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年下の上司 story15〜FeburuaryB

ミッシングリンク(12)

 
「念のために、胃洗浄をいたしましたので、お薬でお休みになっておられます」
 二宮家本殿――藤堂が眠る部屋。
 果歩を案内し、そう説明してくれたのは、黒服をまとった長身の男だった。
 引き締まった端正な容貌で、油気のない髪を短くカットしている。
 顔立ちは典型的な文系なのに、全体の雰囲気は、鍛え抜かれたスポーツマンという感じがした。
 果歩相手に、必要以上に慇懃な態度を取る男は、最初から表情に一切の変化を見せない。紳士的な微笑に優しい目元――印象は悪くないのに、まるで人形相手に喋っているような薄気味悪ささえ覚えてしまうほどだ。
 片倉――と名乗った男は、この屋敷の執事をしていると、自身の立場を紹介した。
 執事って実在したんだ、と果歩は内心驚いている。
「……胃洗浄って、一体、何を飲んだのですか」
 不安になって、果歩は訊いた。毒――香夜の言葉が、ひやりと胸に突き刺さる。あれは、冗談でも比喩でもなく、本当の話だったのだろうか。
「何も。だから念のためです」
 あっさりと片倉は答えた。
「香夜様からお聞きであれば、包み隠さず申し上げますが、香夜様がご用意なさっていたお薬は、私が予め無害の粉末とすり替えていたのです。万が一の事態を思いまして」
 万が一の事態。
 それは――もしかして、香夜さんが、本気で藤堂さんを殺そうとしていたということだろうか。
 さすがに果歩は、自分の足が細かく震えだすのを感じた。
「その……、お薬って」
「パラコート。除草剤の一種です。瑛士様はご存じありませんが、以前、香夜様と婚約されていた方が、自死された時に用いたものです」
 それは――。
 藤堂さんのお兄さん。脩哉さんという人のこと?
 果歩がそう訊くと、片倉は小さく頷いた。
「……藤堂さんは以前、……脩哉さんという方が亡くなられたのは、睡眠薬を過剰に取り過ぎたせいだと」
「当時は、まだ未成年だった瑛士様や香夜様のお心を慮って、劇薬の名を伏せたのです。脩哉様の覚悟の凄まじさには、大人の私でも胸を引き裂かれるようでしたから」
 が、いつかの時点で、香夜はそれを知ったのだ。
 睡眠薬の過剰摂取であれば、あるいは誤飲も考えられる。室内での出来事なら、発見が早ければ助かったかもしれない。
 でも、除草剤を飲んだのであれば――。
 覚悟の死。万が一にも助かることさえ、脩哉という人は考えなかったのだろう。
 それと同じ劇薬を、香夜は自室に隠し持っていた。むろん、庭の手入れに使うつもりだったのかもしれないが――。
 今宵、紙一重だった藤堂の命を思い、果歩は再び足が震えだすのを感じていた。
「香夜さん、……本気だったんですか」
「それは私にも判りません」
 静かな口調で、片倉は首を横に振った。
「おそらくは香夜様も、私が薬をすり替えていたことまでは想定されておられたはず。それでも最後の一点で、確たる自信が持てなかったのでございましょう。最後の最後まで――ご自分のお気持ちでさえ、香夜様は、お判りにならなかったのではないでしょうか」
「…………」
 藤堂が紅茶を飲んだ途端、錯乱した香夜が、すぐに片倉を呼んだのが、今夜の結末のようだった。
 激しく取り乱し、泣きじゃくっていた香夜は、本当に藤堂が死ぬものだと思い込んでいたらしい。
「私とて、万全を期したつもりではおりましたが、土壇場で香夜様が、何をされるかまでは判りません。実際――寿命が縮みました。今夜ばかりは」
 片倉の唇から、初めてわずかな溜息が洩れた。
「……思わぬご懐妊のせいもございましょうが、香夜様の精神も、今夜は本当にぎりぎりだったのです」
 
