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年下の上司 story16〜FebruaryB

ミッシング・リンク(最終話)

 
「あーっっっ」
 果歩が大きな声を上げたのは、車が高速に入ろうとするわずか手前のことだった。
「ど、どうしました」
 さしもの藤堂も驚いて振り返る。
 後部シートには、藤堂の母から託された沢山の土産物がつまれている。
(いつか、私の方からご挨拶に伺わないといけないのかしら。いやあね。自分の人生でこんな面倒事にまきこまれるなんて、想像してもいなかったわ)
 と、別れ際に言われても、なんと答えていいか判らない果歩だった。
 藤堂は全く煮え切らないのに――お母様の煮え切りの早いこと。間違いなくこの2日、果歩は花嫁修行をさせられたのだ。
「そんなことより」
 果歩は、慌てて言っていた。
「そんなことより?」
 藤堂は、視線を高速に戻しながらステアリングを切る。
「乃々子の――百瀬さんのことですよ」
「百瀬さん?」
 藤堂の横顔が、意外そうな表情を見せた。
「じゃ、まだ未解決のままですか。もしかして」
「解決も未解決も、いまだ総務では、相手は藤堂さんに違いないと」
「はぁ……」
 藤堂は、ややげんなりしたように見えたが、すぐにその表情を顔から消した。
「百瀬さんは、まだ役所には?」
「月曜から……明日から出勤ですよ。多分、藤堂さんも出るとなると、すごい騒ぎになると思いますけど」
「うーん。的場さんが疑っていないなら、僕にどうということはありませんが、……困ったな」
 果歩は、少しドキッとしていた。
 す、すみません。疑ってたどころか、心の底から本当だと信じ込んでました。
「困るくらいなら、なんできっぱり否定されなかったんですか」
「いや、時間の問題だろうと思ったので」
 藤堂はあっさり言った。
「時間の問題?」
「お互い、相手は特定されているわけですから、普通は、あうんで判るんじゃないかと。もし及び腰なら、その時はハッパをかけてやろうと思って怒らせたんですが、逆効果だったかな」
「……は?」
 なんの話?
「いずれにしても、僕らが横から口出しすることとは違うような気がするんだけどなぁ。百瀬さんに、もう一度話してみましょうか」
「何を、ですか」
「何をって、相手に打ち明けるのが一番いいと」
「相手、知ってるんですか」
「南原さんでしょ?」
 藤堂は、さも意外そうに切り返した。
 ――は?
 果歩はただ、瞬きをしている。
「あれ? 的場さんは知ってるはずだと……百瀬さんから、何も聞いてないですか?」
「…………」
「水曜日。僕はもしかすると、みんなして僕をひっかけているのかもしれないと思ったほどですよ。あれだけ明白なのに……なんだって、僕の名前が出てくるんですか」
 いや、あれだけ明白って……。
 果歩は、ぽかんと口をあけた。
 またしても、私だけがとんでもなく深刻に考えて――当のこの人ときたら、もしかして何も応えてはいなかった?
「だ、たいたい藤堂さんが、色々、――無意味に、世話をやいたりするから」
「そりゃ、僕にも責任がありますから。頼られて、放っておくわけにはいかないですよ」
「にしてもですね。――もういいですよ。ほんと、人騒がせなんだから」
「騒がせた覚えはないんだけどなぁ」
 藤堂は不思議そうに首をかしげる。
 果歩にも、少しばかりむっとしたものが残ったが、今はそれより、問題は乃々子だった。
「それにしても、南原さん……誤魔化し切るつもりなのかしら」
 なんだか、むかむかと腹がたってきた。
 自分が原因者でありながら、公衆の前で、彼は藤堂を責めたのだ。いったいどうやったら、あそこまで厚顔無恥になれるのだろう。
 今にして思えば、乃々子の語る、想い人の最低さぶりは、全て南原にあてはまる。
 しかし……。
 本当に南原さん?
