「はぁ……気持ちいいですねぇ」 「疲れが取れる気がしますね」 果歩は、藤堂と顔を見合わせて微笑した。 うすぼんやりと滲んではいるものの、ここまで間近だと、目と目を合わせて会話ができる。 「でも、もったいないな」 果歩は思わず呟いていた。「せっかくの温泉なのに……」 「じゃ、本当に入りますか」 「い、いえいえ」 果歩は慌てて首を振った。「それは……まだ、早すぎますよ」 2人は温泉の縁に腰掛けて、足だけを湯につけていた。 足湯……。 とんでもなくドキドキされられたが、なるほど、これなら2人でお湯につかることができる。 果歩は、ちらっと、藤堂の肩のあたりを見上げてみた。 てゆっか、結構意地悪いところがあるんだな、藤堂さんって。 何にも言わずに手を引いて連れて行かれるから、もう……とんでもなく期待? しちゃったじゃない。 あまりよく見えなかったけど、絶対、私の反応を見て楽しんでいたのに違いない。 いつもと形勢が逆なのが、少しばかり悔しいけど―― ま、いっか。気持ちいいから。 果歩は、湯の中で足を動かした。すぐ隣に、藤堂の足がある。 互いにくるぶしまで浴衣をまくっているから、当たり前だが素足である。それが、少しだけ新鮮な気がした。 なにしろ、普段はズボンと靴下と靴に覆われたシークレットな部分。 好きな人の膝から下なんて、レアすぎて想像さえしたことがない部分である。 ―― 眼鏡かけたいなー……。 見たい……。というより、触れてみたい。 色んなものに覆われているこの人の心にも身体にも……もっと、触れたいし、近づきたい。 浴衣に覆われた硬そうな腿に目をやり、果歩は少し赤くなって視線を下げた。 ―― こんな風に思う私って、少しおかしいのかな? まぁ、色んな意味でスキンシップに飢えてるから……。 ちらっと、藤堂の横顔を見上げてみる。 彼の視線は湯の方に向けられていて、その表情までは判らない。 おそるおそる、果歩は彼の肩に頭を預けてみた。 温かくて、弾かれそうに硬い肩。 薄い生地を通して、生身の肉体の感触が伝わってくる。 「…………」 黙ったままの彼の視線が、こちらに向けられるのが判る。 高まる心音を聞きながら目を閉じると、そっと肩を抱かれて引き寄せられた。 額にキス―― 。 唇はすぐに離れ、大きな手が髪を優しく撫でてくれた。 互いに何も言わなかった。幸福で―― 胸が詰まるような沈黙だった。 「那賀局長が、寂しそうにしておられましたよ」 言われた言葉の意味が判らず、果歩は夢うつつで藤堂を見上げた。 「宴会に、出られませんか?」 「…………」 ドキッとしてうつむく果歩を、藤堂の腕が優しく抱き寄せた。 「来月、予定で一杯だったのは、那賀さんじゃなくて春日さんの方だったんですよ」 ―― え……? 「この旅行に、那賀さんは、なんとかして春日さんを引っ張り出そうとしていらしたようでしたね。水と油みたいなお二人ですが、春日さんのお立場をある意味一番理解されておられるのが、那賀さんですから」 「…………」 「的場さんの知らない所で、ぎりぎりの攻防があったようですよ。結局は、こういう結果になりましたが」 ―― 私……。 「……あの」 果歩は動揺しながら、呟くように訊いていた。 「……私、何も知らなかったです。どうして那賀局長は」 「春日さんの御苦労を、局長なりに慰労したいと思ったんじゃないですか」 藤堂は微笑した。 「この局が春日さんで持っているというのは、ある意味本当のことですからね」 「…………」 誰にも何も告げずに、ただ水原に寄付金だけを渡してくれた春日。 確かに藤堂の言うとおりだった。この一年、局では様々な出来事があった。その中で、一番負荷がかかったであろうポジションは……あらゆる局面で矢面に立った春日である。 「あの……私」 申し訳なさで胸がいっぱいになり、果歩は膝で手を握りしめていた。 「私、今回の旅行のこと、春日次長には何も報告しなかったんです。多分、……私が……次長を苦手にしていたから」 「春日さんに対しては、皆、概ね同じように思っているんじゃないのかな」 藤堂の口調は楽しそうだった。 