本文へスキップ


年下の上司 story15〜FeburuaryB

ミッシングリンク(13)

 
「……ん……」
 寝返りを打った果歩は、薄眼を開けて、目をこすった。
 眠い……今何時だろう。直感的にちょっと早く起きすぎた、という感じがする。
 でも今朝は早く起きなきゃ……だって、私が、藤堂家に嫁入りした初日――
 ではなく、今はしがない客人だけど、絶対に完璧な朝食を作って、お母様をぎゃふんと言わせなきゃ。
 その前にメイク(フル)やら髪のセットやら、女の朝は戦場なみに忙しいのだ。
 起きなきゃ――が、身体は水を含んだ綿みたいにずっしりと重く、動かない。まずい、早く起きなきゃ、少なくともお母様より早く……。
「眼が、覚めましたか」
 耳元で、藤堂の優しい声がした。
「あ、はい。すみません、熟睡してたみたいで」
「もう少し寝てもよかったのに」
「そうは……」
 いきませんよ。
 と、顔をあげた果歩は、目の前にある――というより、自分を包みこんでいる気配に、大げさでなく――愕然とした。
 は……はい?
「おはようございます」
 にこっと笑って、藤堂は微笑んだ。
 ……っひ。
 と、喉で、何かを吸い込んだような奇妙な音がした。果歩は硬直したまま、ほぼ、ぼやけた視界に映る――相当の至近距離にある、藤堂の顔を見上げている。
 い、一緒に寝てる……? もしかして。
 室内には、琥珀色の淡い照明だけがついている。彼は横臥した状態で、果歩はその隣で、彼と向き合うような態勢になっていた。
 2人を覆っているのは1枚の布団で、つまり――つまり……。
「――きゃっ」
「しっ」
 唇を大きな手で覆われる。果歩は軽いパニック状態に陥り、2人の身体はますます――密着した。
「大声を出すと、母が目を覚ますので」
 囁くように言われ、手が離れる。果歩はまだ、硬直したまま動けない。
 ど、どど、どうして一体この展開? これは夢? そうか、夢だ。幸福な夢の続きに違いない。
「……藤堂さん」
「はい」
 優しい声と眼差しにドキドキする。そっか、残念だけど、やっぱりこれは夢なのね。まぁ、どう考えたってあり得ないもんね。こんなこと。
 だとしたら、ここで中途半端に目覚めてはもったいない。
 果歩は目を閉じ、強引に自分を夢の世界に引き戻そうとした。
 私たち……ついに結婚したんですね(強引にここまで持ってきてみた)。こんな穏やかな日が私たちに訪れるなんて……まさに夢でしかないじゃないですか。
 夢でしかない温もりに身を寄せた果歩は、やはり夢でしかない藤堂の胸に顔をうずめた。せっかくだから、その幻影に両腕を回し、ぎゅっと力一杯抱きしめてみる。
 あったかい……。
 薄く目を開けば、滑らかな素材の前開きタイプのパジャマ。理想。ああ、神様、これが夢なら、私の眼を覚まさないで……。
 肩に腕が回されて抱き寄せられる。大きくて逞しい腕。体温と鼓動と、どこか無防備な彼の素の匂い。
 もう、幸せで……どうにかなっちゃいそう。
「……ちょっと、まずいかな」
 その藤堂が、不意に頭上で囁いた。
「眼が覚めたのなら、少し話をしませんか。ちょっと……さすがに……この体勢は苦しいです」
「………………」
 ――え?
「……現実ですか。もしかして」
 果歩は呆けたまま、馬鹿なことを聞いていた。
「寝ぼけてましたか。もしかして」
 見上げた藤堂は、苦笑いを浮かべている。
「目が覚めると、的場さんが隣にいたので……別に悪い意味で聞いているわけじゃないですけど、寝相、あまりよくないんですか?」
「………………………………」
 3秒後、果歩は再び口を塞がれていた。
「……す、すみません。騒ぐと何を誤解されるか判らないので。それにしても、何故、……的場さんと僕が同じ部屋に?」
 何故って……何故って。
 果歩は、動揺をひたすら堪えながら、懸命に昨夜の記憶をたぐり寄せる。
 昨日――あれから、どうだったっけ? 