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(薬のせいで、少し眠りが深うございますが、直にお目を覚まされますでしょう。藤堂様のご自宅へは、私がお送りいたします)
 そう言って片倉が退室したので、果歩は藤堂と2人で取り残された。
 ただし、藤堂はおそらく夢も見ないほど深く熟睡している。
 ――藤堂さん……。
 のぞきこむと、安らいだ寝顔がそこにある。健康そうな寝息。薬のせいもあるだろうが、疲れも溜まっていたのかもしれない。本当にぐっすり眠っている。
 ――全く……人の気も知らないで。
 果歩は軽く息を吐き、藤堂の手を布団の中に収めてやった。
 同時に、力ない彼の手が、少しだけ愛おしくなる。
 藤堂家で別れた時のままの姿だった。ただし、シャツの前のボタンが二つほど外れている。枕に半ば埋もれた顔はわずかに傾き、唇は薄く開いていた。
 なんて無防備。
 微かに笑って、果歩は藤堂の髪をそっと撫でた。
 紅茶を飲んだ経緯は想像したくもないが、それでも、場違いに安らいだ彼の寝顔に、やや拍子抜けしたのも事実だった。
 ――隣国の王女様は……死んだ人魚姫に代わって、王子を殺すしかないと思ったのかな。
 果歩は、いらない妄想を打ち消した。
 とにかく、彼は無事だったのだ。
 何らかのトラブルが香夜との間であったにしろ、それはもう、彼なりに解決してしまったのだろう。
 今となっては、藤堂の母に心配をかけてしまったことだけが申し訳ない果歩である。いきなり飛び出したきり、電話一本も掛けず――。
 後で片倉さんに頼んで、電話を借りよう。
 もう一度藤堂の寝顔を見下ろした果歩は、改めてこの凄い――とんでもなく贅沢な室内を見回した。
 ――いや、これ男の部屋じゃないでしょ。
 天蓋つきのキングサイズのベッドには、上から豪奢な紺色の絹とレースが垂れている。
 天井にはアンティークな照明。窓枠には、ヨーロッパ風の彫刻が施してある。
 天蓋の外に出た果歩は、半ばあきれながら、豪華な室内を見回した。こんな部屋で育った男なんて御免こうむりたい所だが、それが藤堂なのだから仕方ない。
 壁一面に書棚があり、そこに本がぎっしり詰められていたのが、彼の部屋らしいといえば部屋らしかった。
「瑛士は、まだ、眠っておるのかね」
 柔らかな男の声が、いきなり背後で響き渡った。
 本棚に手を伸ばしかけていた果歩は、ぎょっとして振り返った。
 黒のガウンをゆったりと羽織り、杖をついた白髪の人が、いつの間にか果歩の背後に立っていた。
 背は果歩より少し高い程度。こんないい方をしたら失礼だが(どちらに?)少しだけ印象が那賀局長に似ていなくもない。
 果歩は、言葉を失っていた。
 もちろん、昼間、果歩はこの人の顔を見ている。だから疑う余地はないのだが――まさかこの家の当主が、果歩の前にいきなり現れるとは、想像してもいなかった。
「……やれやれ。香夜も香夜だが、瑛士もなんと向う見ずな」
 独り言のように男は言うと、寝台の方に歩き出した。
「しかし、これで香夜の気も済んだだろう。片倉の寿命は幾分か縮んだろうし、呼び出されたあなたには、お気の毒だったがね」
 柔らかな絨毯は、男の杖の音を完全に消し去っている。二宮家当主、二宮喜彦――。
 天蓋の覆いを払うと、喜彦は、さきほどまで果歩が腰掛けていた椅子に鷹揚に腰を下ろした。
 丁度、藤堂の顔が見下ろせる位置にある椅子である。
「あっ、あの、私――」
 ようやく我に返った果歩は、ぎくしゃくしながら、再び天蓋の中に戻った。
「ご、ご挨拶が遅れて、大変申し訳ございません。私、灰谷市役所で」
「存じておるよ」
 果歩を仰ぎ、優しく、喜彦は遮った。
「瑛士みたいな面倒な男の傍に、よくついていてくれた。元父親として、礼を言おう。ありがとう、的場さん」
「…………」
 ――え?
 このハードルの低さって……本当にこの人が、二宮家の当主?
「今のところ、あなたは瑛士の恋人であって、二宮の花嫁候補ではないからね」
 果歩の内心を読んだように、含んだように喜彦は笑った。
「私としては、よろしくおつきあい願いたいと、それ以外のなんの感情を挟む必要もない。ただし、当主の嫁となると話は違ってくるだろうが」
 果歩は、どう答えていいか判らないまま、ぎこちなく頷いた。
 実際、喜彦の言うとおりだと思った。こんな巨大な権力を持つ家に他人を受け入れるのだ――誰でもいい、どんな女でもいいと言うわけにはいかないだろう。
「……私も、今は、それでいいと思っているんです」
 開き直ったわけではないが、果歩は素直に言っていた。
 この人の前では、何をどう取り繕っても無意味なような、そんな不思議なオーラを感じたからかもしれない。
