い、いえ私は……」
 果歩は慌てて両手を振った。とんでもない。ここでバトミントン大会の悪夢が再燃されてはたまらない。
「あの、利用料金はおいくらくらいなんでしょうか」
「妹の大切なお客様ですから……もちろん、無料で結構です」
 両腕を広げるようにして大仰に男は答えた。
「ええっ、本当ですか?」
「本当ですよ。ただし、女将には内緒ですが」
 くすり、といたずらっぽく貴志は笑った。
 その笑い方だけは、驚くほどりょうとそっくりだった。それにしても、彼が好印象であることには違いない。
 なんだろう。りょうの兄にしてはまとも……って言ったら悪いけど、どうやら普通にいい人みたいだ。
 が、本当にいいのだろうか。旅館の宿泊料金も半額だったし、これ以上りょうに迷惑をかけては……。
「一応、ご予約だけお取りしておきますよ。人数と代表者のお名前だけ、こちらにご記入願えますか」
 優しく促され、仕方なく果歩は男の言うとおりにすることにした。
 人数なんてよくわかんないや。取り合えず、男性全員にしておけばいいかな。
「あの……りょうは、今日は一日忙しいんですか」
 書き終えてから、果歩は訊いた。
「そうですね。あまり自由には動けないかもしれませんが」
 にこやかに男は笑った。
「……妹に、何か?」
 見事な営業スマイルだったにも関わらず、何故かその笑顔に、果歩は気押されていた。
「いえ……その、今日こちらに泊りに来てほしいと、妹さんから誘われたものですから」
「改修工事が予定より早く終わりましてね」
 よどみなく男は答えた。
「お客様方にご宿泊いただく棟は、そういった事情で予約を入れていなかったんです。空けておくのはもったいないと思ったんでしょう。旅館の経営というのは、案外シビアなものですから」
「そうなんですか……」
 そんな事情、りょうは全然―― というか、あまり関係ないような気がする。
「今夜は、当館に大切なお客様をお迎えしておりますので、妹も少しばかり忙しくしていると思います。けれど、明日になれば、ごゆっくりお話いただけると思いますよ」
「はぁ……」
 ってことは、今夜は忙しいってこと?
 ますます判らなくなった。一体りょうは、なんだって私を誘ったんだろう。
「では、ごゆっくり。ゴルフ場に行かれる際は、仲居に申しつけください。お車でお送りいたしますので」
 再度男は慇懃に笑い、果歩は再び、その笑顔に居心地の悪いものを感じていた。
 何故だろう。男性としてはほぼ完璧で、人当たりも極めて優しそうな人なのに……。
「あの、じゃあせめて、りょうに伝言」
「お客様、そろそろお部屋にご案内させていただいてもよろしいですか」
 吉乃の声が、果歩をそっと促した。
「では、ごゆっくりおくつろぎください。お客様」
 心得たように宮沢貴志はにこやかに一礼し、果歩はそれ以上、何も言えなくなっていた。
 
 *************************
 
 何もかも綺麗に磨き抜かれた、文句のつけようのない内装だった。
「古い旅館って聞いてましたけど、随分新しいんですねぇ」
「改装したばかりだって話ですよ」
 吉乃の後をついて歩きながら、皆が感嘆の声を上げている。
 随所に活花が飾られており、その花も蘭だったり百合だったりと豪勢なものだった。女将の着物も加賀友禅……規模の割にはフロントが閑散としていたような気もしたが、旅館としては相当利益を上げているに違いない。
 ただ、やたら同じ政治家のポスターが貼られているのが、目ざわりといえば目ざわりだった。旅館を挙げて応援しているのだろうが、少しばかり雰囲気に合わないような……。
 その時、背後からそっと袖を引かれた。
「あの、的場さん」
 水原である。人目を憚っているのか、妙に小さい声だった。
「すみません。言うタイミングが判んなくて……実は、春日次長からお金を……2万ほど預かってきたんですが」
「ええっ」
 果歩は驚いて足を止めていた。
「夕べ、酒代の足しにしなさいって。気を使われるのが嫌だから、このことは他言しないようにと……どうしましょうか、これ」
 どうしましょうって……。
「じゃあ、言われるとおりに……春日次長には、何かお土産を買って帰りましょうか」
「判りました。普段は厳しい方ですけど、春日さんも案外いい人なんですね」
 安堵したように頷いて、水原は男性陣の列に戻っていった。
 ―― 春日次長が……。
 果歩は無言で眉を寄せた。
 旅行に関して言えば、果歩は最初から春日を頭数に入れていなかった。もちろん、那賀なり志摩なりが話してはいただろうけど―― 、幹事として、声をかけもしなかった。
 元々旅行には行かない人だと言われていたし、慌ただしくてバタバタしていたから……いや、それは全て言い訳だ。自分は心のどこかで、春日が来ないことにほっとして、それ以上考えることさえしなかったのだ。
 何故だか、那賀の気抜けたような笑い声だけが、少し寂しく思い出された。
(春日君がいないと、ゴルフも張り合いがないからねぇ……)
 
