「的場さん、電話」 南原から素っ気なく受話器を手渡されたのは、5時を少し過ぎた時だった。 既に藤堂の姿は消えている。 彼との待ち合わせの場所に行こうか――いや、行くべきなのに、席を立つ気力がないままだった果歩は、救われたように受話器を耳に当てた。 「はい、的場です」 「やぁ!」 よく響く男の声は、受話器を通じて執務室にも聞こえたかと思えるほどだった。 「あ、……あの」 相手の名前は確かめるまでもない。先日、いきなり駅にフェラーリで現れた男。――香夜の兄の、松平帝である。 「あまりにも電話がないので、ついに僕の方からおかけしてしまいました。官公庁というのはいいですね。簡単に電話番号が判るのですから」 「あの……なんの御用でしょう」 果歩は周囲を気にしながら声を潜めた。 「なんの御用って、……そう聞かれると困ったな。実は、そろそろお困りになっているのではないかと思いまして」 帝の声のトーンが、やや下がった。 「瑛士は今日、こちらに戻ったそうですね。でも明日からまた東京だ。違いますか」 考えまいとしていたことに、正面からずかずかと踏み込まれ、果歩は言葉を失くしている。 「理由は――瑛士は決して言わないと思いますが、いずれにしても、あなたが現在進行形の恋人なら、簡単に引きさがりはしないでしょう? 東京に帰られたらおしまいだ。瑛士は妹と籍を入れることになりますよ」 ――え……? 適当に言い繕って電話を切ろうとしていた果歩は、そのまま凍りついていた。 今……なんて? 「そこで、僕にいい考えがあるんです。何も聞かずに、僕ともう一度会いませんか。このままじゃ、瑛士は二度と灰谷市に戻れない。この勝負は香夜の勝ちということになる」 「あの、」 果歩は周囲を見回しながら、声を小さくした。 まだ、帝の言うことに、自分の頭がついていかない。 「もちろんあなただって、このまま引き下がりたくはないでしょう? 香夜は、今度こそ本気です。あなたもそれ以上に本気にならなければ、とても瑛士を――あの妹から取り戻すことはできないですよ」 「ちょっと待ってください。あの、言われている意味があまりよく判らないのですが」 「結婚するんですよ」 帝の口調が、少しだけ苛立って聞こえた。 「もっと、はっきり言いますが、週末が2人の婚約式なんです。もうパーティの出席者に案内が配られて、瑛士はそのために東京に戻ります。判らないかな。妹が本気になったら、瑛士に逃げ場はありません。もともと瑛士は――あいつには絶対逆らえない立場なんです」 「……どうして、ですか」 果歩は、自分の声が震えるのを感じた。 問題は乃々子のことだけだとばかり思っていた。東京で、藤堂さんが結婚――週末が婚約式? じゃあ――もし本当に乃々子が妊娠していたとしても。 彼に、その気は全くないということ? 「どうしてとか、なんでだとか、今、そういう些細な疑問に囚われている場合ではないでしょう。時間はあまりありません。そして、こればかりは、あなたが本気にならないと駄目なんだ」 できの悪い生徒に苛立つ先生のように、帝の口調が忙しなくなった。 「誰かがぶち壊してやらないと、瑛士も香夜も、自分たちで作った檻から出られないということですよ。ああ、全く苛々する人だな。あなたは一体、瑛士のことが、どれだけ本気で好きなんですか?」 ――どれだけ……? 「好きなら、答えはひとつでしょう。取られたら取り戻す。それだけの単純な話ですよ。いいですか。僕は明日の夜までしか灰谷市にいられません。必ず連絡をしてください。でないと――」 瑛士は二度と、灰谷市には戻れませんよ。 それだけ言って、電話は切れた。 果歩はただ、呆然としていた。 まだ、藤堂に起きた何もかもが信じられなかった。 彼にもらった指輪――4月になったらという約束。 それも今は、何もかもが、二度と戻らない遠い過去のようだった。 ************************* 何故、ここまで来てしまったのか、果歩自身にもよく判らなかった。 行くべき場所に行かずに――藤堂との約束をすっぽかして、どうしてこの場所に立っているのか。 山間を切り開いて造られた新興の住宅街。 乃々子の自宅は、その一角にあった。 果歩はマフラーを巻き直し、ほっと息を吐いて天上を見上げた。 一体、どういう運命の変転だろう。 