 そこだけが、どうにも果歩には合点がいかない。
 いや、どう考えても腑に落ちない。
 総務課でも、2人の仲は最悪だったし、特別な雰囲気があるようには――。
 一体、乃々子に何が起きたんだろう。なんだって、よりにもよって、南原みたいな最低男を。
「本当に、無自覚なのかもしれないですね」
 前を見ながら、藤堂は言った。
「無自覚って?」
「南原さんのことですよ」
 果歩は、はぁ? と瞬きをする。
「そんなことってアリですか? 子供ができるようなことまでして、記憶が全くないってこと?」
「記憶というより、……自信かな」
 呟くように、藤堂が言った。
「少し寄り道して、百瀬さんの家に寄りましょうか」
「……いいんですか?」
「そうでもしないと、的場さんが納得されないでしょう。多少、余計なおせっかいという気もしなくはないですけどね」
「……ありがとうございます」
 果歩は、少しばかりしおらしくいって、藤堂を見上げた。
 本当に不思議な藤堂さん。
 自分のこととなると、からきし弱いくせに、人のこととなると頼りがいがあるんだから――。
「なんですか?」
「いえ」
 果歩は軽く肩をすくめた。
「藤堂さんが、男らしくて素敵だということですよ!」
「はい?」
 泡を食ったような彼の横顔が面白くて、果歩は声をあげて笑っていた。
 
 *************************
                    
「本当に、こんなことしてる場合なんですか」
 果歩は閉口して、運転席の藤堂を見上げた。
「まぁまぁ」
 藤堂は、至って気楽な口調である。
 歩造沿い停めた車内。2人の前のホルダーには、2本目の缶コーヒーが並んでいる。藤堂はそれを取り上げ、唇につけた。
「もう少し待ってみませんか。どのみち、僕らにできることはそうはないんですし」
「まぁ……それは、そうなんですけど」
 果歩も仕方なく、飲みかけのコーヒー缶を持ち上げる。
 そしてもう片方の手で、携帯電話を開いた。
 着信、なし。
 何故だか乃々子と連絡が取れない。
 2人が訪ねた時、百瀬家はすでに大騒ぎだった。夕方から、忽然と姿を消してしまった乃々子。むろん、携帯電話も繋がらない。
 藤堂は即座に「南原さんの家に行ってみますか」と果歩に言った。そして今――2人は南原が住む軽量鉄骨2階建てのアパートの前で、張り込みをしているのである。
 運転席の藤堂が、少し心配そうな目で時計を見る。
「でもそろそろ、的場さんは帰らないといけないかな。7時を過ぎてしまいましたし」
「いえ、いいんです。私なら、はい」
 果歩は急いで、藤堂の不安を打ち消した。
 乃々子騒動の顛末を見届けたいという気持ちも確かにある。が、それより、――
 もう少し、彼と一緒にいたい。
 昨夜、藤堂と離れ離れになった時は、もう二度と離れないと心に決めた。彼と私は、ずっと一緒にいるしかないと――確かな気持ちでそう思った。
 なのに、どうだろう。
 こうやって何事もなかったように灰谷市に戻ってみると、待っていたのは、普段と何も変わりがない――まるで進歩がない2人である。
 藤堂1人が、何かふっきれたようにも思えるが、果歩に、彼の心の中はさっぱりだ。
「そう言えば、藤堂さん」
 ふと思い出して果歩は訊いた。
「昨日、おかしなこと言ってませんでした? えっと……失われた鎖とかなんとか」
「……ああ」
 藤堂は、コーヒーを一口飲んでから、ホルダーに置いた。
「ミッシング・リングという言葉を聞いたことはありませんか?」
 ――ミッシング・リング?
「途切れた、輪……という意味ですか?」
 おそるおそる果歩が答えると、藤堂は微かに頷いた。
「連続しているはずの一部が無くなっているという意味です。色んな用途で使われる言葉ですが、昨日のあれは……僕の中で途切れていた鎖の欠片が、見つかったとでも言うのかな」
「途切れていた鎖ですか?」
 それは故意に消していた記憶を取り戻したという意味だろうか。
 その話なら、多分明け方に2人でした。でも藤堂が果歩に言った言葉の意味は、それとは少し違う気がする。
 僕はもう二度とその鎖を手放さない――彼は確かにそう言ったのだ。
 意味が判らない果歩が黙っていると、藤堂は小さく微笑して、視線をフロントガラスの向こうに向けた。
「8年ほど前、……僕は、……夢を見たんです」
「夢、ですか」
「その人は、当時、死んだように生きていた僕の前に現れて、不思議な印象だけを残して消えてしまった。実際、夢だと思いたかった。夢であれば、全てが――僕の心の中で起きただけの、幻で済みますからね」
 人――その人? なんの話?
「それ……、本当に夢だったんですか」
「…………」
 藤堂は、微かに笑んで首を横に振った。
「もう、どうでもよくなりました」
「どういう、……ことなんです?」
「言葉どおりの意味ですよ。昨日までの僕にとって、その日の出来事は、いずれ忘れなくてはならない夢の世界の出来事でした。8年前、その人が見ていたのは、どこまでいっても僕ではなかったですからね。――でも、今日の僕には、もう違う」
「…………」
「過去と今が繋がったんです。それだけです。判りにくいですか、僕の話は」
「……まるで、理解できません」
「理解できないように、言いました」
「もうっ」
 果歩は本気で怒ったが、藤堂は楽しそうに笑うだけだった。
「……綺麗だったな、昨日の的場さん」
 果歩はドキッとして、コーヒーを落としそうになっていた。
「ほ、本気で言ってます?」
「うん。……僕が母に頼んだんです。できれば、着替えさせないで、そのままでいさせてくださいと」
「は、……はい?」
「脱いでしまえば、もう二度と見られないような気がしたから。自分がこれほど未練がましい男だとは、思ってもみませんでしたけどね」
 果歩は真っ赤になっていた。車内が暗くて本当によかった。まさか藤堂が、そんならしくない言葉を口にしようとは――。
「そ、そんな大袈裟に考えなくても、着ますよ、リクエストがあれば何度でも。とんでもなく高かったんです。一回着たくらいじゃもったいないですから」
「いや、着ないでください」
 藤堂は、真顔で遮った。
「できれば、二度と、人前では着ないでください」
「……え、な、なん」
 なんで……?
