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年下の上司 story14〜Feburuary@

陰謀渦巻く職員旅行(6)


 結局、気乗りがしない果歩も一緒に、女4人は連れだって少し歩いたところにある大浴場に向かった。
 露天風呂の前には男女二つの入り口があって、5時で入れ替えになると注意書きがしてある。
「そういや、男の人たちどうしちゃったの?」
「夕方までフリーだから、皆ゴルフに行っちゃったんじゃないですかね〜」
 男女の部屋は同じ離れの建物の中でも、1階と3階に分かれており、男性陣がどういう行動を取っているのかはさっぱりだった。
 果歩は水原に電話したが、水原から返ってくるレスポンスはない。
 ―― まぁ、何かあれば掛けてくるでしょ……。
 藤堂のことは、気づけば頭から消し飛んでいた。
 もともと甘い展開は何一つ期待していなかったが、想像以上に殺伐とした2日間になりそうだ。
 藤堂のこともそうだが、出発前にあれだけ気がかりだった晃司のことなど……。今となっては、「あ、そういえば」という程度である。
「わぁーっ」
「檜の、いい香りがしますね」
 中途半端な時間のせいか、大浴場はほぼ貸し切り状態だった。こそこそ服を脱ぐ果歩と乃々子を尻目に、流奈と真央は実に堂々と一糸まとわぬ姿になる。
 もちろん自信の表れだろうが、確かに見事なボディラインだった。
 小柄だが均整のとれている流奈と、スレンダーだが出るところは大胆に出ている真央。互いを最強のライバルだとただちに見抜いたのか、女2人の眼差しの間に火花が散る。
 とはいえ、比較的いいムードで、4人は風呂に身を沈めた。
「ていうかあんたさ、あのバイトの子とつきあってるわけ?」
「ウサちゃんですか? 私、自分より精神年齢上じゃないとダメなんですよねー」
「宇佐美君、結構大人だと思うけどなぁ」
「んじゃ、前園さんがあんたの中では大人なわけ? どうなのかしらねぇ」
「うふふ……お姉さんが知らないだけで、大人、ですよ」
 果歩は不思議な気持ちで、真央、流奈、乃々子、3人の会話を聞いている。
 互いに藤堂を奪い合っているくせに、不思議な共闘関係を結んでいる乃々子と流奈。
 それぞれ想い人は違うくせに、妙に牽制しあっている流奈と真央。
「それにしても、宮沢さんってお綺麗なんですねぇ。私、雑誌のモデルさんかと思っちゃいました」
「そう?」
「あれくらい普通ですよね。どこにでもいるっていうか」
 流奈と真央―― 普段牽制しあうこの2人は、そのくせ、りょうという共通敵国の前では、無意識にタッグを組んでしまうようなのだ。
 ほんっと、わかんない……この人たち……。
 果歩はそっと首筋を拭った。
「じゃ、私、そろそろ上がるね。水原君一人じゃ可哀想だし、何かあったらすぐに出て行かなきゃいけないから」
「まさか、一人で男子のところに行くんですか」
 きっと果歩を振り返って真央。
 たちまち流奈も、冷やかな目で果歩を見上げた。
「的場さんって大人しそうな顔して、普通に抜け駆けできる人ですよねー」
「あー、いるいる、そういう最後にいいとこ取りしていく女」
 はいはい、勝手に言っててください。
 無言で湯からあがる果歩を、乃々子だけが何か物言いたげな―― 申し訳なさそうな目で見ている。
 少しばかりその視線の意味が気になったが、果歩は気付かないふりで脱衣室に戻った。
 とにかくりょうを探してみよう。あのりょうが、なんの意味もなく自分を誘ったとは思えない。きっと、何か口にはし難い事情が……。
 タオルで顔をそっと拭った時だった。
「…………」
 あれ?
 瞬きをして、顔から下ろしたタオルを見る。―― 最初、水が目に入ったのだと思った。
 視界が水の中みたいに滲んでいる。
 現実に気づく前に、心臓がやたら大きく鳴り始めた。意識より先に本能が、危険を察知した瞬間である。
 ――落ちた!!
