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年下の上司 story15〜FeburuaryA

こんにちは赤ちゃん、あなたがパパよ(7)



 ―――――――――――――――――

「瑛士、欧州に行ってみないか」

 義父にそう切り出されたのは、月の一度の晩餐会の席だった。
 月の最終日曜日、二宮家本殿の食堂に4人の後継者候補が呼び集められて行われる、当主喜彦が主宰の晩餐会である。
 瑛士が二宮瑛士になった初めての年の冬――その前日、東京には初雪が降ったばかりだった。
「欧州、ですか」
 戸惑った瑛士がそう訊き返す頃には、帝、香夜の2人が、既に険しい表情で喜彦の顔色を窺っている。
 長方形の長いテーブルに、4人は当主喜彦を囲む形で座らされていた。
 4人の背後には、それぞれについた4人の執事たちが一切の表情を顔に出さずに控えている。
 瑛士の背後には片倉が。修哉の背後には――その片倉の父親で、二宮家の中では最も老齢の執事が控えていた。
「そう、もう直学校も休みに入るだろう」
 喜彦は上機嫌にそう言うと、料理の皿を脇に押しやった。
 たちまち、背後の給仕係が、その皿を下げに来る。
「ベルギーで、知り合いの結婚式に招かれていてな。どうだ、10日ばかりの短い旅だが、私の供をしてみるつもりはないか。若いうちに世界を見ていくというのは、いい経験になる」
「おじさま、それはエレオノラ王女の結婚式ではなくて?」
 すかさず口を挟んだのは香夜だった。
「ほう、香夜はさすがによく勉強しているな」
 喜彦は細い目をますます細めて、緋色のワイングラスに手を伸ばした。
「ベルギー皇室の第二継承者の結婚式ですもの。……でも、それに瑛士さんを?」
「まだ、早すぎではないですか」
 眉をひそめる香夜の後を継いだのは、その兄の帝である。
「ほう、帝はそう思うかね」
 呟いた喜彦の半眼が薄く開き、その途端、何故か帝は泡を食ったように言い訳を始めた。
「いや、なにもおじ様のご決断に異を唱えるつもりはありません。その……、そのような公の場に出るには、……なんというか、瑛士はまだ勉強不足なのではないかと……」
 帝の目が、助けを求めるように対面に座る修哉に向けられる。
 修哉は、今の会話がまるで耳に入らないように、1人、黙々とナイフを動かし続けていた。
「確かに瑛士はうちに来て間もない。故に、なにごとも経験だと、私はそう思うのだがね」
 にこやかに微笑んだ喜彦は、帝の反論に気を悪くした風でもなく、優しい笑顔のままで、瑛士を見下ろした。
「どうだね。瑛士、お前の将来のためにも、ベルギー皇室と知己になっておくのはよいことだと思うがね」
「はい……」
 答える瑛士は、それまでにない憎悪のこもった眼差しを、帝と香夜の2人から注がれるのを感じていた。
 ただ1人修哉だけが、表情ひとつ変えず、無言の眼差しをテーブルの上に向けている。
「――各国皇室行事に、喜彦様が非公式で招かれるのはよくあることですが」
 晩餐の帰途、片倉が控え目に、帝と香夜の視線の意味を説明してくれた。
「そこに、ご子息をご同行されることなど、いままで一度もないことでございました。おそらくは瑛士様が特別扱いされていることに、疑問を感じたのでございましょう」
 では、修哉でさえ、一度もそういった行事に同行したことはないのだ――。
 瑛士は改めて驚きを感じ、同時にたまらない居心地の悪さを感じた。
 一体何故、伯父は実の子と弟の子をあえて競わせ、なおかつ、傍目には弟の子を優遇しているような真似をするのか。
「片倉。僕は、どうして特別扱いをされるんだろうか」
「それが、特別な扱いと言えるのなら、ですが」
 言葉を選ぶように、片倉は続けた。
「喜彦様のお心は、残念ながら若輩の私には判りかねます。そして、判らない以上、考えても無駄なこと。ならば、ただ黙ってお言葉に従うべきだろうと思います」
 