この空を、藤堂と2人で見上げたのは、ほんの先月のことなのに――あとたった2ヶ月足らずで、本当の恋人になれるはずだったのに。 2月――バレンタインに、藤堂の誕生日。乙女イベント満載の1カ月のはずだったのに、その全てがこんな形で流れてしまうことになるなんて。 百瀬家の玄関の灯りがついて、扉が控え目に開かれた。 果歩は、自分の手足が固まるのを感じた。 痩せてひょろっとした影が、灯りの前にシルエットとして現れる。 乃々子は、髪をひとつに括り、スウェットにオーバーを羽織っただけの簡単な姿だった。 肩は落ち、げっそりと憔悴しているのが、遠目からでも判るほどで――果歩は、正視できずに、思わず視線を下げている。 「……ごめんなさい。……ずっと、ご連絡、できなくて」 細い、かき消えそうな声で、乃々子がまず口を開いた。 果歩の前に立ちながら、乃々子は一度も、果歩の顔を見ようとはしなかった。 「ううん。ごめんね。こっちも……突然、家にまで押しかけて」 「いいんです。……的場さんが心配されているのは、判っていましたし……」 それきり乃々子は口を噤み、果歩もまた、何も口にすることができなかった。 聞きたいことは、沢山ある。 なのに、何ひとつ言葉としては出てこない。 理由はよく判っている。はっきりと本人の口から真実を聞くのが怖いのだ――。 「ごめんなさい。……お父さん帰ってくるまでだから、そんなに長くは話せないんですけど」 うつむいたままで、乃々子が小さく呟いた。果歩は、はっと我に返っている。 「あ、ごめんね。こっちから呼び出しておいて」 「いえ……」 呟いた乃々子の目が、みるみる水の底に沈みこんだ。 「……ごめんなさい……」 溢れた涙が、乃々子の頬を幾筋も滑り落ちた。 「と、藤堂さんは的場さんの恋人なのに………本当に……本当に、ごめんなさい……!」 果歩は――後頭部を見えない力で殴られたような衝撃を感じていた。 夢でも妄想でも、勘違いでもない。 全ては――水原の言うとおりだった。 乃々子の涙と謝罪の言葉が、知りたくなかった真実をなにより残酷に言い現わしている。 果歩は、足元が崩れ、真っ暗な淵に落ちて行く自分を感じながら、ただ、乃々子の涙とくしゃくしゃに崩れた顔を見つめていた。 大切な後輩で、大好きな友達でもあった。 同時に、恋のライバルでもあった女だが、本当の意味で邪魔に思ったことは一度もなかった。 今でも、まだ、乃々子のことが憎めない。 乃々子は本当にいい子で、果歩にとっては――唯一局内で心を割って話せる同性で……。 「ほ、本当にごめんなさい。的場さんには、……的場さんにだけは、どうしても言えなかった。ずっと隠していて、本当にごめんなさい……!」 そのまま泣き崩れる乃々子を、果歩は――無意識に支えていた。 自分もいつの間にか泣いていた。ただ、それが、どういう意味の涙なのかは、色んな感情がごちゃまぜになっていて、自分でもよく判らなかった。 「本当に、……じゃあ、赤ちゃんができたの?」 泣きながら、乃々子はこくこくと頷いた。 「……日曜の朝に……灰谷市に戻って、藤堂さんと一緒に、病院に行ったんです」 次々と明かされる藤堂の隠された姿に、果歩は半ば倒れそうになりながら――耐えていた。 「それで?」 「……原因は、間違いなくあの日で、……新年会の帰りに、藤堂さんに送ってもらった時の」 泣きじゃくりながら乃々子は続けた。 「そ、それって、間違いなく、あの香水のせいなんです。藤堂さんは自分の責任だって言われてましたけど、……絶対に違います。的場さんなら、それ、判ってくれますよね?」 真剣な目で同意を求められても、果歩には何も言えなかった。 むしろ、笑い出したいような気持だったのかもしれない。 あれは、りょうの冗談で――そもそもなんの効力もない、ただの香水だったはずなのに。 でも、乃々子はそれを信じて、藤堂はその香りに幻惑されて落ちてしまった。――つまりは、そういうことなのだろうか? ――あの日……。 思い出すだけで、今の悪夢が最大級であることが思い知らされる。 新年会の日のことは、果歩もよく覚えている。 その前日、藤堂は果歩の実家に泊り、2人は幸福と希望を抱いて、車で灰谷市に戻ったのだ。 そして、晃司の部屋で、何故だかりょうや流奈も交えての新年会。その帰り、不意に泣きだした乃々子を藤堂が送っていくことになって――。 