「ほんとに……、今時といえばそれまでですけど、世間体が悪いったらございません。まさかうちの娘が、順序を間違えた結婚をするなんて」 「まぁ、いいじゃないか。終わりよければなんとやらだ。瑛士君も家に戻ったことだし、暗証に乗り上げていた後継者の件もこれで一件落着だろう」 ヴァイオリンの調べが、アンティークな家具に囲まれた豪奢な応接室に満ちている。 資産を運用させるだけで、生涯働く必要のない人たちの会話を、藤堂は黙って聞いていた。 「香夜ももう子供じゃないんだ」 ブランデーのグラスを唇に運びながら、松平長七郎――香夜の父親が言った。 パーティと旅行が何よりの趣味の初老の男は、若い頃から世界中を渡り歩き、趣味のゴルフとテニスはプロ級の腕前を有している。 自己の趣味をとことん極める男は、家庭にはほぼ無頓着で、それは慈善活動家で自称音楽家でもある妻の由美子も同様だった。香夜という人の本質的な寂しさはその辺りにあるのだろうと、藤堂は内心思っている。 グラスを置いた長七郎は、満足そうに傍らの妻を見た。 「色々あったが、最終的には瑛士君と一緒になることを選んだ。香夜のためにも、瑛士君のためにも、私はとても嬉しく思っているよ」 「それでも、あなた」 紅茶のカップをソーサに置いた由美子は、不満げに言い募った。 「この大切な時期に、香夜さんったら、二宮の館で暮らすと言っているのよ。初めてのお産で不安でしょうに、私が傍にいてあげなくていいのかしら」 「君がそうしたいなら、すればいいさ。君1人が転がり込んだところで、二宮のおじ貴は何も言うまい」 あっさりと長七郎は妻の偽善を切り捨てる。 「まぁ……私も、色々することがありますし、始終香夜さんの傍にいてやれるわけではないですけど」 言い訳みたいに呟いた由美子は、やや剣のある目で藤堂を見た。 「瑛士さん」 「……はい」 「もちろんあなたが、香夜さんの傍にいてくださるのでしょうね。どういった趣向か判りませんけど、公僕のお仕事ならもうよろしいでしょう。いつ、退職なさるおつもりなのかしら」 「……今、調整していますので」 「公務員か。自分で何も生み出すことができない、愚人が選ぶ仕事だよ」 そこは、苦笑しながら長七郎が口を挟んだ。 「調整も何もないだろう。さっさと退職届を出せばいいんだ。由美子の毎月の寄付金にも満たない額のサラリーか。……ある種の社会勉強にはなったろうが、一体どんな気持ちだったね、瑛士君」 「とにかく、香夜さんのことは、くれぐれも用心してやってほしいのよ」 眉をひそめながら、由美子が割り込んできた。 「あの子の前では封印してきた話ですけど、あの子は一度……8年前に、流産を経験していますからね」 長七郎の口元から笑みが消え、藤堂は無言で視線を伏せていた。 「同じ女として、当時の香夜さんが受けた心の傷を思うと、今でも胸が痛みます。本来なら、瑛士さんと香夜さんはあの時結婚すべきだったんですわ。妊娠までさせた女性を置いて出て行くなんて……当時は瑛士さんの無責任さに、怒りもしたし、呆れかえったりもしたものですけど」 「まぁまぁ、当時瑛士君はまだ18で、……どうしようもない事情もあった」 渋面の長七郎が、まだ続きそうな妻の繰り言を遮った。 「修哉君があんな亡くなり方をしたんだ。過剰に責任を感じたとしても無理はない。二宮の次期当主としてははなはだ弱気としか言いようがない面があったにしろ、――それはもういいじゃないか」 「でも、あなた」 「香夜にとっても、当時は瑛士君と離れた方がよかったんだ。2人ともまだ若かった。……2人は、修哉君の死の衝撃から立ち直るためにやむなく別れたのだと、私は、そう思っているよ」 その時、扉が開いて、話題になっていた当の本人が、幸福に満ちた笑顔で現れた。 「瑛士さん、お兄様が帰っていらしたわ!」 香夜の背後には、チャコールグレーのスーツをまとった長身の男が立っている。 さすがに藤堂は、眉を上げかけていた。 ――帝さん? が、藤堂よりなお驚いたのは、彼の両親たちのようだった。 「まぁ、帝、いつ日本に?」 「いったいどういう気まぐれだ? 何を言ってものらりくらりと交わしてきたお前が」 「私が呼んだのよ」 帝が答えるより早く、その腕を引いた香夜が自慢そうに答えた。 「週末の婚約式には、どうしても来ていただきたかったから。そうしたら、すぐに帰ってきて下さったわ」 前に歩みでてきた松平帝は、大仰な一礼を、彼の両親に捧げた。 「お父様、お母様、ご無沙汰しております。妹の一大事に、不肖の兄が参上いたしました。ご機嫌はいかがですか? 僕はてっきり、後継者争いから早々に弾かれた息子など、顔も見たくないと思われていると――そう思っていたのですが」 「馬鹿なことを言うな」 「そうよ。帝。お前は私たちの自慢の息子だわ」 にっこりと笑った帝は、父と母の頬に、顔を寄せてキスをした。 甘いマスクに日本人離れした長い手足。気障で大仰な態度は昔からだが、それが恐ろしいほど様になっている。 確かに帝は、早々に二宮の後継者争いから脱落した。が、学業成績は散々でも、こと世渡りという面の上手さでは、藤堂も修哉も、到底、この男に敵わなかったろう。 うやうやしく手を差しのべながら、帝は続けた。 「今、お部屋に土産物を運ばせましたから、どうぞご覧になってください。お母様と香夜には、僕がデザインして作らせたドレスを用意しました――お嫌でなければ、ぜひ、着て見せていただきたいのですが」 「まっ、1年も離れていたお前に、私たちの服のサイズが判るのかしら」 「お兄様。私は今、ウエストを締めつける服は着れませんのよ」 「あわなければ、すぐにでも作り直させますよ」 帝は微笑み、彼の妹と両親は、その微笑みに促されるように応接間を出て行った。 藤堂は――黙っていた。 数年ぶりに再会した幼馴染が、自分と2人きりになりたがっていることを、察したからだ。 こんな時間に、田園調布にある松平邸に呼ばれた理由は、おそらくそれだ。 香夜は兄の頼みを受けて、藤堂を自宅に連れて行ったに違いない。 「……よう」 案の定帝は、今までの慇懃さや優美さをかなぐりすてた素顔で、座る瑛士を見下ろした。 「立てよ。目上の者を座ったままで迎えるのが、お前の流儀か?」 「…………」 「と、立たれても不愉快だ。そうか、以前俺が言ったんだったな。俺を見下ろすその態度が気に入らないから、俺の前では絶対に立つなと」 「記憶がいいのだけが、僕の取り柄なので」 藤堂は静かに言って立ちあがった。 「……記憶がいい、か」 何故かそこで、含んだような笑いを漏らすと、帝は藤堂を冷めた目で見上げた。 「確かにお前は精巧な複写機械だ。だからなんの努力もせずに俺や脩哉を軽々と飛び越えた。――なんたって人間じゃないからな。でもな、瑛士、機械ってのは自分にバグが起きているのに気付かない。それを、自分で直すことすらできないんだぜ」 「…………」 ――どういう意味だ? 「お前みたいなバグだらけの欠陥人間を、何故、おじさんが後継に選んだのか、ほとほと理解に苦しむよ。――そんなお前が、よりにもよって俺の義弟になるときたか」 鼻で笑うようにして、帝はソファに腰を下ろした。 「まさか、俺が香夜を祝福するために日本に戻って来たと、呑気に信じているわけじゃないんだろ? 俺は、お前も香夜も許しちゃいない。脩哉を殺したお前達を許す時など永遠にこない」 グラスのワインをあおった帝は、不意に楽しそうに笑って足を組んだ。 「そうそう。週末の婚約式のことだけどな。実は俺も、二宮のおじさんに紹介したい人がいるんだよ」 「……帝さんに、ですか」 用心深く藤堂は訊いた。 「恋人さ……。といっても先日付き合い始めたばかりだけどな。強引にアプローチしすぎて嫌われたと思ったら、さっき連絡が入ったんだ。明日2人でデートだよ」 帝は楽しそうに、携帯をポケットから取り出した。 