「でも」 「そんなことを気にされる必要はないですよ。春日さんの場合、自ら好んでそういった立場に立たれているんですから」 まだ気が晴れない果歩の思いを汲んだように、明るい口調で藤堂は続けた。 「たとえ的場さんが声をかけたとしても、春日さんの気持ちを変えることはできなかったと思いますよ。―― 春日さんの信念ですからね。仕事以外に、無駄に体力を使うなというのは」 「……那賀局長は、どうやって春日次長を説得されたんですか」 「明日の天気とか、少し不謹慎ですけど、的場さんの着てくる服の色とか、結構姑息な賭けを持ちかけていたようでしたよ」 果歩はさすがに噴き出していた。 そういえば、次長が東京から戻って来た日、那賀が「今日も負けだと」妙なことを言ったことがあった。あれは、そういう意味だったのだ。 「で、どうだったんです」 「まるで、乗って来られなかった」 「そりゃそうですよ。だって、あの春日次長が……」 「冗談のひとつも言われたことがない方ですからね」 果歩は藤堂と、顔を見合わせて笑っていた。 藤堂の言葉が湯の温かさみたいに身体に染みて、心にわだかまっていたことのひとつが、ゆっくりと溶けていったようだった。 「春日次長は局の憎まれ役です……。次長が自らそういう役割を買って出ておられるのだから、僕らはただ、次長を畏れていればいい。でも、憎まれるだけの役目というのも、時に辛いものだと思います。次長も人間ですから……」 「…………」 「尤も那賀さんの優しさだけで、次長には十分だったと思いますけどね」 果歩は黙って聞いていた。 ――次長とは……昔、ちょっと言い難い確執があって……。 とはいえ、果歩には少しだけ判らなくなっている。 春日次長と同じ職場で仕事をするようになって約2年。彼がかつて、セクハラまがいの振る舞いをしたと話したとしても、一体誰が信じるだろう。 当の果歩が、実は一番信じられない。あれは……あの時は―― もしかして、何か別の事情か理由があって……。 「人の気持ちを動かすのって、……難しいですよね」 果歩は言った。 「難しいですね」 藤堂が笑う。 「僕だって、的場さんの気持ちひとつ動かせない。僕がいくら、眼鏡の的場さんが可愛いといっても……」 「い、言わないでください。そんなの、信じられないですよ」 話が、またまずい方向に転がって来た。果歩は慌てて藤堂の腕を振りほどいている。 藤堂さんは知らないんです。 度のきつい眼鏡をかけて、女子としては全然ダメダメだった悲しい日々を。 今の自分のイメージを作り上げるのに、何年の月日を要したことか……。 「とはいえ、人の心を動かそうと考えること自体、もしかするとおこがましいのかもしれません」 静かな口調で藤堂は続けた。 「自分の心は―― 自分でしか動かせないものですからね」 ―― それは……でも、それは……。 「でも、そんな風に割り切るのは、少し寂しくないですか。誰だって藤堂さんみたいに強いわけじゃないんですから」 果歩の反論に、藤堂は少し驚いたようだった。 「寂しいとは……思わないですね。僕が言うのは他人の干渉を受け付けないという意味ではないんですよ。色んな出来事や意見や想いに触れて、最後に決めるのは自分だろうと、そういう意味です」 「…………」 「僕らは、その手助けになれば十分なんじゃないかな。尤も、人が長年築き上げてきた感情というのは、ちょっとやそっとじゃ揺らいだりはしないんでしょうけれど」 「さっき……」 果歩は、迷いながら訊いていた。 「さっき、私の気持ちが判ると言われましたけど」 「今の的場さんは、的場さんが何年も努力してつくりあげた的場さんだから。それを大切に守りたいという気持ちは、よく判りますよ」 ぐっときて、果歩は唐突に泣きそうになっていた。 どうしてそんなことが、出逢って一年にも満たない人に判るんだろう。 が、その指摘は同時に、胸の奥で硬くなに抱き続けていた拘りを、優しく揺らしてくれたようでもあった。 「だから僕は、無理強いも説得する気もないです。的場さんが最後に決められたらいいと思う。