本文へスキップ


年下の上司 story15〜FeburuaryA

こんにちは赤ちゃん、あなたがパパよ(8)


「――………………は?」
 長い長い沈黙の後、ようやく出てきた言葉がそれだった。――は?
 目の前では、乃々子が顔を覆って泣いている。その涙の意味さえ、今の果歩には判らなかった。
 てか、今、なんの話をしてたんだっけ。
「ま、そういうことだから」
 店のカウンターで並び合う2人の隣で、りょうが上機嫌にグラスを持ち上げた。
「じゃ、あらためて乾杯といきましょうか。これにて一件落着〜」
「じゃないっしょ!」
 口を挟んだのは、この場合、なんの関係もないはずの男だった。何故だかこの場に居合わせている男――前園晃司。
「か、……的場さんはよくても、百瀬さんの問題は全然……てか、妊娠してんなら、アルコールとか厳禁じゃないっすか」
「あれ? まだいたの? 帰りなら心配しなくていいって言ったのに」
 りょうに返され、ぐっと晃司が詰まっている。
 が、2人の会話は、果歩にはまるで別世界の出来事だった。果歩は、乃々子に向きなおった。
「もう一回、聞いてもいい?」
 顔を手で覆ったまま、乃々子は小さく頷いた。
「その……乃々子のお腹の子供の父親は……」
 乃々子のむせび泣きが、いっそう激しく、盛大になる。
 他に客がいないからいいものの、これでは、完全に営業妨害状態だ。
「私……なんかもう、悔しくて」
 泣きながら、乃々子は言った。
「局内の噂は知ってました。でも、的場さんにまで、そんな風に思われていたなんて、私、夢にも思わなかった。……なんかもう、悔しいというか、やるせないというか」
 ――はぁ……。
「ひどいです、的場さん!」
 泣きぬれた目で見上げられ、果歩は言葉を失っていた。
「いくら誤解だからってあんまりです。他の誰でもない、的場さんにまで疑われたんじゃ、藤堂さんがお気の毒じゃないですか!」
 ――いや……。
 なに、私……悪者?
「まぁ、まぁ、乃々子ちゃん」
 りょうが、凍りつく果歩の前に割って入った。
「果歩の勘違いにも、ちゃんとした理由があるのよ。まずは、水原君が、君と藤堂君の会話を誤解して広めちゃったこと。それが第一なんだけど」
 果歩は、まだ、目の前の現実が受け止められないでいた。
「あの、乃々子」
 再び、果歩は口を開いた。
「何度も聞いて悪いけど、お腹の子の父親は、本当に藤堂さんじゃ……」
「だから、どうやったら、そんな結論に行きつくんですか!」
 涙を迸らせながら反論する乃々子。
 いや、てか、どうやったらそれ以外の結論にいきつくのか、聞きたいのはむしろ私なんですけど――。
 唖然とする果歩を尻目に、涙をこすりながら、乃々子は続けた。
「そんなのあり得ないし、あり得ない以前の問題ですよ。そんな――そんな大前提まで崩れていたなんて、私、夢にも思わなかった」
「じゃ、温泉旅館で水原君が見たっていう、妊娠を打ち明けた現場っていうのは……」
「? よく判りませんけど、藤堂さんとお話したのは、確か携帯電話だったと思いますよ。私が、妊娠したみたいですって打ち明けたら、さすがに驚かれて――また掛け直しますと言われて、いったんは切れたんです。確か」
「藤堂さんは僕の子に間違いないと……」
「だからそれ、なんの作り話なんですか? 5分くらいしてかかってきて、僕も急用ができて灰谷市に帰りますから、一緒に帰りましょうって、そう言われただけなんですって」
「でも、なんだって無関係の藤堂君に、一番に電話しちゃったわけ?」
 呆然とする果歩に代わって、りょうが質問を続けてくれた。
 そこは、乃々子はわずかに言い淀んだ。
「来年度人事のことで、……これ、オフレコですけど、私、的場さんの後任に内定していて、そのことで藤堂さんに色々相談していたから……。妊娠したら、その話も流れると思って、藤堂さんにだけは事前に言っておかなきゃって思ったんです」
「それだけ?」
「…………」
 乃々子は少しばかり、きまずげな表情を見せた。
「……その、……色々相談していたんです」
「それって、お腹の子の父親のこと?」
 りょうの鋭い質問に、打ちのめされたように乃々子はぎゅっと唇を引き結んだ。
「言いたくないなら聞かないわよ。でも、その件でも、藤堂君には相談していたわけだ」
「……してました」