 ――――――――――――――

「さ、どうぞ。あなたのことは嫌いだけど、毒は入っていなくてよ」
 初めて香夜の館に招かれたのは、その翌日の午後だった。
 玄関を開けた途端、数匹の猫が瑛士を出迎え、あらゆる部屋には様々なぬいぐるみや人形が可愛らしく並べられていた。
 初めて入った異性の部屋――香夜という人のプライベートな部分に、瑛士は少しばかりの違和感を覚えていた。
 2歳違いの香夜は、修哉と同じ中等部1年生である。
 その愛くるしさと、雰囲気に相反する頭脳明晰ぶりは、初等部5年の瑛士の耳にも入ってくるほどで、いわば、全校生徒の憧れであり、模範生のような存在だ。
 勉強は言うに及ばず、スポーツもほぼパーフェクトな成績で、修哉という人の婚約者にまさに相応しい女性だと――瑛士は内心思っていた。
 が、この室内の装飾は、瑛士が思う香夜のイメージを大きく裏切るものだった。
 全てが優しいピンク色で統一され、リボンだったり、レースだったりと、これでもかといわんばかりに女の子的な飾りが施されている。女性の部屋といえばそれまでだが、甘えん坊のようで実はクールな香夜の印象とはかけ離れた内装だ。
 屋敷内での彼女が、好んでピンクの衣装やリボンを身につけるのは知っていたが、ここまで徹底したものだとは、正直思ってもみなかった。
「なぁに、おかしな顔をして。女性の部屋に招かれた時は、もっと幸福そうな顔をするものよ。瑛士さん」
「あ、いや、……すみません」
 来客用にテーブルについた瑛士は、素直に謝った。
 意地悪い面はあるものの、瑛士は基本的に目の前の人が嫌いではなかった。兄の帝同様、苦手には違いないが、本当の意味での敵意を、この人からは感じたことがない。
「猫が……お好きなのですか」
「ええ、大好きよ」
 愛らしく、香夜は笑んだ。
「ピンクちゃんに、ブルーちゃんに、パープルちゃんに、レッドちゃん。まだまだいるけど、みんな、私の大切なお友達よ」
 彼女の膝に這いあがった一匹のポメラニアンに、香夜は優雅にキスをした。
「瑛士さんは、動物がお嫌い?」
「……好きですよ。でも、香夜さんほどではないかもしれない」
「修哉さんは大嫌いなんですって。あの人は可愛いものも可愛い色も大嫌い。だから、私の部屋に来るのをひどく嫌がるの」
「……そうなんですか」
 その割りには、脩哉は再々香夜の館を訪問している。それは婚約者としての儀礼的
ものだと聞いてはいるが、だとしたらさぞかしその時間は苦痛だろう。
「実は、折り入ってお願いがあるのよ。瑛士さん」
 クッキーの皿を瑛士の前に差し出しながら、香夜はそう切り出した。
「なんでしょう」
 聞き返す瑛士に、彼女の用件は判っていた。先日の欧州旅行のこと――もしくはそれに付随しての話だろう。
 が、しばらくの間香夜は何も言わず、ただまじまじと瑛士の顔を見つめていた。
「瑛士さんって、本当に和彦おじさまにそっくりね。目元や唇もそうだけど、子供のくせに、妙に落ち着き払っているところも本当にそっくり。これじゃあ親戚の誰もが養子縁組に口を挟めなかったはずね。血は水よりも濃いと言うけれど――」
「僕の、父のことですか」
「写真くらいご覧になったことはあるのでしょう? 瑛士さん、きっと背が高くなるわ。和彦おじさまはね、それは背の高い方で」
「用件をお聞きしてもいいですか」
 瑛士はやんわりと香夜の饒舌を遮った。
 瑛士が二宮の養子になるに際して、ひとつだけ――自ら出した条件がある。
 決して父親のことを自分の前で話さないこと。
 喜彦は、理由を問い質すこともなくその条件を承諾し、だから瑛士は、いまだ自身の父親のことを、名前以外一切知らない。
「あら、素っ気ないのね。つまらないこと」
 香夜は肩をすくめながら、瑛士の前に再度紅茶を進めた。
「毒は入っていないわ」
「何度も念を押さなくても、疑ってはいませんよ」
 香夜の子供っぽさに、藤堂はやや辟易しながらカップを持ち上げる。正直言えば、紅茶はあまり好きではない。
「念を押すのは、入っているかもしれないからよ」
「――え?」
 唇につけかけたカップを、瑛士は再びソーサに置いていた。
「どういう意味です」
 香夜の目が、不思議な興奮できらきらしている。
「無邪気な瑛士さん。私と帝兄さんが、あなたのことをどれだけ嫌っているか本当に知らないの? 私はね、修哉さんのためだったら人殺しだって厭わないのよ」
 ふふっと含んだように香夜は笑った。
「ここであなたが死んだとしても、きっとおじ様が穏便に済ませてくれるわ。二宮の家とは、そういうところだもの」