いい加減に聞こえるかもしれませんが、命や人生に関わる大問題ではないんですから」 ふっと果歩の耳に、追い詰められた時によく出てくるフレーズが蘇った。 大丈夫―― 私は大丈夫。 これで、命まで持って行かれるわけじゃない……。 「私……私でも、誰かの心を揺らすことができるでしょうか」 果歩は、両手指を組んだり解いたりしながら言っていた。 「私、藤堂さんみたいに頭もよくないし、その人のこと、説得できる自信は全然ないんですけど、……でも、やっぱり間違ってるって、やめたほうがいいって」 「…………」 「そう言ってあげるべきだと思うんです。反論されると判っていても」 「なんの話か分かりませんが、そうされたらいいんじゃないですか」 穏やかに返される。 「そ、そうなんですけど、それが―― 私にはできないから」 「……?」 見上げた藤堂が、どこか訝しげに首をかしげるのが判った。 「そうは思えないけどな……。的場さんは、結構果敢に突っ込んでこられますよ」 「な、何にですか?」 「何にって、色んなことに。僕からみると、どこにそんな度胸があるのかと呆れるくらいに」 「…………」 ええーっ?? と、果歩は内心驚愕している。 そんなことないでしょ、私って人に説教できるような、そんなしっかりキャラじゃないし。 「いつも通りにされたら、それでいいんじゃないですか」 「いつも……通りですか」 「はい」 藤堂は力強く頷いた。 ええ……? ますます判んない。いつも通りってなんだろう。いつもの私って……。 「さて、そろそろ上がりますか。少し熱くなってきたし」 「あ、はい」 「宮沢さんの部屋に戻りますか。送りたいけど、僕は場所を知らないので……」 手を引かれて湯から上がりながら、果歩は唐突に気付いていた。 いつもの私。 いつもの―― 私。 今の私が、いつもの私じゃなかったとしたら? それは……多分。その原因は……。 ************************* 奇跡、キタ―― ! 晃司は、旅館の庭園を猛ダッシュで突っ切った。 待ってろよ。果歩。 お前を助けるのは、やっぱり俺の役目なんだ。 そうだ、夢は叶えるためにある。イチローになれるかなれないかなんて、やる前から他人に決められることじゃねぇんだよ。馬鹿野郎! 「……と」 ふと足を止めたのは、自分が向かうべき場所を正確に知らないことに、今さらながら気がついたからだった。 そういや、果歩はどこにいるんだっけ。 宮沢さんの部屋で休んでいる……ということは、まず宮沢さんに電話して、果歩の位置を捕捉しなければ。 「全く、どうなっとるんや。話が全然違うやないか」 妙に耳触りの悪い大阪弁がした。 その声に聞き覚えがあった晃司は、声のした方を振り返っている。 「温泉は貸し切りにせぇゆうたやろ。へんなあんちゃんが飛び込んできて、脱衣場ひっくり返して大暴れや、あれ、なんなんや。頭のおかしい奴ちゃうか」 もしかして、俺のこと? ということは、このむかつく大阪弁は、風呂で出会ったヤクザみたいなおっさんか? まぁ確かに、脱衣場の一件は、俺のほうに非があるが……。 「大変申し訳ございませんでした。大石先生」 いかにも商売慣れた若い男の声がした。 「個人風呂の方はお取りできたんですけれど、大浴場の方は……ご宿泊のお客様も、今日は大勢おられますし」 「あんたな、宮沢はん」 笑うような声だった。 晃司は、宮沢という言葉に、どきりとして再び足を止めている。 「まだ自分の立場、本気で判ってないんとちゃうか? 今日は、この旅館の査定も兼ねとるんや。客筋の悪さは相変わらずやって、そう言うたってもええんやで」 「本当に申し訳ございませんでした」 今度は女の声がした。ひどく切羽詰まった声だったが、その時には、晃司もようやく気付いていた。 この声……若い男と女の声。 それは、つい数時間前に同じ場所で聞いた、妙な会話の主ではないか。 そして、この旅館に着いた時、入口で出迎えてくれた声でもある。 宮沢りょうの妹と―― 兄。 「ゴルフ場も、コースは悪いわ、風は強いわで、最悪やで。