「果……的場さんが貧血?」 晃司は、驚いて振り返った。 「そうなんですよ。今、宮沢さんの部屋で休んでるって話なんですけど」 水原は、傍目にも判るほど青くなっていた。 「ど、どど、どうすればいいんですかね。色んな段取り、全部的場さんの頭の中なのに、いきなり僕一人が残されても」 男子部屋。 そろそろ夕食の時刻なので、各々好き勝手に宴会場に向かっている真っ最中のことだった。 晃司が最後に部屋を出ようとしたら、水原が大慌てで飛び込んできたのである。 確かに果歩がいないのは、晃司にも大きな問題だったが、それにしてもこの新規採用職員のうろたえっぷりは不思議だった。 「まぁ……そりゃ、どうにでもなるんじゃねぇの。宴会なんて、結局飲んで騒ぐだけだろうし」 「でも、司会とか、進行とか。僕一人じゃ無理ですよ」 「南原さんがいるだろ。あの人ああいうの得意そうだから、相談してみりゃいいんじゃね?」 晃司は面倒さも顕わに切り捨てた。 それより果歩のことである。 「そんなことより、果歩は」 「そ、そうですね。南原さーん!」 来た時と同じ勢いで水原が駆け去って行ったので、晃司はそれを聞くタイミングを逸していた。 「……局長持ってるとこも大変だな」 晃司は肩をすくめて部屋を出た。宴会も旅行も何もかも大げさで。 てか、果歩がいなきゃ、俺だって行く意味ないんじゃねぇか? 宮沢さんに電話して、果歩の様子を聞いてみるか……。 「晃司、君」 可愛らしい声がしたのはその時だった。晃司はぎょっとして、速度にダッシュ体勢を取っている。声だけで相手は判った。極力2人になるのを避け続けてきた―― 長妻真央である。 「いいんですかー、お姉さんの情報持ってきてあげたのに」 「…………」 暗い廊下。晃司は振り返り、今日初めて、虫より苦手な女子高生と対峙した。 浴衣姿に洗い髪、少しばかりドキッとしたが、それより警戒心の方が増している。 こいつの図々しさに振り回され、今までどれだけ迷惑を被ってきたか―― とはいえ、最後の振る舞いの後味の悪さは、さすがに後を引いていた。 「お姉さんって……果歩のことかよ」 しぶしぶ訊くと、小悪魔みたいな女子高生は、にっと笑った。 「他に誰の話が聞きたいの? 須藤さん? それとも宮沢さん?」 「てか、なんの話だよ」 「ちぇっ」 軽く舌打ちして、浴衣姿の真央は晃司の横にすり寄って来た。 「おい、近づくなよ」 「なんでー、キスまでした仲なのに」 「し、してなっ、あれはお前が勝手に」 ぎょっとした時には、すでに腕を絡めとられている。 「真央のファーストキスだったのに」 「バーカ、何言ってんだ」 顔を背けた途端、真央の腕にぎゅっと力が込められた。 「ホントだよ……」 えっ、そんなにしんみりされても……。 「…………」 「…………」 俺、悪者? おかしいぞ? こいつとの一件では、間違いなく俺が被害者だったはずなのに。 「あのさ……」 晃司は軽く咳払いした。 仕方ない、大人なのは俺だ。絶対に被害者は俺の方だが、ここはあえて悪者として……引導を渡そう。 そもそもあの時、宮沢さんを呼んでしまったのが大きな間違いだった。あの時傷つけた落し前は、自分でつけなければならない。 「前も言ったけど、俺」 「貧血じゃなくて、コンタクトらしいよ」 「えっ?」 あっさり遮られ、晃司はたちまち真央のペースに乗せられていた。 「なんだよ、それ。どういうこと?」 「お風呂でコンタクト、両方落っことしちゃったみたいなの。眼鏡で人前に出るのがよっぽど嫌だったみたいだね。いい年してみっともないっていうか」 「…………はぁ?」 なんだ、それ。 「それはないだろ、いくらなんでも眼鏡くらいで」 「んー、女の子ってそんなものよ。好きな男の子の前では、いつも完璧でいたいから……」 不意に潤んだ目で見上げられる。 晃司は口ごもって視線を逸らした。 少しばかりやましい気持ちになったのは、その刹那、かすめるほどの欲望を目の前の少女に感じてしまったからだった。 それも無理はないと、晃司は自分に言い聞かせた。 もともとセックスには淡泊な方だという自覚はある。にしても、果歩への片思いを自覚してからはや半年、その間、一度も生身の身体に接してはいない。 「ちょ、離せよ。人が見てるだろ」 にわかに焦った晃司が強い口調で言うと、ややむっとした風ではあったが、真央は素直に手を離した。 「……晃司君、そんなに私のことが嫌い?」 