 *************************
 
「……的場さん、目、大丈夫ですか?」
 乃々子がおそるおそるといった風に声をかけてくれたので、果歩は、自身の目が見るからにひどいことになっているんだな、と知った。
「右目だけ、すごく充血してますよ」
 と、流奈。
「私目薬もってますけど、使います?」
 乃々子の申し出を、果歩は片手で遮った。
「ううん。ありがとう、目薬なら私も持っているから……」
 女子4人の部屋は、広々とした20畳の和室で、どこもかしこも新しい匂いがした。
 窓からの見晴らしはよく、広い庭園を一望できる作りになっている。
「うわぁ、きれーい」
「みてみて、この浴衣。超可愛くありません?」
 全員のテンションが上がる中、果歩一人が浮かない気持ちのままでいた。
 原因は色々ある。目の調子が悪いのもそうだが、なんだか意味不明のりょうの態度のこと、それから……春日次長のことだ。
「でも、ついてますよねー。こんな人気旅館に、飛び入りで泊れるなんて」
 真央が言った。ひねているようでもまだ10代、バスですっかり機嫌が直ったのか、楽しげに荷物を解いている。
「人気なの? ここ」と、乃々子。
「食事が定評あるみたいですよ。他県から、食事をするためだけに来るお客さんもいるみたい」
「へぇ、じゃあ、夕食が楽しみですね」
 無邪気な乃々子の笑顔は、何故か果歩と目があった刹那、少しだけ翳ったように見えた。
「あっそうだ。宴会の出し物、練習しなくていいかしら、須藤さん」
「いいわよ、そんなの。適当に歌うだけなんだから。それより先にお風呂に行かない?」
「あーっ、私も行きますっ、温泉大好き」
 若い3人は、バスの中の確執も忘れて盛り上がっている。
 ――次長にはお土産買って……それから、謝った方がいいかな。
 果歩は、一人でぼんやり考えていた。
 またひとつ、自分の身勝手な部分を思い知らされたような気分だった。が、次長のことは今さら考えても仕方ない。
 そこは頭を切り替えたが、それでも気がかりなのは―― りょうのことだ。
 そもそも、りょうがこの旅館に泊りに来て……と言った真意は何だったのか。
 それを確認しないことには、何も始まらないような気がするのに、今日のりょうは、旅館側の人として忙しく働いているようだ。
 とてもプライベートなことを話せるような雰囲気ではないし、今、りょうがどこにいるのかさえ、果歩には判らない。
 ――まぁ、りょうのことだから……。
 でもなんで、あのりょうが、酔い潰れるまで飲んだりしたんだろう。
 少しだけ気になったのは、りょうの兄、宮沢貴志の、慇懃なのにどこか含みがあるような笑顔だった。
 あれだけ丁寧な振舞いをされたのにも関わらず、果歩は彼の笑顔に奇妙な違和感を覚えていた。
 ―― ああ、そっか。
 緒方さんと、どことなく似ているんだ……。
 営業スマイルといえばそれまでだが、口元の表情とは裏腹ににこりとも笑っていなかった目の底には、得体の知れない暗さが隠されているような気がする。
 もちろん果歩に、初対面の人の真贋を見抜くほどの力はないし、たまたま緒方と今朝出逢ったから、連想しただけのような気もするが……。
 なんにしろ、りょうのことが気がかりなのには違いなく、果歩は天井を見上げて気鬱な息を吐いていた。

 


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