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年下の上司 story15〜FeburuaryB

ミッシングリンク(6)

 

 調布にある閑静なマンションの最上階。
 そこが、藤堂佳江の自宅だった。
 ――た、高そうなマンション……。
 果歩はやや、すくんでしまっていた。
 4LDK。窓からは夕暮れの街が一望できる。あまり下世話なことは考えたくないが、相当グレードの高い物件に違いない。
 藤堂の自宅――灰谷市のマンションが、椅子がひとつしかないくらいのひどいものだったから、その実家も、てっきり自分の家程度の庶民的なものだと思っていたのだが……。
「この家は、瑛士が買ってくれたのよ」
 室内灯をつけて、空調を入れながら、佳江が言った。
「あの子が外国に渡って、稼いだお金で買ってくれたの。自分は手狭なアパートで友達と暮らしていたらしいけどね。……私には分負相応だし、息子を頼る必要は何もなかったのだけど」
 振り返った佳江は、立ちすくむ果歩を見上げた。
「着物を脱ぎたいのだけど、手伝って下さる?」
「は、はい」
 ――しまった。こんなことなら、お母さんの着付けを面倒がらずに手伝っておけばよかった。
 と、思ったがもう遅い。
 なんだか試験を受けている気持ちで、やたらめったら緊張しながら、果歩は藤堂の母が着物を脱ぐのを手伝った。
「和服は、お好き?」
「……あまり、着る機会がなかったので」
「瑛士は好きよ。今度私が教えてさしあげるわ。ああ、ちがう。ここは、こう――こうして折り畳むのよ」
「す、すみません」
 実際、手伝いなどいらないほど、佳江の手さばきは見事だった。
「そういえば、何か教室をされていると、以前藤堂さんにお聞きしたことがありましたけど」
「ええ、着物の着付け教室をね。趣味の範囲ですけども」
 それを早く言ってくれれば、着つけくらい習っておいたのに!
 結局、散々駄目だしをされながら、着物を片付け終わると、果歩は薄く汗をかいていた。
「じゃ、コーヒーでも淹れましょうか。果歩さん。お飲みになる?」
「あ、はい」
 普段着に着替えた佳江は、髪をひとつにまとめて、すっきりとした動作で台所に消えて行った。
 ――てか、私、いつまでこの場違いなドレスを着ていなきゃいけないんだろう……。
 果歩は、とほほな気分で、日常では完全に浮いているカクテルドレスを見下ろした。
 実のところ、この衣装とアクセサリーで、貯金の3分の1は費やした。
 もちろん、メイクもヘアアレンジもプロに頼んだ。果歩にとっては、一世一代の勝負だったのだ。今日は。
 正直言えば、自分でも馬鹿な真似をしたと思っている。
 でも、せめて彼のために、これくらいはしたかった。そう思えば、多少の出費などどうでもいい。お金は働けば戻ってくる。でも――藤堂は、今失ってしまえば、多分二度と取り戻せない。
 とはいえ――。
 その素晴らしい衣装も、パーティという場を出てしまえば、ただただやっかいなだけである。
 いくらなんでも、この姿で灰谷市には帰れない。どこかで服を買うか、お借りするか……。
 キッチンから、佳江ののんびりとした声がした。
「果歩さん。気をつかわないで、どうぞ自由に座っていらして」
「は、はい」
 お――お母様。そのお気遣いはありがたいのですが、その……できれば、服を。
 果歩はドレスの裾をつまみ、肩からショルダーがずり落ちないよう気をつけながら、ソファにそっと腰掛けた。
 とはいえ、この格好で、ひいひい言いながら佳江の脱衣を手伝ったのだ。ドレスの裾は、その時点で結構な皺になっている。
 ああ。こんなことなら着替えを持ち歩いておけばよかった。服一式は、車のトランクの中だから……。――ん?
「あーっっ」
 果歩は大きな声をあげて立ち上がっていた。
「まっ、どうしたの。大きな声をあげてみっともない」
「す、すみません。ちょっと電話してきます」
 忘れてた。りょうと長瀬さん!
 絶対に心配しているに違いないのに、連絡ひとつしなかったなんて。
 大慌てで携帯をバッグから取り出すと、案の定着信がいくつも入っている。
「ちょ、……ちょっと、出てきます」
 家の中で話すのは気が咎める。果歩は、片手でドレスをたくしあげると、急いでパンプスを履いて玄関の外に出た。そのパンプスにしても、金額にすれば10万近くするものである。
 玄関の外は、広いアプローチになっている。この最上階のフロアは、どうやら佳江の部屋ひとつで占められているようだ。
 携帯を開いた途端、折よく着信音が鳴る。果歩はいそいで、それを耳に当てていた。
「はい、私です」