 ここは、藤堂家――藤堂佳江の家の一室である。それだけは間違いない。
 昨夜、目覚めた藤堂を家まで連れて帰って――まだ薬が効いていた彼は、倒れこむように佳江が用意した布団で寝入ってしまって、それでおしまいだったはずだ。
 で、私は――?
 とりあえず、どちらかが傍についていましょうということになって、それで結局は果歩が少し離れた場所に布団を敷いて、何かあれば対応することになった。
 とにかく藤堂の眠りが深かったから、朝まで起きることもないと――。果歩にしても、そんなに深く寝るつもりはなかったし、病人の枕もとに付き添う気軽さで、その役目を引き受けたのだ。
 ようやく事態の全容を解した果歩は、少し離れた場所に敷いた自分のための布団と、藤堂の誤解を理解した。
「ね、寝相は全然悪くないです! 多分、うとうとして、このあたりでそのまま寝ちゃったんですよ!」
「しっ」
 藤堂が、自分の唇に指をあてる。
「……やれやれ、同居のリハーサルかなぁ」
 事情を聞いた藤堂は、少しばかり呆れた横顔で呟いた。
「あの人は、なんでも試したがるから……。吃驚しましたよ。目覚めたら、いきなり的場さんが隣で寝てるし」
「す、すみません。なんか……私も、疲れてたみたいで」
 結局は、30センチほど距離をあけ、2人は一つの布団で向かい合った。
 見下ろしている藤堂の眼差しが優しくて、果歩は気恥かしさから顔を上げることができないでいる。
「ご心配をおかけしましたね」
「……もう、いいんですか」
「もともとよかったんです。家の者が大袈裟だから、とんだ目にあいましたよ」
 香夜さんの紅茶……。
 もし、本当に毒が入っていたら。
「……私より、香夜さんを選ぶつもりだったんですか」
 双眸を曇らせた果歩の言いたいことを察したのか、藤堂の笑顔がわずかに翳るのが判った。
「そうとられても、仕方がないかもしれないですね。……どう言い訳しようと、僕は同じ選択をしたと思うから」
「…………」
「恋愛とは違う。……でも、友情よりは少し濃い関係です。香夜さんと僕は、ある意味同士のようなものかもしれない。この先の人生で、もし彼女と関わることがあれば、――やっぱり、僕は、彼女に振り回されてしまうような気がするから」
 それは、あまり面白くないです。
 僕も、できれば避けたいのですが。
 互いにそう言って笑い、2人はそのまま見つめあっていた。
「……許して、もらえたんですか」
「彼女が許す相手は、どうやら僕ではなかったようですよ」
 静かな目で、藤堂は天井を見上げた。
「……許せたんだと思います。ようやく自分を」
 そしてその目をわずかに翳らせ、再び果歩の方に向き直る。
「実際は僕の方が、はるかに罪は重いと思いますけどね。――昨夜香夜さんと、何を話したんですか」
 果歩は迷いながら、香夜が寓話的に持ち出した人魚姫の話をした。
 脩哉という人が性同一性障害であったことを含め、人魚姫と王子が誰を例えたものかは口にしなかった。多分それだけで、藤堂には通じるはずだと思ったからだ。
 藤堂は黙って聞いていたが、彼の眼差しに憂鬱と悲しみが滲むのが分かって辛かった。実際はぼんやりとしか見えなかったから、果歩が勝手にそんな風に感じただけなのかもしれないが。
「……童話の人魚姫では、王子様は最後まで、人魚姫の気持ちに気付かなかったと思うんですけど」
「……はい」
「実際はどうだったんですか。……気付いて、いたんですか」
 ここまで踏み込むのはどうかなと思いながら、思い切って果歩聞いた。
 こんな話を藤堂とするのも、きっとこれが最後だと思ったからだ。
 藤堂はしばらく黙っていたが、やがて視線を天井に戻して口を開いた。
「正直に言えば、分からないです」
「……分からない?」
「実際には、小さな違和感の積み重ねが幾つもあって――それは、脩哉の視線だったり、態度だったり、……でもその都度僕は、そういった違和感を消去してきたんです」