「…………」
「飲む? 飲まない? 選ぶのはもちろん、瑛士さんよ」
 見つめた香夜の目は、好奇と期待と、そして意地悪い悦びで輝いている。
 瑛士はわずかに沈思し――カップで揺れるルビー色の液体を見つめた。
 もちろん、冗談だと思ったが、この家は何もかもが瑛士の想像を超えている。何が起きても不思議はない。
 飲まないといってしまえば、それまでだ。
 薄気味悪さを殺してまで、飲むようなものではない。
「…………」
 足元を無数の猫がすりぬける。ぬいぐるみと人形だらけのお姫様の部屋。
 次の瞬間、瑛士は意を決して、カップに唇をつけていた。
 飲み干した時、さすがに衣服の下に汗がにじみ出たが、変化はそれだけだった。
「お代わりを淹れるわね」
 香夜はにっこり笑い、自分が放った性質の悪い冗談をあっさりとスルーした。
「それでお願いというのはね。もう、お察しだと思うけれど、喜彦おじさまとの欧州行きを、瑛士さんの口からお断りしてほしいのよ」 
 何事もなかったように2杯目の紅茶を瑛士の前に勧めると、香夜は改めて、彼女の用件を切り出した。
「僕も気が進みませんが、……断ることもできないので」
「いいえ、それでも断るべきだわ」
 香夜はきっぱりと言い切った。
「それでは、あまりに修哉さんがお気の毒すぎるもの。もう片倉に聞いたでしょう? おじ様が海外に私たちをお連れになったことなど、今まで一度もなかったのよ」
 非難がましく瑛士を見上げた香夜の目は、わずかだが潤んでいる。
 胸は痛んだが、それでも瑛士には何も言えない。
 養われている自分の立場では、喜彦に意見などできないからだ。
「……喜彦おじさまは、修哉さんを疎んでいらっしゃるのよ」
 やがて、呟くように香夜は言った。
「疎む……ですか?」
 さすがに、瑛士は耳を疑っていた。
「……修哉さんはね、もうおじ様にとって邪魔な存在でしかないのよ」
 振り絞るように言うと、香夜は唇を震わせてうつむいた。その宝石のような双眸から滑り落ちる涙を――どうして、嘘と見抜けただろう。
 その意味では瑛士はまだ本当に子供で、香夜は恐ろしいほど強かな女だったのだ。
「それは、どういう意味なのですか」
 動揺しながら瑛士が訊くと、不意に両手で顔を覆って泣きむせびながら、香夜は続けた。
「……脩哉さんは、亡くなられた前の奥さまの忘れ形見なのよ。今の奥様にとっては継子なの」
 瑛士は驚きで目を見張った。
 喜彦の妻という人はおっとりとした深窓の令夫人で、脩哉をとても可愛がっているようだった。むしろ後からやってきた瑛士を疎んでいるようでもあり、とても脩哉との間に因縁があるとは思えなかったのだ。
 しかも――脩哉にとっても養母だったとは。
「喜彦おじさまはね、前の奥様をとても愛しておられて――その女性には他に婚約者がいたそうなのだけど、無理矢理別れさせてご自分の花嫁にされたほどなの」
 むせび泣きながら、香夜は続けた。
「けれどその方は、脩哉さんが5歳の頃にお亡くなりになられたわ。あれほど愛した奥様だったにも関わらず、それからほどなくしておじさまは再婚された。あまりに早い再婚に周りは随分驚いたものだけど、私、両親の話を聞いてしまったの、――脩哉さんは、おじさまの血を引いていない。亡くなられた奥様と以前の婚約者との間にできた子だったんだって」
「…………」
「だからおじさまは、脩哉さんにだは二宮の家を継がせたくないのよ。でも結局、今の奥様との間にお子様は授からなかった。それで瑛士さんを引き取ることになったのよ」
 ――そういうことだったのか。
 そういう事情があるのなら、瑛士の身に降りかかった運命の変転の理由も、全て腑に落ちる。
「誰だって、ううん、修哉さんご自身にだって、血の繋がりを疑うには十分だったと思うわ。だって修哉さんは、何ひとつ喜彦おじさまとは似ていないのだもの。喜彦おじさまもきっと、随分苦しまれたに違いないわ。でも、全く血の繋がりのない人間を二宮の当主に据えることはできない。だから、瑛士さんを探し出されて、引き取られたのよ」
「……それは、本当の話なのですか」
 動揺しながら、瑛士は訊いた。
 だとしたら、自分の存在そのものが――修哉を苦しめていたことになる。
 しゃくりあげながら、香夜は続けた。
「もちろん、表向きは絶対に話してはいけないことよ。二宮家の中では、口にすら出してはいけない秘密よ。だって、修哉さんは、おじ様にしてみれば裏切りの証なのですもの。……ああ、本当にお気の毒な修哉さん!」