 コンタクトが、両眼落ちた。
 12月に続く惨劇。まさか―― まさか、こんなことが二度も続いて起きるとは。
「の、」
 考えるより先に声が出た。
「乃々子、ちょっと!」
「……的場さん?」
 少し遅れて、不審そうな声が返って来た。
 果歩はすでに、彫像みたいに固まっている。一体どこに飛んだのだろう。床? それともタオルにくっついてる? いずれにしても、迂闊には動けないし、果歩の視力では探しようがない。
「どうされたんですか?」
 露天風呂と脱衣場のしきり扉が開かれる音がした。その時だった。
「きゃあっ、素敵な露天風呂〜!」
「チャンスよ。今ならあまり人がいないわよ!」
「急がなきゃ、5時には男性と入れ換わるみたいだから!」
 まるで悪夢のように、正面の入口が開いて団体客がなだれこんできた。まるで象の群れのごとく果歩の前後を通り過ぎた重量感あふれる女性たち。
「この脱衣場、狭いわねぇ」
「あら、ごめんなさいねー、お姉さん」
 どんっとお尻をぶつけられ、果歩は儚くよろめいていた。
 ……終わった……。
「あの、的場さん?」
 乃々子の声も、今は遠い世界の出来事のようだ。すっかり混雑した脱衣室で、果歩は動くこともできずに固まっている。
 その時、聞き慣れた声がした。
「あー、いたいた、探したわよ果歩」
 果歩は、咄嗟に声の方に顔を向けた。
 出入り口で、ひらひらと手を振っている―― うすぼんやりと見える緋色の着物の……。
「……りょう」
「ど、どうしたのよ。何泣いてるの? うわっ、ちょっと待ってよ。今、裸で抱きつかれても」
 考えうる限り最悪の事態になってしまった。
 この場合、救済手段は何もないことを、果歩はよく知っている―― 。
 
 *************************
 
「なんか騒がしいですねぇ、女風呂」
「なんたって女子高生がくっついてきてるからな。全員の精神年齢もおのずと下がるんじゃねえの」
 南原亮輔は素っ気なく言うと、腕組みしたまま、空を見上げた。
 曇った冬空。しかし温かな湯に包まれた地上は天国みたいな快さである。
「しかし、藤堂さんも災難ですねぇ。ゴルフなんてやったことがないと言われていましたが……」
 水原が、先ほど大慌てで出て行った人の方を見た。
「局長が湯に入りたいといえば、湯に。ゴルフに行くぞと言われればゴルフに。それが庶務係長の務めだよ」
 ふん、と南原は鼻を鳴らす。
「志摩さんも中津川さんもそれなりに手がかかる人たちだからな。春日さんがいるならまだしも、藤堂一人がお守り役じゃあ、的場さんといちゃつく余裕もないんじゃねぇの」
 ぶっと背後で激しく噴き出した人がいた。
「な、なな、南原さん、何を不謹慎なことを言うてはるんですか!」
 顔を赤くした宇佐美である。
「か、果歩さんは、そんな……公私混同みたいな真似、しはらしませんよ」
「まぁまぁ、旅行の間くらい好きにさせてあげてもいいじゃないですか」
 と、その隣の大河内が楽しそうに口を挟む。
 そこで南原が腕を組み、考え込むような目で眉を寄せた。
「てか、あいつ、あんな立派なもんぶらさげてて、ちゃんと的場さんとやらせてもらえてんのかな」
「っ、殺す! 俺はあんたを殺す!」
 水しぶきを上げて立ち上がった宇佐美を、水原が仰天して押しとどめた。
「俺の読みじゃ、まだ一線は越えてないと思うんだけどな。そのくせ浮気もさせてくれないんじゃ、……あいつ、相当溜まってんじゃないかな」
「須藤さんの逆セクハラも、いっそ拷問ですからね、確かに」
「見てるこっちがその気になるくらい、最近じゃハードですしねぇ」
 と、大河内と南原は、同情のこもった視線を交わし合った。
「ただでさえ、あのサイズでそうなったら……周りにもバレバレだろ」
