―――――――――――――― 「……やっぱりねぇ」 「だから先代も結婚を猛反対されたのよ。なにしろお母様の血が」 「まさか、お母様と同じ亡くなり方をされるなんて」 通夜の席で、瑛士は黙って親類たちの囁きを聞いていた。 全てが、初めて耳にする事実ばかりだった。 祭壇では、玲瓏とした美貌の青年が、冷やかな笑みを浮かべている。冷たくて、美しい――二宮脩哉の生前の写真。 まだ、悪夢の続きをみているようだった。 実際、夢かな、と思瑛士はぼんやりと思っていた。脩哉と話したのは、たった2日前のことなのだ。 死因は睡眠薬の過剰摂取によるものだと聞かされた。事故か――自殺か。明言は避けられたが、誰もが暗黙の了解で理解していた。自殺だったのだろう。――多分。 遺書めいたものは何もない。が、日記や手紙、アルバムの類まで全て焼き払われ、京都のマンションは既に引き払われた後だった。 完璧主義の脩哉らしい後始末のつけ方――だったのかもしれない。 瑛士は形ばかりの事情聴取を受けたが、脩哉と交わした話の内容だけは黙っていた。 何故だかそれは、生涯1人の胸に留めておくべきだと思ったのだ。自分が生きた形跡の何もかもを消しさった脩哉が、唯一瑛士に残してくれた――思い出なのだから。 ――嘘だ……。 それでも、瑛士は思っていた。あり得ない、脩哉が自殺? なんのために? これが現実のものだとは、まだ、どうしても受け入れられない。 (外国に行くんだ、俺) そうだ。脩哉はしばらく海外に行っているのだ。 だから、またいつか、ふらりと家に帰ってくる。夜中にコンビニの袋を抱えて、何事もなかったように。それまで――日本を留守にしているだけなのだ。 それからは、周囲の全てが、夢の中のように過ぎて行った。 通夜、葬式、火葬――瑛士は無為に目まぐるしい時をやり過ごしていた。 その当時の詳細な出来事は、今でも瑛士には思い出せない。それほど、全てにおいて現実味の乏しい数日間だった。 そして、葬式の翌日のことだった。ぼんやりと自室で寝転んでいると、いきなり入ってきた人がいた。昨日、ロンドンから帰国したばかりの帝だった。 悪天候で通夜に間に合わなかった帝は、葬式の当日に帰国した。その憔悴ぶりは――見ていて、胸が痛くなるほどだった。今も帝の表情は青白く、目にも唇にも生気がない。 「……香夜さんは」 帝と目を合わさないまま、瑛士は、気がかりだったことを訊いてみた。 通夜、葬式と、香夜は一切姿を見せなかった。部屋に閉じこもったきり、出てこないと両親らが嘆いていた。実際、香夜の悲しみを考えると――胸がふさがれるようである。 「出てこない」 帰国してから、死人のようにうつろだった帝は、おそろしく低い声で言った。 見上げた顔は、一切の表情を失くした人のように無になっている。 「瑛士、お前に聞きたいことがある」 その、蝋人形みたいな顔のままで、帝は言った。 「……なんですか」 「香夜が妊娠した話は、聞いているか」 「……え?」 瑛士は、意味が判らずに瞬きをした。今、なんと言った? 「香夜が妊娠している」 帝は、頭の悪い子供に言い含めるように、ゆっくりと繰り返した。 「お前はそれを、知っていたかと、聞いているんだ」 瑛士は、立ち上がっていた。 「まさか、……脩哉の子供ですか?」 それが、冗談でも嘘でもないことは、帝の死人みたいな表情が語っている。瑛士は愕然とし、同時に胸が潰れるような深い苦しみを覚えた。 だとしたら――それほど残酷な結末があっていいのだろうか。 脩哉は知っていたのか? 知らなかったのか? いずれにしても、残された香夜の気持ちを考えると――。 が、帝は何も答えず、しばらく蒼白な顔で、唇を噛みしめていた。 「……お前、本当に……」 その呟きの意味を解しかねたとき、「……違う」と、呻くように帝は言った。 違う? 瑛士は顔を上げていた。どういう意味だ。 「馬鹿だな。お前1人がこの騒ぎのカヤの外だったのか。――松平の家では、香夜の相手はお前だということになっているんだぞ」 「―――は?」 