「嫌いじゃねぇけど、好きでもねぇよ。年とか考えろよ。無理だって、絶対無理」 相手が話を振ってくれたので、晃司は逆にほっとしている。 とにかく今夜で、この面倒な女子高生との因縁を終わりにしたい。 「年とかじゃなくて、他に好きな人がいるからでしょ」 また、痛いところを突いてくる。 晃司は再び咳払いをした。 「まぁ、……それもあるけど、それだけでもねぇよ。お前とは、どうしたってそんな気持ちにはなれないっていうかさ」 「なんで? 真央、可愛いでしょ? 顔もスタイルも、誰にだって負けてないよ?」 「顔とかじゃなく……なんとなく、だよ。悪い意味じゃねぇけど、俺にとって10も年下って完全に圏外なんだよ。……悪いけど」 「…………」 さすがに、真央の顔が見られなかった。 実のところ、振られることはあっても振った経験が限りなくない晃司である。 とはいえ、振られた原因(浮気・無精)はことごとく自分が作っているのだが……。 「いっこ、聞いていい?」 真央の声に、晃司もまた声だけで答えた。「何?」 「晃司君の本命って誰?」 「はい?」 「相手によっては諦めてあげるよ。……誰?」 はぁ? そんなの、今さら口に出して言わせるか? 「その……お前が持ってきたコンタクト情報、なんの意味があるんだよ」 婉曲に、晃司はその人の名を匂わせた。 「そんなの聞いたって、美味しくもなんともねぇだろ。女風呂でなくしたんなら、探しにも行けねぇし」 「あ、今の時間は男風呂だよ」 晃司の気持ちが伝わったのか、伝わっていないのか、真央はあっさりと答えた。 「だから百瀬さんも探しに行けないんじゃないのかなー。どう? ここまで言えば、この情報の価値が判ってくれる?」 「…………」 判った……。 今、判った。なるほど、そういうことか!! 「ちょ、俺、夕飯いらないって伝えといて」 「ねぇ、待って」 駆けだそうとした腕を取られた。 晃司は、少し怯みながら脚を止める。 「今日の宮沢さん、綺麗だと思った?」 真央はいつになく、真剣な目をしていた。 宮沢さん? 逆に晃司は拍子抜けしている。 「ああ……着物? あんま真剣に見てなかったけど」 「着物もそうだけど、全体的に」 「?……いや、普通だったんじゃねぇの?」 なんだ? 何が言いたいんだ? 真央の目が、何故か大きく見開かれた。 「普通……?」 「うん、まぁ……普段と変わらない、みたいな」 雰囲気は相変わらずきついし、どことなく怖くてSっぽいところが……とは言えなかった。 いずれにしても、ああも手ひどくやりこめられた。晃司にとって宮沢りょうとは、すでに天敵、―― 捕食動物と言ってもいい。 「じゃ、悪いけど急ぐんで」 晃司は、真央を振り切るようにして駆けだした。 しばらく走って、ふと足を止めて振り返る。 うす暗い廊下の片隅に、真央はまだ立ちつくしているようだった。 ************************* 「藤堂君」 廊下に出ようとしていた藤堂は、その声に足を止めて顔を上げた。 目の前には、艶やかな着物姿の女性が微笑している。 「もしかして、果歩を探しに?」 「いや……」 と、言い訳しようとした藤堂は、後手で襖を締めた。 背後の広間では、まだ賑やかな喧騒が続いている。 「的場さんは、まだ休まれていますか」 観念して、藤堂は目の前の人に聞いた。 「さぁね。ひどく落ち込んでいるのは確かだけど」 「え?」 意味が判らないのか、藤堂が眉を寄せる。 宮沢りょうは、微かに笑って肩をすくめた。 「宴会、持ちこしになったんだって?」 「ええ、夕食後にもう一度集まろうと局長が仰られて」 藤堂は背後の襖を振り返った。 「それまでに、的場さんがよくなればいいんですが、今はどんな具合でしょう」 「お見舞いに行く?」 「いえ……」 藤堂は苦笑して髪に手を当てた。 「宮沢さんから、今の話を的場さんに伝えてもらえますか。でも無理だけはしないようにと」 「2人きりね、藤堂君」 「はい?」 意味深な女の目を、藤堂は戸惑いながら見下ろした。 「君には聞いてみたいことが色々あるけど……まぁ、それは後のお楽しみにとっておくかな。実は果歩、貧血でもなんでもないの。全く傍迷惑なプライドが原因で引きこもってるだけ。今、私の部屋でピンピンしてるわよ」 「……はぁ」 ますます戸惑う藤堂を、りょうはいたずらっぽい眼で見上げて笑った。 「確か、12月にも同じことがあったんだったわよね。