雨の中、見開かれた双眸が、じっと瑛士を見上げている。 まるで、全てを見通しているかのように。 (――瑛士……) 囁く声は、何故だか優しい。 その瞳から、降り注ぐ雨の滴が、まるで涙みたいに滑り落ちて――。 ―――――――――――― 「――瑛士さん?」 跳ね起きた瑛士は、目の前に被さる人の顔を見て、驚きに目を見張った。 「急に、起きたりしない方がいいわ」 その人は、瑛士の手に自分の手を寄り添わせた。 今のは――夢か? 瑛士はただ、今の状況が判らずに狼狽していた。薄いセピアに染まった世界。ここは、一体どこだろう。 「ひどく頭を打ったのよ。脩哉さんもひどいわ。何もここまでしなくてもよかったのに」 ――頭……? 瑛士はようやく、ここが学院の医務室であることに気がついた。 白いカーテン越しに、黄昏の陽光が差し込んでいる。 そして、ようやく思い出していた。ここに至るまでに、自身の身に何が起きたのかを。 「……わっ、ひどい」 香夜が素っ頓狂な声を上げたので、瑛士は咄嗟に、彼女の視線が向けられた箇所に手を当てていた。 「額。すごく腫れているわ。待って、今、氷を換えてもらってくるから」 「……はい」 少し戸惑って、瑛士は自身の額から手を離した。 そこは、ひんやりと冷えていて、傍らのサイドテーブルの上には濡れたタオルがきちんとたたんで置かれている。 ――どうして香夜さんが僕の手当てを? あまりに意外ななりゆきに、瑛士は少しばかり面喰った。 二宮の家に来て今年で6年。確かに香夜とは、比較的いい関係を築いてきたつもりだったが、彼女にとっての自分は、あくまで格下の存在である。 彼女のしでかした失敗――故意も含めて――の後始末なら、うんざりするほどやらされてきたが、こんなケースは初めてだ。 ――しかも……。 気のせいだったのだろうか。さっきまで、脩哉の声が聞こえていたような気がする。 瑛士はしかし、すぐにその想像を打ち消した。 そんなはずはない。脩哉が、あんな優しい声を出すはずがない。 「思いっきり、投げられたわね」 戻って来た香夜は、瑛士の額にタオルを当てながら、囁くような声で言った。 その仕草に、なんだかいつもの彼女らしくないものを感じ、瑛士は居心地悪く視線を逸らした。 「僕が油断したんです」 「そう? 私にはそうは思えなかったけど」 瑛士の額にタオルを当てたまま、香夜が肩を押してくる。 戸惑いながらも、瑛士はいざなわれるままに再びベッドに横になった。 「大袈裟だな」 「だって、頭を打ったのよ。しばらく気を失っていたのよ。瑛士さん」 「どうやって、ここへ?」 「油断じゃないわ」 瑛士の質問には答えずに、香夜は言った。 「きっと躊躇ったのよ。その躊躇いが、脩哉さんには許せなかったのね」 「……どういう意味でしょうか」 問い返しながらも、その意味は瑛士にも判っていた。 怒った脩哉が、瑛士が気を失うほど強烈な投げを仕掛けてきた理由も含めて、全部。 瑛士は、無意識に掛時計を見上げた。午後5時少しすぎ。 ほんの1時間前に、脩哉と2人で学院内の道場で向き合っていたのだ。 月に一度の定例稽古。本来なら週末、屋敷内の道場で行われるはずだったのが、脩哉の方から今日に変更したいとの連絡があった。 2人が共に従事している、二宮家伝統の護身術――古武道の組稽古である。 脩哉も瑛士も、それぞれの師について習い、月に一度だけ互いの実力をぶつけあう。組稽古という名称になってはいるものの、実質、当主喜彦を前にした御前試合である。 瑛士が、その試合で初めて勝ちを収めたのが今年の春のことで、秋になった今では2回に一度は勝ちを取るようになっていた。 その年――脩哉は高校3年生。瑛士は高校1年生になっている。 「きっと、脩哉さんは、もう知っているのよ」 瑛士が仰向けになってもなお、香夜は前傾姿勢を戻そうとはしなかった。 瑛士はますます戸惑った。これではまるで、香夜にのしかかられているような態勢だ。甘い匂いや制服の下の柔らかな感触まで、直に伝わってくるほど近い。 「もう力では、何をしたって瑛士さんに敵わない。