「正直言えば、今も、本当の意味で恋人だなんて言えないのかもしれません。もしかして、ただの同僚で終わるかもしれませんし」
 内心、ちょっぴり不安に思っていることまで吐露してしまった。
 さすがに老人は、わずかに意外そうな表情を見せる。
「ほう、それは瑛士が聞いたら、驚くだろうな」
「驚くでしょうか? 藤堂さんも、そんな風に思っておられるような気がしますけど」
 しかも、不満まで口にしてしまった。
「ふむ……」
「すみません。余計なことだったですね」
 赤くなった果歩を見て、喜彦は薄く笑んだが、反応はそれだけだった。
「もし、私が反対したらどうするね?」
 やがて、穏やかに男は言った。そのしわがれた指は、そっと元息子の額を撫でている。
「どうって……」
 どういう意味だろう。
 男の真意を測りかね、果歩は、わずかに言い淀んだ。
「もう、私の血縁は甥である瑛士しかいない。帝も香夜も、この家とは関わりのない場所で生きていくだろう。むろん、後継者は血縁でなくとも構わないが――あるいは瑛士は、本人の意に反してこの家を継ぐことになるかもしれないよ」
 淡々と、喜彦は続けた。
「その時、あなたと瑛士が恋人同士だったとして、私が反対したら、どうするつもりかね」
 きた……。とんでもなくヘビーな質問。
 もしかして、これも何かの試験だろうか。
 だとすれば、いったいどういう答えを、ここで期待されているのだろう。好まれるのは強い女性か、控え目な女性か。
 が、迷ったのは数秒で、すぐに果歩は諦めた。やはり、何をどう言い繕っても見透かされるような気がしたからだ。
「どうしようも、ないと思います」
 本心を、果歩は言った。
「きれいごとかもしれませんが、彼に家を棄てるような真似はしてほしくないです。私は……」
 ――私は……。
「分かりません。きっとその時、色々なことを斟酌して、彼と話しあって決めるんだと思います」
「そのような状況を、私は何度か見てきたが」
 喜彦が静かに口を挟んだ。
「熱烈に引かれ合う男女に、その答えなど、おいそれと出てこないよ。戦うか、永遠に引き下がるか。しょせんはその二択しかない」
 ――戦うか。永遠に引き下がるか。
「前者を選択したのが私で、後者を選んだのが私の弟だ。しかしどちらも決して幸福にはなれなかった。私にも、いまだ何が正解だったのか分からないのだがね」
 果歩が黙っていると、初めて男は眉をあげて、おかしそうに笑った。
「あなたは迷わず戦いを選ぶと思ったがね。今日だって、瑛士を奪いにパーティに飛び込んできたじゃないか」
 はっと頬を熱くした果歩は、しどろもどろになりながら頭を下げた。
 しまった。まずそこを謝罪するのが先だった。そもそも今日はこの人の誕生祝いのパーティだったのだ。
「……そ、その節は、大変失礼いたしました。大切なお祝いの席を、……その」
「構わんよ。帝があなたを招待していたのは知っていたし、私もその展開をワクワクしながら待っていたからね」
 ――え……。
「少々予想外だったのは、帝の手を借りずにうちに入ってきたことだ。まぁ――危なっかしくはあったがね。君の友人は、私が手を貸すことまで想定していたのかね?」
「……え? え、まさか、そんな」
 いくらりょうが賢くてもそこまでは。
 でも、入り込みさえすればなんとかなると、りょうにしてはひどく悠長に構えていたし、実際その通りになった。
 りょうは――藤堂さんの義父が、自分たちを待っていることを予想していたのだろうか。
「まぁ、いい。なかなか面白い見世物だった。久しぶりに先が読めずに焦ったし――笑いもしたよ。いい誕生祝いになった」
 楽しそうに語る男の胸中は、果歩にはさっぱり判らない。
 が、おそらくこの人は、最初から何もかも知っていたのだろう。香夜の嘘も、藤堂の諦めも、何もかも――
「これの父親は、よく出来た男でね」
 静かな口調で、喜彦は続けた。
「私には、10も年下の、存在自体が憎らしい弟だった。もう少し年が近く、もう少し長く生きていたら、この家の当主は弟のものになっていただろう。なにしろ、二宮家特有の天賦の才を持っていた。……瑛士と一緒だ」
「…………」
「私は結婚が遅くてね。それには切実な理由があった。ある1人の女性を恋していたのだが、血が悪いと言って、どうにも父が許さない。しかし、私は強引にその人を屋敷に連れ帰って閉じ込めた。事実上、結婚したのだ。今の言葉で言えば、同棲とでも言うのかね」
 それは、少し違うと言うか、なんだかニュアンス的なものが間違っているような――。
 と、果歩は思ったが、もちろん、口は挟まなかった。
 その女性とは、おそらく脩哉の母親のことだろう。
「すると、父も謀略家らしく、作戦をたてて私に別の結婚を迫ってきた。私の事実上の妻として、別の女を屋敷内に置いたのだ。つまり、私には、当時、未入籍の妻が2人いたことになる」
