―――――――――――――――― 「誰だ? こいつ」 見渡す限りの視界に広がる、目を射るほどの華やかな色彩――。 二宮家の周囲を囲む形で作られた庭園には、7月――初夏の花々が秩序を持って咲き乱れていた。 実際、迷子になりそうなほど、この家の庭園は広大で、様々な趣向に満ちている。 迷路のような複雑な形をした低木の小路。 随所に建てられたギリシャ風の円筒系の建物。人口滝に、人口の池。 南には巨大な温室があり、西には建物自体がガラス細工のように美しい、ゴシック調の塔がある。 中央と両サイドには、プールとも見まがう大きさの噴水が、今日も陽光を受けてきらきらと輝く水を飛散させていた。 その日――瑛士が呼びとめられたのは、円筒状の建物の傍を通り過ぎようとした時だった。 誰もいない庭園を1人歩きするのに慣れっこになっていた瑛士は、少し驚いて振り返った。 柱と屋根だけの円筒状の建物――片倉はそれを、テムプルと呼び「古代神殿をコピーした建物です」と教えてくれたが、そこに、3人の少年少女の姿があった。 1人が立ち上がり、1人がベンチに寝そべり、もう1人がそのベンチに行儀よく腰かけたまま、それぞれの表情で瑛士を見つめている。 「俺の弟……」 ベンチで寝そべっていた美少女――いや、少年が、物憂げに半身を起こした。 「帝さん、会ったことなかったっけ。こいつが新入りの後継者候補だよ」 さらっとした髪を指で払い、淡い珊瑚の唇には、彼の特徴でもある他人を見下げた冷笑を浮かべている。 あの雨の日に出会った天使――もう、瑛士はその人の名前を知っている。 二宮修哉。 瑛士にとっては、2歳年上の義兄である。 「弟?」 その傍らに立っていた、猜疑心の塊みたいな目をした少年が、驚いた声をあげた。 「こいつが? 修哉の弟だって?」 彼だけが制服姿で、エンブレムの入ったシャツにタイを締めている。背が高く体格もがっしりしているから、高校生くらいだろう。光の加減か、左右の眼の色が少しだけ違って見えた。 「おおい、修哉……」 しかし、不審者でも見るようなその少年の目つきは、傍らの修哉に向けられた途端、溶けるように優しくなった。 「いつからお前に、こんな大きな弟ができたんだ? 驚かせるのもほどほどにしろよ」 「頭だけはいいよ」 修哉はその眼差しを、鬱陶しそうに切りすてた。 明らかに自分の方が年下だろうに、まるで目下の者をあしらうような横柄な態度である。 「少なくとも帝さんよりは確実にいい。香夜とは――いい勝負かな」 「そんな言い方をするのはよして」 くすくすと、その修哉の隣に座る、可愛らしい少女が口を挟んだ。 白いレースのリボンで髪を飾り、その髪は、まるで西洋人形みたいに可憐なウェーブを描いている。レースとフリルがふんだんについた薄桃色のワンピース。これほど愛らしい少女を、瑛士は今まで見たことがない。 が、その美貌は、隣立つ少年の前では、なんの意味も持たないほどに霞んで見えた。 唇に愛らしい指をあて、喉を鳴らすよう笑いながら、少女は続けた。 「修哉さんも意地の悪い方。帝兄さんは嫉妬深い性質だから、今の言葉だけで、きっとこの子をいじめるようになるわ」 「煩いぞ、香夜」 むっとしたように帝が妹を振り返る。 「お前は黙ってろ。後継者候補でもないくせに」 「あら、女でもチャンスがあるとおじさまはおっしゃっておられたわ。お兄様より私のほうが、間違いなく可能性があると思うけど?」 「女とか――そういう意味で言ってるんじゃない」 何故かその刹那、帝がうろたえたように見え、瑛士には、この2人の兄妹関係がさほどいいものではないと理解した。 そして、帝という少年が、年の割には子供じみた性格だということも。 「瑛士様」 背後から、不意に声を掛けられたのはその時だった。 片倉である。 その日、瑛士は片倉と2人で転入先の学校を訪ね、今はその帰り路だった。 