 ――――――――――――――――

「どうしたね、瑛士」
 許しなく本殿に足を踏み入れてはいけない。
 当主喜彦に会うのも、事前の許可が必要である。
 そのルールを全て破った瑛士を、さすがに喜彦は厳しい眼差しで迎え入れた。
 二宮家本殿。喜彦の書斎。
 外は、霧のような雨が音もなく降っている。
「――失礼します。瑛士様!」
 背後から、緊張しきった片倉の声がした。
 髪も肩も雨で濡らした片倉は、疾風のような速さで瑛士の傍に近づいてきた。
「いきなりお部屋を出られて――このような真似は、決して許されないと申し上げたはずです」
「いい、片倉」
 肘かけ椅子に座ったままの喜彦が、鷹揚に片倉を制した。
「どうやら瑛士には、切羽詰まった話があるようだ。どうした、瑛士。何を聞いた」
「…………」
「父親のことを知りたくないと言い張ったのは、確かお前だったのではなかったかね。私は言ったね。死して7年近く経つとはいえ、人1人の過去は完全に記憶から消えるものではない。どのような形であれ、お前の耳に入るだろうと」
「言いました」
 自分がここに来た理由について、喜彦が勘違いをしていることは分かったが、瑛士は、遮るように口を開いた。
「そして僕はこう答えたんです。父の過去など僕は一向に気にしない。ただ、そこにどのような事情があっても、肯定も否定も、言い訳もしてほしくないと」
「それはただの現実逃避だ、瑛士」
 喜彦は苦笑交じりに呟いた。
「お前は最初から私の弟を悪人と決めつけ、兄である私に、一切の抗弁をせぬように約束させた。私にはそれは、お前が現実から逃げているようにしか思えなかった」
「そうかもしれません」
 10の年まで、無だった父親のことなど、瑛士にはどうでもよかった。いや、どうでもいいというより、考えたくもなかった。
 死んだ人の過去など、どうにでも美化できる。
 父という人は、子供を産ませたばかりの母を棄て、別の女性と結婚したのだ。その過去だけは、決して美しい思い出話に変化させてはならない。
「僕は、藤堂の家に戻ります。もう、後継者争いを続けることはできません」
 瑛士は力を込めて言い、喜彦は 黙って聞いていた。
「今夜にでも荷物をまとめて出て行きます。そのご報告にあがりました」
「ほう……」
 やがて喜彦は呟いた。
「それは一体、どういう心境の変化かね、瑛士」
「この家の後継は、僕ではなく、修哉さんこそ相応しいと思うからです」
「何故?」
 閉じたように見える双眸が、うっすらと開いている。
 口元には優しい微笑――なのに瑛士は、その喜彦の表情に、微かな戦慄を覚えていた。
「……それは、」
 瑛士は、珍しく言い淀んだ。
「それは……、この家の正当な長男が修哉さんであり、父親であるお父様が責任を持って後継にすべき立場の人だと……そう思うからです」
「何故? 二宮の跡継ぎは必ずしも直系である必要はない――むしろこれからの時代、そんなものに縛られる必要はないと、以前私はお前に説明しなかったかね」
 再度、柔らかく問い詰められ、何故だかそれ以上、言葉がひとつも出てこなくなる。
 喜彦はそれ以上何も言わない。ただ糸のように細い光芒を、半眼の瞼の下から迸らせ、じっと瑛士を見つめている。
 それから訪れた沈黙ほど、瑛士をうろたえさせたものはなかった。
「……僕は、父のようになりたくはないんです」
 心の奥底にずっと秘めていた本心を、瑛士は初めて吐露していた。
「父のように、誰かを傷つける人間にはなりたくない。僕は誰も傷つけたくない。僕がここにいるだけで、誰かが傷つくことになるのなら、僕はこの家にはいられません」
「お前が言う誰か……とは」
 穏やかに、喜彦が言った。
「もしかして、修哉のことかね」
「そうです、他に誰がいると言うんですか!」
 感情を乱したまま、咄嗟に瑛士は返していた。
「僕の存在が、修哉さんを傷つけている。それでは、――それでは修哉さんが可哀想だ!」
 その時、喜彦の背後の扉が開いた。そこに扉があったことにさえ気づかなかった瑛士は、驚きのあまり声を失っていた。
 扉の向こうに立っていたのは修哉だった。
 顔色は透き通るほどに青ざめ、美しい双眸には怒りの焔が揺らめいている。
「ふむ……意図していたわけではないのだが、今宵は、この書斎に修哉を呼んでいたのだ。突然入って来たのは瑛士だ。そうして修哉の気質のことで、なにか誤解があるらしい」
 瑛士は黙って、喜彦の言葉を聞いていた。実際衝撃のあまり、それ以外の何もできなかった。
 修哉は凄まじく怒っていた。烈火のような感情の火が、瑛士の肌身を焼くほど熱く伝わってくる。
「お父様」
 修哉は言った。燃える目で、瑛士をひたと睨みつけたままで。
「この者と話をさせていただいてもよろしいですか。片倉も――むろん、この者の執事も同席することは許さない。2人で話がしたいのです」
「それが、後継者候補同士の戦いの場面なら」
 鷹揚に喜彦は答えた。
「私にも、片倉親子にも、口を挟むことはできないだろうね。修哉、瑛士と話をするがいい。方法はお前に任せる。瑛士――出て行くも行かないも、お前の自由だ。それは、今宵、修哉と話をしてから決めればいい」
 
