「やぁ、お待ちしていましたよ」 堂々と路駐している白のフェラーリを、道行く車は迷惑そうに――、行き交う人は、興味津々でチラ見している。 「プリンセス――どうぞ、かぼちゃの馬車にお乗りください」 冗談みたいなセリフを吐いた松平帝は、うやうやしく助手席の扉を開け、恐縮している果歩を車内にいざなった。 金曜――午後6時。市内繁華街のど真ん中。 「お邪魔します……」 助手席に乗り込んだ果歩は、恥かしさで顔も上げられなかった。 待ち合わせスポットであるデパート正面玄関の前面道路――路駐など、まず考えられない交通量を誇る市道である。 そこに、堂々と――ただでさえ目立つ左ハンドルの巨大な車を停めている帝は、まるで地上に舞い降りた宇宙人のような注目を集めている。 「いやぁ、電話をいただいてほっとしました。実は昨日は、諦めて実家に戻っていたんですよ。急きょ、灰谷市にトンボ帰りです。間に合って、本当によかった」 楽しそうな帝に声に、果歩はうつむいたまま、曖昧に相槌を打った。 今でも、自分の行動の是非は判らない。 他に手がなかったとはいえ、この男の誘いに乗ることが、本当に正解だったのだろうか。 「それにしても、日本の道路は走りにくいですね。こう……追い抜きたくても、なかなか」 ぐいっと車が車道からはみ出して蛇行する。 「だっ、駄目です。ここは追い越し禁止ですよ!」 慌てて顔を上げた果歩を見下ろし、帝は優しく微笑んだ。 「ようやく僕を見てくれた」 「…………」 「随分と僕を警戒していますね。気持ちは判りますが、畏れる必要は何もないんですよ。僕は君の味方です。君と……瑛士の味方だと、そう言ってもいいのかな」 今夜の帝は、レザーの上着にシルクシャツ、ジーンズという装いで、髪の雰囲気もがらりと変えているせいか、まだ20代の青年のように見えた。 逆に果歩は、仕事帰りの、なんの変哲もないコート姿である。服も靴もノンブランド。バッグだけはお気に入りのブランド物だが、所詮、値段はお手軽価格である。 気おくれがないと言えば嘘になったが、この手のストップ高が見えない富豪相手に、そもそも釣り合う格好をしろと言う方が無理なのだ。 それを果歩は、過去の経験からいやと言うほど理解している。 「私の……味方、ですか」 用心深く、果歩は訊いた。 「そうですよ」 にっこりと帝は答える。 「じゃ、妹さんはどうなるんですか? 妹さんも、藤堂さんのことが、本当に好きなんだと思いますけれど」 勇気を振り絞って訊いた質問だが、それには帝は微かな笑いを返してくれただけだった。 「……私、……藤堂さんと、話がしたいんです。彼が、正式に婚約してしまう前に」 果歩は諦めて、自分の本心を切り出した。 自分のためではない。未婚の母になることを1人で決めてしまった、健気な乃々子のために、である。 「話をして……その上で、彼が婚約されるのなら、もう仕方がないと思っています。今は、彼と連絡が取れない状況なので」 「携帯は? 瑛士は貧乏性だけど、携帯くらいは持っているでしょう」 「持ってますけど、ここ数日、かけても出てくれないんです。旅行先で失くされたと、藤堂さんはそう言っていますけど」 「ははぁ……。じゃあ仕方がないですねぇ」 帝はそれで納得したようだったが、この件については、未だ釈然としないものを感じている果歩である。 「松平さん。ご迷惑を承知の上でのお願いなんですけど、藤堂さんのご実家の電話番号とか……とにかく、彼と連絡する伝手を教えていただけないでしょうか」 「それは、無理ですね」 あっさりと帝は言った。 「理由は二つあります。まず瑛士がどこで寝泊まりしているか、僕自身が正確には知らされていないこと。そして瑛士の実家の番号は――様々なセキュリティ上の問題があり、迂闊に他人にはお伝えできないということです」 「……人づてでも、構わないんです」 辛抱強く果歩は言った。 「私、どこにだって電話しますし、いつまででも待ちますから、彼と話をさせてもらえないでしょうか」 「無理ですよ」 笑うように、帝は言った。 