「なんで……?」
「絶対に認めたくなかったからかな」
 ため息をつき、藤堂はしばらく無言になった。
「……多分、父の時と一緒です。亡くなった父の人柄について、いい噂はいくらでも耳に入ってきた。でも僕はその都度、それを真っ白になるまで打ち消してきたんです。絶対に認めたくなかったから。――これは最近になって気がついたことですが、僕は父を悪人だと決めつけることで、自分にとって居心地のいい世界を必死に維持していたんです」
「居心地のいい世界……ですか?」
「僕自身が、善人であり、被害者でいられる世界です。――二宮に入ってからは、その対象が父から脩哉になった。それだけのことなんです」
「…………」
「僕にとって絶対悪だった脩哉が、……弱かったり、寂しかったり、人には言えない苦しみを抱えていたり……いわば普通の人間であることを、僕はどうしても認められなかった。――帝さんが僕をあれほど憎む理由が、夕べ初めて分かりました。実際に嘘をついて脩哉を追いつめたのは香夜さんですが、……根源的な部分で罪があるのは、やはり僕だったんです」
 藤堂は目を閉じ、何かの感情を堪えるようにしばらく無言だった。
「……脩哉の気持ち……、今的場さんに聞いた話が本当だとすれば、そんなことにすら、僕は気付くことができなかった。……細かな記憶をつなぎ合わせれば、多分答えは出ていたのに、目をそむけて思い出そうとすらしなかった。……そういったことが脩哉を追いつめた一因になっていたのなら、そんな自分を、情けなく思うばかりです」
 果歩は黙って、藤堂の腕に手を添えた。
 それでもあなたは悪くないと言ってあげたかった。十代で親から引き離されて、必死に戦ってきた彼に、どうしてそこまで人の気持ちをくみ取ることができるだろう。
 多分脩哉という人にもそれは分かっていたはずだ。
 これは推測でしかないけれど、だから最後に、藤堂との間にいい思い出を残して命を絶ったのではないか――
「勝手な言い方かもしれませんけど、……香夜さんと藤堂さん、……二人が幸せになることを、脩哉さんは望んでいたと思いますよ」
「……そうですね、脩哉は優しい人だから、きっとそんな風に思っていたと思います」
 藤堂の声の優しさが辛かった。そのやるせなさを押しやるように、果歩は彼の身体に両腕を回して抱き締める。
 本当はもうひとつ聞きたかった。
 もし――脩哉さんの気持ちを知っていたら。
 もし――脩哉さんがまだ生きていたら。
 あなたは、どうしていたんですか。
「ちょっと……やっぱり辛いな。この状況は」
 不意に果歩を押しやった藤堂は、起き上がって乱れた髪に指を入れた。
「まだ4時前です。もう少し寝ていてください。僕は、リビングで休むので」
「あ、はい」
 なんとなく藤堂の辛さの意味を察し、果歩はほんのりと赤くなった。
 でも、彼が一人になりたいのは、多分それだけが理由ではないはずだ。
 藤堂が本当の意味で脩哉の死と向き合い、乗り越えていくのは、きって何もかもこれからなのだ。彼は昨夜、ようやくその俎上に上がったばかりなのだから。――
「あの、藤堂さん」
 布団を口の辺りにまで引っ張り上げながら、果歩はそっと声をかけた。
「私……、何もできないですけど、悩んだときは一緒に考えますから」 
 襖の前で、藤堂が足をとめている。
「苦しい時は一緒に考えましょう。一人で、抱え込まないでくださいね」
「……ありがとう」
 低い囁きだけが返され、そのまま襖が閉じられる。
 果歩は眼を閉じて、1人になった藤堂のことを考える。
 彼の心を占めている最も大きな存在は、香夜さんではなかった。
 もう亡くなった人だけれど――もし、その人が生きていたら、私たち、出逢うことがあったのだろうか?
 今、藤堂は、1人で何を思っているのだろう。
 そう考えると、何故だか胸が締め付けられるようで、果歩は彼の温もりが残る布団をぎゅっと強く握り締めた。
 