片倉が、本殿に住む二宮家の当主に報告に行っている間、瑛士は1人で庭園を散策することにしたのだ。この家の何もかもが、まだ瑛士には馴染めなかったが、美しい謎と仕掛けに満ちた庭園には、ひどく興味をそそられたからだ。 瑛士に追いついた片倉は、まず3人の子供たちに丁寧に一礼し、次に瑛士にそっと囁いた。 「……ご挨拶を。もうご存じかと存じますが、先日お会いになられた脩哉様。御親戚の松平帝様、その妹の香夜様でございます」 「瑛士です。よろしくお願いします」 言われるまでもなく、相手の察しはついていた。片倉に促され、瑛士は控え目に一礼した。 答えるものは誰もいない。帝はいかにも面白くなさそうな顔をしていたし、香夜はからかうような目で笑っている。それは、決して好意的な笑みではない。 修哉は――相変わらずベンチに仰向けになったまま、髪を指で絡め取り、空の方に目を向けていた。 予想はしていたが、想像以上に自分が歓迎されていないのはよく判った。 それも無理はない。この、いかにも育ちがよくプライドの高そうな人と、瑛士は今後、莫大な富を継ぐ争いをしていくことになるのだから――瑛士に、その気がないとしても。 「名字は?」 きびすを返そうとした瑛士の背に、冷たい声が掛けられた。 「お前の名字……フルネームで名乗れよ。それとも礼儀を知らないのか」 瑛士が振り返ると、いかにも大儀そうに、修哉が身を起こすのが見えた。向きなおった修哉は、美しい唇に冷笑を浮かべ、瑛士を見上げた。 「名乗れよ。フルネームだ。お前のママは、その程度の躾もしてくれなかったのか」 片倉が無言で背後に下がる。 そうか、と瑛士は思った。 今が、片倉の言った『できないこと』なのだ。 (――よいですか。当主の座を賭けた試練の場では、何が起ころうと、私に瑛士様のご助力はできません。たとえ、瑛士様のお命が危うくなろうとも、です) 当主の座を賭けた試練の場――今を、そうだというのなら。 「仕方ない。片親だ」 腕を組み、苦笑しながら口を挟んだのは帝だった。 「躾もそうだが、まともな教育さえ受けていないのさ。思い出したよ。亡くなられた和彦おじさんの隠し子だ。相手は確か、水商売の女じゃなかったか」 「ひどい言い方。相手は1人でお店をやっておられる立派な方だという話よ」 くすくすと笑って香夜が口を挟む。 帝は、いかにも不快気な顔になった。 「立派なものか。婚約者のいる男の子供を1人で産むなんて、まともな教育を受けた女のする選択じゃない。お母様が言っていたじゃないか。しょせん財産目当てだと」 「あら、でも財産分与は拒否されたのでしょう」 「それでも、結局息子を送り込んだ。同じことさ」 自分の心の中に握りこんだ見えない拳が、どうしようもなく震えるのを瑛士は感じた。 自分はどう罵倒されようと構わない。が、母親のことだけは――自らの人生の全てを息子に注いでくれた彼女を侮辱することだけは絶対に許せない。 「名乗れよ」 畳みかけるように、修哉が言った。 圧倒的な存在感――帝も香夜も、修哉の前ではただの僕のようだった。そして、ただ立っていることしかできない瑛士自身も。 「お前の名前だ。大きな声で、正確に、はっきりと名乗ってみろ!」 瑛士は無言で、兄となった人を見た。 どうしてあの日、全てを忘れるほどこの相手を美しいと感じたのか――それが幻であったかのように、今、瑛士の目の前にいるのは、底意地の悪さを隠そうともしない残酷な眼をしている 「おい、どうした、口がないのか?」 「もうっ、お兄様も修哉さんも、意地悪がすぎましてよ」 兄妹の嘲笑を耳にしながら、不思議な冷静さが、瑛士の中に戻りつつあった。 怒りを剥きだしにすることも、反撃することも、ここで選択すべき最良の方法ではない。 「二宮瑛士です」 瑛士は、修哉から目を逸らさないまま、新しく自分のものになったばかりの名を名乗った。 