「あなたと僕がどんな伝手を使って瑛士と連絡を取ろうとしても、香夜が全て遮断してしまうでしょう。残念ながら、妹は僕の何倍も賢くて行動的で、その上、身近に強力な人力を持っているんです。まともな方法では僕らに勝ち目はありませんよ」 「…………」 「まだ判りませんか? 香夜のテリトリーに入り込んだ時点で、瑛士はすでにあなたの手の届かない場所に閉じ込められてしまったんです。まず、外部から助け出す方法はありません。囚われのお姫様本人が、自分の意思で出て行かない限りね」 ――え……? 「もし瑛士がその気になれば、いつだってあなたと連絡を取れていたという意味ですよ」 楽しそうに、帝は続けた。 「二宮の家には、瑛士を慕う有能なブレインが何人もいるんです。その中でも群を抜いて優秀な執事が1人いて、瑛士が一声命じれば、どんな離れ業でもやってのけるでしょう。が……瑛士はそれを望まない。あなたに瑛士からの連絡はないはずだ。違いますか」 果歩はただ、黙っていた。 その通りだった。 たとえ携帯を失くしても――本当に連絡が取りたければ、どんな方法でもあるはずだ。 「あの……」 くじけそうな気持ちを叱咤しながら、勇気を振り絞って果歩は顔を上げた。 自分のためではない。これは、乃々子のためなのだ。 「どうして藤堂さんは、香夜さんと結婚されることに決めたんですか。正直言えば、あまりに突然で――それまでの彼の態度からは、どうしても信じられなくて」 「的場さん」 静かな声で、帝は言った。 「それは、最後のお楽しみにとっておきませんか? もちろん僕は、その答えを知っています。が、今あなたにそれをお伝えすることが、果たして正解なのかどうかは判らない」 「どういう意味でしょう」 「今、僕があなたに言えることはひとつだけです。瑛士に会いたいなら――瑛士を取り戻したいなら、僕の指示に従ってもらいたい」 「…………」 「その上で、今のあなたの質問にお答えするとお約束しましょう」 果歩は、不審さを隠しきれずに、男を見上げた。 「私、何をしたらいいんでしょうか」 「難しいことじゃありません。楽しくて刺激的で――わくわくすることですよ」 本当に帝の横顔は、冒険にでかける子供のようにわくわくして見えた。 「僕らは、瑛士を奪還するためのチームです。キャプテンは僕で、君は助手。だから君は、僕の言うことはなんでも聞かないといけないのです」 果歩はただ、はぁとしか言えない。 一体どこまで本気で、どこまでこの男を信じていいか、それさえもまだ判らない。 「――それでも、できることと、できないことがありますから」 迷いながらも、きっぱりと果歩は言った。 「自分のしていることが、藤堂さんの迷惑になると判ったら、その場で失礼させていただきます。申し訳ないですけど、私、あなたと藤堂さんの関係もよく判らないですから」 「どこまでも瑛士の味方、というわけですね」 帝の口調は楽しそうだった。 「もちろん、それでオッケーですよ。しかしこれが戦いだということを忘れてはいけない。時に人は、他者を傷つけることさえ畏れてはいけないものなのです」 何故か、胸の痛いところを突かれた気になり、果歩はうろたえて視線を下げていた。 「まぁ、とくと拝見させていただきますよ。そもそもあなたに闘志がなければ、僕の作戦は成り立ちませんからね。その時は、もちろんチームは解散しましょう」 ************************* 「これ、どういうことなんですか」 ドレスルームから引き出された果歩は、強張った顔で帝に目をやった。 「いやぁ、よくお似合いだ。やはりあなたには、真珠色がよく似合う」 立ちあがった帝が、目に賞賛の色を浮かべて手を叩く。 そして彼は、恭しく彼の傍に控える黒服の店員を振り返った。 「このドレスに映えるアクセサリーを。そうだな、ティアラとピアスとネックレスをセットで持ってきてくれないか」 「松平さん」 果歩は、たまらず声を荒げていた。 