 乃々子は、素直に白状した。
「そのことでは、私、的場さんにずっと後ろめたかったんです。本当なら的場さんに相談しないといけないのに――的場さんが、内心じゃ面白くないと思っているのが判ってて……結局は、藤堂さんの優しさに頼り切ってましたから」
「でも、乃々子言ってたじゃない」
 まだ混乱が収まらないまま、果歩は訊いた。
「と、藤堂さんが――自分にも責任があるって言ったって。第一、一緒に病院にまで行くなんて、ちょっとやりすぎというか、行きすぎというか」
「………それは……」
 乃々子の唇が、またぎゅっと引き結ばれる。
 その目から、またぼたぼたと涙が零れたので、果歩は大慌てでハンカチを出していた。
「藤堂さんの親切は、確かに、今思えば行きすぎだったのかもしれません。でも、その時の私には、他に頼る人もいなくて……そのことで、的場さんに、こんな誤解を受けるとは、夢にも思ってなかったから……」
「ご、ごめん。乃々子を責めるつもりで聞いたんじゃないんだけど」
 とはいえ、絶対、今までの乃々子の話と今の結論は矛盾している。
 自分に責任があるとか、病院に一緒にいったとか、あの夜ことが原因だとか――腑に落ちた点はいくらでもあるのに、それが、全部誤解だった?
「私……その人のこと、一度は諦めようって決めたんです」
 やがて、ぽつりと乃々子は言った。
 その人とは、おそらくはお腹の子の父親だろう。りょうも果歩も、乃々子が口を開くまでじっと待つ。
「年始に、……ここでもらった香水つけて、神社にその人を呼び出して告白しました。結果は撃沈……大笑いされたんです。正月からなんの冗談だよって」
「…………」
 なにそれ、その最低男が乃々子の想い人?
 果歩は眉をひそめている。
「年始会の席で……的場さんと藤堂さんから、同じシャンプーの匂いがしたじゃないですか」
「は、はい?」
 果歩は激しく咳き込み、りょうは笑いを噛み殺す。が、乃々子は大真面目だった。
「その時、ものすごく自分が情けなくなったんです。あの香水の力を頼っても、全く駄目だった自分と、自分の力で幸福を手にいれた的場さん……。なんだか、すごく悲しくなって」
「…………」
 うつむく乃々子の手を、果歩はそっと握ってやった。
 そっか。
 ――あの夜の涙には、そんな意味があったのか……。
「その夜、藤堂さんに送ってもらって……それで、つい、話しちゃったんです。その前日に、……ふられたことを」
 鼻をすすりながら、乃々子は続けた。
「そしたら、もう一度きちんと告白してみたらどうですかって……励まされて。それで、その人の家まで、藤堂さん、車で送ってくれたんです。藤堂さんが私に責任を感じてくれたのだとしたら――少し行きすぎだとは思いますけど、結果としてその夜のことが原因で、私が妊娠しちゃったからだと思います」
 藤堂さんらしい――と思ったが、それは口には出せなかった。
 果歩は、自分の肩から、ようやく力が抜けて行くのを感じていた。
 それにしても、なんという壮大な勘違いだったのだろうか!
 しかも、それを判っていて、一言も言い訳しない藤堂さんって……。
 頭痛がしたが、今は、とりあえず乃々子のことが急務だった。
「……じゃあ、その人とは、上手く……?」
「わかんないです。……結局、あの夜だって、自信なくて、お守りみたいにあの香水使っちゃったから」
 乃々子は苦笑して首を横に振った。
「言葉では、何も約束しなかったんです。その人も酔っていて……多分、成り行きだったのかな」
「…………」
「次の日も全然普通どおりで、態度にも変わりなし。……少しだけ、気まずくなったかな。前みたいに軽口を言いあうこともできなくなって。それで、ああ、結局は後悔してるんだな、と思いました」
「誰かは、言えない?」
 乃々子は無言で頷いた。強い意志が、双眸にも唇にも滲んでいる。
 果歩は、それ以上は訊かないことにいた。
「……藤堂さん、どうして休んでいるんですか?」
 しばらく無言だった乃々子が、やがて訝しげに果歩を見上げた。
 その時には、りょうはすでにボックス席に移り、ようやくやってきた客――この店の常連客の1人と楽しげに話している。カウンターの隅には、なぜだか晃司がまだ居座り、1人ちびちび水割りを舐めていた。
「……さぁ、私も、はっきりとは聞いていないの」
 果歩は、曖昧に誤魔化した。
