自席についた果歩は、財布の中から一枚の名刺を取りだした。 帝王ホテルオーナー 松平帝 帝王ホテルといえば、日本で最も権威のある老舗高級ホテルである。 その肩書が詐欺ではないことを示すように、厚みがある名刺には、見事な金刺繍がほどこされていた。押し花風の花まで織り込まれて、ここまで金をかけた名刺を見たのは、果歩にしても初めてだ。 (君は僕のことを、妹から聞いてはいませんか?) (香夜の兄です。改めてはじめまして。君のことは、妹からよく聞いていますよ) ―― 香夜さんの、お兄さん……。 旅行帰りだったあの日、駅構内の喫茶店で向き合った男―― 松平帝は、年の頃は三十代中ほどに見えた。 すらっとした長身で手足が長い。そして、絵に描いたようなハンサムな顔をしている。 美形、というより凜々しい顔立ちだ。顔の輪郭や顎が角ばっていて、首や肩にも逞しい厚みがある。 彼は一度も好意的な微笑みを絶やさず、また、果歩から一度も目を逸らさなかった。 オッドアイ……。 よく見れば、帝の両眼は微妙に色合いが異なっていた。 右目の光彩は漆黒だが、左目がやや鳶色がかっている。 「今日は、瑛士に確認したいことがあって灰谷市くんだりまで車を飛ばしてきたんです」 不思議な目の輝きを持つ男は、突然現れた理由をそんな風に切り出した。 「僕より早く、妹が手を回したようですね。瑛士なら東京でしょう。あるいは、もう、二度とこちらへは戻って来られないかもしれませんよ?」 「まさか……」 そんなことをいう男の真意が判らず、果歩はただ困惑して苦笑した。 「妹さんと、何かあったのですか」 「そのようですね。僕もはっきりしたことは判らないんですよ。だから瑛士に事情を聞こうと思いまして」 しらっと答える帝を、ますます不思議な気持ちで果歩は見つめた。 判らないって―― だったら妹に電話の一本でもしてみればいいのに。 が、判ったことが一つだけあった。 やはり藤堂は、香夜絡みの理由で東京に帰ったのだ。 それは、旅行の途中、大慌てで向わなければならないことだったのだろうか。 が、果歩の問いに、帝は微笑するばかりで、何一つ具体には答えてはくれなかった。 「あの……私、帰ります」 駅構内の、どこにでもあるような喫茶店。店内は休日で込み合い、誰もがこの店に不似合いな客を注視していた。 頭の先からつま先まで外国のブランドで身を固め、甘いフレグランスの香りを漂わせている伊達男―― 片や果歩は、旅行帰りのくたびれた顔と服のままである。 「遅くなると家の者が心配するので失礼します。申し訳ないんですけど、藤堂さんのことなら、私には何も判りませんから」 たまらない居心地の悪さを感じながら、果歩は急いで立ち上がった。目の前の男からは、果歩がこの世で最も苦手とする匂いが漂っている。 裕福で贅沢な暮らしに慣れた人間の匂い―― 8年前から、果歩が最も不安を覚える匂いである。 家まで送りましょうと言う男の申し出を、果歩は頑なに断った。 「うーん、僕を警戒しているようだ……。お気持ちは判りますが、あまり僕を邪険にしない方がいい。脅しじゃないですよ。僕が、あなたのお役にたつという意味で」 何故だかその言葉が、その時の果歩にはトドメだった。 自分の分の支払いを置いて、急いで店を出た果歩を、男は思わぬ身軽さで追い掛けてきた。 「お願いだから、そんなに僕を畏れないでください」 果歩を腕を引き、自分の方に身体を向けさせながら、熱を込めた口調で帝は言った。 「今日の僕の目的は瑛士ではなく、むしろあなたと友人になることでした。その意味は、後日お判りいただけると思っています」 そうだろうか。相手が香夜の兄なら、果歩にはいわば敵である。 どんな言葉も優しさも、裏があるとしか思えない。 