「一体何の真似なんですか。私――あなたに、服もアクセサリーも、何ひとつ買っていただく謂われはありません」 まるで、8年前の悪夢の、性質の悪いリピートを見ているようだった。 8年前。当時愛していた人――真鍋雄一郎の叔父だと名乗る人物に、果歩は高級ブティックやサロンを連れ回された挙句、真鍋家の人間が勢揃いしているパーティに連れ出された。 忘れもしない。ホテル・リッツロイヤル。 そこにいたのは、雄一郎と彼の婚約者――その年の暮れには、彼の妻となった女性だった。 騙されたとはいえ、あんな席にうかと顔を出しさえしなければ――真鍋市長や彼の妻である麻子を、あんな形で欺くこともなかったのだ。 「おや? 何も聞かない約束ではなかったですか?」 果歩の剣幕を、帝は余裕の笑顔で受け流した。 「それとも、あなたの瑛士に会いたいという気持ちはその程度のものだったんですか? だったら残念ですが、チームはここで解散ですよ」 「解散してくださって、結構です」 怒りの気持ちが収まらないままで、果歩は言った。 午後7時。ブラウス1枚が10万をくだらない高級プティック。店員は皆、はらはらした表情で果歩と帝の様子を窺っている。 「もう、説明してくださる必要もありません。あなたの思惑はよく判りました。私を、藤堂さんの婚約式に連れて行くつもりなんですね?」 「その通りです」 両手を広げ、帝は邪気のない笑顔になった。 「何故なら、それしか香夜の防護壁を突破する方法がないからです。ここに、正式な招待状がある――僕のパートナーのために、香夜から1枚せしめてきました。まさかその相手が的場さんだとは、さすがの妹も想像がつかないでしょう」 「大切な喜びの席に、私なんかが顔を出して、――さぞかし驚かれるでしょうし、気分を害されると思います」 怒りを押し殺しながら、果歩は言った。 「香夜さんだけでなく、ご家族の皆さんが、ひどく不快な思いをされることになるでしょう。申し訳ありませんが、私にそんな真似は死んだってできません!」 あっけにとられている帝を置いて、果歩は再びドレスルームに戻った。 「服をください。元の服です」 突っ立っている店員に厳しく言うと、慌てた様子で脱いだ服が差し入れられる。 果歩は、胸元の大きく開いたパールホワイトのドレス――なんの因果か、それさえも8年前を彷彿させるイブニングドレスを脱ぎ、元の衣服を身に付けた。 ――冗談じゃない。 そんな真似、絶対にできないし、まともな神経がある人間がするようなことじゃない。 コートを羽織って店から出ようとすると、帝が後から追いかけてきた。 「バッグです」 きつい目で振り返った果歩に、店員に預けていたバッグが差し出される。 果歩は、自分が怒りで我を忘れていたことに気づき――少しだけ恥かしくなった。 「すみません」 「いえ、僕も、そこまであなたが気分を害されるとは思いもしなかったので」 微笑んだ帝に屈託なく返され、ますます果歩は恥かしくなる。 果歩が怒りを覚える本当の理由が、帝に判るはずもない。 果歩にしても、8年前の悪夢を思い出しさえしなければ、ただ驚くだけの展開だったろう。実際、パーティに乗り込むかどうかは別として――。 「……恥をかかせてしまってごめんなさい。でも私、それだけは……できかねます」 「瑛士は、香夜と結婚してしまいますよ」 帝の声は優しかったが、突き放した冷たさも同時に含んでいた。 「君が直接乗り込んで行って、そこで瑛士の寝ぼけた頭を覚まさせるしかない。瑛士を取り戻すには、そうするしかないと思っていたんですけどね」 果歩が見上げると、帝は色違いの目を細め、微かに苦笑した。 「もちろん、香夜は驚くでしょうし、香夜の両親――僕の父母でもありますが、2人とも怒るでしょう。瑛士の養親も不快に思うかもしれません。が、それがそんなに、畏れるようなことですか?」 畏れるような――こと? 「僕にはそれが、ちっとも悪いことだとは思えないんですよ。本当に畏れることは他にある。