 ひとつの謎が解けたことで、もうひとつ、得体の知れなかった謎も具体化を帯びてきた。
 水原が見たのが、藤堂が単に1人で電話している場面だとしたら。
 彼が「自分の子に間違いない」と言い切ったのは、乃々子に対してではない。おそらくは、東京の香夜さんに対して――なのだ。
 これはりょうの推理だが、水原は、別にかかってきた2本の電話を混同した故に誤解してしまったのであり、それは、今の果歩になら恐ろしいほどすっきりと腑に落ちた。
 だから彼は、翌日大急ぎで東京に戻ったのだ。
 そして、もう、帰って来ない……。
「……心配ですね。私、自分のことでいっぱいいっぱいでしたけど……今思えば藤堂さん、少し様子がおかしかったのかもしれない」
「……おかしいって?」
「心ここにあらずっていうか、ぼんやりと1人の世界に沈み込んでるっていうか……。その時は、てっきり私が疲れさせたせいだろうって思ってたんですけど」
「…………」
 そうだ。まだ大きな問題はまるで片付いていない。
 今、彼は、東京で香夜さんと一緒にいる。そして週末には、2人は婚約してしまうのだ。
 帝の言うとおり、本当にもう二度と、彼は灰谷市に戻って来ないつもりなのかもしれない。
「ねぇ、乃々子」
 果歩は勇気を出して聞いてみた。
「乃々子のお父さんが……知ってる? 藤堂さんを探しまわってたの」
「……知ってます。携帯の着信履歴……しょっちゅう掛けてたの、藤堂さんだけだったから」
 果歩は微かな溜息をついた。
 それで、藤堂が一番に疑われたというわけか。あのお父さんでは、乃々子がどう言い訳しても聞く耳をもたなかったに違いない。
「それは、しょうがないとして、……なんで藤堂さん、きっぱり否定しなかったんだと思う? 乃々子には辛い現実だと思うけど、その時はもう、局中で噂だったのに」
「それは……」
 しばらく考えて、乃々子は言った。
「藤堂さんには申し訳ないですけど、はっきり否定して欲しかったです。私はてっきり、的場さんだけには、きちんと説明していると思い込んでいたから」
 再び考え込んだ乃々子が、躊躇ったように口を開いた。
「でも藤堂さんの性格なら、なんだかそうしそうな気がします。言い訳するしないじゃなくて――あの人は、ただ、私を庇いたかったんじゃないでしょうか」
 乃々子を、庇う……?
「あの時は、私も藤堂さんと連絡を取れる状況じゃなかったんです。携帯、お父さんに壊されて、連絡する術すらなかったですから。だから藤堂さんにも、本当のところは判らなかったはずなんです。……まさか、私の父が1人合点で、藤堂さんをお腹の子のパパと勘違いしてるなんて、普通は思わないでしょう?」
 それはそうだ。まずは娘から打ち明けられたと考えるのが普通だろう。
 でも――。
「だから……乃々子がついたかもしれない嘘を、否定しなかったってこと?」
「何か、私の方に、父に嘘をつかざるを得ない事情があったと、そんな配慮をしてくださったのかもしれません」
 なるほど、確かにそう考えれば腑に落ちる。が、そこまでするものだろうか?
 部下の信頼を一気に失い、局中の好奇の目にさらされて――そこまでして、乃々子を庇う理由が果歩には判らない。
 考え込むように眉を寄せた乃々子は、首を短く横に振った。
「私を庇った……というより、藤堂さんって、私のような立場の女性を放っておけない人なんじゃないかと思うんです。確かに今回、藤堂さんの責任の感じ方には、すこし過剰なものを感じました。でもそれは、彼の……本質的な問題に起因しているような気がするんです」
「……どういう意味?」
「……言葉にするのは難しいですけど……」
「前、乃々子が言ってたよね。女性に対する罪悪感……そんな感じのもの?」
 果歩が助け舟を出すと、乃々子は素早く、そうです、とでも言いたげに頷いた。
「藤堂さんの極端なストイックさもそうなんですけど、彼の根っこの部分に、女性に対する後ろめたさというか……原罪意識のようなものがあるような気がしてならないんです。こういえば判りやすいかもしれない。私の妊娠にさえ、彼は自分が原因者であるような対応をしてくださいました。藤堂さんは、――そういった罪を全部自分が背負わなければならないとでもいうような、何か……よく判らない強迫観念みたいなものに、囚われているんじゃないでしょうか」
 