その瞬間、自分の中を駆け抜けた葛藤は、顔にも声にも決して出していないつもりだった。 出せば、それは、この相手への負けを意味する。 すでに、後継者争いのための戦いは始まっているのだ。おそらく、あの雨の日に、初めて会った瞬間から。 「そうだ、それでいい。お前は二宮瑛士……悪夢のようだが、この俺の弟だ」 唇に薄い笑いを浮かべ、修哉は瑛士の傍に歩み寄って来た。 体臭なのか、香水なのか、甘い匂いが鼻先を掠めた。 近づくと、わずかに自分の方が背が高いと判る。 いや、年にしては、修哉はひどく小柄だと言ってよかった。肩や首など驚くほど華奢で、触れれば溶けそうなほど白い肌をしている。 そして、肩にかかるほどの長い髪――男なのに、髪をこうも長くしているのは何故だろう。ただでさえ、男に見えない外見をしているのに―― 気づけば、造り物のような美しい顔が目の前にあった。 「間違っても、俺に恥をかかせるな。お前の生まれや育ちのことはどうでもいい。お前という人間の本質の部分で、俺に恥をかかせたら許さない」 その峻烈な言葉の意味を、瑛士が逡巡している間に、とん、と修哉に胸を突かれた。 軽く、触れられただけのような気がしたのに、どうしたわけか瑛士は無様によろめいていた。 あっと思う間もなく、修哉に腕を取られている。ふっと身体が空に浮き、息が詰まるような衝撃と共に、瑛士は地面に叩きつけられていた。 弾けるような香夜の笑い声と、帝の口笛。 何が起きたか判らない瑛士は、ただ呼吸を求めてみっともなく口を開いた。 「弱いな、お前」 苦しさから咳き込んでいると、蔑みを帯びた笑い声がした。 (それじゃ帝さん以下だ。まずは身体を鍛えるんだな。ウドの大木) 「――瑛士さん?」 香夜の声が、瑛士――藤堂を現実に引き戻した。 あれから16年経った、修哉の消えてしまった世界に。 ************************* はっと、現実に立ち戻った藤堂は瞬きをする。 緩やかに流れるラフマニノフ。そして部屋全体を覆う雨音。 ――そうか、ここは灰谷市ではない。二度と戻らないと誓った二宮の家。その中に建てられた、香夜の館だ。 「紅茶が入ったわ。どうぞ、お飲みになって」 寄り添うように隣に座った香夜が、優しい微笑みを浮かべて藤堂を見上げた。 「いただきます」 藤堂は微笑して、温かなカップを持ち上げた。 また、過去の世界に入り込んでいた――。それも全て、16年前とひとつも変わらないこの館と、そして雨の音のせいなのか。 松平香夜が後継者候補ではなく、修哉の花嫁候補として二宮家で暮らしていると知ったのは、4人が初めて会った庭園事件からほどなく経ってからだ。 が、出逢った当初から、修哉の香夜への態度は、気の毒になるほど冷淡で、残酷なほどに素っ気なかった。 いや、修哉という人は、誰に対してもそうだった。 彼を溺愛する帝に対しても、使用人や学友に対しても、修哉の態度は恐ろしいほど一貫していた。 誰にも心を開かず、自分の中に他者が立ち入ることを絶対に許さない。 修哉の美貌は、男も女も同じように魅了するほど悪魔的なものだったが、彼は、自分に好意を持つ者をより嫌い、より自身から遠ざけ、いっそ憎んでいるようでもあった。 おそらく、他人を信じられない人なのだろう――藤堂には、そう判断するしかなかった。 なのに、香夜は諦めなかった。どれだけ疎まれ、侮辱されても、修哉を慕い、後を追い、一途に想い続けた。実際――それは見ていて憐れになるほどだった。 だから、藤堂は2歳年上の幼馴染を、いつしか愛しく思うようになっていたのかもしれない。 彼女の突拍子のない行動や思考にいつも振り回され、散々な目にあわされても――それでも。 どこかで、自分が守ってやりたいと、そんな気持ちすら持つようになっていたのかもしれない。 