ようあんな場所に、ああも金かけたもん作りよったな。なんちゅう無駄な投資しはったんや。それで本業圧迫しとんのやから、ぶっちゃけ、女将もたまらんやろ」 この、わざとらしい似非大阪弁の男の顔も、晃司は思い出していた。 風呂で出くわしたヤクザみたいなおっさん……しかしその顔は、冷静に思い返せば、この旅館の至る所で目にしていたような気がする。 やたら目立つ所にベタベタポスターが貼ってあった。衆議院議員だか参議院議員だか―― 大石なんたらという、議員の先生だ。 「ええ、どうなんや。なんとか言ったらどうや、宮沢はん」 「……全て、私の不徳の致すところです」 男の声―― おそらく宮沢りょうの兄が答えた。 「まぁ、ええわ。おたくとは長年のつきあいやからな。とはいえ、こんなボロ旅館を助けたところで、わしには何の得にもならへんからな。あんた、亡くなったお袋さんに、感謝せなあきまへんで」 「……それは、もう」 今度は女の声が答えた。宮沢りょうの妹である。 「あの頃、わしはまだ女が買えるような年やなかったさかいな。そやから随分憧れたもんや。あれほどの別嬪は東京にもそうはおらへん。あんた、……それにしても似てへんな。ほんま、キョウカさんの娘さんかいな」 「私は父に似たんです。……姉のように、母親似でしたらよかったんですけれど」 「ほんなら、今は姉さんに感謝するんやな。あの子みたのは7、8年も前や、その頃からキョウカさんそっくりやった。忘れられへんな。枕芸者の娘のくせに、わしに思いっきり平手打ちかましよった」 「妹も、それは随分反省しておりました!」 「本当に申し訳ございません!」 ――なんだ……これは? 性質の悪いコントでもやってんのか、こいつらは。 「まぁ、ええわ。どんだけ反省しとるか、これからゆっくり確かめるしな。どこや」 「ご案内いたします」 後は、遠ざかる足音だけが聞こえた。 しばらく固まっていた晃司は、やがて呆けたように振り返った。 ちょっと待てよ、これって―― なんかまずくねぇか? よく判んねぇけど、とんでもなく……やばいんじゃないか? ************************* ―― 俺……一体何やってんだろう。 晃司は、何度か目の自問自答を繰り返した。 判っているのは、これが―― 今やっていることが悪い形でバレてしまえば、間違いなく免職になるということだ。 人は時に、これを「のぞき」というのだろう。 刑法だったか軽犯罪法だったか……いずれにせよ、表ざたになって役所に通報がいった時点で、厳しい処分が下るのは目に見えている。 「まぁ、あんたも飲んだらどうや」 「いただきます」 晃司は、聞こえてきた声に耳をそばだてた。 障子一枚で隔てられた向こう側。声どころか、人影さえ透けて見える。 離れの一間。どうやらこの建物だけが、独立した宿になっているらしい。ここに至るまで、いくつも似たような建物を見たから、個別の―― 戸建てタイプの貸し切り宿が、この旅館には幾つも備えられているのだろう。 ここは、その中のひとつだった。 取りあえず不穏な会話を交わしていた連中の後を追った晃司だったが、当然、何か策があったわけではない。 場所だけ確認して、後は果歩に―― とか思っている内に、周囲に旅館の人が集まってきて、あちこち姿を隠している間に、気づけば、建物の中に入り込んでしまっていた。 結局は、庭から縁側に入り込み、縁側の内側から息を殺して様子を窺う羽目になってしまった。 自分でも、どうしてこんな馬鹿な真似をしてしまったのか判らない。 ここまでやってしまったら、のぞきというより、泥棒と間違われても仕方がない。取りあえず―― 中の様子がどうであろうと、事が済むまで隠れ続けている他ない。 それにしても……。 「あんた、わしのことを覚えとるか」 「はい」 晃司は、顎を落としそうになっていた。 おいおい、なんつーしおらしい声を出してんだよ。 てか、本当に声の主は宮沢さんなのか? 声は確かに宮沢さんだけど、実は別の人が中にいるんじゃ……。 「先生には、一度こちらでお目にかかりました」 「あんた、その時何をしはったか、それも覚えとるか」 男の声は、完全に面白がっている。 