 ――――――――――――

「入れ」
 背中から突き飛ばされ、背後で荒々しく扉が閉まる。
 無様によろめいた瑛士は、そのまま膝をついていた。
 体格では明らかに自分の方が勝っているのに――、折れそうなほど細い修哉の強さは、一体どこから来ているのだろうか。
 護身のために課されている武術の稽古でも、瑛士は一度も修哉に勝てたためしがない。いつもねじふせられ、ぐうの音も出ないほど畳に叩きつけられる。
 その日も、瑛士は何一つ抵抗できないまま、修哉に腕を掴まれるようにして、雨降る庭の中を引きずって行かれた。
「離してください。一体、何処へ――」
 眼前にそびえ立つ建物に気づいた時、瑛士は、言葉の続きを飲んでいた。
 ガラスで壁面を覆われた、ゴシック調の塔が目の前にあった。
 側面は細長く、屋根は三つの尖塔で成っている。石とガラスで出来たものものしい外観は、まるで外国にある聖堂のようだ。
 瑛士はもう、その建物の意味を知っていた。それは、瑛士にとって、決して近寄りたくない場所でもあった。
「離して――嫌だっ」
 抵抗はあっさりと封じ込められ、瑛士は塔の中に突き入れられた。よろめいて膝をつく。殆ど同時に室内灯が瞬いた。
 闇からいきなり光の中に引きずり出された瑛士は、眩しさから目を閉じた。いや、眩しさだけではない。決して見たくないものが、この中には収められているから――
「――見ろ!」
 髪をつかまれ、顔を上げさせられる。
 瑛士は眼を開け――そして見た。
 がらんとした室内の中央では、ガラス細工のシャンデリアがひっそりと揺れている。そして、壁一面に、無数の肖像画と写真が、あたかも写真館の展示室のように飾られていた。二宮家代々の先祖の写真。その一角に、瑛士が絶対に目にしたくないものがある。
「あれが、お前の父親だ」
 無理に首をねじまげられ、瑛士は苦痛の声を洩らした。
 きつくひっぱった瑛士の髪を、修哉はねじるようにおのが手指に巻き締める。
 瑛士は、顔を背けようとしたが無駄だった。
 いやがおうでも飛び込んでくる――父親と、その結婚相手のポートレート。
「二宮和彦――お父様の弟で、本来であれば、この二宮家の後継者になってもいいはずの人だった。容貌も頭脳も、二宮家の特性を誰よりも濃く受け継いだ人だったと言われている。――どうだ」
 無自覚に手指が震え、瑛士は、唇を噛みしめた。
 今ほど、修哉という人の残酷さを憎んだこともなかった。
 目の前にあるのは、瑛士の父親と、母ではない他の誰かとの結婚写真だったのだ。
 その周辺にいくつもある写真は全て、彼らの幸福の断片である。天涯孤独の母を棄て、別の女性と家庭を築いた男の、幸福な笑顔――。
「これが、お前の現実だ」
 震えながら視線を逸らした瑛士を、修哉は再び残酷な写真へと向き直らせた。
「臆病なお前が、見たくないと逃げ続けてきた現実だ。そんなへたれのお前が、俺を傷つけるだと? 可哀想だと? 笑わせるな!」
 瑛士はうつむいて顔を背けた。その顔を再び修哉に上げさせられる。
「金持ちのドラ息子が、避妊に失敗してできた子供がお前だ。それが女の計算だったとしても、男の身勝手から産まれた罪の証がお前だ。女である母親の人生を狂わせたのが、お前だ」
「――やめろ!」
 瑛士は、初めての激しさで、自身を拘束する修哉に抵抗した。
「お前に、母さんの何が判る!」
「判るものか。お前の母親のような下衆な女の気持ちなど、どうして俺に理解できる」