違いますか?」 「…………」 「僕は若い頃、恋の苦しさから逃げたばかりに、愛する人を失った後悔をいやというほど味わいましたからね。……あなたが躊躇する理由が、人生という長い時間の中ではまるで大した問題ではないと、それをよく知っているんです」 果歩は、表情を強張らせたまま、黙っていた。 判っている。この人の助力を失ってしまえば、藤堂を取り戻す術はない。 彼は香夜と結婚し、二度と手の届かないところに行ってしまうだろう。 でも――それでも。 「……無理です……」 振り絞るように、果歩は言った。 「私には……そんな真似はできません。……できそうもありません」 その刹那、涙が溢れそうになっていた。 ようやく果歩は理解した。 ずっと乃々子のためだと自分に言い聞かせてきたけど、そうではなかった。 この期に及んで、まだ自分は、藤堂を自分の元に取り戻そうとしているのだ。乃々子の涙や潔い決意を目の当たりにして、それでもまだ――。 「――私……」 そんな自分が、情けないし、悔しい。 妊娠してもなお、自分のことを気遣ってくれる乃々子に――何もしてあげられないことが。 俯いて、感情の波に耐える果歩を、帝は静かな目で見下ろしているようだった。 「香夜は、妊娠しているんです」 ――え? 聞き間違いだと思った果歩は、呆けたように顔をあげた。 「そして瑛士は、それが自らの責任であってもなくても、香夜にそう告げられたら、頷くしかなかったでしょう」 「……どういう、ことですか?」 遅れてその意味を解した果歩は、激しく動揺しつつも、その不可解さに眉をひそめた。 乃々子についで、香夜さんも妊娠? 悪夢の中で、もうひとつ別の悪夢を見ているような気分だ。 でも、そんな偶然ってあるのだろうか? しかも、今の帝さんの言い方だと―― 「香夜が8年前、やはり瑛士の子を身ごもったのはご存じですか」 再び表情が固まるのを感じ、果歩はぎこちなく頷いた。 香夜の一方的な告白を全て信じたわけではないが、藤堂はその件では一言も言い訳をしなかったし、そういった過去は、確かにあったのだろうと推測するしかなかったからだ。 「その時、瑛士は一つの選択をしたんです。だから今回も、同じ選択をするしかなかった。僕はそう思っています」 果歩はますます意味が分からなくなった。 それはどういうことだろう。 「香夜は最初からそれを知っていたし、だからいつでも瑛士を取り戻せると確信していたような気がしますね。ただ、その選択は、今の瑛士にも香夜にも――不幸だとしか言いようがない」 果歩を見下ろし、帝は優しく微笑した。 「お気持ちが変わったら、いつでも連絡してください」 それには、すぐに言葉が出てこない。 そこにどんな事情があっても――どうあっても――果歩には、8年前の悪夢を乗り越えることはできないと思った。どうしても。 携帯が鳴っていることに気づいたのはその時だった。 りょう――。 ディスプレイに出た名前に驚いていると、「どうぞ」と帝が優しく促してくれた。 「もしもし、果歩?」 仕事中なのか、りょうの声は、どこか忙しなかった。 「今どこ? よかったら、今夜飲めないかな。いつもの店にこれから来られる?」 「……あ、うん」 躊躇いながら帝を見上げ、果歩は携帯を持ち直した。 「また連絡する。少し遅くなるけど、顔は出せると思うから」 りょうから、こんなに性急に誘われるなんて初めてだ。何があったんだろう――と思いながら携帯をバッグに収めていると、頭上から帝の声がした。 「瑛士も香夜も、今はまだ迷宮の中にいるのかもしれない」 ――迷宮……? 果歩が見上げると、どこか遠くを見つめたまま、静かな口調で、帝は続けた。 「それは8年前の世界と、今を繋ぐ迷路です。出口はすぐそこにあるのに、2人は手を取り合って過去へ、過去へと向かっている。無理もない。あの当時、香夜は20歳で、瑛士はまだ17歳でした。修哉が死を選んだ時――」 そこで、帝は初めて言葉を詰まらせた。 「2人の魂の一部も、一緒に死んでしまったんでしょうね。