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年下の上司 story15〜FeburuaryB

ミッシングリンク(3)



「香夜様におかれましては、体調がお優れにならないとのことで、30分ほど遅れて到着なさいます」
 片倉の報告に、二宮家当主、二宮喜彦は鷹揚に頷いた。
 もともと年より老けた印象の人だったが、8年前も今も、何ひとつイメージは変わっていない。
 糸のように細く垂れた目に、柔和な眉毛。
 一見、のんびりとした好好爺だが、その実わずかな隙も見せない鋭さを常に内面に秘めている。なにしろ、この二宮家を20年に渡り率いてきた人なのだ。並みの神経と精神力では、務まりはしなかったろう。
「……というわけだ。楽しみは、先延ばしだなぁ。瑛士」
 縁を切った義理の息子が突然戻っても、何ひとつ聞こうとしなかった人は、楽しげに傍らの藤堂を見上げる。藤堂は、ただ無言で頷いた。
 本殿広間二部屋を解放したパーティ会場には、すでに沢山の来客が詰めかけていた。
 壁一面を覆う窓ガラスの向こうからは、広大な庭が一望できる。
 常緑樹と温室から運ばれた鮮やかな花々。今日一日を命と咲き誇る美が、室内も室外も埋め尽くしている。
 ロンドンから招き寄せた楽団に、贅を尽くした各国の料理。高名な雑技団が場の中央を賑やかしている。しかし、今日、招かれた人々の最大の関心事は、この二宮家の当主の座を継ぐ青年が、数年ぶりに戻ってきたという情報に違いなかった。
「まさか……あの方が、瑛士様?」
「驚いたな。以前はむしろ貧弱な青年だったが、あの見事な美丈夫ぶりはどういうことだ」
「なんでも、海外に長く御遊学されておられたとか。亡くなられた和彦様に瓜二つ……想像以上にご立派な殿方におなりですわね」
「――瑛士様」
 次々と挨拶におしかける来賓の列が途切れた時、背後で、片倉がそっと囁いた。
 片倉は、藤堂の専属執事だった男である。
 今、片倉は二宮家家令の座についている。つまり、家宰を取り締まる筆頭だ。全使用人の統括をしているのがその片倉の父で、同時に伯父の専属執事でもある。
「すみません。少し席を外します」
 瑛士は元義父に断ってから、片倉について室外に出た。
「調査の報告が、今」
 声をひそめた片倉は、簡潔にそれだけを伝えた。
「それで?」
 片倉が、藤堂の耳に唇を寄せてある人物の名を囁いた。藤堂はわずかに眉を寄せた。
「その方は、今日の来賓の中に?」
「いえ、今日の18時の便で、日本を発つ予定です」
「……ありがとう。色々無理を言ってすまないが」
「心得ております」
 実際、何もかも心得たようにそれだけを言うと、片倉は丁寧に頭を下げてからきびすを返した。
 義父同様、片倉も藤堂に何も聞かない。
 何故、戻ったのか。どうして役所勤めをしているのか――聞かないのは、おそらく、全てを知っているからだろう。
 二宮家の情報網の確かさは、藤堂もよく知っている。たとえ世界中のどこに逃げようと、義父が本気になれば、すぐに探し当てられていたに違いない。
 今、藤堂は、義父の誕生会に出席する元息子として、この会場に立っている。
 8年前に、一度は藤堂に決まった後継の座が今はどうなったのか――それは喜彦の胸三寸だろうし、今日それが発表されるというのは、香夜の生家である松平家が勝手に広めてしまった情報に過ぎない。
 ただ、この8年、義父はあらたな後継者候補を決めなかった。つまり、候補となる人物は、いまだ藤堂一人ということになる。
 もし義父が、本気で藤堂にその座を譲るつもりでいるなら、藤堂にその責任を棄ててまで自由に生きるという選択はできない。
 義父は最初からそれが分かっていたから、この8年、藤堂を自由にさせてくれたのかもしれなかった。
 藤堂は再びパーティの席に戻り、義父の背後で、来賓の挨拶を受ける立場となった。
「本当に今日、瑛士様は婚約されてしまいますの? うちの娘には、わずかな機会を与えてはくださいませんの?」
「ははは……瑛士はもう、二宮とは袂を分かった人間。こやつがどのような者と結婚しようと、私に何を言う権利もありませんのでな。どうぞ、存分にくどかれるといい。ただし、瑛士は稀に見る堅物ですぞ」
「また、ご冗談ばかり……。松平様のお嬢様とご結婚される以上、瑛士様が二宮を継がれるのは、もう決まったことなのでございましょう?」
 大手電機メーカー会長夫人は媚をこめた目で藤堂を見上げ、その娘だという妙齢の女性は、さらに媚を含んだ眼差しで微笑した。
「二宮様。では私、本気でくどいてしまいますわよ? だって、こんなに素敵な方を目の前にして、諦めろと言う方が無理なのですもの」
 藤堂は黙って、その誘惑を受け流した。
 そして、上機嫌で笑う喜彦の、その内心に流れる感情を想像していた。
 この人は――昔も今も、一体俺のことを、どう思っているのだろう。
 本当の息子を死に追いやった俺が、実際、憎くはないのだろうか?