ううん、もしかすると、それ以外のことでも、敵わないのかもしれない」 「体格が、違いすぎるんですよ」 顔を背けながら、言い訳みたいに、藤堂は言っていた。 「僕らは、柔道に例えれば、階級がまるで違うんです。……フェアな条件下で試合をすれば、僕が脩哉に勝てるはずがない」 「そうかしら?」 「さっきから何が言いたいんですか。僕は何をしても脩哉には勝てませんよ。勉強だって――」 「そう思っているのは、多分、瑛士さんだけよ」 「何を――」 次の瞬間、瑛士は驚きのあまり目を見開いていた。 「ちょっ――」 「しっ」 ややあって、ようやく瑛士は眼を閉じていた。 香夜の両腕が首の後ろにまわり、いっそう強く引き寄せられる。唇と唇が密着して、髪が顔に被さってくる。どうして自分がこんな扱いを受けるのか意味が全く判らない。 なのに、感情とは別の部分が、火がついたようにこの抱擁の続きを求めようとしている。 が、それは時間にしたら掠めるほどわずかなもので、瑛士はすぐにこの恐ろしい罠に気がついた。 「冗談は、やめてください」 「……あら、もう終わっちゃうの」 肩を押された香夜は、明らかに不満そうな唇を尖らせた。 「当たり前ですよ。悪ふざけにもほどがある――こんなことが脩哉に知られたら、どうなると思っているんですか」 「どうなるかしら……どうなると思う?」 「想像したくもありません」 瑛士はすぐに元の自分を取り戻したが、見上げた香夜の目は、思いの外沈んでいた。 「……どうしたんです」 「……別に……」 「…………」 別に、と呟いたその瞳が、みるみる水の底に沈んでいった。 瑛士はただ、考えていた。この人と知り合って何年にもなる。その間、何度も胸が痛くなるほどの泣き顔を見てきたし、その涙にあっさりと騙されてきた。今は――一体何のための涙だろう。 「脩哉さんに、また新しい恋人ができたの」 「……すぐに、飽きて別れますよ」 ぽつりと落ちた涙が、瑛士の頬に当たって弾けた。 僕は、またこの人に騙されるんだろうな――。 そう思いながら、瑛士は彼女の頭を引き寄せ、髪を撫でてやった。 瑛士にしがみついた香夜は、しばらく肩を震わせて泣いているようだった。 「……私、瑛士さんを好きになればよかったな」 「すみません。僕は、年上は駄目みたいです」 「……本当に、駄目?」 本気か、演技か。 ここまでの姿を見せても、実は演技だというのが香夜という人の怖いところなのだが、ひとつだけ、瑛士が確信している真実がある。 この人は――寂しいのだ。 寂しくて悲しい嘘つき。どうしようもないほど、可哀想な人なのだ。 「大丈夫ですよ」 香夜の髪を撫でながら、瑛士は言った。 「いつものことじゃないですか。どうせ脩哉は、香夜さんの所に戻ってくる。もう、正式な婚約式まで行っているんですから」 「そうね。そうだわね……」 香夜は、自分の涙を瑛士のシャツにこすりつけて拭った。 「でも、そうやって、何人の人が彼の前を通り過ぎるのを、私は見なくてはならないのかしら」 「…………」 あれほど人を悪し様に罵ったくせに――思春期を超えた頃から、脩哉の女癖は全くひどいものになっていた。 そもそも、類まれなる美貌と権力をもった脩哉が、異性にもてないはずがない。 実際、脩哉の周辺には、いつも危険な誘惑が満ちていた。 言い寄ってくる相手は年が近い異性だけではない。大人だったり、同性だったり、恐ろしいほど様々だ。 いってみれば、脩哉はぞっとするほど魅力的な食肉花なのだ。寄ってくる昆虫をたちまち虜にしてしまう。 「瑛士さん、キスは、まだまだ脩哉さんには敵わないわね」 「ばっ、馬鹿なことで比較しないでください」 瑛士は先ほどの振る舞いを思い出し、反射的に頬を熱くした。 そうか。 キスか。 どうやら僕は、先ほどそれを経験してしまったらしい。 こんな風に、好きでもない女性からされるものだとは、想像してもいなかったけど。 「……脩哉は、キスが上手いのですか」 「あら、気になる?」 「いえ」 苦笑しつつ、そんなことまで勝負の対象にしようとしている自分を笑いたくなった。 結局自分も、脩哉という毒の花の虜になっているのかもしれない。 