瑛士は強い男ですが、その時負った心の傷は、瑛士が思っている以上に深かったのかもしれません」 ―――――――――――――――― 「成績はどの科目も申し分ありませんが、総合評価はAのクワドラブル。一昨年の修哉様が最高ランクのファイブAをお取りになられましたから、それにはやや劣るといったところでしょうか」 学院長の説明に、二宮喜彦(よしひこ)は鷹揚に頷いた。 二宮家本殿――使用人たちがそう呼んでいる建物は、敷地内のほぼ中央にあった。 橙の壁に朱柱で構成された巨大なドーナツ型の建物で、建物中央に恐ろしく広い庭を擁している。 西洋でも東洋でもない独特の建築物は、遡れば明治の時代に建てられたという話で、明るい色彩なのにずっしりとして重く――そして暗かった。 「その差はなんだね。ああ、本人がいることは気にしなくともよろしい。忌憚のないところを教えてくれたまえ」 ビロード張りの肘掛椅子に腰掛けたこの家の当主、二宮喜彦の前で、瑛士の通う学院の長は直立不動のままである。 この、40畳あまりもある広い部屋は、当主喜彦の自室であった。 いつ来ても埃ひとつないこの部屋には、磨き抜かれた応接テーブルと重厚な色味の長椅子が備えられている。 竜虎が描かれた東洋風の衝立の向こうが喜彦の寝室で、彼の趣味なのか寝室の装飾は全てがエキゾチックなアジア仕立てだった。 当主喜彦は、自室ではいつもそうであるように、紺の銘仙の着物をまとい、ちょこん、と肘掛椅子に腰掛けていた。 まだ老人にはほど遠い年だろうに、白髪が多いせいか、随分と老けて見える。痩身で撫で肩。背丈も中程度で、体格は決して立派な方ではない。いつも閉じられたような半眼に、緩いハの字を描く優しげな眉。 いかにも庭で盆栽いじりや猫の餌やりをしていさそうな――みるからに風采の上がらない初老の人――といったところだ。 もちろん、瑛士も最初は全く判らなかった。 時折、近所の公園で日向ぼっこをしている優しげな男が自分の伯父で、とてつもない資産と人脈を持つ人物だったとは。 その男――二宮喜彦が、瑛士の母の元を再三訪れるようになって一カ月たった頃だった。 (瑛士、お前には黙っていましたが、お前の父親はとある閨閥の血を引く人。先日お出でになられた二宮様はその兄に当たります。そして、お前を引き取りたいと仰っておられるのです) 夏休みに入る少し前の朝、姿勢を改めた母に、瑛士はそう打ち明けられた。 (色々迷いましたし、悩みもしましたが、二宮様のお話を伺って、お前のためにはその方がいいと判断しました。瑛士、これはもう決めてしまったことです。お前は二宮の家に行きなさい) (それが、お前の血が持つ運命だったと心得なさい。どのみち、逃げられない定めなら、自ら飛び込んでいくのです) すぐに納得できることでもなければ、話の意味すら理解できなかった。 が、抗議した瑛士に、母は厳しい口調で言った。 (どこへ行こうと、自分の血からは決して逃れることはできないのです。ならば、自らその運命に賢く立ち向かっていきなさい) その母の目は、気づけば赤く腫れあがっていた。昨夜、一睡も出来ずに泣き明かした人のように。 あの日から、何もかもが慌ただしくすぎていった。夏休みに入ってすぐに二宮家の門をくぐり、そして秋――今なら、母が言った言葉の意味が瑛士にも判るようになっている。 二宮家とは、瑛士が想像していたいわゆる『富豪』とは全く異なる存在だった。 別段、二宮家が独自に事業を展開しているわけではない。グループ化した企業を率いているわけでもない。 なのに、実質日本政経会の中心に、この二宮家は存在しているのだ。それは決して表だったものではないから、闇の中心、と言っても過言ではないのかもしれない。 二宮家本殿。当主喜彦の自室には、これまで沢山の人が訪れた。 喜彦は、ことあるごとに瑛士を部屋に招き寄せ、その現場に立ち合わせた。 来客の殆どが、テレビで顔を見る政治家たちだった。