というわけで藤堂君にお願い。もう一度レスキューになって、果歩を助けてやってくれないかしら」 ************************* タオルを頭から被った果歩は、うつむきながら足早に廊下を歩いた。 まるで泥棒か浮気が見つかった間男みたい……。 この時間なら、全員が宴会場に行っているはずだが、それでも安心はできなかった。 なにしろ、色んな意味で、決して姿を見られてはならない果歩なのだ。 眼鏡顔をさらすのもそうだが、それが原因で引きこもっているなんて格好が悪すぎる。 ――馬鹿な真似してるよなぁ、私も……。 たかが眼鏡くらいで、仮病使って引きこもって……。 いくらプライべートとはいえ、職員旅行は、いわば仕事の延長みたいな側面もある。それを、無責任にもこんな形で……。 出ようかな……いや、それは無理。今頃皆心配して……でも、出るのは絶対無理。 頭は葛藤でぐるぐるしていた。 思えば、最初から不純な動機で計画した旅行だった。徹頭徹尾、自分のことしか考えていなかった。結局は、そんな身勝手さにふさわしい結末を迎えてしまったのかもしれない。 ――りょうとは……今夜、もう一度話してみるかな。 多分、今夜は2人きりだ。 とはいえ、どう言葉を尽くしたとしても、一度決めてしまったりょうの気持ちを覆すのは……。そう思うと、ますます憂鬱さだけが募っていく果歩である。 「あ、ここかな」 果歩は、やや度の合わなくなった眼鏡を押し上げた。 大浴場の裏手にある、貸し切りの家族風呂。 木々に覆われた純和風箱形の建物で、中は、いくつかの小部屋に分かれているようだ。 その一室を、8時から9時の1時間だけ、りょうが、果歩のために押さえてくれたのだ。 (無理言って、掃除時間を変更してもらったからね。後でバレたら大問題になるから、一応、掃除中って看板だけ掛けといてくれる?) 果歩は、言うとおりにした。 「おじゃましまーす」 貸し切りの温泉なんて、そんな贅沢な真似をしたのは初めてだ。果歩がおそるおそる檜の扉を押し開くと、中は真っ暗で、温かな湯と新しい木の匂いがした。 「へぇ……」 手前に小さな脱衣所があって、木戸の向こうが、もう露天風呂になっていた。 岩に囲まれた温泉は、半ばを木塀で遮ってある。おそらく、中程度の大きさの湯を、4分の1に区切ってあるのだろう。 木々の葉が湯の上に垂れさがり、白い湯気が夜に立ち昇っていた。 たちまち果歩の眼鏡が白い蒸気に覆われる。 ―― なんにしても、りょうに感謝だなぁ……。 急いで浴衣の帯を解きながら、果歩はしみじみと思っていた。 貸し切りがいくら程度の料金なのかは知らないが、こんな機会でもなければ、絶対に利用することなどなかったろう。 昔からりょうはそうだった。つき離されても、冷たくされても、最後には絶対に手を差し伸べてくれる。 一度、思ったことがある。りょうって実は、究極のお人好しなのではないだろうか。 関わった人間を見捨てられない性格だから、普段はあえて関わらない。だから傍目には冷たい人のように思えるけど……。 背後で、引き戸が開くような音がした。 果歩は眼鏡を外していたし、その音は、別の部屋から聞こえてきたものだと思っていた。 「うわっ」 だから、続いて素っ頓狂な声が上がった時、同時に悲鳴を上げて後ずさっていた。 「ま、的場さん?」 う、嘘―― 。 果歩は胸を隠すようにしてしゃがみこんだ。かろうじて身につけているのはシュミーズだけである。 「ちょ、そ、その、す、すみません」 わたわたとその人が出て行こうとする。薄ぼんやりとしか見えないが、声と身体の大きさだけで、果歩はその人が誰だか判っていた。 「ご、ごめんなさい。私こそ」 わけがわからないままに、果歩は大慌てで浴衣を引き寄せる。 入口あたりで、けたたましい物音がした。 「藤堂さん?」 「す、すみません。大丈夫です」 よくは見えないが、転んだに違いない。 その時、「何かありましたか?」と、外から扉が叩かれた。おそらくは旅館の従業員が、物音を聞いて驚いた客に違いない。 「だ、大丈夫です。なんでもありませんから」 果歩は慌てて声を返した。 とはいえ、これで藤堂が出て行く機を失ったことになる。 「…………」 「…………」 りょうの仕業だということは、漠然と察しがついた。 が、一体、どうしろというのだろうか? 私と藤堂さんは、まだそんな関係じゃ……。