 *************************

「――おい」
 サニタリーから出ようとしたりょうはその声に驚いて立ち止った。
 店内の小さなトイレは一か所のみで、手洗い場込みで男女共用である。
 髪を直して席に戻ろうとしていたりょうは、目の前に立ち塞がる男を見て、冷ややかに眉を上げた。
「失礼な人ね。終わるまで待てないわけ」
「……あんた、一体いつまでここにいる気だよ」
 怒りを噛み殺した声で呟き、前園晃司は扉の中に入って来た。
 扉の向こうからは、緩めのジャズナンバーが流れている。果歩と乃々子は、まだ話しこんでいるようだった。
「いつって? あの2人の話が終わるまでだけど?」
「あんた、この店のホステスかよ。べたべたべたべた見苦しい……」
「無関係の君が、一体何に怒っているわけ?」
 りょうは呆れて肩をすくめた。
「厄介な客ばかり引き込んで、ただでさえ経営がまずい店に迷惑かけてるから、せめて常連さんの相手をしてあげてるだけじゃない。それが君に、何か迷惑でもかけたかしら?」
「…………」
「…………」
 しばらく、形容し難い沈黙があった。
 一体自身が何に怒っているのか、多分、目の前の男には理解しきれていないに違いない――と、りょうは内心思っていた。
 りょう自身は知っていた。自分が顔なじみの男性客と飲んでいる間中、ずっと怒りのオーラが、前園晃司の背中から発散されていたこと。それを、心のどこかで楽しんでいたこと。
 こうやって1人で席を立てば、必ず追ってくるだろうと言う確信が、自分の中にあったこと――その駆け引きにも似た感覚を、ゲームみたいに楽しんでいたこと……。
 が、いざ空想していたエンディングがやってくると、おそらく本人より戸惑っているのは、りょうの方かもしれなかった。
 いったい自分は何のために、この無意味なゲームを始めてしまったんだろう。
「言っておくけど」
 顎をあげてりょうは言った。
「私から君にあげるものは、何ひとつないからね。奪われるのも失うのも――何もかも君1人よ」
 ジャズの音が聞こえなくなって、扉に内側から鍵がかかる。
 引き合うように2人は唇を合わせ、そのまま深いキスを交わしていた。
  
 *************************

「じゃあね、乃々子。来週は、色々大変だろうけど……」
 タクシーを降りた乃々子は、笑顔で果歩を振り返るとガッツポーズを見せた。
「大丈夫です」
 ――乃々子……。
「これからシングルマザーになろうかっていうのに、いちいち噂なんかにめげてはいられないですから。藤堂さんへの誤解も、私がきちんと説明して解きますから安心してくださいね!」
 その健気な笑顔に、果歩はもう何も言えなくなる。
「じゃっ」
 手を振って、小走りに駆けて行く後輩の背を、果歩は温かな――けれどひどく静かな気持ちで見送った。
「次、どこに回ればいいですか」
 タクシーの運転手が果歩を促す。果歩は、自分の家の場所を告げようとして――やめた。


 降り立った場所には、朽ちた枯葉が山積していて、歩くたびにブーツの底が乾いた音を立てた。
 果歩は白い息を吐き、冷えたベンチに腰を下ろした。
 繁華街の中に、オアシスみたいに存在する小さな公園。
 あの頃は初夏で、木々は豊かに茂っていた。今は、枝がむき出しになった木の向こうに、ネオンの灯りが見えている。
 ――藤堂さん……。
 果歩は、自分の左側の空白を見つめた。
 藤堂と2人でこのベンチに座ったのは、去年の5月――まだ、彼と出逢って2カ月も経っていなかったころだ。
 あの日のことを、果歩は今でも、昨日のことのように鮮明に覚えている。
 局の庶務担当を集めた飲み会があって、その後、晃司に絡まれて――酔って体調を崩した果歩を、藤堂がこの場所で休ませてくれたのだ。
(総務の庶務担当者が皆に人気があるのは、いいことだと思います。いえ、僕がおかしいんです。今言ったことは忘れてください)
 そうして、二度目のキスをした。
 一度目の、慰めみたいなどさくさ紛れのキスじゃなくて、長くてロマンチックで優しいキス。
 ――それは、嫉妬というんですよ。藤堂さん。
 今さらだけど、藤堂さんはいつから、私のことを好きになってくれたんですか。
 温かな気持ちが溢れだし、果歩は自然に微笑していた。
 藤堂さん。
 4歳違いの年下の上司。
 あの日まで、女としての私のことなんか、視野にも入っていないと思っていた。
 おっきくて不器用で、おまけに意固地。 だけど私には、誰よりも愛しい人……。
 果歩は財布の中から、帝にもらった名刺を取り出した。
 迷いながらも、この名刺だけはどうしても捨てられなかった。多分、心のどこかで、最後はこの人を頼るしかないと思っていたから――。
 果歩は空を見上げ、息をひとつ吐いてから、握り締めた名刺を二つに裂いた。
 やがて細かな紙屑となった名刺は、冬の風に舞い上がり、夜の闇に溶けて行った。




>>next  >>contents

このページの先頭へ