 南原の呟きに、思わず全員が黙り込んだのは、着いてすぐに全員で入った大浴場で、皆が知ってしまったからだ。その体格と見事に比例した――同性であれば誰もが自信を喪失するに違いない――実際、前園晃司は、凍り付くように立ちすくみ、早々に風呂から退出してしまったほどだ。
「それでも通常サイズを保てるなんて、さすがは係長ですよ」
 と、キャラに似合わず下ネタに一切の抵抗のない大河内。
「テコキかな」
「いやぁ、抜くなら風俗じゃないですかね」
「あまり金もなさそうだから、時々、的場さんが抜いてあげてんのかもしれないっすね」
「死ねーーーーっっっっ」
「う、宇佐美、まて、冗談だって。うわぁっ」
「南原さん、俺はあんたを殺す、―― 殺してやる!」
「馬鹿、冗談だって、なんだってこの程度の下ネタでマジギレすんだよ!」
 南原に殴りかからんばかりの勢いでくってかかる宇佐美。その宇佐美を羽交い締めにする水原。風呂の端まで逃げる南原。
 その様子を、傍らで見ていた大河内が、まるで意味のない癒し笑顔を浮かべて呟いた。
「……にしても、前園さんは大丈夫ですかねぇ」
「ま、藤堂のあれ見てショックを受けたんだろうけど、あいつも、おかしなスイッチが入っちまったよな」
 逃げながら、南原が同意した。
「まさか、宴会芸にああも入れ込む性格だったとは……負けず嫌いもあそこまで行くと病気だよ。てか、宇佐美、いい加減に落ちつけ!」
 
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「う……痛て……」
 バンテリン……サロンパス……くそっ、用意してくりゃよかった。こんなに動いたの、去年のバトミントン大会以来だ。
「……ふ、ふふ」
 が、脚をひきずって歩く晃司は不敵な笑みを浮かべていた。
 勝った!
 みてろよ、藤堂。努力が、人の世にあって最も尊く気高いものだと、今夜お前に教えてやる。
 一人猛特訓した成果――宴会芸として披露する、ほぼ完璧な振り付けと歌唱。
 お前の、その、しれっとした、何もかも判ったような、努力のドの字とも縁のないようなしたり顔を、今夜こそ屈辱で歪めさせてやるぜ。
 しかも果歩の前でな!
「ふふ……あいててて」
 晃司は膝の痛みに悲鳴をあげた。
 大浴場に向かう渡り廊下。行き交う泊り客が、訝しげにしゃがみこむ晃司を振り返っていく。
 ――と、年かな。
 そういや来年は30だ。
 何一つ変わらない気がしていたけど、こうしてみれば随分大人になったもんだ。
 晃司は渡り廊下を外れて庭園に出ると、適当なベンチを見つけて腰掛けた。
 夕方――老人(プラス藤堂)はゴルフ、中年は麻雀、若者は女の子たちと散策に出かけた。その全てに興味がない晃司は、一人で好き勝手やっている。
 というより、今は誰かとつるみたい気分ではなかった。
(果歩の君への気持ちは、もうとっくの昔に友情よ。果歩は君が好きなのよ。昔とは違う意味でね。……判っているなら、そろそろ受け止めてあげてもいいんじゃないの)
「…………」
 何やってんのかな、俺。
 宮沢さんに言われたあれこれはもう考えないつもりだったが、一度気づいた以上、気持ちは、そう簡単には元には戻れない。
 実際、果歩は俺をどう思っているんだろう。
 あいつの気持ちを無視して、気持ちをぶつけたりしたら、また、前みたいに、俺のことを畏れたりするようになるんだろうか……。
「本当に、冗談じゃないわ」
 きつい女の声がした。
 晃司が座っている背後の植え込み辺りから―― 低く殺した口調だったが、それだけに険が鋭く際立って聞こえた。
「姉さんがうろうろするだけで、昔のお客様が好奇の目で見て行くのよ。あの女が死んで、せっかく悪い噂が過去のものになったのに、これじゃあ何もかも台無しじゃないの」
「お前……自分の母親を、あの女だなんてよく言うな」
 男の声がそれに答えた。笑いを含んだ声だった。