「家柄も平凡だし、とびきりの美人ってわけでもないが、セックスの相性が抜群だから、しばらく遊んでやってもいいと思ってるんだ。お前にも紹介してやるよ」 「…………」 振られた会話の意図が判らず、藤堂は無言で眉を寄せる。 「土曜日は、どうやら二重の意味でめでたい席になりそうだな。そうそう、最後にこれだけは言っておくよ。修哉が生きていたら、今のお前にくれてやった言葉だ」 立ちあがった帝は、ポケットに手をつっこんで藤堂を振り返った。 「ばーか」 「………」 「こんな馬鹿げた結末を、俺と修哉が望んでいると思ったら大間違いだ」 荒々しく扉が閉まり、1人になった藤堂の耳に、今はもうどこを探してもいない人の含み笑いが響いてきた。 ――甘いな、瑛士。だからお前は駄目なんだ……。 ************************* 宮沢りょうは、無言で自分の唇を撫でている。 それが、考え事をしている時の癖なのか、親指で撫で、折り曲げた人差し指の節で押さえ、拳で軽く叩くような素振りを見せる。 晃司は無言で、そんなりょうを見つめていた。 2人の前に置かれた茶はすっかり冷めてしまって、この沈黙がかれこれ10分以上も続いている。 ――ここまで、深刻に考えること? と、思ったが、女同士の友情は、男には判らないほど深くて重いものなのかもしれない。 百瀬乃々子の妊娠騒動と、その相手が藤堂であるらしいこと。その藤堂が今週一日しか出勤せずに東京に帰っていること――晃司が知っているのはそれだけだった。 その時、ふっとりょうが微かな吐息を洩らした。 依然として唇を撫でる指を見て、晃司は不意に身体の一部が熱くなるのを感じた。 頬に落ちた睫の影。白い肌に朱の唇。 どくどく、と突然心臓の音が大きく聞こえ始める。 夜――密室に2人きり。この状況が、にわかに別の意味で意識されてくる。 お、おい、何考えてんだ、俺。 間違いなくヒト科オスの条件反射とはいえ――この状況は、絶対にまずい。 「あ、あー、俺、そろそろ」 「藤堂君が、東京に帰っている意味だけが判らないんだけど」 被さるように、りょうがようやく沈黙を破った。 腰をあげかけた晃司は、慌てて座り直している。 「ああ、それは……誰だって判んないだろ。あれだけ仕事熱心な奴が、週に4日も休むくらいだから、……」 「乃々子ちゃんのことが原因だとは考えられないわね」 りょうはきっぱりと言い切った。 「彼の性格や行動パターンからは考えられない。同時進行で何かあったのよ。それは間違いと思う」 「……はぁ」 なんであんたが、藤堂の性格や行動パターンを掴んでいるんだよ。と、つっこもうと思ったが、やめた。 りょうの顔が、あまりに真剣だったからだ。 「問題は、それが私と無関係だったらいいってことなんだけど――どうも、釈然としないわね。彼の性格上あり得ないことばかりよ。果歩はどこまで知っているのかしら」 独り言のようにりょうは続けた。 「水原君の証言……それが確かだとしても……。そうか、問題は二つの事件が時を同じくして起きたってことね。ふんふん、少し整理して考える必要があるかもね」 そこで顔をあげたりょうは、初めて驚きを双眸に浮かべた。 「あれ? まだ、いたの?」 「…………」 ええ、ええ。 どうせ俺は、話さえすれば用済みの人間でしたよ。いつまでも居座っていてすみませんでした。 「帰るよ。お邪魔でした」 「お構いもしませんで」 あっさりと挨拶を交わし、2人は同時に立ちあがった。 「下まで送るわよ」 「いいよ。男の俺が、どうして女のあんたに送られなくちゃいけないんだよ」 「兄も下まで送ったから、君がすねちゃいけないと思って」 しれっと返され、言葉もない晃司である。 それ、本気で言ってんのかよ。本当に意味不明っていうか――やっぱり、俺の理解の及ばない人だ。この人は。 「マジで、いいよ」 靴を履こうとしたりょうを、晃司は真顔で止めていた。 「こんな時間だし、逆にあんたが心配だから。