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年下の上司 story15〜FeburuaryB

ミッシングリンク(11)

 
「……ここは?」

 警戒しながら、果歩は前を行く香夜に訊いた。
 目の前には、みっしりと蔦に覆われたアンティークな館がある。
 扉には南京錠がかかっていて、室内の扉には全て鎧戸がかかっている。誰も人が住んでいないのは勿論、もう何年も放置されているような印象があった。
「ここはね。おじ様の最初の奥さまがお住まいになっておられた館なの」
 前を行く香夜が言った。
「……最初の、奥様?」
「脩哉さん……。瑛士さんのお兄さんだけど、その脩哉さんのお母様よ」
「…………」
 では、今の二宮夫人は、後妻――ということになるのだろうか。
 この家の複雑な人間関係は、果歩にはよく判らない。
「静香様と仰られてね、それはそれはお美しい方だったそうよ。私の名前は香夜というのだけど、私はしょせん名前だけ。脩哉様のお母様は――そのご姉妹も、本当に竹取物語のかぐや姫のようだったと聞いたわ」
 物語を語るように楽しげに、香夜は続けた。
「その月光のような美貌ゆえに、様々な名家から求婚が来たそうよ。ご本人たちの生家は田舎の零細企業にすぎなかったようだけれど。――でもね、お姫様たちは揃いも揃って、皆、早くにお亡くなりになってしまわれるの」
「なんで、ですか」
「さぁ? お身体も弱いけどきっとお心も弱いのでしょうね。そういう血なのかもしれない。脩哉さんのお母様は、脩哉さんを生んですぐに心を病まれて、この館で療養されていたという話だわ……でも結局はご自害された。脩哉さんが5歳の時よ」
「…………」
「処方されたお薬を飲み過ぎてね。……おじさま……今の当主は、それはそれは奥さまを愛しておられて、親戚中の反対を押し切ってまで結婚されたのだけど、結局は周囲の杞憂どおりになってしまった。その前年にかぐや姫のお姉様――脩哉さんには伯母にあたる人も、首を括ってなくなられたそうよ。……こんないい方は嫌だけど、やはり血なのでしょうね」
 そこで何故、伯母の話まで持ち出す必要があるのかと、少しだけ違和感を覚えたものの、果歩は黙って聞いていた。
「汚れた世の中を生きていくには弱すぎるほど純粋な遺伝子……。そんな言い方もできるかもしれない。きっと脩哉さんにも、そういう血が流れていたのね」
 そこで頷けるほど、果歩は脩哉という人を知らない。ただ、彼の境遇のあまりの寂しさには胸が痛んだ。
 5歳で母親の自死を経験した――その辛さだけは、想像できる。
 香夜は、蔦に覆われた屋根を指差した。
「……亡くなられた静香様は、ご自身の館に決して脩哉さんを入れなかったのだそうよ。すっかり心を病まれていて、脩哉さんが自分の子だということが分からないの。おじ様と別の女の間にできた子だと思い込んで――むしろ、憎んでいたのでしょうね。可哀想に……脩哉さんはこの屋敷で、いつも一人ぼっちだったのよ」
 脩哉という人のどうしようもない悲しさが、果歩の胸にも落ちてくるようだった。
 その脩哉も――自殺した。それもまた、血だったのだろうか?