「母親だなんて思ったこともないわよ。見たでしょう? 今日の姉さんの顔。ぞっとしたわ、若い頃のあの女にそっくりじゃないの」
「まぁまぁ、あいつが何のために戻って来たか、お前だって知ってるんだろう?」
「でも兄さん」
「本人には見合いだと話しているが、実際のところは、……。あのプライドの高い女がよく納得したもんだよ」
 わずかな、そして気まずそうな沈黙があった。
「それは……兄さんが説得したんでしょう?」
「あいつは昔から、俺の言いなりだったからな」
 侮蔑と嘲りがその口調から滲みでている。傍で聞いているだけで、胸が悪くなるようだった。
「とにかく、一日も早くあの人とは縁を切りたいわ」
 なんとなく周囲をはばかるような声だったので、最後まで晃司は振り返れなかった。
 気配が消えたので振り返ったが、無論、背後には誰もいない。
 なんだ? 今の会話。穏やかじゃねぇな。
 しかも、どちらの声も、どこかで聞いたことがあるような……。
 ま、なんにしても、俺には関係ない話か。
 
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「はい、眼鏡」
 差し出された銀縁眼鏡を、果歩は急いで耳にかけた。ようやく戻ってきた視界……、ああ、世界って美しい。
「皆には、貧血だって説明しといたわよ。コンタクトは……乃々子ちゃんが探してくれたみたいだけど、見つからなかったって」
 旅館の最上階にあるりょうの部屋―― 思いのほか狭かった。
 畳敷きで6畳程度しかない。部屋というより、慌てて用意された客室みたいな雰囲気だ。家具は座卓と箪笥くらいしかなく、隅に旅行鞄がそのまま置かれている。
 コンタクトを失った果歩は、急きょこの部屋に避難した。眼鏡と荷物が、今、元の部屋から届けられたのである。
「どうするの、これから」
「うん……」
 果歩は曖昧に頷いた。
 今まで頑なに隠し続けてきた強度近視。この、度のきつい眼鏡顔で、どうやって皆の前に出たらいいというのだろうか。
 果歩は真っ暗な気持ちのまま、自分の膝を抱くようにして座り直した。
 夕刻―― そろそろ夕食の時間だし、その後は宴会が待っている。そのいずれにも、果歩は顔を出すつもりはない。
 なんだかもう最低な気持ちだった。晃司の一件で自分の酷薄さを思い知らされたのもそうだったが、楽しみにしていた旅行が……まさかこんな悲惨な末路を迎えようとは。……
「ここって、本当にりょうの部屋?」
 朝までいてもいいかしら……そう思いながら果歩は訊いた。
 このままりょうの部屋にいて、明日は一緒に新幹線で帰らせてもらおう。情けないけど、それがベストな選択だ。
「旅館のお嬢様にしては、粗末でしょ? まるで屋根裏のシンデレラ、みたいな」
 りょうはそれを、別の意味に取ったようだった。
 果歩にしても、それはあえて聞かないようにしていた疑問である。磨き抜かれた表玄関とは全く別の裏の顔―― およそ経営者の家族が住むには相応しくない、ひどくみずぼらしい部屋だった。
「もう、家を出て20年近く経つからね」
 茶を淹れているりょうは、まだあでやかな着物姿だった。急須を持ち上げる仕草でさえ見惚れるほどに美しい。
「自分の部屋なんて、とうの昔になくなってるの。だから帰省するたびに、空き室をひとつ使わせてもらってるのよ」
「……20年って……じゃあ、中学から?」
「そ、中学から」
 りょうはなんでもないように頷いた。
「全寮制だったからね。そのままエスカレーターで高校、大学……全部寮よ」
 ポテチがなくて悪いわね。そう言いながら、りょうは湯飲み茶碗を果歩の前に進めた。
 ―― 中学から、寮……。
 茶碗を唇にあてながら、果歩は少しだけ、奇異なものを感じていた。
 それはりょうの意思だったのだろうか?