あの日……。 あの日から、もう彼の裏切りは始まっていたのだ。それが、故意であろうとなかろうと、大切な後輩と関係を持ちながら、それを―― 平然と黙って……それからも……。 果歩にも乃々子にも、普通に接していたなんて。 藤堂への怒りと絶望が込み上げて、目の前が暗くなるようだった。 なのに今、彼は言い訳ひとつせずに東京に戻り、帝という人の話が本当なら、香夜と婚約式を上げる約束になっているという。 最低の最低の最低の最低の――これ以上ないほどの最低男。 まだ、夢を見ているようだった。それが、藤堂という人の本性だったなんて。 「わ、私、役所は辞めません」 乃々子の泣き声が、果歩を現実に引き戻した。 「生きていきなきゃ……1人で生きていかなきゃいけないんです。誰になんて言われても、ぜ……絶対に、赤ちゃんを死なせたりはしません。だって、それって人殺しと同じじゃないですか!」 ――乃々子……。 おっとりしていた乃々子の、焔のような凄まじい決意に、果歩はただ、胸打たれていた。 「……そんなこと言うもんじゃないよ。乃々子」 乃々子の肩を抱きながら、果歩は自然に、泣いていた。 「人には色んな事情があるから……どうしようもない時だってあると思う。それを含めて、神様の決めた運命なのかもしれないし」 泣きながら、乃々子がしがみついてくる。果歩はぎゅっとその華奢な身体を抱きしめていた。 「乃々子……乃々子だって、無理しなくてもいいんだよ」 「いいえ。私、もう決めたんです」 乃々子は、涙を迸らせるようにして、首を振った。 「……相手には、何も求めていません。もともと間違いだったんです。それに、私が邪な気持ちを持ったのが、一番の原因だったんですから」 それは違う。 たとえ、どんな理由が介在しようとも、乃々子が1人で背負うことでは絶対にない。 しかも、その相手は妊娠の事実を全て知っているのだ。一緒に病院にまで行きながら、それでも1人で放置しておくなんて――。 「……来週には、仕事に出られると思います。お父さんも、大分落ち付いたみたいだし」 涙を両手で払いながら、乃々子はようやく微かな笑顔を見せてくれた。 今度は、逆に果歩の眉が曇っていた。 「乃々子……そのお父さんのことだけど」 「知ってます。役所に押しかけて大騒ぎしたんでしょ」 乃々子は微笑して首を横に振った。 「平気です。どのみち、知れてしまうことなんです。役所で未婚の母なんて珍しい話だから、私、相当噂の的になっちゃいますね」 相当なんてもんじゃないだろう。 しかもその相手が同局の総務係長で、しかも時を同じくして別の女性と婚約したとあれば――。 他人事じゃない……。 手を振って、再び家の中に消えて行く乃々子を見送りながら、一歩間違えれば、それは自分の姿だったことに、果歩は気がついていた。 私が、乃々子の立場だったらどうだろう。 乃々子は、責めごとひとつ口にしなかったどころか、こういう場面での常套句であろう、彼と別れてくださいの一言も口にしなかった。 もし、乃々子の立場が私だったら? あれほど潔い選択ができるだろうか。 乃々子は―― もしかしなくても、私のために、身を引こうとしているのではないだろうか。 私のために……幸福になる権利の一切を手放すつもりでいるのではないだろうか。 果歩は一歩も動けず、その場に立ちつくしていた。 このままにはしておけない。 でも――今の抜け殻みたいな私に、一体何ができるだろう。 ************************* 「おう、元気?」 いや、違うな。 「……あれから……どう」 どうって、何が? 「あー、たまたま、ちょっと近くを通りかかったからさ」 てか、家、全然別の方角だろ。 その時、背後で咳払いがした。自問自答を繰り返していた晃司は、びくっとして振り返る。 立っていたのは、ややくたびれた風の、仏頂面をしたサラリーマンだった。 晃司は、慌てて愛想笑いを浮かべて見せた。 「どうもー」 訝しげな顔で晃司の隣をすり抜けた中年男は、おそらくこのマンションの住人だろう。 晃司が10分以上うろうろしていたセキュリティボックスの暗証番号を押して、さっさと自動扉をくぐっていく。 ――まいったなぁ……。 再び1人になった晃司は、ポケットに手を突っ込んで、夜空を見上げた。 市内中心部。役所からそう遠くない場所に建てられた12階建てのマンション。 