ある意味、誰よりも執着を覚えている。憎くて――超えたくて――なのに、どうしても越えられない高い壁。 でも、本当に僕は、あの人を超えたいと思っているのだろうか? 「瑛士さん……」 「なんですか」 「もう少し、このままでいてもいいかしら」 「……いいですよ」 黄昏の日差しが翳り、室内の明度が暗くなる。 小さなパイプ製のベッドの上に、15歳と17歳の男女が寄り添って横たわっている。 この状況を、人はなんと呼ぶのだろうか。 香夜が手を握って来たので、瑛士はそっと握りかえしてやった。 「おっきい手」 「それは、脩哉に勝っているかな」 「そうね……。離さないでね……。少し、眠いの」 微笑んだ香夜は、子供のように目をつむった。 「約束よ。私が寝るまで、傍にいて……」 「…………」 香夜とは、生まれも境遇もまるで違うが、ただ一つだけ共通点がある。 寂しさというその一点で、瑛士は出会った初めから、香夜に不思議なシンパシーを覚えていたし、おそらくは香夜もそうだった――。互いに、決して口には出さないけれど。 諦めて目を閉じた瑛士は、覚醒する前に見た夢を思い出していた。 ――あれは……なんの夢だったのだろう。 つい先ほどまで、脩哉が、僕を優しく介抱してくれていたような――。 気がつくと、香夜の吐息が首筋に触れている。初めて、それを強く意識しながら、瑛士はふと思っていた。 もしかすると、今日を境に、この人と自分の関係は変わってしまうのではないだろうか―― そんな暗い感情が、予兆のように胸を掠めて、消えていった。 ************************* 冬晴れの空は、吸い込まれそうに青かった。 果歩は、助手席シートの窓越しに空を見上げた。 土曜日の朝。東京方面に向かう高速道路は、拍子抜けするほど空いていた。軽快に走る車のステレオからは、ポップなメロディが流れている。 空はこんなに青いのに―― 空を見上げながら、果歩はふと思っていた。 自然の時間は、ゆったりと穏やかに流れている。今、この空の下で、小さな戦いが起ころうとしていることなど、なにひとつ感知しないかのように。 「藤堂君の実家――今、私たちが向かっている、二宮っていう家はね」 初めて乗る、りょうが運転する車の助手席。 黒いパンツスーツを身にまとうりょうは、果歩には、まるで知らない女性のようだった。 実際、りょうは、驚くほど用意周到だった。住所しか判らない「二宮家」への道筋まで、彼女の頭の中には完璧に入っているらしい。 このおそろしく値の張りそうな高級車といい、彼女が着ているブラックスーツといい、なんでこんなに準備が出来ているの? とむしろ怖くなるほどだ。 視線だけを道路に向けながら、りょうは続けた。 「二宮家っていうのはね。歴史を辿れば、明治時代、皇族の血を引く由緒ある華族から分家した家なんだそうよ。果歩、知ってる?」 りょうがあげたのは、歴史に疎い果歩でも耳にしたことがある名前だった。 今の時代、その名にどれほどの権威があるかは判らないが、それでも、その刹那、再び見えない壁が立ちはだかったのを果歩は感じた。自分と、今は手の届かないところにいる藤堂との間に。 が、ハンドルを片手で切りながら、りょうは、果歩の気持ちを見抜いたかのように肩をすくめた。 「ま、その程度の分家なら、血を辿ればどこにでもいるっちゃいるんだけどね。伊達正宗や織田信長の子孫だっているくらいなんだから」 「……そのたとえは、よく判らないけど」 りょうの横顔がわずかに硬質なものを帯びた。 「二宮の家が、歴史上大きな存在を締めるようになったのは、第二次大戦の前くらいかしら。あっという間に財をなして、またたく間に巨大なコンツェルンを作り上げたの。そして、敗戦――例にもれず、二宮財閥もGHQに解体を余儀なくされた。以降、日本経済史に二宮の名は二度と出てこない。でも、それは表向きの解体にすぎなかったのよ」 「……どういうこと?」 「1952年以降、二宮の名は表舞台から完全に消えた。でも、この国の政治経済に携わっている人間なら、二宮の名を知らない者は誰もいない」 「……私は、聞いたことがないけど」 そこまで有名なら、いくらなんでも、少しばかり耳にしてもいいような気がする。