 それは、どういう意味だろう。
 庶民が目いっぱい見栄張っても、やっぱり、似合ってなかったってこと?
「結局、似合ってたんですか。似合ってなかったんですか」
 少しふくれて果歩は言った。
「藤堂さんって本当に判りにくいです。はっきり言ってくれないと、私みたいな理解の鈍い人間には伝わらないですよ」
「そういうつもりは――」
「本当に女心に疎いんだから。もう、知りません。服のことは二度と口にしないでください」
 藤堂は少しばかり、迷っていたようだった。やがて彼は、視線を別の方角に向けたまま、独り言のように呟いた。
「僕の前だけで、着て欲しいんですよ」
 ――え……?
「あの、それって」
「的場さん」
 果歩が顔をあげると、藤堂が自分の唇に指を当てた。「――しっ」
 彼の視線の先を、果歩は追った。
 薄暗い路地の向こうに、軽量鉄骨のアパートがある。その2階が南原の部屋だ。
 路地の両側には、いかにも安っぽい造りの居酒屋が並んでいる。道路には転がったポリバケツ。思わず眉をひそめたくなるほど、治安の悪そうな場所である。
 道に張り出した電飾に、2人のシルエットが浮き出している。
 ひょろりと背が高い男と、同じように背が高くて、けれどちょっと猫背ぎみの女の子。
「帰りましょうか」
 藤堂が言った。
「……なるように、なるものだったんですね」
 果歩も、そっと息を吐いていた。
 2人の姿は電飾の向こうに消え、アパートの2階に明かりが灯る。
「言ったでしょう。僕らが、横から口を出すことはなかったんです」
「う……。今回は、藤堂さんの言うとおりでした」
 果歩がうなだれると、藤堂が微かに笑った。
「南原さんも、ずっと悩んでいたんじゃないのかな。まだ、互いの気持ちを探り合っている段階なのに、いきなり最終局面ですからね」
「だったら、一言、そうだって言ってくれたら」
 呑気な藤堂がじれったくて、果歩は頬を膨らませている。
 なにしろ南原が黙っていたせいで、藤堂が、とんでもない騒動に巻き込まれたのだ。
「騒ぎがまず、僕ありきだったそうなので、彼も迷ったんじゃないかな。……人の心なんて判らない。特に、男女ならなおさらですから」
「…………」
 なんだろう。その何もかも悟りました、みたいな発言は。
 とんでもなく女心に疎いくせに――なんだかちょっと面白くないぞ。
「……あ」
 果歩は、小さな声をあげて、フロントガラスを見上げた。小さな雪の結晶が、ガラスに舞い降りては溶けていく。
「藤堂さん、雪ですよ」
「そうですね。随分寒いと思ったら」
 果歩は、急いで扉を開けると外に出た。
「ね、少し歩きません?」
「はい? それはいいですけど、ここは駐車禁止区域で」
「いいから。少しでいいですから」
 未練といったらそれまでだが、何かが物足りないような気がしていた。ここから果歩の家まで車で20分くらい。あと少しで、確実に2人は別れる。  
 あれだけの冒険活劇を乗り越えて、はい、このままサヨナラだなんて、なんだか勿体なさすぎるのだ。
 だいたい、夕べ一夜を共にしたのよね、私たち。
 なのに、なんだろう、この思いっきり平常モードは。
「わーっ、綺麗な夜景ですね」
「そうかな。……それほどいい場所のようには」
「雪ですよ。雪。雪は三割増し、景色を良く見せるんです」
「そうかなぁ」
 まるで事態の深刻さが判らない藤堂に、果歩は足蹴りしたい気分だった。
 が、現実には、ひしひしと押し寄せる寒さの方が、次第に深刻になっていく。
「そろそろ、戻りましょうか」
「いえ、……あと、少し」
 果歩は、少しばかり意地になっている。が、途端にくしゅんとクシャミが出た。
 う……寒い。こんなことなら、もう少し着こんでくればよかった。
 ばさっと頭から、厚手のコートが被せられたのはその時だった。
「……ちょっ、普通、頭から」
 コートごと引き寄せられて、果歩は言葉を途切れさせていた。かがみこんだ彼と、束の間だけ唇が触れた。
「……また、約束、破ってますよ」
「そうでしたっけ」
「本当、都合がいいんだから、藤堂さんって」
 抱きしめられて、果歩は幸福で胸が一杯になっている。
 きっと、ほんの少しは進歩した。私たちの距離は、こうして一歩ずつ、縮まっていっているのだ。ゆっくりでも、少しずつ。
「百瀬さん、幸せになるといいですね」
「はい……。香夜さんも、そうなればいいと思います」
「うん。……ありがとう」
 藤堂の腕に、少しだけ力がこもる。
 果歩はそっと目を閉じた。
 激動の2月も、あと少しで終わりを迎える。4月まで、あとたったの一カ月。私たちが、本当の意味で恋人に――
「――あっ」
 果歩は、思わず声を上げていた。思い出した。物足りなさの本当の理由!