 いずれにしても、脩哉という人の寂しすぎる人生が、いまだ藤堂の胸に影を落としている理由がよく判る。
 陰鬱な館を通り過ぎた香夜は、懐中電灯を頼りに薄暗い園庭の中を歩き続けた。
「随分……広い、お庭なんですね」
 前の香夜に話しかけながら、果歩は、少しだけはらはらした。
 息が凍るほど寒い2月の夜。コートを着ている果歩でさえ、寒気で震えるほどである。その中を、香夜は薄いニットドレスとショールだけという姿なのだ。
 妊娠初期に――いいのだろうか。しかも、ここは暗いし、足場もあまりいいとは言えない。
「香夜さん」
 ついにたまりかねた果歩は、自分のコートを脱いで、それを香夜の肩にかけてやった。
「……なんの真似かしら」
 香夜は、一瞬驚いたようだったが、すぐに訝しげに果歩を見上げた。
「冷えると、身体によくないわ」
 少し躊躇って果歩は言った。
「一体これからどこに行くの? 話だけなら、部屋の中でもいいと思うんだけど」
「…………」
 香夜はしばらくの間、不思議に静かな目で果歩を見上げていたが、やがてふっと口元に冷笑を浮かべた。
「そうね。ここで的場さんにひっぱり回されて、子供に万が一のことでもあれば、さすがの瑛士さんも怒るでしょうからね」
 今度は果歩が、言葉を失う番だった。
「……的場さん、前言を撤回してもいいかしら」
 再び前を向いた香夜の背が言った。
「さきほど、私はあなたが嫌いではないと言ったわね。撤回するわ。一番嫌いなタイプかもしれない。だからかしら? 思い出したわ。私ね、とても嫌いな女がいたの。殺してやりたいほど、大嫌いな女がいた」
 果歩は黙って聞いていた。もしかすると、自分が今夜ここへ来たのは、藤堂のためではなく、彼女の話を聞いてやるためだったのかもしれない――と、その時ふと思っていた。
「その人はね……。私など逆立ちしても敵わないほど美しくて、頭脳明晰で、家柄も遥かに上だった。何もかもが、妬ましいほど完璧な人……。その人の前だと、私はただの道化でしかないくらいに」
 淡々とした口調で、香夜は続ける。
「でも、誰に対しても高慢だったその人は、私の前でだけは別人のように無邪気で可愛い女の子になるの。――私たちは何年も親友だった。人前では決して素顔を出せない彼女は、可哀想なくらい私を頼り切っていたわ。……他にも色々なことがあったのだけど、高校生になる頃には、私と彼女の主従関係は逆転した。彼女が私に逆らえないようになったのよ」
 暗い感情が、香夜の横顔から立ち昇った。
「私が彼女をどれだけ愛していたか、口で言ってもきっと伝わらないでしょうね。でもね、彼女を愛しいと思えば思うほど、私、ひどく壊して、滅茶苦茶にしてやりたくなったの。いっそ殺してしまいたいとも思った。だって私がこんなに愛しているのに、彼女はいつも別の人を追いかけているんですもの」
「……それ」
 果歩は初めて口を挟んでいた。「誰の、話なんですか」
 答えずに香夜は続けた。
「あの頃の彼女は、まるで言葉が喋れない人魚姫のようだった。王子様に恋焦がれているのに、その真実を決して言葉にはできないの。出せば、海の泡になってしまうから」
「…………」
「こんなこともあったわ。彼女が助けて介抱していた王子様に、それを横から奪った私が、彼女が影で見ていると知っていてキスをしたの。女って残酷ね。その時感じたたまらない快感……勝利感……今でもぞくぞくするほどよ」
「…………」
「プライドの高い人魚姫は、それからも私の嫌がらせに懸命に耐えていたわ。私は、楽しかった。完璧な人を、追い詰めて、壊していく感覚がね。でも人魚姫もついに反撃に出たのよ。多分、最後の賭けに出た。海の泡になるか、王子の妻になるか」
「……どういう、意味ですか」
「家を出て、本当の自分になろうとしたの。そして王子様に真実を打ち明けようとした」
「真実……?」
 香夜は答えずに、微かに笑った。
「でもその前に、隣国の王女が、先回りして人魚姫に囁いたのよ」
 香夜は、実際、囁くような声で続けた。