「どうされたの」 再び、現実の香夜が微笑んだ。あれから16年――頬はいくらかすっきりしたものの、基本的にあの頃と同じ印象のままで。 「ひどく遠い目をされて、何を考えていらしたのかしら?」 「何も……」 藤堂はカップを置いて、隣の人を見下ろした。 雨は、まだ止まないのだろうか。 「久しぶりに屋敷に戻ったので、つい昔を懐かしんでいたのかもしれません。香夜さんの部屋でお茶をいただくのも、何年かぶりになるので」 「そうねぇ。瑛士さんが勝手に出て行かれたから」 香夜は楽しそうに微笑んだ。 16年前は、彼女はどれだけ優雅に笑んでも、自身が持つ闇を隠すことはできなかった。 彼女の行動も考えも、当時の瑛士にはさっぱりだったが、それでも香夜の底にある寂しさや悲しさのようなものはよく判っていたつもりだった。 今は――判らない。 去年再会した時から、香夜の心の底にあるものが、藤堂には全く判らなくなっている。 逃げるように2人が別れてから、8年。 二度と会わないことが、香夜のためだと藤堂は思っていたし、香夜もそのつもりなのだと思っていた。 なのに何故、彼女は、一度断ち切った鎖を再び繋ごうとしているのか。 「香夜さん」 「なぁに?」 藤堂は微笑して、自分の肩に頭を乗せた香夜を見下ろした。 「僕のことが、好きですか」 「ま、」 眉を上げた香夜は、すぐに相好を崩してくすくすと笑いだした。 藤堂は面喰って瞬きをする。 「何か、可笑しいことを言いましたか」 「だって、瑛士さんが、そんな甘いセリフを言うなんて」 「甘い?」 「――好きよ。大好き。そんな真面目な瑛士さんが、私は昔から好きだったのよ」 「…………」 香夜は再び藤堂の肩に、自分の頭をそっと預けた。 垣間見える横顔は、幸福そうな微笑みを浮かべている。その手が愛おしそうに撫でているのは、自らの腹部だ。気のせいかもしれないが、わずかな膨らみが感じられる。 妊娠3カ月。それが電話で告げられた結末だった。 「……名前を考えていたの」 幸福な横顔のまま、香夜は囁くように言った。 「男の子なら私……。でも女の子なら、瑛士さんに名前を考えてもらわなくちゃ。それが二宮の家のしきたりですものね」 「それは、少しばかり荷の重い仕事ですね」 藤堂は苦笑して、暗い窓の外を見上げた。 今夜の最終便で、灰谷市に戻らなければならない。そして――あの人に、告げなければならない。 自分が、決めてしまったことを。 「どうして?」 気づけば、香夜が不思議そうな眼で見上げている。 ああ――と、藤堂は、自分の失言に気がついた。 「すみません。無責任な言い方をしましたね。女の子に下手な名前をつければ、一生恨まれてしまいそうな気がしたんです。僕に、その手のセンスはありませんから」 「あら、一番、お好きな名前をつければいいのよ。たとえば――果歩さん」 香夜は邪気のない笑顔のままだった。 藤堂は黙って、そんな香夜の闇のような目を見下ろした。 「そして男の子だったら、名前はもう決めているの。――修哉さん」 「…………」 「ねぇ、瑛士さん」 くすくすと、香夜は心底可笑しそうに笑った。 「この部屋で、私たちは何度も修哉さんを裏切ったのね。今だから告白するわ。最初から、修哉さんはきっと全部ご存じだったのよ。だって、瑛士さんと過ごした後で修哉さんに会いに行くと、彼、恐ろしいほど不機嫌だったから――」 「…………」 何も答えられず、藤堂はただ視線を下げる。 香夜と修哉の間にあったであろう複雑な男女の感情は、藤堂にはまるで判らない。 当時、嫌っているとしか思えなかった香夜のことを、修哉は――愛していたのだ。その命と引き換えにするほどに激しく。 「そして私は、そんな修哉さんの顔を見るのが、愉快で楽しみで仕方なかったの。私ってひどい女ね……でも、瑛士さんの方が、きっと何倍も残酷でいらしてよ」 「……そうですね」 心の深い部分をいきなり打ちのめされたようになって、藤堂は低く呟いた。 