三井、住友、三菱と、主たる元財閥の名なら、果歩でもよく知っている。 りょうはくすり、と唇だけで微かに笑った。 「果歩が知らないのは当たり前。私だって本気で調べるまでは判らなかった。マスコミにも一切出ないどころか、インターネットで検索しても絶対に出てきやしないからね」 「――なんで?」 「なんでだと思う?」 初めて果歩は、薄気味悪さを感じていた。 情報化が進んだ今の時代、メディアから一切黙殺されている闇の一族――。 「たとえば、私たちの市役所でも」 りょうは続けた。 「表には絶対出せないマル秘情報って、あるじゃない? 上層部では常識なのに、マスコミは絶対に流さない。時々、共産系の新聞でゲリラ的に暴露されるものの、大手が取り上げないから、所詮デマで流されてしまう。分かりやすいたとえで言えば、去年の暮れに起きた大河内主査の事件――その背景にあったものがそうだけど」 果歩は黙って眉を寄せた。 市役所内では、怪物と呼ばれて畏れられた長妻元治元局長。 彼の子飼いの部下が起こした収賄事件。自殺者まで出したその事件の裏にあったものは、役所の上層部にいる者なら暗黙の了解で、知っていたことだった。 「でも……内部で隠すのは判るけど、マスコミまで黙殺してるってのは、どうしてなの?」 素朴な疑問を果歩は問った。 そういった社会悪を質すのが、マスメディアの使命なのではないか。 「この世にはね、果歩」 前を見ながら、りょうは言った。 「損得抜きにした正義なんて、どこにも存在しないのよ。マスコミだって企業の端くれだってこと忘れちゃ駄目。三権分立が絵空事にすぎない今の日本に、正義なんてあり得ない」 「…………」 「上には上がいて、さらにその上がいる。ある一定のラインからの上は、言ってみれば国際的な禁止コード。絶対に表には出てこない――出せば、マスコミ媒体そのものが潰される。その意味が判る?」 「……藤堂さんの実家が、そうだってこと?」 「少なくとも日本ではね。多分、最上位の禁止コードよ」 「…………」 「話を戻すわね。どうして二宮家が、戦前戦後の激動を経てもなお、巨大な財閥として日本に君臨し得たのか。二宮よりもっと規模の大きな財閥なら、日本にはいくらでもあった。なのに何故、二宮だけが特殊な存在でいられたのか――」 なんだかもう、聞きたくないような気がした。 いまさらだが、そんな家に殴りこみをかけようとしている自分の身の程知らずさ加減が恐ろしい。――しかも、それにりょうを巻き込んでしまうなんて。 「残念ながら、謎、よ」 りょうは、わずかに肩をすくめてみせた。 「そこの謎が解ければ、この得体のしれない一族の秘密も判るような気がするんだけどな。さすがにそれ以上は無理だったわ」 そっか……。 果歩は少しだけほっとしている。 知りたい。でも、知りたくない。いつまで逃げてはいられない。それは判っているのだけど――。 「いずれにしても、何ひとつ実態がないのに彼の一族が特別扱いされているのは間違いないの。どんな巨大企業も、下手すりゃ政府すら頭が上がらない。一体、どんなからくりがそこにあるのかは判らないけど」 なんだろう。まるで、映画かドラマの秘密結社みたいだ。以前もちらっと思ったことがあるけど、もしかして極道的な―― いや、さすがにそれはないか。 とはいえ、そんな家相手に殴り込みなんて、そもそも計画そのものが間違っていたのではないだろうか。 「……果歩、顔色悪いわよ?」 「そ、そんなことないけど」 「ふふ……脅かしすぎたかな。ひとまず、宮沢りょうのレポートは、これで終わりよ」 「……あ、ありがとうございました」 まずは敵を知ることから――とはいえ、全く意味のない情報をゲットしてしまった。 戦意は明らかに目減りしている。 果歩は途方に暮れて空を見上げた。空はこんなに青いのに――神様、私は本当に、そんな凄い場所から、彼を連れて帰ることが出来るのでしょうか?? 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