ここに宮沢りょうの部屋がある。 ――てか、一体何やってんだ、俺? ここまで来て、一体何を迷っているのか――いや、そもそもなんのために、ここまで来てしまったのか。 「…………」 いや、用件ははっきりしている。 そして、相手の部屋番号も覚えている。 番号を押して、部屋の主を呼び出して――用件を告げればいいだけのことだ。なのに、たったそれだけの事が何故出来ない? 不意に自分がしていることが、ひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。 何やってんだ? 俺。 ぐずぐず迷うことでもないし、迷うような相手でもない。 そして迷う必要も――ない。 あれは間違いで、なりゆきで、交通事故で。 行ってみれば性質の悪い猛犬に噛まれたみたいなもので。 俺もあの人も、何ひとつ気にしていないばかりか、2人の人生は今までもこれから先も、絶対に交わったりしないのだ。 ふと、胸にたまっていた形容しがたい何かの感情が、消えて行くような感覚になった。 「……帰るか」 ふっと息を吐いて踵を返しかけた時だった。 「ちょっと、あんた」 野太い声に呼び止められて、晃司は驚きながら振り返る。立っていたのは――青い制服姿の警備員だった。 ************************* 「……何やってんの」 案の定、扉を開けて出てきてくれた人は、心から呆れた目をしていた。 「じゃ、宮沢さんのお知り合いで間違いないんですね」 晃司の背後に付き添ってきた警備員が、重ねて聞く。 「間違い………ないですね。確かに私の知り合いです。ご迷惑をお掛けしました」 宮沢りょうは、「間違い」と「ないですね」の間に五秒くらいの間をもたせて、更に「知り合いです」を必要以上に強調し、皮肉たっぷりな目で晃司を見上げた。 むっとしつつも、不審者と疑われている今の状況では反論しようのない晃司である。 「そうですか」 警備員はまだ不審そうだったが、ひとまず納得したようだった。 「すみませんねぇ。この人、10分以上もエントランスをうろうろしてらしたみたいで、不審者じゃないかって管理人から通報があったんですよ」 と、余計なことまで説明してくれる警備員。 一瞬眉をあげたりょうは、にっこりと笑ってその警備員に会釈した。 「もともと挙動がおかしい人なんです。ほんと、ご心配をおかけしてごめんなさい。次は迷わず警察に突き出してくださいね」 「おい、なんだよ。その言い方――」 さすがに閉口して反論したその時、いきなり腕をつかまれ、晃司は部屋の中に引き込まれていた。 あっと言う間もなく扉が閉まり、鍵が掛けられる。 ひたすら慌てたのは晃司で、りょうは平然と靴を脱いだ。 「あがって」 「いや、俺ならちょっと話がしたかっただけだし、別に部屋の中にまで入らなくても」 「いいから、あがって」 ――あがってって……。 なりゆきとはいえ、思わぬことになってしまった。 まさか、また恐ろしい罠にかけられようとしているのでは―― ん? そもそも、どっちが仕掛けた罠だったっけ。いや、そんなことはどうでもいいが、2人きりの密室はやっぱり危険だ。 が、断ろうとした晃司は、足元に視線を止めて、言葉を呑んだ。 ――男物の靴……。 しかも、相当品のいい高級品が、きっちりと揃えて置いてある。 何故かその刹那、自分の胸が変に重くなったのを晃司は感じた。 「ごめん、話の途中で」 りょうは玄関に晃司を放置して、リビングの方に声をかけた。 「さっき話した彼が来たの。もう、顔は知っていると思うけど」 ――なんだ……? 戸惑う晃司を振り返り、りょうは意味深な目で目配せした。 なんとなく――それを、「黙って話をあわせろ」と言われたような気がして、晃司は戸惑いながらも、靴を脱いで室内に上がる。 明るいリビングのソファに、1人の男が腰掛けていた。 スーツの上着を身につけたままの男は、晃司がリビングに入ると同時に立ちあがり、丁寧に――しかし、極めて他人行儀に一礼した。 「兄よ」 りょうは、あっさりと紹介して、キッチンの方に入っていった。 兄――。 晃司は、半ば驚きつつ、先日旅館で一度会った人の顔を見上げていた。 恰幅のいい長身の男である。宮沢りょうの兄だけあって相当のイケメンだが、妹と違い完璧な美形、というほどでもない。 