自分にも、それと似た気持ちはないではなかった。 この部屋で、香夜と交わした秘密めいたやりとり――その動機に、修哉を欺くことへの快感めいた感情が、確かになくはなかったからだ。 降るはずもない雨の音が藤堂を包み、いつしか藤堂は――10歳だった頃の瑛士に戻っていた。 ただ孤独で、深い憎しみと憤りを、心の底に秘めておくしかなかった少年の頃に。 気づくと、香夜の手が、自身の手に重なっている。 藤堂はその手を握り締めた。 2歳年上の気まぐれな幼馴染――その実、藤堂より深い孤独と寂しさの中で生きてきた少女と、昔、慰め合うように手を繋いでいた頃のように。 「僕は、修哉の気持ちには全く気づかなかった……卑怯にも、上手く欺き通していると思っていました。その無知が、余計に修哉を苦しめていたのですね」 「…………」 香夜はそれには答えず、優しい目で藤堂を見上げた。 「私たち、決して幸福にはなれないわね。でもそれでいいの。それが一番、私たちに相応しい結末だとは思わない?」 しばらく考えた藤堂は、喉まで込み上げたある言葉を飲み込んで、言った。 「僕はそれで構いません。全てはあなたの言うとおりだった。この8年間、修哉から逃げ続けてきた僕に相応しい結末だと思います。……でも、香夜さんは」 「瑛士さん。向こうに戻られたら、きちんと的場さんと別れていらしてね」 紅茶を淹れ替えながら、やんわりと香夜は言った。 「それが的場さんのためでもあることは、もう瑛士さんもご存じなのでしょう?」 「…………」 「瑛士さんが仰れないなら、私から話しします。きっと的場さんは傷つくわね。もしかすると瑛士さんを憎むようになるかもしれない。そんな別れ方は、双方お辛いだけでしょう?」 (早く4月にならないかな) (私……私が、藤堂さんのもうひとつの車輪になります) 心の闇の中に、あの日の白い粉雪が舞っている。 藤堂は眼を閉じた。 が、そこに立っているのは、いつも瞼の裏に浮かぶあの人ではない。 雪はいつの間にか雨に代わり、12歳の修哉が、闇の中からじっと瑛士を見つめている―― ************************* 「おはようございます」 にこりと笑いかけるいつも通りの藤堂に、果歩はしばらく言葉を失ったままで立ちすくんでいた。 「土曜日から連絡できずに、申し訳ありませんでした」 水曜日――給湯室。 ポットに給湯機の湯をいれながら、2日ぶりに出勤した藤堂は続けた。 全てがいつも通りだった。横顔も、袖をまくったシャツも、少し窮屈そうなネクタイも。 果歩はようやく、妙に静かだった執務室の様子を思い出した。 いや、早朝の執務室が静かなのはいつものことだが、挨拶をしても南原は返事もせず、いつも早い志摩課長も、難しい目で腕を組んでいる。 それどころか、行き交う他課の職員でさえ、どこか果歩と目が合うのを避けているようだった。 「……どうされたん、ですか」 果歩は、なるべく普段通りに言った。 「旅行から急にいなくなるし、2日もお休みするし、……吃驚しちゃいました」 今、この総務課で、藤堂は時の人だ。 自分の不安より、藤堂が今、この局でどういう目で見られているか――そう思うと、なんだか胸が重苦しく塞がれるようでもある。 それが誤解なら、一刻も早く解いてあげたい。なのに、乃々子の名前が、どうしても口から出てこない。 「ええ……」 藤堂の横顔は微笑していたが、それはどこか他人行儀にも見えた。 「実家で少し。……的場さん、実はその件で話があるのですが」 ――話。 果歩はドキッとして、反射的に視線を下げている。 果歩を見ないままで、藤堂は続けた。 「5時すぎに、15階に来ていただけますか。忙しいのに、大変申し訳ありません」 胸が、嫌な動悸をたてている。 