 旅館の長女が家を出て、妹がその家を継いでいる。
 いくら家業を継ぎたくなかったとしても、中学から……。
「いい旅館でしょ」
 りょうが呟くように口を開いた。
「何年か前に全面的に改修したばかりなの。景観もいいし、お湯も悪くない。料理もいいんだけど、……ただ、場所がね」
「確かに、少し不便な場所だね」
 果歩が同意を示すと、りょうは微笑して立ち上がった。
 開け放った窓から、茜色に染まった空が見えた。
「昔ね、この辺りは結構賑やかな宿場町だったそうよ。きっと、その頃は人気宿だったのね。それが新幹線や駅の誘致に失敗して、この有様……」
 口調は楽しそうだったが、夕日に照らされた横顔は、何故か少しだけ寂しげに見えた。
「この場所が江戸時代からあったって信じられる? 昔からある旅館ってのも、因果なものね。いい時も悪い時もあって、そういうものが全て今の時代に続いているんだから」
 そう語るりょうの指が唇を撫でている。煙草切れ……。が、その指はすぐに諦めたように膝に落ちた。
「そういえば、妹さんが……若女将なんでしょ?」
「うん、自分で言ってたでしょ」
 あっさりと返される。少し怯んだものの、果歩は気にかかっていた疑問を口にした。
 そもそもどうして、今日、りょうは私を誘ったんだろう。
「なんで妹さんがいるのに、りょうが家を継がなきゃいけないわけ?」
「?……ああ、そうか。私がそう言ったんだっけ」
 りょうは初めて自分の失言に気がついたように顔を上げた。
「まぁ、あながち的外れな説明でもないんだけど……。実は、見合いしろって言われてたのよ」
「へぇ……えええっっ??」
 見合い?? りょうが??
「盛大に驚いてくれてありがとう。ついさっき無事に終わったところよ」
 りょうはいたずらっぽく笑った。
「誰と?」
「ん? つり書の相手の人と」
 いや、そうじゃなくて……。まぁ、聞いてもどうせ知らない人だろうけど。
「結婚するの? その人と」
「うん。そういうことになるんでしょうね」
「…………」
 そういうことって……。
 言葉が何も出てこないまま、果歩はただ、りょうの取り澄ました顔を見つめている。
「あの、あのさ」
「なぁに」
「なんで、私に泊りに来いって言ったわけ?」
「その方が気楽だと思ったから」
「気楽?」
「ねぇ、昔私が話した占いの話、覚えてる?」
 りょうは楽しげに身を乗り出してきた。
「子供の頃に行ったお祭りで……私の運命の人。出会いは20代でも結婚は30代、それでもってバツイチ」
「いや、あんま覚えてないけど」
 本当はよく覚えていた。何もかも完璧なりょうの、ひどく寂しくて子供じみた一面がいつまでも忘れられなかったからだ。
「その通りだったの。運命って本当にあるのね。びっくりしちゃった」
「……りょう」
 果歩は、自分の顔が少しだけ険しくなったのを知った。
「私、りょうが決めたことには何も言う気はないよ。でも、いっこだけ教えて」
「なぁに」
「なんで、泊りに来いって言ったの」
「来て欲しかったから」
「なんで?」
「さぁ、その方が楽しいと思ったから?」
「…………」
 果歩はしばらく黙っていた。
「役所、どうするの」
「ここから新幹線で通うかな……。相手が許してくれればだけどね」
「ねぇ、りょう」
 互いの我慢比べみたいな時間の後、先に仮面を外したのは果歩の方だった。
「何かおかしくない? おかしいよ、どうしてそんな話になるわけ? りょう、絶対に無理してるでしょ」
「お、やっと予想どおりのリアクションに出たか」
「りょう、ふざけないでよ」
「そういう言い方しかできないのよ。本気よ。役所は多分辞めると思う。新幹線の時刻を考えたら毎日6時には役所を出なきゃ……。そんな温い仕事するくらいなら、役所にいる意味なんてないもの」
「その人が、好きなわけじゃないんでしょ」
「見合いの相手を当日好きになれる女がいたら、それってあまりにも単純すぎない?」
「…………」
「それに見合って、そもそも将来の好きに賭けるものでしょ」
 理詰めでこられると、果歩に返す言葉は何もない。