「言え!」 いきなり胸ぐらを掴まれ、瑛士は息が詰まっていた。 「言え、隠さずに、本当のことを言え。香夜の腹の子は、お前の子か」 「っ、違う」 咄嗟に答えた瑛士は、それでも何度か、ささやかな裏切りを彼女と交わし合ったことを思い出していた。 あの当時は、見えない熱に浮かされていたのかもしれない。異性への興味もあったし、香夜に対して、愛しさや憐れみの気持ちも確かにあった。――が、結局は唇を何度か合わせただけで、半年も前に、そういった関係は終わっている。 それにしても、何故今さらそんな誤解が――? 意味がまるで判らないまま、香夜のためを思い、瑛士は懸命に言い募った。 「僕らはそういう関係じゃない。命を賭けたっていい。そんな邪推は、香夜さんに対して失礼だ!」 「嘘じゃ、ないんだな」 「嘘じゃない!」 瑛士の顔色を、そのわずかな変化までも見逃すまいと言わんばかりに見つめておいて、帝はようやく腕を離した。 「脩哉の子では、ないんですか」 冷静さを装いながら、瑛士はかろうじてそれだけを訊いた。 そうでなければ、脩哉には残酷すぎるし、そうだとしたら、残された香夜がむごすぎる。 「…………」 帝はしばらく黙っていた。長く――黙ったまま、その場に立ちつくしていた。 瑛士は、ただ待っていた。恐ろしかった。この死のような沈黙の果てに、一体、どんな結末が待っているのだろうか。 「脩哉に、子を作ることはできない」 やがて、暗い声音で帝は言った。 「身体が……弱いせいかもしれない。色々努力していたようだが、あいつには先天的に生殖能力がないんだ。それは、脩哉自身もよく知っている」 「…………」 「それが分かってからと言うもの、うちの親父もお袋も、お前と香夜の縁談をまとめようとおおわらわだ。だから今も内心じゃ、渡りに船だと喜んでいるよ」 瑛士は、自分の顔色がみるみる変わっていくのを感じた。 「……待ってください」 衝撃的な事実に眩暈がした。じゃあ―― 「香夜さんは、一体誰の子供を妊娠したというんですか」 「誰の子でもない」 帝は恐ろしい目になった。 「強いて言うなら、……香夜だけの空想の子供だろう」 「…………」 香夜の嘘―― 生来の嘘つき――でも……でも。 「脩哉は馬鹿だ。それをお前の子だと信じこんで死んだ。俺に判るのは、それだけだ」 「馬鹿な!」 瑛士は思わず叫んでいた。 「そんなことで――そんなことで、脩哉が死んだりするものか」 「……そんなことで?」 呆然と呟いた帝の拳が、次の瞬間瑛士の右顎に振り下ろされた。 「よくそんな残酷なことが言えたな、この卑怯者め!」 たてつづけに殴られ、口の中に血の味が広がった。それでも激しい憎しみのこもった帝の目に、瑛士は声もを出すこともできなかった。 「お前に脩哉の何が分かる。何も分かっていないくせに、知った風な口をきくな。お前はな、傍にいながら何ひとつ脩哉のことを見ていなかった。いや、目を背けて、見ようともしなかったんだよ!」 「…………」 何か大切なことを、その時思い出しかけた気がしたが、顔に落ちてきた帝の涙で我に返った。 「……脩哉が、お前と香夜の関係に気づかなかったとでも思っているのか。いや、香夜が、脩哉にそれを気付かせないとでも思っていたのか。……あいつは、どんな手をつかっても脩哉の関心を自分だけのものにしたかった。そのためならどんな汚い真似でもするんだよ」 「……そんな……」 「お前と香夜が、脩哉を殺した」 ただ打ちのめされる瑛士の顔に、大粒の涙が落ちてくる。 「お、お前の無知が、脩哉を殺した。お前が脩哉から何もかも奪い、ぎりぎりまで追い詰めて、殺したんだ。お前さえいなければ――お前さえ、この家に来なければ!」 再び拳が振り下ろされる。瑛士は、殴られるままになっていた。 頭の中は、真っ白だった。そんな馬鹿げたことが――そんなことが――。 が、そうでないと言い切れるほど、自分は脩哉のことを知っていただろうか。 知らない。 初めて会ったあの日、何故泣いていたか――それさえ、……知らない。 