その感情が伝わったのか、松平帝は、困ったような笑顔を人好きのする顔に浮かべた。 「この名刺は特別で、いわば僕に会うための免罪符です。これを見せれば、あなたはどんな場所にも入ることができる。困ったことがあれば、どうか僕に電話してください」 果歩に名刺を押し付けると、帝は囁くように続けた。 「忘れないで、的場さん」 (―― 僕は、君の味方なんです。いわば白馬の騎士(ホワイトナイト)として、君を助けにやってきた。それを絶対に忘れてはいけない) 「…………」 回想を切りあげた果歩は、微かに息を吐いて、豪華な名刺を机の上で裏返した。 結局棄てられなかったのは、自分の中にも、最後にはこの人を頼ることになるのかもしれないという自信のなさがあったからだ。 ――本当は、あまり関わらない方がいいんだろうな ……。 あまり思い出したくないが、8年前にも、同じようなことがあった。 8年前も、いかにも味方のような顔をして、果歩に近づいてきた男がいた。 その人は、真鍋雄一郎の叔父にあたり、あたかも果歩と雄一郎の仲を取り持つような口ぶりで接近してきた。そして、果歩は罠に嵌められたのだ。 あの時、吉永冬馬の口車に乗ってパーティにさえいかなければ――その後の真鍋市長の怒りも随分違ったものになっていただろうし、真鍋麻子を欺すこともなかった。 今でも、吉永の真意は判らないままだが、写真を隠し撮りされた経緯からして、市長に2人の関係を暴露したのは、吉永だったに違いない。 ――信じては、ならない。 果歩は自分に言い聞かせて、帝の名刺を引き出しの中にしまい込んだ。 資産家の跡継ぎである藤堂の周辺には、沢山の利権や陰謀が渦巻いているに違いない。8年前も果歩は利用され、おそらくは雄一郎の足枷にされた。今度も、そうならないという保証は何もない。 でも―― 「藤堂君が休み? 珍しいこともあるもんだな」 「実家で何かあったんじゃないですかねー。ほら、旅行中に、電話がかかってきたみたいだし」 計画係のひそひそ話を耳にしながら、果歩は気鬱な溜息をついた。 関わるべきでないことはわかっている。しかし藤堂と連絡が取れない以上、 果歩には、この名刺の人だけが頼りなのだ。 ************************* 「ん? 果歩? どした?」 電話から聞こえる友人の声は、普段と何一つ変わってはいなかった。 「あ、あー、りょう?」 むしろ果歩が狼狽して、声を上ずらせてしまっている。 この時期の人事課の忙しさを知っている果歩は、うっかり勤務中に電話してしまった自分を叱咤したい気分だった。 「ごめん、仕事中に。今日、お昼一緒にどうかなって思ってさ」 「あー、無理。今日はちょっとたてこんでてさ」 即答。 潔いりょうの性格を知っている果歩には、もう何も言えなくなる。 それでも、どこか気がかりだったりょうの普段通りの態度には、少しだけほっとしていた。 見合い話は流れたようだが、りょうの実家が、依然経営難であることだけは間違いない。 どこか、いわくありげだったお兄さんとの関係といい、りょうはまだ、不安要素を沢山抱えているのである。 「じゃ、また掛けるから。忙しい時にごめんね」 「こっちこそ悪いわね。落ち着いたら、またこっちから電話するから」 ――りょうとは、また話さなきゃな。 深刻度でいえば、間違いなく自分よりりょうの方が上だ。 電話を切った果歩は、藤堂のことしか考えていない自分を溜息と共に反省した。 ************************* 「おたくが、藤堂係長か?」 「はい?」 南原の背中が戸惑っている。 顔をあげた果歩は、カウンター、南原の肩越しに見える禿頭の男に視線を止めた。 翌日――火曜日。 何一つ状況が好転しない午後。