 それとも……やはり、脩哉は、この人に愛されていなかったのか。
「これはこれは二宮様。本日はお招きにあずかりまして、誠にありがとうございます。実は私ども、今日までフランスに滞在の予定でございましたが、招待状をいただき、急きょ帰国した次第でございまして……。申し遅れました。私、三環自動車の入江でございます! 本日は瑛士様の帰国とご結婚の報告に預かりまして、誠に光栄に存じます!」
 長饒舌の挨拶に、ふと記憶のどこかが喚起された。
 藤堂が顔をあげると、よく知った顔の女性が、緊張気味に微笑んでいた。地元では有名企業の娘で通っても、この場ではたかだか田舎企業に過ぎないと自覚しているからだろう。
 入江耀子。 
 元本省のキャリアで、現在は出向で灰谷市の議会事務局に配属されている。
「ほら、耀子。ご挨拶しないか」
「は、はい」
 耀子は、慌てて――それでも優雅に白いドレスを翻し、一礼した。
「瑛士様。お久しぶりでございます。確か10年近く前、一度このお屋敷でご挨拶いたしました。瑛士様はお忘れでしょうが、その……私は、ずっと瑛士様を覚えておりました!」
 緊張でがちがちになっているのがよく判る。藤堂は最初驚き、やがて笑いを堪えるのに少しばかりの努力を要した。
「僕も、よく記憶していますよ」
 藤堂は、笑いを噛み殺しながら、目の前の女性に会釈した。
「むしろ、あなたの方が、お忘れなのだと思っていました」
「え? は? まさか、ご冗談ばか」
 次の瞬間、役所では決して見せない媚びた笑いを顔に張り付けた耀子が――その顔のままで、固まった。
 ぽかんと、口をあけ、みるみるその目が驚愕に見開かれる。
「……嘘」
「こっ、こら、耀子。なんという態度を、お前」
「だって、嘘よ。そんなこと――え、ええ? なんで?」
 それきり言葉を失った耀子は、傍目にもそれと判るほど蒼白になっている。膝も、細かく震えているようだ。
「耀子?」
「耀子ちゃん? あなた、どうしたの?」
 自分がしでかしたことが、今、性質の悪い夢のように蘇っているのだろう。――やれやれ……。藤堂は軽く息を吐いた。
 そうか、友人の彼は、何も喋ってはいなかったのか。てっきり承知していると思っていたが、悪いことをしたな。
「彼女とは、少し縁がありまして」
 藤堂は、義父に向きなおった。
「とても心根の優しい、素敵なお嬢さんなんですよ。いい縁談でもあれば、どうぞ紹介してあげてください」
「そうか。お前は今、灰谷市にいたな」
 おそらく全部承知しているくせに、あたかも今気づいたと言わんばかりに、喜彦は鷹揚に頷いた。
「お嬢さん。耀子さんと仰ったかな。瑛士のことは、どうかしばらく内密に頼みます。なに、ばれてもどういうこともないが、周りの皆さんに気を遣わせてはお気の毒でしょうからな」
「は、はは、はい。それはもう!」
 気の毒なほど緊張しながら、耀子は何度も頷いた。
 そして、改めて訝しい視線を、そっと藤堂にぶつけてきた。どうして――と、その目はまだ問っている。
 そこには、色んな疑念が含まれているのだろう。どうして二宮家の子息が灰谷市役所に勤めているのか。どうして、自分を許すのか――。
 その時、溜息のような歓声が場内に響き渡った。
「松平帝様、香夜様がいらっしゃいました」
 中央の人が割れ、そこに、香夜をエスコートした帝が現れる。
 満場の溜息が広い会場を包みこむ。