「泣くな」 ゆさぶられ、瑛士は、ぼんやりと顔をあげた。目の前の光景が滲んでいる。 「お前には泣く資格さえないことを忘れるな。泣いて楽になるつもりか? 忘れて楽になるつもりか? そんなことは絶対に許さない!」 「…………」 「……お前に、罰をくれてやる。瑛士」 瑛士を突き離し、帝は真っ赤に充血した目を夜に向けた。 「香夜は、半分壊れている。あの馬鹿娘も今回ばかりは懲りたんだろう。あのままでは、香夜は二度と立ち直れない」 「……僕に、何ができますか」 ぼんやりと瑛士は言った。そうだ、なんでもする、しなければならない。俺に、できることは、なんでも。 「香夜の罪を、お前が全部被るんだ」 冷やかに、帝は断罪した。 「お前が脩哉に言ったんだ。香夜の腹の子は自分の子だと、お前自身がそう認めた。――だから脩哉は死んだんだ」 「…………」 「香夜のせいじゃない。お前が脩哉にとどめを刺した。香夜に、そう言ってもいいな?」 「…………」 瑛士は、虚ろな気持ちで頷いた。それで、香夜の気が晴れるのなら、いくらでもそうしてくれ。それで――脩哉が戻るなら。 「お前は、脩哉を殺した罪を一生背負って生きていけ。今日から死ぬまで、ひとときも脩哉のことを忘れるな。――それでも俺が、お前を許す日は永遠に来ないけどな」 最後に扉の前で足を止め、帝は冷えた憎しみを込めた目で倒れたままの瑛士を見下ろした。 「脩哉の仇は、いつか俺がとってやる。でもそれは今じゃない。――いつかお前が本当に幸福になりたいと思った時、それを根こそぎ奪ってやるから覚悟していろ」 ――誰か……ここから僕を出してくれ。 一体いつまで、この夢は続くのだろうか。 それでもまだ、思い出していないことが残っている。 あれは、13歳のガーデンパーティの日の出来事だ。ずっと胸の奥底に封印し続けてきた。それは――それは、…… ************************* 「……私……」 果歩は、無意識に、胸の指輪を握り締めていた。 ――私……。 (……僕は今日、失われた鎖を見つけたんです) こんなことなら、きちんとその意味を聞いておけばよかった。 (もう決めたんです。僕の方から、二度とその鎖を手放さない。行ってきます。必ず、今夜中には帰ってきます。明日になったら、一緒に灰谷市に戻りましょう) 相変わらず判りにくすぎるよ。藤堂さん。 でも、今は――今だけは、その言葉を信じさせてください。 「……彼を、待ちます」 顔をあげて、果歩は言った。 香夜は、涙をたたえた目で、不思議そうに果歩を見つめた。 「香夜さん、もう、この議論はやめませんか。何度蒸し返されても、最初と同じ答えになります。私、何もかも、彼の口から聞きたいんです」 香夜は、黙って瞬きをする。 「……それで、瑛士さんに、騙されても?」 「かまわないんです、もう」 静かな気持ちで果歩は言った。 「嘘が、長い目でみれば真実だったりすることもあるし、その逆もあると思います。自分の気持ちも人の気持ちも、将来どうなるかなんて、わからないじゃないですか」 「…………」 「私、今の藤堂さんの言葉を信じようと思います。ごめんさない。もうこの話は――やめましょう。私、同じ答えしか言いませんから」 香夜はしばらく不思議そうに果歩を見ていた。その目には、まだ新しい涙が光っているのに、彼女の表情は不思議なほど平然として見えた。 そして、不意に香夜はにっこりと微笑んだ。 「そう」 果歩は、再び身構えていた。 香夜には、まだ二重、三重の余裕があるのだ。彼女の確かな勝利感は、一体どこから出ているのだろうか。 「じゃあ、的場さんに、ぜひともお見せしなくてはいけないものがあるわ」 「その前に、藤堂さんはどこですか」 「秘密」 ふふっと笑って香夜は唇に指を当てた。もうその目には、面白そうな笑いしか浮かんでいない。 「これからお見せする事実を的場さんが知って……それでも、瑛士さんにお会いになりたければ、私、もう止めたりはいたしませんわ。