 喜彦は、遠くを見るような目になった。
「脩哉を産んだばかりだった彼女は、――静香という名前だがね。静香は、随分と不安定になってね。それはそうだ。信じた私とは結婚できず、屋敷にはもう1人、奥さまと呼ばれる女性がいる。それは……想像以上に辛かったに違いないよ」
 そうして静香という人は心を病み、自分の産んだ子供さえ、識別できなくなったのだ。
 果歩は黙って眉を寄せる。それを、血のせいだと一括りにされたのではひどすぎる。あまりにも、静香という人が気の毒すぎる。
「静香は私を恨み、ひどく憎みもしただろう。だのに私には、どうしてやることもできなかった。家を棄てることもできない。さりとて、静香を諦めることもできない。……もう1人の女もまた必死だった。当時の時勢だ。二宮家にいったん妻として入った以上、当の私と結婚しないまま実家に戻るなどできやしなかったろう。――やがて、静香の症状はますます末期的になり、何度も自殺未遂を繰り返すようになった。錯乱して、脩哉に手をかけたこともある。私は、それでも、……どうしてやることもできなかった」
「…………」
「そんな折だ。……いきなり全てが解決した。あれは、脩哉が4歳になったぱかりの頃だった。弟が、いきなり結婚すると言い出したのだ」
 果歩は、思わず藤堂の寝顔を見ていた。
「……藤堂さんのお父様が、ですか」
「そうだ。私をずっと苦しめ続けてきた女と――父が、私の結婚相手にと、無理に置いていった女と、だ」
「…………」
「女はそれを快く了承し――おそらく内心では、いずれ弟がこの家を継ぐという計算もあったのだろうがね。ようやく私の憂鬱の根は消えたのだ。私はようやく静香を正式な妻に迎え入れ、脩哉は私の息子になった。弟の、幸福の全てと引き換えにして」
「…………」
「私は最初から知っていたのだよ。弟には、学生時代から一途に思いを寄せていた女性がいて、その人と一緒に暮らすために家を出る準備を進めていたことを。その女性との間に、2歳になる息子がいることを」
 喜彦の口調に、抑えた後悔が滲んでいる。
 果歩にも、もう判っていた。その女性が佳江さんで、2歳になる息子が、藤堂さんのことなのだ。
「何故……弟さんは、結婚されることに決めたのですか」
「脩哉のためだ」
 短く、しかし力強く、喜彦は答えた。
「弟は、4歳の脩哉を自分の子供みたいに可愛がっていた。きっと、会うこともできない本当の子供と重ねていたのだろう。脩哉は、母親にも、父である私にも構われない可哀想な子供でね。起きている時も寝ている時も、ずっと弟にしがみついているような寂しがり屋の子供だった。弟が帰ってこない日などは、ずっと外で、待っているんだ。雨の日でも雪の日でも、一晩中でも」
 不意に胸が締め付けられるように痛み、果歩は視線を下げている。
「おそらく、結婚を条件に私から手を引くと言い出したのは、女の方だろう。――弟は、断れなかった。……脩哉が憐れで……どうにも、見捨てられなくなったのだろう」
 喜彦の唇から、深くて長い溜息が洩れた。
「……弟が事故で死んだのはその翌年だが、脩哉は時々、同じ場所に立っては泣いていた。……弟が以前暮らしていた――瑛士が15の年まで暮らしていた館の前で」
 ――そんなことが……。
 果歩は黙って視線を下げた。
 藤堂の実父は、決して藤堂が思っているような人ではなかった。むしろ義理に厚く、心根の真っ直ぐな人だったのかもしれない。彼の犠牲が、脩哉とその母を一時でも救ったのだから。
 が、その影で1人取り残され、心に深い傷を負った子供がいる。――藤堂だ。
 もちろん、喜彦も、それはよく知っていたのだろう。
「……だから、藤堂さんを、後継者として引き取られたのですか」
 果歩の問いに、喜彦はすぐに首を横に振った。
「罪滅ぼしのために、かね? それは違う。私はね、そんなに心優しい男ではないのだよ。むしろ、自分のことしか考えない勝手な男だ。私が瑛士を後継者にと考えたのは、瑛士のためではない。むしろ瑛士には、ただ迷惑なだけの話だったろう」
「……では、誰の……?」
 誰のために?
「私が愛する者は、生涯、ただ1人だけだ。今も、それは変わらない」
「…………」
「愛する者の血を受け継いだ脩哉を、どうしても幸福にしてやりたかった。私が願ったのは、それだけだよ」
 喜彦は囁くように言うと、立ち上がった。
「あの、ひとつだけ」
 果歩は、彼の後を追って天蓋を出ていた。
「ひとつだけ――私は、脩哉さんのことを、人の話でしか知りません。あの……藤堂さんは、その人を兄だと言っていましたけど」
 喜彦が不思議そうに首をかしげ、それで、と話の先を促す。
「脩哉さんは、女性の方ですよね?」
 一拍、不思議な沈黙の後、喜彦は低く頷いた。
「その通りだ」
 