総務課にやってきたいきなりの来客に、たまたま缶コーヒーを買って戻って来た南原が捕まってしまったようだった。 「はい、じゃないだろう。おたくが藤堂さんかって、そう訊いているんじゃないか、こっちは!」 と、いきなり男のテンションが上がった。 総務の全員があたかも昼寝から目覚めたように、その一瞬顔を上げる。 が、ただちに全員の目が、何事もなかったかのように元の場所に向けられた。 役所にありがちな、クレーマー気質の客人の登場である。 本庁――しかも総務課に、一市民など滅多にやって来ない。 が、稀に、こんな厄介な客がやってくることがある。 端から公務員を敵視して、喧嘩腰で挑んでくる輩――もしくは、しょせん弱腰の公務員を恫喝することに慣れた輩。 はぁっと、南原が、露骨に嫌味な溜息をついた。 たちまち禿頭の男が顔色を変える。 「おい、なんだ、その横柄な態度は。それが市民に対する態度なのか?」 「藤堂なら、今日は休みを取ってますよ」 「今は藤堂の話をしているんじゃないだろう。お前の態度のことを言っているんだ、お前の」 「だからー、藤堂なら休みだって言ってるでしょ」 ――な、南原さん、最低……。 果歩はひやひやしながら、聞かない振りをし続けていた。 元区役所出身とは思えない、絵に描いたような最低の接遇態度。まるで、公務員倫理研修ビデオの「悪例」そのものを見ているようだ。 案の定来客の男は、相当頭にきたようだった。 「休みがどうとか、そういう問題じゃないだろう。おい、コーヒーを下ろせ。公務員が勤務時間に買い物なんて許されるとでも思っているのか」 「ああ、これね。冷蔵庫から取ってきただけですよ。もちろん、公務員が勤務中に買い物なんてとんでもない話ですから」 「おい、なんて口のききようだ。なめてるのか、お前!」 「人をお前よばわりする相手に、そんなこと言われたくありませんね!」 さすがに果歩は顔を上げたし、はす向かいの大河内主査も視線だけをカウンターの方に向けている。 相手も相手だが、南原も南原だ。というより今は八割南原が悪い。昨日からずっと機嫌が悪かったのは知っていたが、それにしても―― 「お前じゃ話にならない。上を呼べ。そうだ、市長だ、市長を呼べ」 「ああ、市長なら10階ですよ。会いたきゃ自分で行ってください」 「何ぃ?」 「うー、アホン、オホン」 奇妙な咳払いをしながら立ち上がったのは、計画係の中津川補佐だった。 もちろん、この場合、間違っても市長室などに行かせてはならない。電話の一本でもかけられたら最後、南原だけでなく春日次長、志摩課長まで来春を待たずに局外に飛ばされる。 どれだけしつこいクレーマーでも(今回の場合、明らかに南原に非があるが)、最低、課長までで止めるのが市職員の常識である。 いや、課長以前――課長補佐で止めるのがよりベストな選択だ。ここで、課長補佐をすっとばして課長が応対するようでは、課長補佐の立場がない。どころか、補佐としての勤務評価に響きかねない。 そんな葛藤を感じつつの、中津川の「アホン、オホン」だっただろう。 実際、火がついたクレーマーの応対ほど厄介なものはない。中津川には、まさに災難としか言いようがない展開だったが――。 「申し訳ありません。2時にお約束の、百瀬様ですか」 聞き慣れたぼそぼそとした声に、果歩は眼を剥いていた。 「私、総務課長の志摩と申します。部下が大変失礼致しました」 山、動く――。 いつも課長席から動かない志摩が、いつの間にかカウンターに立っていた。 おそらく総務課全員が、その刹那、果歩と同じ表情をしたはずである。 「かっ、課長、何も課長自ら出られなくとも」 蒼白になった中津川が甲高い小声で言った。それに構わず、志摩は続ける。 「お電話では説明が半ばになりましたが、藤堂なら、今日は休みを取らせていただいております。