瑛士さんの秘密をあなたが見て、それでもまだ、あの人についていくと仰るのなら」 「どういう意味ですか」 「もしかすると瑛士さんの顔など、二度とみたくなくなるかもしれない。それでもあなたは、瑛士さんが隠してきた真実をお知りになりたい?」 「…………」 知りたくない。 それが、正直な気持ちだったのかもしれない。それでも果歩には判っていた。 今、引けば、確実にこの戦いは香夜の勝ちだ。 そこに、どんな恐ろしい事実があっても、今、引くことだけは許されないのだ。 「聞かせてください」 果歩は言った。 「全部……。その上で、どうするかは、藤堂さんと話しあって決めますから」 「…………」 黙る香夜の目に、初めて面白からぬ色が掠めたが、すぐに彼女は悠然と微笑んだ。 「では、ついていらっしゃい」 果歩は頷き、2人は夜の闇を歩き出した。 ――――――――――――――ー 樹木の影から、よろめくように出てきた人を見て、瑛士は眉をひそめていた。 ――脩哉……? 背後では、楽隊が賑やかなマーチを奏でている。 二宮家恒例行事の中でも、最も華やかで規模の大きなガーデンパーティ。脩哉が不意に姿を消したのは、海外のマジシャンが奇抜なマジックショーで場内を沸かせていた最中だった。 夕刻には、ダンスパーティが催され、その主役は脩哉である。 瑛士が人の輪を抜けたのは、この騒ぎに少しばかり疲れていたのと、脩哉の姿が消えたことに不審を覚えたからである。 その脩哉が、今、瑛士から少し離れた場所に、膝を折るようにしてうずくまっている。 上着もタイもなく、上はドレスシャツ一枚という姿。脩哉は唇を指で押さえ、必死に気分の悪さと戦っているように見えた。 「――兄さん?」 「――来るな!」 駆け寄ろうとした瑛士を、凄まじい剣幕で脩哉は遮った。 「……でも」 足を停めた瑛士は、躊躇った。 背を丸めた脩哉は、そこで喉を鳴らすようにして、吐いた。 人が嘔吐する姿を見たのは初めてで、それが――人とは思えないほど美しい脩哉の姿だっただけに、衝撃はひとしおだった。 「……、医者を」 食あたりか、胃の不調だろうと瑛士は思った。いずれにしても、尋常の事態だとは思えなかった。脩哉の顔は紙みたいに真っ白で、唇は小刻みに震えている。 「いい、呼ぶな」 再び駆け寄ろうとした瑛士を、脩哉は手をかざすようにして止めた。 口調は弱かったが、断固とした命令口調に、瑛士は再び動けなくなっている。 「……誰にも言うな。帝さんを呼んできてくれ。頼む」 頼む。 そんなセリフを脩哉に言われたのは、初めてだった。 瑛士もまた、初めての不安と動揺を覚えながら、懸命に人の輪の中から帝の姿を探しだした。事情を話すと、帝は心得たように、すぐに瑛士を置いて駆けだした。 「瑛士、お前は来なくていい」 「でも」 「脩哉のことは、大丈夫だ」 そこでわずかに歩調を緩めた帝は、不思議に静かな目で瑛士を振り返った。 「それより、香夜の様子を見てやってくれないか」 ――香夜さん……? 「多分、自分の部屋にいると思う」 そこで、何故香夜の名が出てくるのか。 瑛士は訝しく眉を寄せたが、帝の説明はそこまでだった。 「――脩哉、しっかりしろ」 木陰で、帝が脩哉を抱き起こすのを確認した瑛士は、なんとも言えない複雑な気持ちで、香夜の館に足を運んだ。 それは、脩哉がうずくまっていた場所の眼と鼻の先で、あらためて瑛士は、脩哉が先刻まで香夜の館にいたのでは――という事実に思い至った。 「……瑛士様? あの、今は」 玄関に、飛び出すように出てきたのは、香夜についている女執事だった。 同時に室内から、陶器が壊れる音がけたたましく響いた。猫が一斉に、廊下にあふれ出してくる。 「何があったんですか」 「いえ、どうぞ今は、お引き取りくださいませ」 硬い表情で、女執事は瑛士をそっと押しやった。 奥から、香夜の金切り声がした。 「出て行って!」 その凄まじさに、瑛士は凍りついたように固まっていた。 「あんたなんか、大嫌い。出て行って、出て行って! 汚い、汚い、汚い! どうせ私は汚いのよ!」 