 白っぽいスーツに身を包んだハンサムな帝と、薄桃色のドレスをまとった愛らしい香夜。
 絵本から抜け出た王子と姫のような優雅さで、二人は堂々と藤堂と喜彦の元に歩み寄ってきた。
 まるで、バージンロードを父親と歩く花嫁のように。
「噂では、すでにお二人にはもう……」
「では、やはり今日はご婚約の?」
「そうでなければ、帝様までご出席なさらないでしょう」
 場内の関心は、最早その一点に絞られている。
「さて、瑛士」
 喜彦が楽しそうに呟いた。
「言いたいことがあれば、お前の口から言うがいい。私はもう、お前の父ではないのだからね。今日はゆるりと、お前たちの余興を楽しませてもらうとしようか」
 瑛士は黙って顔を上げる。
 灰谷市役所の知人と再会したことで忘れることのできた現実が、再び自分の全てになる。
 雨の音。その向こうから見つめている、12歳の脩哉の目。
 そうだ。これを因果応報というなら、決して自分は、逃げてはならない。
 8年前の罪を、これで、本当に終わりにしなければ――。
 幸福そうな微笑みを浮かべた香夜が、ゆっくりと藤堂に手を差し延ばす。
 その傍らで、帝はいかにも妹思いの兄を演じ、彼らの背後では、2人の両親が期待を込めて藤堂の反応を見守っている。
 僕は――
 一瞬、何かの感情が胸を儚く掠めたが、それはすぐに、見えない雨音にかきけされた。
 藤堂は微笑し、香夜の手をそっと取った。

 *************************
 
 どういうこと?
 入江耀子には、まだ合点がいかなかった。
 あの藤堂係長が――二宮家の御曹司? 10年前に挨拶した、あの子供の成長した姿? 嘘でしょ。嘘でしょ? そんな馬鹿な悪夢って本当にあるの?
「耀子、今のはなんなんだ」
「そうよ。ああ見えて二宮様は、怒らせるとひどく恐ろしい方なのよ。私、肝が縮んでしまいましたわ」
「うるさいわね。結局何もなかったんだから、いいじゃないの」
 耀子は反抗的に言いかえしていた。
 今のはなんなんだ。そう訊きたいのは、むしろ耀子の方である。
 しかし、藤堂の正体が二宮家の息子であれば、腑に落ちることはいくらでもあった。
 大手ホテルチェーン会長と建設会社社長を両親に持つ有宮稔彦が、藤堂の前で、あたかも小物のように媚びへつらっていたこと。
 カラオケボックスに掛けられたオートロックの鍵が、何故だかあの夜、偶然開いてしまったこと。
 その全てに、二宮が絡んでいたとしたら、疑問は全て解決だ。
 有宮ホテルも都英建設も、二宮家の威光に、逆らえるはずがないからだ。
 同時に、いくら脅してもすかしても、有宮尚紀が一切口を割らなかった理由も理解できた。
 二宮に逆らって潰れた企業はいくらでもいる。
 先年、国策的に潰された大手都市銀もそうだった。そこに、二宮の意向が絡んでいたことは、政経界のリーダーなら、誰でも承知していることである。
 ――……ふぅん。
 耀子の中に、持ち前の勝気さが頭をもたげてくる。
 じゃ、私は、役所の中で、とんでもない彼の弱みを握っちゃったわけだ。どうにかして、それを有利に生かす手はないかしら?
 てゆっか……結婚?
 改めて疑念を覚え、耀子は檀上に並び立つ、藤堂とその妻になる女性を見上げた。
 確か市役所では、彼は的場さんとつきあっているとばかり思っていたけど……あれま、じゃ、的場さんは弄ばれて捨てられた口? 