――首相、経団連会長、各国の要人、一番驚いたのは、アメリカ合衆国の大統領補佐官が訪れた時かもしれない。 日本国総理ですら、喜彦の前では、自らが格下のように振舞っていた。10歳の瑛士には、まるで、悪い夢でも見ているような光景だった。 彼らがひれ伏しているのは、二宮家が持つ莫大な資産と情報、そして人的なコネクションだ。 いってみれば、日本が歴史の中に埋めさせてきたありとあらゆる闇が、この一族の血脈の中に隠されている――。 「その差……と、申しますと、それは」 今、喜彦の前で、しきりと額の汗を拭っているのは、瑛士、修哉、帝、香夜の4人が通う、学院の長である。 元は文部大臣も務めたという70前の老人は、喜彦の前では起立した体制を崩そうともせず、ひたすら恐縮の態を取っていた。 「それは、二宮家当主にどちらがふさわしいか、という点に鑑みて、お答えせよという意味でございましょうか」 「いわずもがなだ」 あっさりと喜彦は答えた。 瑛士は、喜彦――今では父となった人の傍らに立ち、彼らの会話を聞いていた。 学期を終えた直後、一生徒の学業成績の報告に校院自ら出向いていることにも驚かされたが、ファイブAとかAのクワドラブルとか、そんな隠れた評価がなされていることも驚きだった。 瑛士の背後には、いつものように片倉が、一切の存在を感じさせずに控えている。 「では申し上げます。その差は……、点数ではございません」 恐縮した態で、学院長は続けた。 「たとえば、数的分野などでは、瑛士様のほうが優れた点数をとっておいででございます。いえ、その面に関しての学力は、そのお年にして、すでに超高校級といってもよろしいでしょう。とても今春まで、公立小学校で一般教育を受けていたとは思えません。一種の天才……と言ってよろしいかと」 「瑛士の頭のよさは、今さら言ってもらうまでもない。修哉との差はなんだ」 「覇気、とでも申しましょうか」 おずおずと、院長は答えた。 「覇気だと?」 「修哉様の回答からは、――それがどの分野に関しても同じことでございますが、鬼気迫る何かが伝わってくるのでございます。答案を作った者をもねじ伏せる一種の気迫とも申しますか――」 「……ふむ」 顎を撫でる喜彦は、それが実の息子のことを言われているにも関わらず、どこか不快気だった。 「その気迫、白を黒に変えてしまうほどの凄まじいご気性が、当院でかつて出したことのないファイブAという評価に繋がったのでございます。忌憚のないご意見を、とのことなので申し上げました。今時点でお二方を比べれば、その差は歴然――Aひとつの差ではございますが、意識の高さという点におきましては、瑛士様と修哉様は比べようがないといっても過言ではございません」 「わかった」 喜彦は手を上げた。 「もういい。なるほど、確かに我が息子ながら、修哉には時々気圧される時がある。――いずれにしても、瑛士にはまだまだ修行が必要だな」 そうして喜彦は、傍らの瑛士を見下ろして微笑した。 慇懃で柔らかな物言いであり、笑い方であったが、何故か瑛士には、義父が今、ひどく失望しているような気がした。 何故だろう。 修哉はこの人の実の息子であり、自分はこの人の弟に当たる人の息子である。 弟の子より、自身の子が優れていると言われたら、普通はもっと喜ぶのではないだろうか。 「なるほど……瑛士の能力を持ってしても、修哉には及ばないか。なるほど、なるほど」 独り言のように呟いた義父の横顔が、ひどく残念そうだったのが、瑛士にはいつまでも忘れられなかった。 「何故、わざわざ他人の子を連れてきてまで、当主の座を争わせなければならないんだろう」 本殿からの帰途、自身の館に片倉と連れ立って帰りながら、瑛士はふと漏らしていた。 「競い合うことで、より個々の能力を高めるためでございましょう」 静かな口調で、片倉は答えた。 外は雨が降っていた。 灰色の世界――暗い雨の音を聞きながら、少し考えて瑛士は言った。 