「……どんな人?」
「50過ぎの親父」
 ただ、眉を寄せる果歩を見て、りょうは不思議に満足そうな笑いを浮かべた。
「ありがとう。果歩がそんな顔して反対すればするほど、逃げ場のないことが実感できるわ。あー、無駄にあがかなくてよかったって、冷静に果歩の慌てっぷりを見ていられるの。今判ったわ。だから果歩に来てほしかったのね、私」
「……りょう」
「果歩には判らないのよ。判ってもらおうとも思わないけどね。この旅館には首が回らないほど莫大な借金があって、銀行から融資を受ける唯一の方法が私ってわけ。相手は地元の議員さんで銀行に顔が利くんだそうよ。―― 今の時代、笑えるくらい陳腐な話だけど、それもビジネスのひとつの形態だと思えば、おかしな話でもなんでもないでしょ」
 ――そういうことだったんだ……。
 果歩は、言葉にはならない深い衝撃を感じていた。
「どうして……? それが、長女としての、義務だから?」
「どのみち、私も借金から逃げられないのよ。どこに逃げたって身内なんだから」
「結婚で借金を返すの? それって根本が間違ってない?」
「ビジネスなのよ、果歩。いってみれば旅館の再建を託されたのと同じなの。色々考えたけど、最後は私が決めたことよ」
「…………」
「果歩は軽蔑する? 馬鹿にする? そしたら私は、全力で果歩の持論を論破するわ。そうしてますます納得できるの。自分の決めたことが正しいって」
「……りょう」
 果歩はただ、りょうの顔を見ていた。
 りょうと議論するつもりもなければ、彼女を説得する自信もなかった。
 ただ判ったのは、今のりょうが―― 果歩の全く知らない仮面を被っているということだけだった。
「りょう、自分が何言ってるか判ってる?」
「なんの話?」
「…………」
 果歩に、その仮面を剥がすことはできそうもなかった。
 でも、仮面の下にある顔なら、誰よりも鮮明に見えているような気がした。
「判ってないなら教えてあげるよ。自分のやってることが正しくないって、間違いだったって、りょうはそう言ってるんだよ。止めてほしいって、一人じゃ寂しいって、りょうはずっとそう言ってるよ、さっきからずっと!」
「…………」
「りょうは、私のこと何もかも判った気でいるのかもしれないけど、私だってりょうのことなら判ってるよ。だから、私が何言ったって、りょうの気持ちを変えられないことも判ってる。判ってるから……私、……りょうの決めたことなら、それでいいと思うよ」
 たとえそれがどういう結論であっても、りょうは、一度決めてしまったことを決して変えはしないだろう。
 過ちも後悔も含めて―― いや、それを絶対にしないと胸を張って言えるのが、りょうのすごいところなのだ。
 どんな道でも、彼女なら切り開く自信があるに違いない。でも……。
「ただそれは、りょうが自分の意思で決めたことなら、だよ。バツ一でも子持ちでも50過ぎの人でも、私、全然いいと思う。借金のためでもそれも有りなんだと思うよ。りょうが、色んな事をひっくるめて、それで幸福になれると思っているなら」
「…………」
「でも、そうじゃないんだったら絶対にやめて。何かを抱えてるんなら相談に乗る。何もできないかもしれないけど、出来ることは全部やるから」
 りょうは顔を上げて、微かに笑った。
「全部、想定内のリアクションね。面白くないわよ。果歩」
 ―― りょう……。
「さて、引きこもりの眼鏡ちゃん。あんたはこれからどうするつもり? 人にえらそうにお説教しておいて、たかだか眼鏡ひとつで仮病使うなんて、心弱すぎ」
 う、と果歩は詰まっている。
「それと、これとは」
「そろそろ夕食……ここで食べるなら、運ばせるわよ」
 りょうは時計を見て立ち上がった。
「じゃ、いい子にしてなさい。大人しく待ってたら、直にご主人様がおやつを持ってくるからね」
「ちょ、りょう」
 ひらひらっと片手を振って、りょうは部屋を出て行った。

 


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