以前も一度、藤堂から呼び出されて屋上に上ったことがある。 あの頃は、まだつきあっているのかどうかさえ、曖昧な時期だった。 その日――初めて果歩は、彼の口から婚約者の存在を聞き、いってみれば別れを告げられたのだ。 やっぱり、それは乃々子のこと? 乃々子が妊娠しているという噂は本当で――その父親が、藤堂さん? 違う。そんなことは絶対にない。 絶対に――あり得ない。 果歩は、自分の表情がひどく強張っていくのを感じながら、それでも平静を装って、微笑んだ。 「じゃあ、時間が取れたら携帯に電話しますね。5時丁度に上がるのは、少し無理そうですから」 「いえ……携帯は」 藤堂はコーヒーの準備をしながら、続けた。やはり彼は、果歩を一度も正面から見ようとしなかった。 「実は、旅行中に失くしてしまったんです。今も、どこにあるか判らないので。申し訳ありませんが」 「そう……なんですか」 藤堂の口調は淡々としていたが、果歩には、それが嘘のような気がしてならなかった。 「的場さんの都合のいい時にいらしてください。僕なら、いつまでも待っていますから」 初めて藤堂が、正面から果歩を見る。 逆に、はっと果歩は視線を伏せていた。 「ええ……じゃあ、5時過ぎに」 「……すみません」 まだ、何か言われるような気がしたが、藤堂はそれきり視線を逸らし、コーヒーの準備を済ませると給湯室を出て行った。 果歩は――しばらく動けないままだった。 何、話って? このタイミングで、何の話が私にあるの――? ************************* 「すみません。実は、東京の実家で火急の用ができまして。大変申し訳ないのですが、今週いっぱい休みをいただこうと思っています」 立ち上がった藤堂が切り出したのは、その日の午後4時を回った時だった。 しん……とする総務課、庶務係。 何故だか、計画係まで静まり返って、こちらの会話に耳をそばだてているようだ。 「……あ、あー、もしかして、ご身内に不幸でもありましたか」 なんだかぎこちなく口を開いたのは、大河内主査だった。 「いえ、そうでは……」 一瞬言い淀んだ藤堂は、しかしすぐに頭を下げた。 「すみません。丁度仕事のきりもいいので、少しばかりご迷惑をおかけしようと思います。実家の行事に、どうしても顔を出さなくてはならなくなったものですから」 再び、静まり返る執務室。 「あ、あー、もちろんいいですよ。今まで係長は殆ど休まれていないんですから。せっかくだから、ゆっくりと親孝行でも。ねぇ」 やはり答えたのは大河内で、ねぇ、と振られたのは果歩だった。 「……遠慮なさらずに、ゆっくり休んで下さい」 果歩にはそれしか言えなかった。 朝、始業開始と共に次長室に呼ばれた藤堂は、志摩課長、春日次長と3人で、1時間近く話し合いをしていたようだった。 その内容は、多分全員が察している。 火曜にいきなり総務にやってきた百瀬と名乗る男のことで――それが、乃々子の父親なら、話の内容は、ひとつしかないように思われた。 依然、乃々子の電話は電源が切れている。自宅にかけても、留守電に切り替わるばかりで一切繋がらない。 実際、次長室から出てきた志摩は、明らかに不機嫌そうで、次長に至っては、藤堂に声さえ掛けない。当の藤堂1人が平然としている――そんな感じだった。 「別に、あんたがいつ休もうが、どこに行こうが、俺らの知ったこっちゃありませんけどね」 どこか気まずい沈黙を破ったのは、今日一日恐ろしいほど憮然としていた南原だった。 藤堂を睨むように見上げ、南原は吐き捨てるような口調で続けた。 「局内に広がってる噂は、浦島太郎のあんただって、気づいてるんでしょ? 再々実家に帰るのはそのためですか。そりゃ、仕事とプライベートは関係ないですよ。でも、同じ係の俺らにしてみれば、正直、どう接していいか判らないっていうか」 苛立ったように南原が言い淀み、藤堂は無言で眉だけを上げる。 