「……父親なら、自分の子に跡を継がせたいと、そう思って然るべきではないのかな」 「瑛士様も、息子の1人でございますよ」 「でも――」 言い募る瑛士を、片倉は珍しく厳しい目で見下ろした。 「そういったことをお考えになるのは、あまりよいことではございません。確かに御前様のご子息は修哉様お一人ですが、後継者選びに置いてはなんの意味もないのです。そうお考えになるのは、むしろ修哉様に失礼というものしょう」 なんの意味もない? やはり瑛士には判らなかったが、それは自分に、生まれてから今まで本当の意味で父親という人がいなかったせいかもしれない。 「今、お父様が残念に思われたのは」 雨にけぶる景色を見ながら、瑛士は言った。 「僕が、気持ちの面で修哉兄さんに負けていたからだろうか」 「そう思われるなら、決して負けぬよう努力精進されることです」 淡々と片倉は答えた。 「少なくとも、御前様は、それを強く望まれておいでのようですから」 それは、判る。 しかし、父なら、やはり実の子に跡を継がせたいと思うのが、当然の願いではないのだろうか? なのに何故――あの人は、こうも自分を優遇するのだろうか? ************************* 「ごめん、遅くなって」 閉じた傘の雨を払いながら、果歩は言った。 「雨、降ってるの?」 静かな店内の奥から、りょうの声がする。 「うん、大急ぎでビニ傘買って来た。帰りは一緒に……」 振り返った果歩は、そのまま固まっていた。 りょうの行きつけのバー「Dark clow」。 その名の通り、闇鴉みたいな美貌のマスターが経営しているショットバーだが、狭い店内はドアを開けるとほぼ丸見えだ。 今も、振り返った果歩の視界に――カウンターに座る2人の女性の姿が見えた。 「ま、的場さん!」 蒼白な顔で立ち上がったのは、りょうではなくその傍らに座っていた乃々子だった。 果歩はまだ唖然としている。 ――どうして……? なんで、乃々子? 今、一番顔を合わせるのが辛い相手が――どうして、ここに? 「あ、あのですね。なんだか、あのっ、すみませんっ、私」 真っ蒼な顔をして、しどろもどろになっている乃々子は、バーにはおよそ相応しくない、黒のセーターにデニムのロングスカートという格好だった。いかにも急いで家から出てきたような――そんな感じだ。 「まぁ、まぁ、乃々子ちゃん、落ち付いて」 そこでりょうが笑いながら立ち上がる。 その、いかにも愉快そうな笑いが、果歩にはこれまた信じられない。 もしかして、乃々子を呼んだのはりょう……? 信じられない。この深刻な状況で、どうしてそんな笑い方ができるんだろう。 呆然と突っ立つ果歩を見ながら、りょうは乃々子の肩を抱いて、元の席に座らせた。 「果歩もほら、座りなさいよ」 「う……うん」 まだ釈然としない果歩は、店内唯一のボックス席に視線を彷徨わせ――そして、再び愕然としていた。 そこで、一人きりでぼちぼちカクテルを飲んでいるのは―― 「こ、晃司?」 「よ、……」 仕事帰りと思しき晃司は、いかにも気まずげに片手を上げる。 果歩は、驚きで声も出ない。 「どうしたの? ……偶然?」 「まぁ、偶然っつーか、なんつーか」 再び気まずく視線を彷徨わせる晃司。 「乃々子ちゃんを連れてきてもらったのよ」 りょうが、笑いながら助け舟を出した。 「私じゃ連絡先まで判らなかったからね。ま、いいじゃない。彼も大方の事情は知っちゃったみたいだし」 いや、だからって、晃司まで……。 りょうがいるだけでもどうかと思うのに、ここで、乃々子とどんな話をすればいいの? 「さ、乃々子ちゃん。落ち着いたら、果歩にきちんと最初から話してみようか」 意味深な笑いを浮かべながら、りょうが乃々子をうながした。 「順序だてて説明しないと、また果歩が勘違いしちゃうからね。ま、今回の一番の原因は水原君の早とちりと、藤堂君の黙秘主義……。乃々子ちゃん本人も聞いて吃驚の展開だったみたいよ」 |
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