どうぞ。お部屋をご用意しておりますので、そちらでお話をおうかがいしましょう」 これぞ、公務員倫理研修の「お手本」である。 しかし、そこで感心する以前に、ある二つの点で、果歩の思考は止まってしまっていた。 まずは、志摩が男を「百瀬さん」と呼んだこと。 そして百瀬という男の目的が、藤堂だったことである。 「本当に、藤堂とか言う男は休んでいるのか」 「休暇届をだして、2日ほど休みを取らせていただいています」 「嘘を言ったら承知せんぞ! こっちは、昨日からずっとあの男を探しまわっているんだ」 胸の中で、得体の知れないものがざわざわと揺れた。 百瀬って、……そんなにある名前だろうか。 もしかして、あの人は乃々子のお父さん? それで、藤堂さんを探しまわっているって――。 志摩が、来客をいざなうようにして次長室に消えた。局次長の春日は在席――ということは、この来客対応は、志摩と春日の2人で行うということだ。 よほどの重要案件でなければ、そういった対応は、まずしない。 ――どういうこと……? 一体、何が起きているの? 「……いやぁ、まさかと思ったけど、本当だったんだ。百瀬さんのお父さんが、役所に怒鳴りこんできたって話」 「え?」 口を開いたのは、計画係の谷本主幹だった。 全員の注目を集めた谷本は、困惑したように言葉を継いだ。 「実は、昼前に住計の連中から聞いたんだ。役所をやめさせるとかやめさせないとか、なんだかすごい剣幕で怒鳴りこんできたらしい」 「百瀬さんって……」 禿頭の親父を見送った南原が、眉を寄せながら振り返った。 「昨日、今日と休んでるだろ? 旅行中に何かあったのかよ」 その質問は果歩にされたようだが、それを聞きたいのはむしろ果歩の方である。 「未成年じゃあるまいし、父親が怒って怒鳴りこんでくるなんてよっぽどだよなぁ。父親が怒るとしたら、男絡み……」 谷本が呟き、全員が、そこでぴたっと口を噤んだ。 男絡み――今、まさに乃々子の父親が探している相手が、藤堂ではなかったか。 「ま、まさか、あの係長に限ってそんな」 「でも、よく考えたら、2人一緒に消えましたよね。旅行の最中」 「しかも、さらによく考えたら、2人揃ってここ2日休んでないか?」 しん……と、今さらのように静まり返る総務課執務室。 「まさか――駆け落ち?」 「あり得ないでしょ。それ、いつの時代の発想ですか!」 「しかし、あんな怖そうなお父さんがついているんじゃ――」 果歩はただ、濁流のような動悸を感じながら固まっていた。 違う。そうじゃない。藤堂さんが消えたのは、乃々子のためではなく、十中八九、香夜さんに呼び出されたからだ。 でも何故? 何故このタイミングで、乃々子まで休みを取っているんだろう。 そしてどうして、乃々子の父親と思しき人が、ものすごい剣幕で藤堂さんの行方を探しているんだろう。 「……もう……、終わりだ……」 その時、背後で老人のうめき声が聞こえた。 ぎょっとして振り返った果歩の視界に、老人――もとい、旅行以来、謎の廃人化現象が進行中の水原の背中が飛び込んでくる。 「み、水原さん?」 旅行以来、空気より見えない存在になっていた水原は、何故だか幽鬼みたいにふらふらと立ち上がった。 「もうだめだ……もうおしまいだ……、バレたんだ、……絶対そうだ」 「ど、どうしたんだよ、お前」 南原が訝しげに声を掛ける。 「どこか、身体の具合でも悪くしているなら、休みをとってもいいんだぞ」 中津川も、心配顔で水原の傍に歩み寄った。 一体水原に何があったのか。昨日、今日と、心ここにあらずといった感じでぼやっとしている新人職員に、総務の誰もが不審を感じている。 と、いきなり水原ががばっと果歩を振り返った。 「的場さん!」 私? 