「ねぇ、人魚姫。今さら人間になろうとしてももう無駄よ。だって私、王子様の子供をみごもっているのですもの」
「…………」
 なんだろう。それ。
「……だから人魚姫は、海の泡になっちゃった。……だって、仕方ないわ。人魚姫より、意地悪な隣国の王女の方が、一枚上手だったんですもの」
 ここよ。
 足を止めた香夜の前に、搭状の建物があった。まるで教会のような造りだった。たてに長く、円筒状になっている。
 嵌めこまれた窓には全て鎧戸が降りており、内部を完全に隠している。
 美しくはあったが、とても――人が暮らせるような建物には見えなかった。
「この中に、藤堂さんが……?」
 果歩は、訝しく聞いていた。塔からは灯りが一切漏れておらず、門扉には厳重な鎖鍵がかけてある。無人なのは明らかだ。
「彼が、あなたに隠していた秘密が」
 香夜は微笑して振り返った。
「きっと、見れば一目でわかるわ。さぁ、的場さん、お入りになって」

 *************************
 
 今さら、藤堂の何を知っても、自分が揺らぐとは思えない。
 扉の方に歩いて行く香夜の背を見ながら、それでも果歩は――今、香夜に、この部屋の扉を開けさせてはならないような気がした。
 よくは判らないが、香夜のために。
「……意地悪な王女は」
 果歩は、衝動的に口を開いていた。
「本当は何が欲しかったんですか?」
 香夜の背中が、門扉の前で止まる。
 振り返らずに、彼女は言った。
「……どういう意味?」
「私には、人魚姫より、王女様の方が可哀想な気がしたから。本当は人魚姫を海の泡にする気なんてなくて、ただ、自分を見てもらいたかっただけのような気がしたから」
「…………」
「人魚姫が、本当に泡になったのなら」
 一度言葉を切ってから、果歩は一気に言った。
「それを一番後悔しているのは、香夜さんなんじゃないですか。だから怖いんじゃないんですか」
「……怖い?」
 香夜がゆっくり、振り返る。可笑しそうな、不思議そうな微笑を浮かべている。
「私が? 何を? 人魚姫の亡霊が怖いとでもいうの?」
「……自分が、幸福になるのが」
 初めて、香夜の表情が凍りついたように止まった。
 その瞬間、ずっと胸に澱んでいた異和感の答えが、突然果歩の胸に閃いていた。
 わかった――。
 8年もの間離れていたのに、いきなり藤堂の元に香夜が戻ってきた理由。
 それは、藤堂が恋しかったからではない。自分を――罰するためだったのだ。
 きっと、本当に好きになりそうな相手に巡り合ったから。
 そして、多分だけど、藤堂さんの前にもまた、私がいたから。
 そのお腹の中の子は、――もしかすると、香夜さんが、今一番大切に思っている人の……。
「………っ」
 黙っていた香夜が、不意に顔をゆがめてうつむいた。
 果歩は吃驚して、駆け寄ってその肩に手を添えている。
「だっ、大丈夫ですか」
 香夜は微かに笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
「蹴られる度にびっくりするの……。痛いわけじゃないのに、お腹に別の生物がいるって不思議ね。自分の体内で、すごく恐ろしいことが起きているような気がする」
「…………」
 蹴られる。
 果歩は、わずかに瞬きをした。妊娠初期の子供って、お腹まで蹴るものだったっけ。
「5ヶ月よ。……もう直6ヶ月。全然目立たないけど、それだけで瑛士さんの子供じゃないって、ばれちゃうわね。もともと彼には、一切身に覚えがなかったことでしょうけど」
 香夜は、さばさばとした口調で言った。
 果歩はただ唖然としていた。
「産む資格なんて私にはないのに、こんな時期までだらだらだらだら……。あーあ、いくらなんでも、もうどうにもならないでしょうねぇ」
 そのまま夜空を見上げた香夜は、長い息を吐いた。長い、長い溜息だった。
「負けね」
 やがて香夜は、溜息の延長のように呟いた。
「完全に私の負け。瑛士さんにも負けたけど、果歩さんにも負けたのだから、これはもう、潔く身を引くしかないわね」