 *************************

 時計だけが、刻々と時を刻んでいる。初めて老人は、心の底から安らいだように微笑した。
「脩哉は女だ。肉体は男でも、心はずっと女だった。そういった病気を真正面から認めるには、多少の葛藤はあったがね。いずれにしても、脩哉に当主は無理だったろう」
 だから――
 だから、この人は、藤堂を養子として引き取ったのだ。
 最初から、脩哉に重荷を背負わせる気はなかったのだ。
「香夜さんと、帝さんは」
「知っていた。あの2人は最初から、脩哉を守るためだけにこの館に呼び寄せた。帝は脩哉を支え、香夜は盾になった。他の女から脩哉を守るための盾、だ」
「…………」
「時が来れば、私は脩哉を女に戻してやりたかった。しかし、脩哉のプライドがそれを許さなかった。脩哉は徹頭徹尾男として生きることを選び、そのために、生理的な嫌悪すら乗り越えようとした。想像がつくだろう。あれにとって、女性と交際するということは、同性を相手にするようなものなのだ。脩哉は――私から見ても、恐ろしい忍耐力で、その苦痛に耐えていた」
「…………」
「しかし、その精神力にも、やがて綻びが生じてきた。瑛士には何をしても敵わない。そんな絶望も、確かにありはしただろう。が、それはおそらくは些細なことで、脩哉にとっては、――生きるということそのものが、地獄のようなものだったのだ」
「…………」
「……脩哉が亡くなる前年だ。秋に電話があって、それが私たちが話した最後になった。もういいです。と脩哉が言った。お父様の思うとおりに、瑛士に家を譲ってくださいと。お前はどうする、と私は訊いた。お前はこれから、どうするのだ、と」
「…………」
「やり直したい、と脩哉は言った。脩哉がその前年、あえて受験に挑まず、家を出た理由は判っていた。脩哉の女の部分が、もうこの家にいることを耐えられなくさせていたのだろう。……脩哉はずっと、死んだ男の幻を追いかけていた。それを、恋と呼んでいいのか、私にはわからんがね」
「……藤堂さんの、お父さんのことですか」
 それまで、そんなことは何ひとつ想像しなかったのに、口を開いた刹那、果歩はそれが正解であることを理解していた。
 脩哉という人は、――藤堂の死んだ父親を恋していたのだ。
 その思いは、瓜二つの息子にも向けられていたのだろうか?
 もう泡になった人魚姫から、その真実が語られることはない――永遠に。
「瑛士と弟は、私でも怖くなるほどよく似ている。……幼い頃の脩哉には、弟が世界の全てだった。忘れられなかったんだろう。ずっとな」
「…………」
「私は私のエゴで、脩哉だけではない。香夜も帝も……瑛士もだ。幼い子供の心を、ずたずたに切り裂き、沢山の傷を残してきた。脩哉も憐れなら、その脩哉に狂うほど恋焦がれていた香夜も憐れだ。……私に、誰を責める資格もないのだよ」
 
 *************************
 
「……藤堂さん……」
 
 まだ、眠らせていて。
 
「さっき目を覚ましたような気がしたのに。……まだ、眠いの……?」
 
 まだ、この闇の中から引き戻さないで。
 
 今、解けた記憶の欠片を、あるべき場所に戻しているから。
 ずっと長い間、胸の底に押し込めていた、脩哉との思い出を――。




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