「宮沢貴志です。先日は、当旅館をご利用いただきまして、誠にありがとうございました」 いかにも旅館の経営者らしく、きわめて慇懃で丁寧な挨拶である。 が、男の目がひどく冷めていて、いきなりの来客を決して歓迎していないことは明らかだった。 晃司もまた、すっかり忘れていた不快感が蘇るのを覚えていた。 あの時は混乱していてよく判らなかったが、この男は――宮沢りょうの兄は、旅館のために妹を妾に差し出そうとしていたのだ。 「前園です。こちらこそお世話になりました」 男以上に慇懃かつ冷淡に挨拶すると、晃司は開き直って男の隣に腰を下ろした。 なんなんだ? この展開は。 まさかまたぞろ、妾話を持ちかけにきたんじゃないだろうな。 むっとしつつ、隣の男を睨みつける。 その露骨な視線に、男はやや戸惑った風だったが、晃司を見る目は依然として冷たいままだった。 「どうぞ」 りょうがキッチンから出てきて、コーヒーが目の前に置かれる。 そして彼女は、睨みあう男2人の正面に座った。 「いただきます」 晃司はやけくそで、カップを持ち上げた。 なんだか知らないけど、とてつもなく嫌な雰囲気だと思うのは気のせいだろうか。 宮沢りょうの兄なら、男としては全く論外というか――恋愛感情はないだろうに(もちろん自分にもそんな感情は欠片もないが)、この三角関係めいたムードは何? 「晃司、悪いけど、それ飲んだら寝室で待っていてくれない」 晃司は口にしたコーヒーを吹き出すところだった。 はい?? 「兄と少し話があるから。今夜は泊っていくんでしょう?」 にっこりと見上げられ、その凄味を帯びた微笑に息もできない晃司である。 「いや、僕の方なら、お構いなく」 やんわりと切り返したのは、宮沢貴志の方だった。 「もう用件はあらかた済んだから、……帰るよ。りょうの恋人に挨拶も出来たことだし」 「実家に連れて行って紹介するほどの仲にはならないと思うから、今夜きりになるかもしれないけどね」 りょうは微笑して、立ちあがった兄を見上げた。 「今夜は、わざわざ寄ってくれてありがとう」 「たまたまこちらに用があっただけだよ。……心配かけたな、色々」 「そこまで本気で心配してないから。……土壇場で裏切った女よ。多分、これからもあまり役に立てないわ」 「もう、役にたってもらおうとも思わないよ」 2人の会話が、玄関の方に消えて行く。 扉が閉まり、どうやらりょうは、兄を階下まで見送るつもりのようだった。 ――ふぅん……。 晃司は微妙な不快感を覚えながら、1人でコーヒーを口に運んだ。 そういや、あの後どうなったんだろう。 警察に呼び出されたら、ありのままを話すつもりの晃司だったが、どうやらそんな様子もないようだ。 しかし、なんだって車で5時間も離れた場所に住んでいる人が、こんな時間に妹のマンションに来ているんだ? まさか、例の殴打事件の落し前をつけるために、宮沢りょうが、また無茶をしようとしているのでは……。 「ただいまー」 その時、当の本人がしれっとした顔で戻って来た。 再びリビングに戻ったりょうを、晃司は改めて見上げている。ゆったりとしたニットにジーンズ。解いた髪は、少しだけうねりを帯びて、洗いたてのようにも見える。 「……何、人の顔じろじろ見て」 りょうは不審そうに眉をあげ、どこか、気まずい沈黙があった。 「別に」 晃司もまた、妙にきまずい気分になり、空になったカップを無意味に持ち上げる。 「おかわりいる?」 「いや、いらねーし」 と、断ったにも関わらず、再びキッチンに消えたりょうは、今度は茶を淹れて戻って来た。 「……どうも」 茶を飲むしか場の繋ぎようがない晃司を、りょうは頬杖をついて、上目づかいに見上げた。 「……ま、私にしてみれば、ようやく来たかって感じだけどね」 「え?」 「君が動いてくれないから、私1人でやきもきしてたじゃない」 湯飲みを手にしたまま、晃司はドキッとしてりょうを見た。 それは、――それはどういう意味だ? まさか、そういう――恋愛とかそういう意味で、ここに訪ねてきたと思われているんじゃ……。 「ちょっ、それ、とんでもない誤解だからな! お、俺はただ、あんたに話があって!」 「はい?」 泡を食って言い訳する晃司を、りょうは眉を寄せながら見上げた。 「? なんの誤解? てっきり事件の顛末を聞きに来たんだと思ったけど?」 