「さぁ、お早く」 「こんなものッ、こんなものッ、こんなものッ」 ビリビリと何かが破れる音がして、次の刹那、わーっと香夜が泣き崩れる。 女執事が慌てたように駆けていき、瑛士はその場に取り残された。廊下には右往左往する猫と、ピンクのレースやリボンの切れ端が散乱している。 「しっかりなさってください、脩哉様はご病気です。まだ時が早すぎたんです」 ――どういうことだ……? 女執事の言葉と狂気としか思えない香夜の声に、瑛士は慄然としながら館を出た。 いったい、何が起きているのか、まだ頭がついていかない。 脩哉と香夜の間に何かが起きた。判ったのはそれだけだ。 が―― 一体、何があったのか。 しかし、その日一番の衝撃は、その後に見た光景だったのかもしれない。 「……落ちついたか、脩哉」 「うん、ありがとう。帝さん」 大樹の影に隠されたベンチで、脩哉と帝は寄り添うように腰掛けていた。 脩哉は帝の肩に頭を預け、その肩に腕を回した帝は、脩哉の髪を愛おしげに撫でている。 勘違いでもなんでもなく、それは恋人同士の姿にしか――瑛士には見えなかった。 「辛いなら、そんなに無理をしなくてもいいんだぞ」 「……もう決めたんだ。それに、いつまでも香夜を待たせておくのも悪いしね」 「あいつのことは気にするな。しょせん自分のことしか考えていない勝手な女だ」 「そうでもないよ。いつも俺のために、部屋をあんな風にしてくれている」 2人の会話は、耳というより、胸に直に響いている。 立ち聞きする気は毛頭なく、その場を立ち去らなければならないことも判っていた。 なのに、瑛士は、凍りついたようにその場に立ちすくみ続けていた。 「やめればよかったな。留学なんて」 呟くように、帝が言った。 後継者争いから降りた帝が、来春、イギリスに留学することを、瑛士は夢でも見るような気持ちで思い出していた。 脩哉は、子供のようにかぶりを振った。 「……いいんだ。留学も、俺が決めさせたことだ。それに、いずれは帝さんと離れなきゃならない」 「俺はいい。いつまでもお前の傍にいて、守ってやりたい」 「それじゃ、俺が前に進めないだろ」 「進む必要が、本当にあるのか?」 帝の声が、初めて少し強くなった。 「いいか、脩哉。お前は病気なんだ。それをまず自覚しろ。一体なんのために、おじさんが瑛士を探し出してきたと思っている」 「知ってる。俺が死んだ時のための身がわりだ」 「そうじゃない――そうじゃないことは、お前が一番よく知っているはずじゃないか!」 いきりたった声は、それきり途絶えた。 「……声が大きいよ。帝さん」 「お前こそ……ここを何処だと思ってるんだ」 よく知った二人が大人のように唇を合わせるのを、瑛士はただ呆然と見ることしかできなかった。 ――忘れなければ。 瑛士は思った。ここで見たことも聞いたことも、全部、僕の記憶から消してしまわなければ。 「……脩哉、いつだって俺が、あの男の身代わりになってやる」 「……うん。イギリスに行くまでの間はね」 「残酷なことをあっさり言うな。俺がいなくなったら、次は瑛士が身代わりか?」 「――瑛士は、代わりにはならないよ。あの人の息子だからね」 心臓がドクドク鳴っている。意味が分からない会話の中に、どうして自分の名前が出てくるのかが分からない。 あの人の息子――? あの人とは、まさか自分の父親のことだろうか。 「なんにしても、もう二度と今日みたいな無茶はしないでくれ」 帝がそう言って脩哉を抱き締めたとき、ガサリと足下で音がした。無意識に後ずさった瑛士が草を踏み、それが立てた音だった。 帝の肩越しに、脩哉の目がはっと瑛士に向けられる。 「――忘れるな、脩哉。お前は――なんだ」 部屋の扉が開いている。 封印していた記憶の欠片が、ゆらゆらと水底から溢れだす。 そうだ。 あの時僕は知ってしまった。そして同時に忘れたのだ。 忘れてしまわなければ――その後、自分を保てそうもなかったから……。 |
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