「な、なんですか、今度は」
 藤堂が、びっくりしたように身体を離す。
「そんなことより」
「そんなことより?」
「誕生日ですよ。す、すっかり忘れてました。今日は、藤堂さんの誕生日じゃないですか!」
「ああ……」
 藤堂は、やや呆れたように眉を上げた。
「そういえば、今日だったのかもしれませんね」
「そういえば今日だったって」
 今度は果歩は、脱力しながら呆れていた。
「自分の誕生日を、他人事みたいに淡々と語らないでくださいよ。わ、私、今日のために色々計画してたんです。それが……それが、なんだろう。何ひとつ実行できなかったっていうか」
 先ほどからずっと感じていた物足りなさの正体は、まさにこのことだったのだ。
 今の今まですっかり忘れていた自分を、果歩は張り倒したくなっている。
「ああ――もう、最低。自分をいくら責めても責め足りない気分です」
「いや」
 藤堂は、辟易したように片手をあげた。
「子供じゃないんだし、もう誕生日って年でもないですよ。それに、二宮では、基本的に子供の誕生日を祝う風習がないですから」
「そういう問題じゃないんです。そういう問題じゃなく――とにかく、私には大問題なんですよ。藤堂さんにとって、一生記憶に残るような、そんな誕生日にしたかったんです」
「はぁ……」
 なおも残念がる果歩が判らないとでも言うように、藤堂は、耳のあたりを指で掻いた。
「一応聞きますけど、一体何を計画なさっていたんですか」
「まず、どこかへ2人で出かけるんです」
「出かけたじゃないですか」
 藤堂はあっさり言って、果歩はうっと言葉に詰まった。
「も、もちろん、それだけじゃありません。そこで何か――美味しいものでも食べて」
「食べたじゃないですか」
 藤堂は、さらにあっさりと言った。
「母の手料理ですが、あれは、相当手間がかかっていたと思いますよ。ああいう人だから、的場さんへの牽制もあったと思いますが」
 じ、実の母をこうも意地悪く分析する藤堂さんって――いや、そんなことは今、どうでもよくて。
「その後もあります。何か、思い出に残るようなイベントに、2人で参加するんです」
「したじゃないですか」
 藤堂は、むしろ訝しげだった。
「日付で言えば昨日ですけど、半ば今日みたいなものだったでしょう」
 確かに、参加した。しかも、とんでもなく印象的なイベントだった。
「いや……そういう、なんていうんですか? そういう事故的なものじゃなくてですね」
「はぁ」
 一度は完全に意気消沈した果歩は、再び拳を握り締めた。
「生涯藤堂さんの記憶に残るような、そんな楽しい一日にしたかったんです! だって、2人で過ごす、初めての誕生日じゃないですか。私の時は、すごく素敵な贈り物をくださったのに」
 ふわっと身体が空に浮いた。
「きゃっ……っ、な、何するんですか」
「わからないかな」
 果歩を軽々と抱きあげた藤堂は、優しい目で果歩を見下ろして、その目を空に舞う雪に向けた。
「この週末の何もかもが、僕には、最高のプレゼントだったのに」
「…………」
 まぁ、そう言ってもらえると……私には、何も言うことがないんだけど。
 お城のような彼の実家。謎めいた執事。幾重にも絡み、交錯していた悲しすぎる想い。 今は――なんだか、何もかもが夢だったみたいだ。
 淡雪が、静かに空を舞っている。
 ――私、いつか、藤堂さんの思い出を、一緒に支えていくことができますか。
 言葉に出来ない代わりに、果歩はそっと藤堂の肩に頭を預ける。
 2人は冷えた額をあわせ、それからもう一度キスをした。
 




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