 ――香夜さん……。
「ごめんなさい。鍵を、忘れてしまったみたい」
 肩をすくめた香夜は、どこか寂しげに微笑した。
「これじゃ、中に入れないわね。馬鹿ね、私も。せっかくこんなところにまでお連れしたのに、ごめんなさい」
「いいえ」
 果歩は首を横に振った。
 わずかな未練が、果歩を閉じられた扉の向こうに引き寄せようとしたが、今はこのままでいいと、自分に言い聞かせた。
「いつか、その扉は藤堂さんに開けてもらいます。彼が、そうしたいと思った時に」
 果歩は、自分に言い聞かせるように、言った。
「その方が、いいような気がするんです……。その方が」
「…………」
 それには何も返さず、香夜はわずかに笑んだだけだった。
 そして、ふっと息を吐くようにして、言った。
「瑛士さんなら、本殿の彼の部屋よ」
「え……」
「馬鹿な瑛士さん。毒と判って、私の淹れた紅茶を飲んだの。……死んでいたのに、あれが、本当に毒だったら」
「どういう、意味なんですか」
 さすがに表情を強張らせた果歩に、香夜はどこか気が抜けたように首を横に振って微笑した。
「聞きたければ、片倉に聞けばいいわ。いずれにしても、私がどうなるかは、瑛士さんとおじさま次第よ。もしかしたら、刑務所で出産することになるかもしれないし」
「え……?」
「行って」
 優しく笑って香夜は言った。
「早く行かないと、帰れなくなるのじゃなくて? 瑛士さんはせっかちだから、目が覚めれば1人で帰っておしまいになるわよ」
「え、あ、……ありがとう」
 確かに、ここまで来てのすれ違いだけは勘弁して欲しい。
 香夜の言う意味はよく判らなかったが、とりあえず、藤堂に会うのが先決だと思った。
 果歩は、わずかな未練を覚えて、扉が閉まったままの建物を見上げた。
 ここに、一体何の秘密があったのだろうか。
 でも、今は――まだいい。
 この扉を開けてくれるのは、きっと藤堂でなければならないから。
「戻りましょう、香夜さんも」
 果歩は、香夜の肩を抱いて促したが、香夜は静かに首を横に振った。
「わたしの事なら放っておいて。1人で部屋に戻ります。私の1人の身体じゃないのだから、無理はしないわ」
 果歩は、やはり呆然として香夜を見た。
 なんなの、この、打って変わった落ち着きぶりは。
 今の香夜が本当の香夜――? では、今までの香夜は、一体何だったのだろう。
 電話を受けた時、彼女の口調からぞっとするような狂気を感じた。だから果歩は、危険を承知で藤堂家を飛び出してきたのだ。
「そんな顔をなさらないで」
 果歩を見上げて、香夜は笑った。
 灰谷市で初めてみたような、無邪気で可愛らしい笑顔だった。
「瑛士さんから聞いておられない? 私、根っからの嘘つきなの。ううん、嘘を本当の感情にしてしまうのが得意なの。瑛士さんは、それをよく知っていて、昔から随分私を警戒していたけど、……それでもいつも、騙されてしまうのよ」
「そうなん……ですか」
 ただ、ぽかんと口を開けるしかない果歩である。
 そういえば、藤堂が必要以上に香夜を警戒していたのは覚えている。なんでそこまで、と、不思議に思ったものだったが。
「瑛士さんは、私が嘘と現実を混同していると思っていたようだけど……、私はいつも冷静よ。自分が何をしたかくらい覚えてるし、一度も忘れたことなんてない」
 香夜は寂しげに微笑した。
「でも女って残酷ね。今が全てで、過去の恋愛なんて、実はとっくの昔に心の中で整理してしまっているの。的場さんだってそうでしょう?」
 何故かその質問には含みがあるような気がして、果歩は返事に窮していた。
 顔を上げた香夜の横顔に、その刹那、幻みたいに薄い涙が一筋伝ったような気がした。
「……でも、男は違うわ。きっと、いつまでも過去を忘れられないのよ。瑛士さんはいつになれば、脩哉さんの亡霊から、本当の意味で自由になれるのかしらね……」




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