しかも、コンタクトを失くしたという大問題はまるで片付いていないのである。 ************************* 「……宮沢さんに、ここでコンタクトを失くしたんだと言われまして」 「……そんなことだろうと思ってました」 5分後、果歩は脱衣場の隅でしおれたように正座して、藤堂はすっかり落ち着きを取り戻していた。 仮病のことも、当然りょうは話したのだろう。 親友の心遣いはありがたいが、よりにもよって、一番知られたくなかった藤堂さんに……。 「まぁ……あまり、誉められたことじゃないですね」 「……すみません……」 それでも、頑なに眼鏡をかけない果歩の視界に、藤堂の姿はぼんやりとしか見えない。 「どうしますか」 藤堂は湯の方に向かって歩き出した。 「宴会は9時からになりました。的場さんが元気になってから仕切り直そうと、那賀局長が仰られたので」 「…………」 どうしますかって、どうしよう……。 そんな気遣いいらないよ。 だって、裸眼じゃどうにもならないし、眼鏡は、とんでもなく度がきつくて……。 「可愛かったけどな、眼鏡の的場さんも」 「じょっ、冗談はやめてくださいよ」 藤堂が、微かに笑う気配がした。 「とはいえ、無理強いはしませんよ。的場さんが何年も守り続けたものなら、僕にどうこう言える筋合いはないですからね」 「…………」 何故か藤堂の言葉に、自分とりょうが重なった。 その人が何年も守り続けてきた信条や思いを、そう簡単に他人が変えることなんてできない。 改めて果歩は、自分の無力さを思い知らされていた。 私は一体、りょうに何を伝えようとしていたんだろう。自分自身が……こんなくだらない拘りひとつ、変えることができないでいるのに。 「……私……、我儘ですね」 果歩はうつむいたまま、呟いていた。 「呆れられても仕方ないと思います。……自分でも、何に拘っているのか、いまひとつ判らないんですけど」 「……僕には、なんとなく判りますよ」 藤堂の声は優しかった。彼が温泉の方に歩いて行く気配がする。 「へぇ、狭いけど、ちゃんとした温泉なんですね。せっかくだから、入られたらどうですか、的場さん」 「いっ、いえ。何言ってるんですか、藤堂さん」 「……入ろうかな」 え? 「一緒に入りましょうか」 はい? なに、今の……幻聴? 目だけでなくついに耳にも―― 。 「よく見えないなら、僕がここまで運んでもいいですよ」 「ちょっ?? ほ、本気で言ってます? 藤堂さん」 果歩は驚愕のあまり立ち上がっていた。 湯気の向こうから、藤堂がこちらに歩み寄ってくる。 ************************* 「うー、寒い」 トイレから出た南原は、震えながら半纏を巻き締めた。 結局夕食だけで終わった一次会は、そろそろお開きのようだった。 的場果歩のみならず、前園晃司も何故か不参加。藤堂も途中で消え、女性陣は何故か全員沈み込んでいる。水原一人が張り切っていたが、いまひとつ盛り上がりに欠けた夕食の宴であった。 もう一度温泉に入って、9時過ぎに再度集合―― それからが本番の宴会となる予定だが、果たして皆が待ち望んでいるヒロイン? が来るのかどうか……。 「南原さーん。どこに行っちゃったんですか」 広間の方から水原の声がした。おそらく散会のタイミングが判らなくてパニクっているのだろう。 「ったく、使えないヤローだな」 苦笑して歩き出そうとした時だった。 廊下の片隅―― 薄暗がりの中に、人影が佇んでいる。 「……?」 何気なく通り過ぎようとして、ふと足を止めていた。その影が、よく知っている女性のものだと判ったからだ。 「あ……、どした?」 普通に出してしまった声は、自分でも驚くほどぎこちなかった。 「トイレなら、誰も使ってなかったみたいだけど」 「……はい」 低く答えた百瀬乃々子は、そのままうつむいて黙っている。 何か言わなければいけないような気がしたが、言葉は何もでてこなかった。 相手が何か口にすれば、いくらでも言葉は出てくるような気はしたが、女もまた……何も言わない。 「……あー、元気?」 馬鹿、何言ってんだ、俺。 そう思ったが、一度出た言葉は取り消せない。 「ま、色々、あれだと思うけど、その……」 「…………」 「まぁ―― なんだ。元気そうでよかったよ」 乃々子は黙って視線を下に向けている。 南原もまた、それ以上何も言えなくなった。 