エレベーターの中だって、犯罪はいくらでも起きてんだ。そっちが部屋に戻るまで、俺の方が気になるだろ」 「…………」 りょうはしばらく――不思議そうな目で晃司を見ていたが、すぐに口元に、やや冷めた笑いを浮かべた。 「ねぇ、ひとつ聞いてもいい?」 「……なんだよ」 「どうして私のところに来たの? ああ、言い訳なら沢山あるだろうけど、そんなんじゃなくて――君には千載一隅のチャンスだったはずでしょ」 ――チャンス……? 訝しんで突っ立ったままの晃司の前に、りょうはゆっくりと歩み寄ってきた。 「果歩がどれだけ落ち込んで不安で揺れているか――見てない私でも、手に取るように判るわよ。果歩のことが好きだったら、今ほど美味しい時もないと思うんだけどな」 「そっ、それはっ」 一瞬愕然とした晃司は、しかしすぐに声を荒げていた。 「それは――それは、あんたが一番よく知ってるだろ。今さらどうやって、どんな顔で果歩に会えばいいって言うんだよ」 「君の気持ちひとつなのに。私は死んだって果歩に言ったりしないのに」 「俺だって言うかよ。だいたい言うようなことでもないし。――てか」 それでも。 「それでも……何もなかった風には……できないだろ」 「…………」 晃司は、迷うようにりょうを見下ろす。暗夜のような女の目は、何を考えているか判らない輝きを湛えたまま、じっと晃司を見上げている。 「私から、逃げてたのは何故?」 「逃げる?」 不思議な動揺が胸をかすめた。「俺が? なんで?」 「そうとしか思えなかったから――あんな事件があって、明日にも逮捕されるかもしれないのに、私に、なんの情報も助けも求めようとしなかったから」 「そりゃ……」 巻き込んじゃ悪いと思ったし。警察からの連絡なら、直接来ると思ったし――。 答えが出る前に、素早く女に畳みかけられる。 「もしかして、怖かった?」 「何が」 「責任取れって言われたり、彼女面されるかもしれないことが」 晃司はさすがに――唖然とした。 「ばっ、夢にも思っちゃいなかったよ。だいたいあんたが言ったんじゃないか。う、失ったのは俺で、あんたは何も――」 「その通りよ。むしろ君が気の毒だと思ったくらい」 そんな風に思われるのも癪に障るし、男として罪悪感がないと言えば嘘になるが、それが理由で――逃げているつもりは全くなかった。 が、確かに晃司は、宮沢りょうに会うのが怖かった。 顔を合わせるどころか、声を聞くのでさえ、敬遠したいと思っていた。 何故だろう。 にも関わらず、今夜こんな風に会いに来てしまったのは――何故だろう。 「……犯罪の被害者が……加害者を畏れながらも、知らず知らずに迎合してしまうという……」 「ストックホルム症候群のこと? 何を話を大袈裟なレベルにまで持って行こうとしているのよ。君はレイプされた被害者ですか」 「ち、ちがっ……そ、その逆でもないと思うけど」 「……そうね。まぁ、どちらでもなかったわね」 りょうは眉をあげて肩をすくめる。 やはり、晃司には判らなかった。女にとって初めての男って――こんなに簡単にやり過ごせるものなのだろうか。 「てか、判ってんだろ。あんたには」 どこか開き直った、ふてくされた気持ちで晃司は訊いた。 「いつだったか言ってたじゃん。俺とあんたは似た者同士で、考えてることがすぐに判るって。まぁ、全部が全部当たってるとは思わないけど、あんたには――どうせ、答えが出てるんだろ」 りょうは、再び呆れたように肩をすくめる。 その仕草を見た晃司は、何故だか、この疑問を徹底的に追及したい気になった。 「確かに、少しばかり怖いっていうか、逃げたい気持ちはあったよ。あんたが俺に言い寄るなんて、これっぽっちも考えなかったけど――まぁ、とにかく恐ろしかったから」 「何が? 報復されるとでも思ったから?」 「まさか」 そんなこと――思いもしなかったけど……。 「……怖かった……」 「何故?」 「あんたと、会うと……」 「私と会うと?」 