 *************************
 
「……ん……」
 寝返りを打った果歩は、薄眼を開けて、目をこすった。
 眠い……今何時だろう。直感的にちょっと寝すぎた、という感じがする。
 今朝だけは早く起きなきゃ……なのに、身体は水を含んだ綿みたいにずっしりと重く、動かない。まずい、早く起きなきゃ、少なくともお母様より早く……。
 がらっと、いきなり襖がスライドする音がした。
「だ、駄目ですよ。いきなり開けては」
 藤堂さんの――声?
「おかしいわねぇ。今、確かに起きたような気配を感じたのだけど」
 訝しげ女の声――藤堂の母、佳江の声だ。
「もう少し寝かせてあげてください。夕べは遅かったんですから」
「それにしても、朝起きられない嫁もどうなのかしら」
 そこで、再び襖がスライドし、2人の声はかき消された。
 果歩の心臓だけが、どっどっどっと鳴っている。
 し、しまった――。
 おそるおそる身体を起こす。近眼の目を振り絞って枕元に置いた腕時計をじっと見る。8時。
 嘘でしょ!
 人様の家で、こんな時間まで熟睡するなんて。
 母の実家に帰っても、通常6時起きのこの私が。
 原因は判っている。2度寝だ。が、判ったところで、この失敗は取り戻せない。
「おっ、おはようございます」
 飛び起きた果歩は、急いで声だけを襖の向こうの人達にかけた。
「す、すみません。私、うっかり寝過してしまって。朝ご飯、今から私が作りますから」
「もう、できているわよ。とっくに」
 棘を含んだ柔らかな声が返された。
「さっさと顔を洗っていらっしゃいな。お魚が冷めてしまうじゃない」
「的場さん。ゆっくりでいいですよ」
 藤堂の声がした。
「夕べは、僕が迷惑をかけたんですから、どうぞ、無理をなさらないでください」
 ――藤堂さん……。
 こ、これが2人きりの朝だったら、その言葉に甘えさせていただきたいんですけども。
 果歩は大慌てで布団を畳み、部屋の隅に重ねて置いた。と、そこで気がついた。
 そっか。夕べ――。
 ぱぁっと、その刹那、自分の頬が熱くなる。
 この和室で、果歩と藤堂は枕――もとい、布団を並べて寝たのである。
 最初に畳んで置いてあるのは、彼が寝ていた布団なのだ。
 な、なんて素敵な新婚気分なんだろう。
 まさか、2人が一つの部屋で寝るなんて――
 今思えば、ものすごいチャンスというか、ロマンチックな一夜になってもおかしくない設定だったのに、……なんだかちょっと損した、みたいな。
 やや唇を尖らせた果歩は、そこでようやく、もう一つの恐ろしい現実を思い出した。
 メイク――、そしてコンタクト!
 もちろん、今の果歩はすっぴんだし、眼鏡を掛けないと1メートル先も見えない。こんな状況で好きな人の前に出られないのはもちろん、……これから、私、どうすればいいの?
「果歩さん? 何をぐずぐずしていらっしゃるの?」
「は、はーい」
 ど、どうしよう……。
 果歩は泣きたいような気持で、急いで髪だけをまとめて、立ち上がった。
 とにかく、コンタクトだけはいれさせてもらおう。すっぴんはもう仕方ない。にしても眉だけはかかないと、いくらなんでも別人だぞ、私。
「果歩さん?」
「か、顔だけ洗ってきまーす」
 朝食の匂いがするリビングを、顔を伏せた果歩は、こそこそと走り抜けた。
 ああ、それにしても、こんなことで、この先大丈夫なのかしら。
 藤堂さんに限らずだけど、こんな私が、誰かと一緒に生活することができるのかしら……?