果歩は全身が凍りつくのを感じていた。 やめて、南原さん。 まだ、聞きたくない。 今はまだ、――そんな話、聞きたくない。 今日一日、普通でいられたのが奇跡だった。まだ1時間残っている。まだ――まだ何も、聞きたくない。 「一応――、なんていうか、同じ局内のことだから」 自分の口にした言葉に戸惑うように、南原は続けた。 「俺らも、気持ち悪いんですよ。そうならそう、違うなら違うって、せっかくだからはっきり釈明してもらえないですか」 「…………」 藤堂はしばらく黙っていた。 中津川が咳払いをして、水原が、ごくりと唾を飲む 果歩は――立ち上がっていた。 その刹那、全員の視線が果歩に集まる。立ち上がった自分に吃驚しながら、果歩は、救いを求めるように課長席を見た。 「あの……」 生憎、課長席の志摩は、席空けだった。 それでも今、藤堂に何かを言ってほしくない。卑怯なようだが、藤堂のためでも乃々子のためでもなく――自分のために。 「よしましょうよ。みなさん。今は仕事中だし、それに、プライペートなことじゃないですか」 懸命に果歩は続けた。 「な、何かあれば、係長はきちんと説明してくださるはずですよ。だいたい、関係のない人間が問い質すような内容でもないですし」 「そっ、それでもっ、僕らは聞く権利があると、思うんですっ」 青い顔をして口を挟んだのは、水原だった。 「こ、これは、信用の問題なんですっ。これから、藤堂係長と、一緒に仕事をしていく上での」 「まぁ……水原君、君の気持ちは判らんでもないが、確かに的場君の言う通りだ。プライベートと仕事を混同されたら、藤堂君が可哀想だろう」 と、中津川が珍しく助け舟を出した時だった。 「百瀬さんが仰られることに」 藤堂が静かに口を開いた。 「僕の方から、異論を挟むことは何もありません。今、僕に言えるのはそれだけで、次長、課長にも同じ説明をしました」 「……それ、どういう意味なんすか」 顔をしかめて立ち上がったのは南原だった。 「どういう意味とは?」 藤堂は、冷静に切り返す。 「言葉通りの意味でしかありませんが」 「――は?」 藤堂の態度は、果歩から見ても冷たいと思えるほどに冷めている。 逆に、普段冷めている南原が、妙に熱くなっているのが不思議だった。 かーっと南原の横顔に血が上るのが、果歩にも判った。 「じゃあ、局内の噂を認めるってことですね? もちろん、きちんと結婚までするつもりなんでしょうね!」 「…………」 藤堂は無言で、書類を取り上げる。 既に彼に、この会話を続ける意思はないようだった。 「あんたねぇ」 がたっと椅子を蹴るようにして、南原が係長席に大股で歩み寄った。 「お、おい、南原君っ」 最悪の展開を予想したのか、中津川が血相を変えて藤堂の前に立ち塞がる。 「都合が悪くなったらシカトですか。ダンマリですか。これまで散々えらそうなことを言っておいて、ちょっとそれ、卑怯なんじゃないっすか!」 「僕は同じことしか言いません。誰に、何を聞かれても」 柔らかくはあるが、きっぱりと藤堂は言った。 「そして、この件は、今、皆さんにご説明することでもないと思っています」 その言い方には、藤堂びいきの中津川でさえ、やや鼻白んだようだった。 水原がふらふらと席を立つ。 南原も椅子を蹴るようにしてその後に続き、残る全員は、ただ、気まずく視線を逸らした。 果歩は――何故かパソコンのキーを叩いていた。 何もかも嘘で、全てが夢だろうと思っていた。 まだ、現実が頭に入ってこない。 こんなこと、あるはずがない。 こんなこと――あり得ない。 ううん。絶対に何か事情がある。それを、5時になったら、私だけには教えてくれるはずだから―― |
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