「…………」 りょうの目に、いたずらめいた笑みが浮かんだ。 「もしかして、私が君を別の意味で待っていたとでも? あの夜のことが忘れられなくて? ごめん。君が懲戒処分になるかならないかの瀬戸際で、私にそんなこと考える余裕は一欠片もなかったみたいよ」 皮肉たっぷりに言われ、もう、言葉も出てこない晃司である。 「……本気で、自分が置かれた立場が判ってた?」 「……すみません」 「とりあえず、向こうが引きさがってくれたからよかったものの、公になってたら、どうなってたか判らないわよ。本当のところ」 神妙に頷いた晃司は、ん? と顔を上げていた。 「引き下がったって……、もしかして、あのおっさんが?」 「ま、私たちの想像以上に、議員なんて代物は世間体が大切なのかもね」 りょうはあっさりと切りあげたが、晃司はどこか腑に落ちないものを感じていた。 引き下がったって、あれだけの剣幕で人を罵倒しておいて? しかも、見ず知らずの若造に口から血が噴き出すほどに殴られて――それで、向こうから引いてくれたとでも言うのだろうか。 晃司は、改めて目の前の女をまじまじと見た。 「……なんかやった? もしかして」 「何も? 私もキツネにつままれた気分……。ま、こっちから騒いでもいいことなんて何もないから、ひとまず様子を見るしかないみたいね」 それだけ言うと、りょうは煙草を唇に挟みこみ、ライターを取り出す。 少し考えてから、晃司は言った。 「俺の方から謝りにいこうか。これ以上、あんたの家に迷惑かけても悪いし」 「それはやめて」 思いの外、厳しい声が返された。 「悪いと思ってるなら、間違っても自分の思い込みで動かないで。何かあれば指示するから、君は動かず、黙っててちょうだい」 さすがに、その言われようにはむっとしたが、実際、この件では宮沢りょうに頭が上がらない晃司である。 再び訪れた沈黙の中、煙草の煙だけが漂ってくる。 禁煙中の晃司は、わざとらしく咳込んでみせたが、りょうは一向に気にするでもなく、白い煙を薄く開いた唇から吐きだした。 くそっ、女のくせにヘビースモーカーかよ。マジで、どこまでいっても俺の理想とは真逆のタイプだ。この女は。 「で――? 本当のところ、何しに来たわけ?」 「はいっ?」 その刹那飲み込んだ茶が気管に入り、晃司は盛大に咳き込んでいた。 「やれやれ、何を動揺してるのよ。ほんと君って、とことん私の理想の反対をいくタイプね」 「そ、それは俺のセリフだよ」 晃司は呼吸を整え、改めて咳払いをした。 「誤解のないように言っておくけどな。今日来たのは――まず、職場ではちょっと話しづらい内容だったし、微妙な内容だから、電話ではどうかと思ったし――まぁ、そういうのが色々あって、この辺に寄ったついでに」 「だから何よ。いちいちめんどくさい男ね。言い訳なんていいから、さっさと用件を言ってくれない?」 「か――」 何故かそこで言葉に詰まり、晃司は再び咳き込んでいた。 「果歩のことだよ」 「……果歩?」 意外だったのか、りょうの眉が微かに上がった。 「もしかして果歩に何かあった?」 「あ、あんたのとこに、まだ話いってない? 藤堂があんなことになって、職場でも噂の的でさ。いくらなんでもそりゃないだろうって俺は思ってんだけど、……まぁ、果歩が、プライベートじゃどうしてるかと思って」 今は、果歩と顔も合わせられないし、須藤も妙につんけんして声をかけられるような雰囲気じゃねぇし、だからあんたしか聞ける相手がいなくって――。 と、胸の中で、意味もなく大急ぎで言い訳する。 が、つっこまれると思った動機部分は、あっけなくスルーされた。 「藤堂があんなこと? あんなことって何のこと?」 ――なんのことって……。 意外なほど真剣なりょうの剣幕に、晃司はかえって戸惑っている。 「じゃ、果歩から何も聞いてねぇの?」 「ちょっとここ数日、ばたばたしてたからね。果歩と藤堂君のことは、少しばかり気がかりだったんだけど――」 りょうはわずかに目をすがめて、煙草を灰皿に押し付けた。 「で、何があったの? 君が知ってるくらいだから、よっぽど判りやすい展開になってるんでしょうね。悪いけど、最初から順を追って話してくれない?」 |
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