まるで、鼠をたわむれに追い詰める猫みたいだと晃司は思った。 そして、ますます信じられなくなった。 あの宮沢さん相手に、一体どんな男がああも余裕を見せた態度をとれるのか。 「はい……」 囁くような声が答えた。 「まだあんたは大学を出たばかり、気ィの強そうな目ェしとったわ。わしはな、何もあの時のことを根に持ってるわけやないんや。今回の話かて、何もわしが無理強いしたんやないんやで。あんたの兄さんと妹さんが勝手に出した条件や」 「…………」 「あんたを昼間見るまでな、それでも内心は断るつもりやったんや。あんた、今年いくつや。もう三十路やろ。わし、女はようけ世話しとるけど、若い子限定や。それが会ってみて驚いた。8年前の、まんまやないか」 杯が触れ合う音がした。 「さぁ、もっと飲まなあかんで」 勝ち誇ったような男の声に、晃司は内心毒づいている。 ばーか、宮沢さんがどんだけ飲めるのか知らねぇのか。ちょっとやそっとで酔うような人じゃねぇんだよ。 とはいえ、この場合―― 密室で膝を突き合わせる男女に、酒など、しょせん場つなぎであることは判っている。 男は最初からその気だろうし、女のほうは……様子を窺い見るに、どうも逆らう気はないようだった。 ――宮沢さんは、こいつの愛人になるつもりなんだ。 晃司にも、それだけは察しがついた。 どう贔屓目にみても、普通の見合いとは思えない。 少なくとも、今夜のこの場は、男と女の密会のために設けられたに違いない。 いってみれば、兄妹に差し出された人身御供―― が、あの宮沢さんが、あえてそんな役を引き受けるか? 旅館のため? 家族のため? まさか、あの合理的で頭のいい、他人なんていくらでも切り捨てられそうな宮沢さんが……。 「とはいえなぁ、わしにもプライドがあるんや。お嬢ちゃん」 男の口調が、ますます粘っこくなった。 「わしに平手までかました女は、あんたが初めてやさかいな。正直なぁ、どないに気持ちの整理をつけていいのか、わからへんのや」 着物がすれる音がした。 晃司は嫌な予感を覚え、咄嗟に視線を下げている。 おいおい、勘弁してくれよ。 てか、これ以上ここにいたら本気でやばいんじゃないか。俺。 とにかく……そんな馬鹿なことになる前に、逃げないと。 これじゃ、言い訳しようもない犯罪だ。 「なんや、拍子抜けするやないか。えらい今夜は大人しいな」 衣服のこすれる音と、時折、食器の触れあう音がする。 晃司は後ずさりながら、窓のほうに手をかけた。 胸が、鉛でも飲み込んだように重かった。 冗談じゃない。本気で見損なった。馬鹿じゃねぇのか? そこまで頭の悪い人だと思わなかった。そんな人を今まで畏れていた俺って、ぶっちゃけただの間抜けじゃねぇか。 「あの……」 消え入りそうな、弱々しい声がした。 その声が、あの宮沢りょうのものだと、晃司にはすぐに信じられなかったし、次に聞こえてきた言葉はなお信じられなかった。 「隣に、お布団を用意していますから。……そちらに」 「あかんなぁ」 小さな悲鳴が確かに聞こえた。気持ちを切り替えて退出しようとしていた晃司は、息を引くようにして足を止めている。 「わしが、ここゆうたらここなんや。あんた、これからはわしの言うことに一切逆ろうたらあかんで。なんや、細い思うとったら、意外にでるとこでとるやないけ」 おい……。 「あんたの態度次第では、きちんと籍入れたってもええんやで。わし、独身やさかいな。ただあんたの母親が名の売れた枕芸者ゆうのは、この辺りの皆が知ってることや。代議士の女房が、売春宿の女の娘じゃ、ちぃと都合が悪いやろ、な」 声の代わりに、帯を解くような音だけが聞こえてくる。 晃司はただ、呆然と、性質の悪い夢でも見ているような気持ちで立っていた。 てか、これじゃまるで、悪代官と町娘だろ。 ここで、必殺仕事人とか出てくるんじゃねぇか。ほら、例のテーマ曲に乗って……。 が、当たり前だが、そんなものは出てこなかった。 果歩に、電話……いや、果歩じゃなくて誰か……警察……馬鹿か俺は、ここで捕まるのは間違いなく俺だろうが。 