 *************************
 
「本当にもう、大丈夫なんですか」
 藤堂が持ってきた食器を受け取りながら、果歩は振り返って聞いていた。
「ええ、睡眠薬なんて初めて飲んだので、ちょっと効きすぎたみたいですね」
 藤堂が、果歩が洗った皿を受け取って、布巾で拭う。
 藤堂家のキッチン。2人は並んで朝食の片付けをしていた。
「香夜さん……。これから、どうされるんですか」
 平和な時間を取り戻してみると、一番気がかりなのが、妊娠した香夜のことだった。
 しかも――香夜は罪を犯している。未遂とはいえ、障害か殺人にあたる罪だ。それは、一体どうなるのだろうか。
「ま、そこは問題ないかと」
 藤堂は、しごくあっさりしていた。
「結局ただの粉末を口にしただけですし、医者はかかりつけ医ですからね。問題になるまでもないでしょう」
 そんなあっさりと……言い方は悪いけど、殺されかけた張本人が。
 それでも、香夜についての心配は尽きない。
「香夜さん……ちゃんとお腹の子のパパに、本当のことを打ち明けられるでしょうか」
「……どうなんですかね」
 カップを手際よく拭きながら、藤堂はわずかな苦笑を浮かべた。
「案外、上手くやるような気もしますが――彼女は切り替えも早い人ですから」
 そうだろうか。
 あれだけ意地を張っていた人が、いまさら……本当に好きな人のもとへ、飛び込んでいけるだろうか。
「いずれにしても、後は、香夜さんが決めることだと思います。僕らが考える必要はないですよ」
 は? と果歩は眉を上げていた。
 昨日、あれだけの人情ドラマを演じた後で、この、冷淡なまでのドライさって一体……。
「そんなに冷たいことを言って、いいんですか?」
「冷たい? そうかなぁ。だって僕はもう関係ないし」
 関係ないって……。
 呆れると同時に、少しじれったくなって果歩は藤堂を睨んでいる。
「よくそんなことが言えますね。今まで、あれだけ香夜さん香夜さんって大騒ぎだったのに。ほんと、男の人ってよく判らないわ」
「だから、冷たいも何も」
 藤堂は訝しげに首をかしげている。
「香夜さんと、相手の方の問題に、僕らが口を出す必要はないでしょう」
「上手くいくかどうか、気にならないんですか?」
「それは気にはなりますが……、僕らができる範疇を超えた部分じゃないですか」
 藤堂はあっさりと言って、微笑した。
「それに、なるようになりますよ」
「そうですか?」
「お互いに好きなんですから、そういうものです」
 いや、お互いに好きでも、全くなるようにならない2人がここに……。
 果歩はそう思ったが、その厭味はかろうじて喉元で押しとどめた。
「明日……、市役所に、戻られるんですか」
「もちろん」
 果歩の質問に、藤堂は、少し驚いたように眉をあげた。
「溜まった仕事を思うと、少しばかり憂鬱になりますよ。そうだ。母が昼食をご馳走したいと言っているので、ご面倒ですが、それまでつきあってもらえますか。灰谷市に戻るのは、夕方になりそうですが」
「それは……大丈夫、ですけども」
 え、何、この思いっきり平常モードは。
「よかった。母は一度言い出すとしつこいので」
 藤堂はにっこり笑うと、最後の湯飲みを棚に戻した。
「こうしていると、役所にいるみたいですね」
「本当ですね」
 多少の嫌味をこめて、果歩は返した。
 あんなに色んなことがあって―― 一時は、命まで落としかけたのに、なんなの? この、厭味なくらい普段通りの藤堂さんは。
 悪い意味で、ただの役所の朝風景みたいじゃない。
 2人の恋愛問題は、ある意味、何も解決していないような気がするのに――。
「もしかして、また秘密の部屋に閉じ込めちゃいました?」
「え?」
「いえ、私の独り言です」
 つん、として果歩は言った。
 本当は、確認したいことが沢山ある。
 4月以降、もし2人が恋人になっても、彼の義父が反対したら?
 彼が家を継いだ時、私は――その時、どうなるの?
「……少し、嬉しかったな」
 布巾で手を拭う藤堂が呟いたので、果歩は「はい?」と顔を上げていた。
「朝、目が覚めたら的場さんが隣にいてくれたから。さすがに布団が並べてあるのには驚きましたけどね。実家で、ああいう気の使われ方をされてもな」
「そ、それは確かに、そうですね」
 果歩も思い出し、少しだけ赤くなっている。
「……あれから、ちゃんと眠れたんですか」
「うん……実は、眠れなくて、しばらくベランダに出ていました」
「そうだったんですか」
 なんとなく予想はしていたが、やはり彼は一人になりたかったのだろう。
「……すみません。的場さんと一緒で嬉しいと言ったばかりなのに。嬉しかったから余計に、……少し、罪悪感があったのかな」
「…………」
 ――脩哉さんに?
 という、嫌味とも不安ともつかない疑問は、喉の奥にのみこんだ。
 もう脩哉の話は二度としないと、果歩は心の中で決めている。でもその不安は、これから何度も自分の胸に去来しそうな予感がした。
「僕はね、随分久しぶりに二宮の家に帰ったんです。……この8年間、怖くて、ずっと逃げ回っていた。脩哉の法要の時でさえ、家には戻りませんでしたからね。きっと、そのつけが来たんでしょう。足を踏み入れた途端、一発で、過去に引き戻された」
「…………」
「少しばかり迷いましたが、無事に出られたみたいです。的場さんの、おかげですよ」
「…………」
「ありがとう」
 ――藤堂さん……。
 果歩は頷き、そっと藤堂の手を取った。
「……もう、過去には、行かないでくださいね」
 ぎゅっとその手を両手で強く握り締める。
 彼の過去では、果歩が何をしても敵わない人が微笑んでいる。
 もう、二度とその過去に――私の手の届かない所にはいかないで――。
 微笑した藤堂は答えず、その代わり、果歩の肩を優しく抱いてくれた。
  