水原の剣幕に、果歩は慄いて瞬きをする。 「と……」 ――と? 唇をわななかせながら呟いた水原の頬に、何故だか涙が一筋零れた。 「おい、的場さん! あんた一体何やったんだよ!」 「的場君! どうやら原因は君だったようだな!」 愕然とする果歩を除いて、騒然とする総務課の面々。 その中で、水原は両手で顔を覆ってすすり泣いている。 「ちょっ、わ、私は何もしてないですよ!」 果歩は大慌てで否定したが、既に全員が、果歩を疑惑の目で見つめていた。 「まさか、旅行の幹事のことで、何かきついことでも言ったんじゃ……」 「案外、性格の歪んだところがあるからな」 ひ、ひどい。 全くの言いがかりに、言葉も出ない果歩である。 「ち……違うんです」 その時、すすり泣きの中から、水原がようやく口を開いた。 「ま、的場さんが悪いんじゃありません。ま、的場さんはむしろ、可哀想な人なんです」 ――はい? 可哀想な人? 驚く果歩の前で、水原は涙で濡れた顔をあげた。 「どうしてこんな時に、藤堂係長は休みを取っているんですか」 ――え……? 訴えるように言った水原の目に、新しい涙が浮かんで零れた。 「百瀬さんは、いいと言ったけど……僕は……」 ぐっと拳を握りしめる。 「僕は、どうしても許せません!」 激しい怒りのこもった目で、水原は空席の係長席を睨みつけた。 「百瀬さんが大変な時に東京なんて、それじゃ、逃げたも同然じゃないですか。百瀬さんのお父さんが怒るのも当たり前です。卑怯です、最低です。僕はもう、――係長の顔も見たくありません!」 ************************* 「宮沢なら、もう帰りましたよ」 「え、そうなんですか」 午後7時。人事課では殆どの職員が残って仕事をしているようだったが、確かにりょうの姿はどこにもなかった。 珍しいな、りょうがこんなに早く帰るなんて……。 落胆した果歩は、肩を落とすようにして歩き出した。 ――りょう、どうしよう……。 なんだか、とんでもないことになっちゃったの。 そんなこと、絶対にないと思うんだけど、藤堂さんが。 再び疑念にとりつかれそうになった果歩は、ぶるっと大きく首を振った。 ――違う。 そんなこと、絶対にあり得ない。 (も、百瀬さんは、に、妊娠しているんです) (僕は、自分の耳で2人が話しているのを聞いたんです。それ、間違いなく藤堂さんの子供なんです!) いくら動顛していたとはいえ、水原が滑らした盗み聞きの余波は大きかった。 そして、いくら義憤にかられていたとはいえ、決して言ってはならないことだった。藤堂のためではなく、乃々子の名誉のために。 即座に中津川が全員にかん口令が敷き、水原は別室に呼ばれて厳しく叱られたようだった。 が―― 人の口に戸は立てられず、想像の翼は際限なく広がっていくものである。 乃々子が藤堂に熱をあげていたのは、局ではある種公然の噂だったし、その藤堂と2人で旅行先から消えたことも、既に事実として広がっている。 それから2日、2人は同じように連絡を断ったまま休みを取り、乃々子の父親が血相を変えて藤堂を探しまわっているのだ。 (まさか、あの藤堂君と百瀬さんが……) (藤堂君には、なにやら婚約者がいるような節もあったし、一体どういう話になっているのかね) (百瀬さんがデキ婚なんて、大ショックだよ。最近の彼女可愛くて、俺、ファンだったのになぁ) もちろん、そのひそひそ話は、果歩が姿を現した途端にぴたっと止んでしまう。 誰もが果歩に気を使って、気の毒がっているのは明らかだった。 しっかりしなきゃ。 果歩は、くじけそうな自分に言い聞かせた。 そんなこと、あるはずがない。 謎は深まるばかりだが、藤堂失踪の影に香夜がいることだけは間違いないのだ。断じて乃々子のせいではない。 (確かに2人は話していたんです。藤堂さんも、間違いない、僕の子供だから、2人で一緒に灰谷市に帰ろうって言ってました。それから、課長には自分がきちんと説明するからって) じゃあ、水原君のあの話は、誰の話……? (藤堂係長は逃げたんです。だから百瀬さんはショックを受けて休んでいるとしか思えません。ぼ、僕、日曜の朝に百瀬さんに電話をしたんです。心配だったから――そしたら、大丈夫だって。妊娠の話は本当で、これから、色んな噂が立つと思うけど迷惑かけてごめんな……) そこで声を詰まらせた水原は号泣し、後はどうにもならなくなった。 違う。 果歩は懸命に自分を励ました。 藤堂さんは香夜さんのために東京に帰ったんだ。そこに乃々子は関係ない。 何かの間違いに決まっている。 が、そう思う端から、黒雲のような疑惑が首をもたげてくる。 じゃあ、水原君の話は何? 彼1人が幻をみて、そして1人勝手に思い込んでいるということ? そんなことって、あるのだろうか? 突然、くらくらっと眩暈のようなものが果歩を襲った。身体が冷たくなって動悸が早くなり、立っていられないような――大声で叫び出したいような、おそらくは一種のパニック状況に見舞われた。 ――落ち付いて…… 果歩は、大きく深呼吸して、懸命に自分に言い聞かせた。 明日になれば、判ることじゃない。 明日になれば、何もかも判る。藤堂さんはいつも通り出勤してきて、何でもない顔で笑うだろう。 なんだ、それは誤解ですよ。実はですね―― 衝動的に果歩は顔を押さえ、薄暗い非常階段の踊り場、その場にしゃがみこんでいた。 だったら、どうして電話に出てくれないの? どうしてその一言を、今の私にくれないの? 果歩は、握り締めたままの携帯を見つめる。 もうこちらから掛ける勇気は果歩にはなかった。藤堂からの着信は――相変わらず、一切、ない。 ************************* 「どういうことなんですか。なかったことにしてくれって」 言葉を切ったりょうは、眉をひそめなら携帯電話を持ち直した。 「すみません、石川議員に代わっていただけますか。直接お話しがしたいので」 「それは、申し訳ございませんが、できかねます」 携帯からは、困惑気味の公設秘書の声が返された。 周囲をはばかっているのか、ひどく小声だ。 「お言葉を返すようですが、訴えると仰られたのは、石川議員の方ですよ」 逆に、りょうは声を高くした。市内の商業ビル内のレストラン。個室仕様の客席は、多少の声なら隠してくれる。 「何も私は、議員を脅すつもりでお電話しているんじゃないんです。こちらは弁護士をたてますから、もう一度話し合いをしたいと言っているだけじゃないですか」 足を組み直しながら、りょうは言った。同時に腕時計に視線を落とす。午後7時15分。その弁護士との約束の時間まであとわずかだ。 「宮沢さん」 相手の声が改まった。 「申し訳ありませんが、この件は、これまでということでよろしいでしょうか。議員も酒の席の出来事だということで、記憶も曖昧なようですし」 「はぁ?」 ありえない言い草に、りょうは耳のあたりを指で掻いた。 あれだけ毒を吐いておいて、しかも、見知らぬ男に殴られながらも――よりによって、記憶が曖昧? まさに、政治家の言い訳そのものだ。 「繰り返しになりますが、くれぐれもこの件は、口外なさらないでください。それが、双方のためだと思われますので」 そこだけ高圧的な口調で言うと、電話は一方的にガチャリと切れた。 ――どういうこと? 一番の難問が、こうもあっさり片付くとは思えなかった。 肝心の張本人(前園晃司)は動く気配もない。だから弁護士をたてて、徹底抗戦の構えをみせ、相手に脅しを掛けようと思っていたのだが――。 「やぁ、待ったかい?」 