「なんや、あんた、震えとんのか」 誰か……誰でもいいから……。 「まんざらおぼこでもないんやろ。どや……ちゃんと目ぇあけてこっちを見んかい」 俺は無理だけど、俺が何かするわけにはいかないけど、俺は公務員だし、宮沢さんとは基本何の関係もないし、そもそも果歩が好きなんだし、問題起こしたらまずいし、俺は公務員で―― 。 再び小さな悲鳴が聞こえた。 晃司は障子を開け放っていた。 目の前がちかちかっとした。多分、最後に残っていた理性みたいなものも、その瞬間に吹き飛んでいる。 「あッ、あんた、風呂でけったいな真似しよったあんちゃんやないけ!」 そのブルドックみたいなたるんだ顎に、拳を叩きこんだところまでは覚えている。 気づけば、床に皿やら刺身やらが散乱し、同時に日本酒の芳香が舞い上がっていた。 「わっ、わしを誰や思うとるんや。参議院議員の石川でぇ? あんた、ただじゃ済ませへんで?」 わめいた男の唇から血がたらーっと流れた時、晃司は初めて自分のしでかしたことに気がついていた。 俺、何をやっちまったんだ―― ? もしかして、とんでもない真似をしちまったんじゃないのか? 「おい、ただで済むと思うなよ! この話はご破算や。それだけじゃないで? お前の人生終わらせたるからな!」 びしっと指が突きつけられた。 立ちすくむ晃司に、である。 思った以上に醜悪な顔だった。脂ぎった顔の上に乗っかった、縮れたたわしみたいな髪。 たるんでいるのは顔だけではない。ぶよぶよと膨れた身体―― どうやったら人は、ここまで心も身体も醜悪に変じることができるのか……。 廊下をどたばたと駆け去っていく足音を聞きながら、晃司は呆然と思っていた。 終わった―― 。 こんな、―― 自分にとっては、極めてどうでもいいことで、今まで築いてきたもの全てを失ってしまった……。 ************************* 「前園君……」 背後で、か細い声が聞こえた。 その時には、晃司は、半ば全てを諦めつつ、背後の女への失望も感じていた。 ただの女―― というか、それ以下。 金のために自分の身体を売るような、そんなプライドのない女。 こんな女のために、将来有望な自身の人生を棒に振ったかと思うと、もう呆れていっそ笑いだしたくなっている。 が、もう終わったことは仕方なかった。逃げれば余計に立場がなくなる。警察に通報されたのなら、ここで居座って待っているのが一番いいはずだった。 暴行致傷。ということになるのだろう。相手が怪我をしているのは間違いない。この場合、結構罪が重くなることも知っている。 公務員としては最悪の罪を犯した。前科? も相まって、今度ばかりは厳重注意というわけにはいかないだろう。 「あの……もう、いいっすから」 背後に立つ人の気配を感じながら、晃司は言った。 顔なんか見たくもなかった。 さきほどの光景は、生涯の悪夢になりそうだ。 「俺、ここで警察待つんで、あんた着替えて、お兄さんでも妹さんでもいいんで、事の顛末を報告しといてもらえますか。できれば、俺に都合のいい説明してくれるとありがたいんだけど」 てか、もうどっかに行ってくれ。 あんたとは、二度と関わり合いになりたくない。 「……前園君……」 再びか細い声がした。 その頼りなさに心が揺れた。しばらくうつむいて躊躇った後、晃司は振り返っていた。 「だから、もう」 「あんた一体、何をしてくれたのよ!」 次の瞬間、目の前で火花が散った。 一瞬にして真っ暗になった視界に、星がいくつも瞬いて消えた。 何が起きたか判らないまま、鈍い衝撃に跳ね飛ばされ、晃司は尻もちをついていた。背中に柱があたり、足元の食台がひっくり返った。 「な……」 混乱の中、自分が殴られたということだけは判った。 見上げた視界には、乱れた髪を肩に垂らした女が傲然と立っていた。 今まで、この人には散々恐ろしい目にあわされてきた。が、今ほど心の底から恐怖を感じたことがあっただろうか―― 。 が、女の手に握られた携帯電話を見た時、晃司は自身の身体から血の気が引くのを感じていた。 