 *************************
 
「ど、どういうことなの? 香夜さんが、一般人と結婚ですって!」
「ね、年収三百万もないだと。冗談もたいがいにしろ、これは一体、どういう悪夢だ」
 いや……僕らも人間の属性で言えば、立派な一般人だと思うのですが。
 と、心の中で思った松平帝は、優しく笑んで、両親をいたわるように見下ろした。
「相手は、新鋭の作家なんですよ。パリを拠点にして、なんとか賞という日本のささやかな文学賞も取っている。もしかすると、大化けする可能性もあります」
「そんな――水商売の男なんて」
「物書きなど、くだらん。下品で最低の商売じゃないか!」
 だめだな。こりゃ、何を言っても。
 さっさと国外に脱出した香夜が正解だったと言うわけだ。
 帝は肩をすくめながら、あれだけの騒ぎを起こしながら、あっさり成田に向かった妹に心の中で毒づいた。
 知ってるか。お前の後始末は、いつも俺だ。
 が、今回だけは、何も義理だけでやってるわけじゃないからな。
「僕は、明日、イギリスに戻りますので」
 丁寧にお辞儀して、帝は言った。
「今から、二宮のおじさんに挨拶をしてきます。お父様、お母様、どうかご機嫌をお直しください。瑛士に罪がないのは、さきほど説明したとおりです。これ以上ごねても、松平にはまるで利益はないと思いますよ」
「しかし、この恥をどうすればいい!」
「なんてことなの、今さら破談になっただなんて、一体どう説明すればいいのよ!」
 対面を何より気にする2人は、それでもまだ怒りが収まらないのか、握りしめた拳をぶるぶると震わせている。
 それはそうだ。彼らはおよそ上流階級の人間として最大限の恥をかいた。娘の晴れ舞台である婚約式で、その相手が他の女を追いかけて消えてしまった挙げ句、妊娠すら虚言であったことが暴露されたのだから。
「落ち着いてください。いずれ別の形で汚名をそそげる日は必ずきますから」
 何もかも思惑通りに進んでいることに、帝は胸の裡で微かに笑った。
「ご存じのように、二宮のおじさんに、もう昔のような力はありません。僕が再々言っているように、いつまで二宮の威光にすがっていてもいいことは何もない」
 帝は父の前に立ち、うやうやしく胸に手を当てた。
「お父様、どうか僕に、この家の舵取りを任せて下さいませんか」
「……どうするつもりだ」 
「昔から僕が望んでいた通りに」
 硬い表情になった父親を見下ろし、帝は静かに微笑んだ。
「二宮という家そのものを、僕はこの世から消し去ってしまいたいんです」
 客間を出た帝は、喜彦がいる階に向かった。
 窓から見える空は、抜けるほどの晴天だ。
 香夜は、恋人と一緒にフランスに渡り、瑛士もまた、彼女と一緒に灰谷市に帰っているだろう。この青空をすがすがしい思いで見つめながら。
 帝は携帯を取りだし、先ほどかかってきた電話に折り返した。
「――ああ、俺です。ええ、明日にはロンドンに戻ります。一時はどうなるかと思いましたが、思ったより順調にことは進みそうですよ」
 二宮の後継者候補は、何も瑛士一人じゃない。直系にさえ拘らなければ――もう一人、いる。
 今となっては、二宮喜彦より強力な後ろ盾を持つ人物が。
「でも、彼女の背中に、本当に黒子はあったんですか?」
 それには答えず、電話の相手は柔らかく別れの挨拶を告げると電話を切った。
 帝は、笑い出したくなっていた。
 背中の黒子か。当然瑛士も確かめただろう。頭のいい奴だから、情報の出所にも気がついたかもしれない。その時の奴の顔――笑い出したくなるほど愉快だ。 
 ――瑛士。
 帝は、冷めた気持で階段を昇りながら、考えていた。
 今回ばかりは、俺に多少の恩義を感じているだろうな。お前と香夜を結婚させたくないというただその一点に置いてだけは、俺とお前の利害は、確実に一致していたんだ。
 でもそれは、お前を助けるためにやったわけじゃない。
 もちろん、脩哉を殺した香夜のためでもない。
「……俺が、お前を許す日など、永遠に来ないんだ。瑛士」
 目をすがめ、帝は低く呟いた。
 お前の存在自体が、許せない。お前さえ存在しなければ、脩哉が命を落とすことはなかった。絶対に。
「お前に、脩哉を超えられるものか。……今に判る。まだ、脩哉は生きているんだ。そうしてお前から、いずれ全ての幸福を奪いとる」
 お前が、脩哉にそうしたように。




>>next  >>contents

このページの先頭へ