爽やかな声がして、個室の扉が開かれた。 「少しね。先にいただいているわ」 りょうは微笑して、グラスを眼の高さにまで持ち上げた。 「いやぁ、舞い上がるなぁ。宮沢さんからのお誘いなんて、僕は天まで登っちゃいそうだ」 「用件は伝えたはずだけど?――ビジネスよ。神野さん」 「朝まで一緒にいてくれたら、料金なんかいらないよ。素敵なクライアントさん」 「ふふ……」 と、笑いながら、りょうは両手に鳥肌がたつのを感じていた。 自分がイケメンだと思い込んでいる男はこれだから性質が悪い。今の言葉の寒さが、自分じゃ判っていないのかしら。 「実は、車を新調したんだ」 「素敵ね」 何が「実は」なのか、意味が判らないと思いながら、りょうは微笑んだ。 「黒のレジェンド……最高級の仕様さ。どうだい、このあとドライブでも」 「考えてみるわ」 男としては残念な部類だが、弁護士としては優秀であることは間違いない。りょうはグラスを置いて、居住いを正した。 「それで、うちの旅館の正確な負債状況だけど、調べてもらえたかしら」 「ああ――その件だけどね。マティーニを」 この後ドライブでも、と言ったくせに堂々とアルコールを頼む同級生の弁護士を、りょうは冷めた目で見上げて微笑した。 神野は顎の前で指をあわせ、韓流スターのようにもったいぶって微笑んだ。 「大丈夫だよ、お姫様」 「は?」 続く寒波を想像したりょうは、両腕を抱いて身構える。 「君が心配する必要は、もう何もないようだ。――負債はゼロ。メインバンクだったやすらぎ銀行に対する23億円の負債は、驚くべきことに、月曜の午後の決裁で一括返済されている。つまり、昨日のことだよ」 「…………」 りょうは眉をひそめながら、神野から報告書の入った封筒を受け取った。 「メインバンクを変えたということかしら?」 「――おそらくね。やす銀が債権を譲渡した形跡がないから、別の融資先を見つけたとしか思えない。地元の名所だというから、どうしても残したいという声があったんじゃないかな」 そんな手が打てるなら、あのプライドの高い兄が、私を見合いの席に引きずり出すだろうか。しかも、それが土曜のことで――月曜には借金の返済がなされている? あり得ない。 「新しい融資先は?」 「今、調べさせているが、どうやら外資系バンクらしいね。表向きは、都市銀の一ツ星JK銀行が新しいメインバンクになっているが、一ツ星の裏には、別の外資が絡んでいる。そこは、これからの調査を待ってもらいたいな」 外資――しかも、一ツ星と関連がある企業。 「通常、外資ファンド、いわゆるハゲタカファンドが絡むと、企業は大幅な改革を余儀なくされる――社長交代や経営陣の撤退がいい例だけど、君の旅館に関してはそれもない。あれだけの融資を受けながら、以前のままの経営陣――それも、問題かもしれないが、結論を言えばそういうことだ。銀行の上層部によほど懇意にしている人物がいるか、もしくは強力な口利きでもあったんじゃないかな。君が知らないだけで」 「…………」 「で、もうひとつの件はどうなった? 君の友人が、暴力沙汰に巻き込まれたという話だけど」 「…………」 「宮沢さん?」 深い思考に陥りかけていたりょうは、はっとして顔をあげた。 「ああ、それはもう解決よ。今のところは、だけどね」 そうか――そっちも、……そういうことか。 「よかった。これで君のナーバスな顔を見なくて済むね。何を頼もう、今日は君の好きなものをなんでもご馳走するよ」 うきうきとメニューをめくる神野を尻目に、りょうは唇に指を当てていた。 もしかして藤堂君? でも、どうして? 果歩が言うはずがないし、――そんな時間的余裕があったようにも思えないのに……。 |
>>next >>contents |