携帯を握りこんだ手で殴られた―― しかも、渾身の力で思いっきり。激痛が急速に左頬に広がった。晃司は畳に血を吐きだした。 「なにしやがんだ、てめぇ!」 叫んだ途端にフラッシュが瞬いた。 「……なっ」 目がくらんだ晃司は、咄嗟に顔を背けている。 混乱する晃司を尻目に、宮沢りょうは冷静に携帯カメラをあらゆる箇所に向けては、撮り続けた。最後には自分自身まで撮っている。晃司は、熱波のような怒りもどこへやら、意味不明の女の行動に、ただ呆然とするだけだった。 「それ、……なんの真似ですか」 「証拠保全」 携帯を閉じながら、平然と女は答えた。 「明日になったら腫れてくると思うから、朝イチで病院に行きなさい。それで、診断書を書いてもらって」 ―― は……? 「酒の上の喧嘩だと言って、診断書を取っておくのよ。幸い目撃者は私だけ。君の無駄な男気に免じて、今度ばかりは君の味方をしてあげるわよ」 え……。 てか、その……なんの感謝も感じられない上から目線は……。 と、いうよりそれ以前に、この怪我はあんたに殴られたわけであって、それを酒の席での喧嘩だと言い張るのは―― 。 「それヤクザのやり方と一緒じゃないっすか」 「まだ判らないの? 相手もヤクザと紙一重なのよ!」 初めて凄まじい剣幕が、場違いに冷静だった女の全身から迸った。 「合法的なバックグランドがあるだけ、裏の連中よりまだ性質が悪いの。役所クビになるたけじゃ済まないわよ。君の親にまで賠償請求が行くような羽目になるわよ、このまま馬鹿正直に頷いてばかりいると!」 「…………」 あまりの迫力に、言葉は何一つ出てこなかった。 晃司はただ、呆けたように固まって、目の前の女を見上げている。 「いいから、私の言うとおりにしなさい。スキャンダルが怖いのは、政治家のほうが公務員より上だからね。上手くいけば、示談で手打ちになるかもしれない。てゆっか、どういうこと? 本っ当に余計な真似をしてくれたわね。いい? 君は今、自分だけでなく私の将来も目茶苦茶にしてくれたのよ!」 「……あんたの将来?」 答えず、宮沢りょうは、散らばった食器を片づけはじめた。 晃司は、立ち上がった。ようやく我に返ったように、口元には冷笑が浮かんでいた。 「あんなクソ親父の愛人になることが、あんたの言う将来ですか。俺、今度という今度は、本気であんたのこと見損ないましたよ。くっだらねえな。何年前の世界だよ。家の借金のためだとか、今時ドラマにもなりゃしねぇ」 「……君に私の、何が判るって言うのよ」 「あんたが判るって言ったんじゃないっすか。俺とあんたは似てるって。そんな将来、あんたみたいな女に受け入れられるはずがない。絶対に後悔する。てか、本当はもうしてんじゃねぇか!」 「……私だったら」 初めて手を止めた宮沢りょうは、冷やかな目で晃司を見上げた。 「どうでもいい他人を追って、そもそもこんな場所まで来てないと思うけどね。ねぇ? 後悔のない人生なんてあると思う? それが予め判断できる人なんている? どんな道を選んでも後悔する人は際限なくするし、しない人は絶対にしないものよ」 「あんたが、後者だとでも言うんですか」 「そうやって今まで生きてきたわ」 「それはあんたが強いからじゃない」 見えない何かに衝かれたように、晃司は声を荒げていた。 「あんたが弱くて、後悔する勇気さえないからじゃねぇか!」 初めて、整いすぎた女の眉がわずかに歪んだ。 「わかんないなら、今度は俺が教えてやるよ。過去や現実を見る度胸さえない奴はな、そもそも後悔の土壌にすら上がってねぇんだよ!」 氷より冷やかな沈黙があった。 憎悪より凄まじい白い焔が、対峙する女の双眸で揺らいでいる。 その焔が、晃司の中の凶暴な何かを再び煽りたてていた。 「……言ってくれたわね」 「……もう、失うものは何もないからな」 2人は互いに睨みあったまま、微動だにせずに立っていた。 外から、人の声と車の音が近づいてくる。 |
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