「――なんだと?」
「何度でも言ってやる。お前の母親は、最低の部類に属する人間だ。欲深く――愚かで、だらしがない」
 組み合う内に、何度か上下が逆転した。顎と腹部に強烈な痛みが走ったが、瑛士がやみくもに放った拳は、修哉の美しい鼻筋に当たっていた。
 滴る血が瑛士の顔までも濡らし、修哉の白い肌を赤く染める。
 やがて瑛士はうつぶせにねじ伏せられ、苦痛の声と喘ぎを洩らした。
 組み敷いた瑛士の腕を後ろ手にねじりながら、修哉は息を切らして言った。
「俺を傷つけるだと――? お前が? 笑わせるな。お前ごときに、この俺がなんのために傷つかなければならないんだ」
 瑛士は、荒い呼吸を繰り返しながら、腕がへし折られるような痛みに耐えた。
 実際、悲鳴をあげてしまいそうだった。初めて経験する痛みと恐怖――圧倒的な敗北感に。
 追い打ちをかけるように修哉は言った。
「俺から見れば、可哀想なのはむしろお前だ。滑稽にも、お前は1人で勘違いをしているようだから教えてやろう。後継者候補選びは形ばかりの二宮家の儀式だ。後継は最初から決まっていて、お父様がお前を可愛がるのは、俺を押し退けて当主の座に据えるためではない――その意味が判るか」
 ただ呻く瑛士の耳元に、修哉はそっと唇を近づけた。
 彼の呼吸は、すでに平常を取り戻していた。
「俺は、そう長くは生きられない」
 ――え……?
「そういう血なんだ。俺の母親も若くして死んだし、その姉も同じだった。生まれつき早世の血筋らしい」
 固まる瑛士の耳元で、今度は弾けるような哄笑が響いた。
「と、そんな無駄な心配を、お父様も親族もされているというわけだ。もちろん、科学的には何の根拠もない。しかし、1人息子の俺が死んだら代わりの当主が必要となる――判ったか、それがお前だ」
「…………」
「お父様は、俺の母親を深く愛し、母親と瓜二つの俺が、その母と同じ運命を辿りはしないかと、ひどく心配されているのだ。だからお前をつれてきた。この俺の代役として――この俺を思うが故にだ。お前が面倒事の半分でも引き受けてくれれば、その分、俺は当主としての本分を存分に果たすことができるからな」
「…………」
「わかったか。本当に可哀想で、同情されるべきは誰なのか。父親に捨てられた可哀想な子供がどちらなのか」
 瑛士は、渾身の力で、修哉の腕を振りほどいていた。
 修哉が、少し驚いたように後退する。獣のように身を起こした瑛士は、いままで抱いたことのない感情を持って、修哉を見つめた。
 自分の中に、暗い――底の見えない真っ黒な水溜まりがある。その奥から、どす黒い何かが気泡のように浮き上がってくる。
「……誰も傷つけたくないだと? 面白いことを言ったな、お前は」
 修哉は、やがて血の滲んだ唇に冷笑を浮かべた。
「その目はなんだ、瑛士。憎悪と怒りを剥きだしにしているじゃないか。わかったか。それがお前の本性だ。それが、お前という偽善の皮を被った人間の本性だ。二宮瑛士」
 続く義兄の予言を、瑛士は、おそらく生涯忘れないだろうと思った。
「お前はやがて、死んだ和彦おじと瓜二つの青年になるだろう。そして、父親と同じ罪を平気で犯すようになる。欲望だけで女を抱き、厭きれば捨てて見向きもしない。汚く、傲慢な男にな」



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