この女は、一体何を考えているのか? その疑問は最初から今まで、やはり解けないままだった。 「えっと……」 頑張ってるようだけど、藤堂は望み薄なんじゃね? 水原のこと、本当はどう思ってんだよ。 それから―― 「南原さーん」 再び水原の声がした。 南原は弾かれたように顔を上げた。 「……んじゃ、先に戻ってるから」 自分から、話すべきことは何もない。 南原は嘆息してから歩き出した。 しかし、なんだってこんな面倒なことになっちまったんだろう。もともと面倒くさい女だったが、何がどうこじれて、ここまで厄介なことになったのか。 正直言えば、それだけが未だによく判らない……。 あれは――忘れた方がいいんだよな。 南原は自分に言い聞かせ、ほっと闇に白い息を吐いた。 ************************* 「お兄さん、もういい加減にしてくださいよ」 「いや、すんません、あと少しだけ」 洗い場に並べられた大量のタオル。バスタオルもハンドタオルもごちゃまぜになって重なり合っている。 元来潔癖な晃司には、じっとり湿った使用済みタオルというのは……少しばかり、いや、かなり触れたくない代物だった。が、そんなことに構っている場合じゃない。 「コンタクトなんて、そんなちっちゃいもの……もう出てきやしませんよ」 洗濯場の中年女性は呆れ顔である。 「あと10分……それで諦めるんで」 晃司は、白いタオルから目を逸らさずに、言った。 実際、ひとつはこの中から出てきているのだ。もう1枚も、必ず見つかるはずである。 脱衣場で、晃司は「おい、あんちゃん、何するんや」というヤクザみたいな親父を無視して、床板を引っ繰り返し、棚という棚の荷物を全部下ろして、隅の隅までつぶさに探した。 あらゆる場所を、這うようにして全面チェック。コンタクトの実物がどんなものか、見たこともない晃司だったが、それでも、それらしい欠片さえ見いだすことはできなかった。 半ば諦めかけた時、旅館の従業員らしき女性が、使用済タオルの回収にやってきた。 大きな木製ボックスが開かれ、そこからどさどさと落とされたタオル―― 何気なく見守った晃司の目に、きらりと輝く宝石みたいなきらめきが見えた。―― これか?? ボクシングを辞めて初めて、自身の動体視力が役だった? 瞬間である。 そして残る1枚を探すために、今、晃司は、この部屋にいるのだった。 「1枚見つかっただけでも、奇跡だと思いますけどねぇ……」 うんざりした声が、嫌味みたいに背後から聞こえる。 「いや、眼鏡だって片方だけじゃ、意味ないじゃないっすか」 洗い場では、常時大型の洗濯乾燥機が動いている。ごぉんごぉんという独特の音と、むっとするような不快な湿度。四つん這いになる晃司の額からは、すでに汗が滴っている。 奇跡か……。 そうかもしれない。 爪の先ほどもない薄っぺらい透明の欠片を、この、混沌としたタオルの山の中から探し出す。それは―― 大袈裟なたとえだけれど、砂漠の宝石を探すに等しい作業なのかもしれない。 見つかったら、マジ、奇跡だな。 いや、すでに1枚が見つかった。それも奇蹟というなら―― 求めているのは二度目の奇跡。 (私のこと、好きですか?) (私は……顔を見ないと寂しいっていうか) 思えば3年前、憧れの人と両思いになれただけでも奇蹟だった。 あの頃の俺は、仕事も恋も―― 望むものは大抵手に入るという幸運続きで、多分、いつの間にか大切なことを見失っていた。 手に入れたら、それで終わりじゃなかったのに。 この世界に普遍のものなんてない。ただ相手の愛情を欲するだけでなく、俺が愛して、……大切に守っていかなきゃならないものだったのに……。 「ねぇ、お兄さん。私らも時間ってものが……」 「すみません、もう少し」 もし、見つかったら。 二度目の奇跡がもし起きたら。 果歩にもう一度気持ちをぶつける資格を、得ることができるのかもしれない。 「困ったわねぇ、これじゃ仕事にならないわよ」 「人呼んで、つまみだしてもらおうか―― あらっ」 物騒なことを言った従業員の女が、小さな声をあげた。 「ちょっと、お兄さん、あんたの膝の下!」 「え?」 晃司はぎょっとして固まっている。 「なんか今、きらっと光ったわよ。ちょっ、動かないで、今あたしが取ってあげるから!」 |
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