「なんかこう……、自分のペースが乱される気がして」 「…………」 それ以上、どうやって今のもやもやした感情を表現していいか判らない。 「だったらもう、二度とここに来るべきじゃないわね」 りょうは、冷静な目になって微笑した。 「2人で話すのもこれで最後だと思うから、答えを教えてあげるけど、君は私が嫌いなのよ。この世で最も自分に合わない女だと思っている。性格も相性も何もかも」 「…………」 それは――まぁ、あたっている。 「だから怖いの。簡単に言えばそういうことよ」 が、からかうようにそう決めつけられ、晃司は少しばかりむっとしていた。 「それはないね。だいたい、それくらいで人を怖がってちゃ、社会人なんてやってられないだろ」 「まだ判らない? つまりそんな女を、好きになるのが怖いのよ」 「…………」 ――は……? ぼんやりしているところを、肩をぽんと押されて玄関から押し出された。 「はい、出来の悪い生徒に答えを教えてあげました。納得したら帰ってちょうだい。果歩のことは、私がなんとかするから安心して」 いや、そんな勝手な決めつけをされたままじゃ……。 ぱたん、と扉が閉められる。 晃司はしばし――その場から動けなかった。 好きになるのが怖かった? 誰を――って、宮沢さん? そんな―――そんな馬鹿なことがあるはずがない。 「……ふむ……」 玄関の扉を閉めたりょうは、しばらくその場から動けなかった。 今のは、間違いなく失言だった。 私らしくもない――もう少し冷静に振るまえていたら、あんな余計なことまで口に出したりはしなかったのに。 判ったかしら。 まぁ、馬鹿だから、大丈夫か。 それに今は、とことん自分のことしか見えていないみたいだし。 「……君と私は、似た者同士、か」 だから、手に取るように相手の感情を読むことができる。 りょう自身も、ひどく不思議に思っていた。 一切の行動をとらない相手に苛々しながらも――どうして、こちらから、一度も連絡しようという気にならなかったのか。 多分、顔を合わせないで済むなら、その方がいいと思っていたからだ。 今なら、もう答えは判っている。その理由は――今、自分で口にしてしまった。 ************************* 「もう、いい。行って」 「なんだよ、なんだったわけ?」 運転席の男は、訝しげに眉を寄せながらも、停めていた車のアクセルを踏み込んだ。 たちまち加速したブルーのアルファロメオは、とぼとぼ歩道を歩いている男をあっさりと追い越して行く。 流奈は振り返って舌を出したが、やや俯き加減に歩く男――前園晃司が、それに気づく気配はなかった。 「なに? もしかして、今のくたびれたおっさんが元彼?」 先夜クラブで知り合ったばかり男は、流奈と同い年の大学院生だった。 「二股のサイテー野郎……。もういいの。確かにこうしてみると、くたびれたおっさんよね」 流奈は肩をすくめたが、何故か眼の奥が熱く痛んで、わずかな涙がこめかみを濡らした。 ばーか、ばかばか、ばーか。 人の気持ちなんててんで判らない朴念仁。 あんたなんか――宮沢りょうに痛い目にあったらいいんだ。 もう、知らない。 もう二度と、あんたのことなんか追っかけない。 再び零れた涙を、流奈は急いで両手で払った。 「どこ行く? 明日は仕事休むつもりだから、朝まで遊んじゃおうよ」 「いいね。じゃあ、流奈ちゃんが行きたいところ、どこにでも連れてってあげるよ」 「わーい」 流奈は笑顔で窓の外を見た。 「……知らなかった。夜ってこんなに綺麗なんだ」 隣の男が吹き出している。 「おいおい、引くぜ? 流奈ちゃんらしくもないこと言うなよ」 でも、本当に綺麗だった。初めてこんな気持ちで夜を見る。ひどく滲んで揺れる夜景が、悲しいくらい綺麗に見える――。 |
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