 それはそれで、面白そうな結末だけど。ふぅん……。
 そしてもう一つ、耀子には気になることがあった。
 昨夜――日本時間で言えば、かなり遅く、1人の女性からかかってきた電話である。
 さほど交友のないその女性が、どうして自分の携帯電話の番号を知り得たのか――。
 しかも、用件もおかしかった。その人は――いきなり電話をかけてきた女は、耀子にこう切り出したのだ。
(明日のパーティだけど、実は私も招待されているの。ねぇ、入江さん。向こうでご一緒できないかしら)――と。
 もちろん耀子は断った。出身大学が同じだというのは知っていたが、その女と自分の間に殊更の接点が見いだせなかったからだ。
「申し訳ございません。入江様でございますか」
 その時、控え目な声が背後で聞こえた。
 おそらく二宮家の使用人の1人だろう。黒服の青年が周囲をはばかる口調で、耀子の父に語りかけている。
「そうだが、入江は私だが?」
 大物の前では米つきバッタみたいになるくせに、使用人の前では無駄に尊大ぶる父は、大いに胸を張って見せた。
「おそれいりますが、お嬢様は、耀子様はご一緒でございましょうか」
「一緒だが?」
「本日、お嬢様以外に同伴されるご予定の方をお伺いしたいのですが」
「なんだね。それはどういう意味の質問だ」
 むっと父が眉をあげる。耀子もまた、意外な展開に興味をもって耳をそばだてていた。
「大変申し訳ございません。実は――」
 若い青年は、慣れた様子で声をひそめた。
「耀子様のお連れだと言われるご一行様が、今、お見えなのでございます。ご同伴者様のご参加はご自由でございますが、事前にご連絡をいただいておりませんので」
「知らんぞ、わしは」
 短気な父は、すぐに苛立ちをこめかみに表わした。
「他に同伴者などおるものか。耀子――お前はまた、悪い友だちを引き連れてきたんじゃないだろうな」
 父は憤怒で顔を赤らめ、母は悲しげな溜息をつく。
 確かに、素行の悪さでは、散々両親を泣かせてきた耀子である。しかし、これは全くのいいがかり。何かの誤解か人違いに違いない。
 閉口した耀子が「そんなことあるわけないじゃない」と、言おうとした時だった。
「ご存じございませんか。宮沢様と仰るご一行様なのですが――」
 宮沢。
 もしかして――。
「待って」
 耀子は、咄嗟に黒服の青年に声をかけていた。
 そうか。分かった。
 あの奇妙な電話の理由。
「……そう、忘れていたわ。そうよ、私のお友達なの」
 自分の胸の中で、しおれていた花がみるみる生気を取り戻すのを耀子は感じた。
 恥をかくためだけに参加したパーティだが、これは――ちょっとした面白い見世物が見物できるかもしれない。
「ごめんなさい。お父様! 耀子の大切なお友達なの。役所の人で、そう――瑛士様とも、関わりのある方よ」
「……役所?」
 訝しむ父の前に、耀子は急いで身を滑らせた。
「私と話をあわせておいて。さっき二宮様にもお願いされたでしょう。それと関係していることなのよ」
「そ、そうなのか?」
 あしらいやすい父は、それであっさりと信じ込んだようだった。
 耀子は鼻先で微かに笑い、壇上で手を取り合っているパーティの主役2人を冷やかな目で見つめた。
 さて。
 どういう修羅場が待っているのかしら。女たらしの御曹司さん。
 それにしても、私の反応まで読み切っていたとしたら、大したものだと言ってあげるわ。
 宮沢りょう。――将来、私の部下にしてあげてもいいかもしれない。
 
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 場内が、あらたなざわめきに包まれている。
 藤堂は訝しく顔を上げた。
 丁度音楽も途切れ、全体が指揮を失って漠然としている――そんな奇妙な雰囲気に、一瞬包まれた刹那だった。
 香夜も不審そうな眼をしている。
 2人は檀上で、いま、まさに結婚を公表するところだった。
 こういった場の空気は、片倉なりがきちっと読んで、疎漏のないようにするものである。なのに、主役2人を放置して、場内の視線が別の場所に向けられている。
 二宮家の催しでは、今まで決してなかったし、あってはならないことだった。
「……どなた?」
「あのお美しいお嬢様もだけど、お付きの方々のお美しいこと」
「まるで……映画か舞台を見ているようじゃございませんか」
「新しいお客様でしょうか」
 香夜が不満そうに囁いた。「遅れて来られるなんて、随分鷹揚なお客様ですこと」
「そうですね」
 その時には、藤堂は遠方に見える光景に釘付けになっている。
 いや、まさか、そんなはずはない。
 あれは、――あれは、8年前に一夜だけ見た幻で……。




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