「的場さん?」
「……はい?」
 何故だかその声は、電話とは別の場所から聞こえたような気がした。
「果歩?」
 電話から、りょうの驚いたような声がした。
「やっと出た。もうっ、今まで何処にいたの。どうして電話に出てくれなかったのよ」
「…………」
 果歩は電話を下ろしていた。
 りょうの声が、手元の携帯から微かに聞こえる。それでも、腕は下がったままで、電話の声は果歩の意識から消えていた。
「……的場さん」
 その人はもう一度言った。そして、大股で駆け寄って来た。エレベーターホールから、果歩の立つプライベートポーチまで。そして、疾風と影が、目の前で止まる。
 果歩はただ、呼吸だけをしていた。
 電話ではない。
 目の前に、藤堂が――立っている。
 パーティの席と同じタキシード姿のまま、髪だけが崩れて額に落ち、タイはわずかに緩んでいる。その目は――抑えきれない歓喜で輝いていた。
 ――これは……夢?
 果歩は、数度瞬きをした。
 よく判らないけど――何かの夢の、続きなの?
 気づけば、大きな胸に抱きしめられていた。
 彼の息遣いと、熱く脈打つ鼓動が、首筋から伝わってくる。
 そのまま、藤堂は無言になる。
 ただ黙って、果歩を抱きしめ続けている。
 ――来てくれた……
 果歩の胸にも、ようやく温かな感情が溢れてきた。
 色々あったけど、来てくれた。……私のために、この人は、大切な席を抜けて来てくれたんだ。
 潤みだす涙を懸命に抑えて、果歩は藤堂の背に手を回した。温かくて、手が回りきらないほど広い背中。何度私のものだと思っても、どうしても捕らえられない背中――。
「……怒ってないですか」
 囁くように、果歩は訊いた。「私のしたこと……絶対、迷惑だろうと思ってました」
「それは、僕が聞こうと思った」
 抱き合ったままの藤堂が、わずかに苦笑する気配がした。
「的場さんこそ、相当怒ったんじゃないですか」
「え、な、なんですかそれ。失礼な――」
 まるで私が、いっつも怒っているみたいな――が、それも少し胸の痛い図星だった。
「確かに、目茶苦茶怒りましたけど……。そこを超えたら、人間って寛大になれるものだと気づきました」
「今回は、僕が悪かった」藤堂は素直に言った。
「どうか、気が済むまで怒ってください。許してもらえるまで、いくらでも謝ります」
「そもそも、どこに怒っていいのかさえ、いまだ曖昧なんですけど」
 少し苦笑した果歩は、藤堂の背をそっと撫でた。
 本当に腹の立つ人。
 あの旅行の夜から今日まで、たったの1週間だけど、その間にジェットコースターみたいに乱高下した私の気持ちをどうしてくれよう。
 でも本当は、――来てくれただけで、もうとっくに許している。
「もういいから、今から言い訳をきかせてください。私も考えなきゃいけないことなら、藤堂さんと一緒に考えますから」
「…………」
「話しましょう。これからのことを」
 藤堂が、ゆっくりと顔を上げる。果歩を見下ろす目は優しくて、でも、少しだけ不思議そうだった。
「なんですか。その目は」
「いや、本当に的場さんかな、と思って」
「ど、どういう意味で言ってるんですか?」
 果歩は戸惑って視線を泳がせた。言葉にではなく、藤堂の視線の強さに動揺したのだ。
「私だってこの程度には化けられるんです。だから、女性の見かけに騙されちゃ駄目なんですよ」
「……そうじゃなくて」
 ――そうじゃなくて?
 藤堂が黙って微笑したので、果歩はますます戸惑って瞬きをする。
「もしかして、いつもみたいに私が怒らないからですか?」
「それもあるけど、そうじゃない」
「……?」
「うん」
 何故だか藤堂は、嬉しそうに頷いた。「的場さんですね」
「はい??」
 なんなのよ。この感動のシチュエーションに水を差すような、間の悪いセリフの数々は。
 背後から、冷やかな空気が流れてきたのはその時だった。
「頼むから、こんな場所で、ご近所に噂になるような真似はやめてくれるかしら」
 ――しまった!
 ぎょっとした果歩は、大慌てで、藤堂の腕を振りほどいた。さーっと全身から血の気が引いていく。
 な、なんという一世一代の大失態だろうか。
 ここは、藤堂の実家の面前だったのだ!
「お、お母様。すみませんっ、これは――その」
 果歩は赤くなったり青くなったり、もうしどろもどろになっている。
 またしても、この人の心証を悪くした。今日が、何かの試験だったら、果歩は間違いなく落第だ。
 が、呆れた目をしていた佳江は、すぐに優しく双眸を和ませた。
「おかえりなさい、瑛士さん」
「ただいま。母さん」
 藤堂が、安堵したように微笑する。
 何故だか果歩は、その刹那、胸が少し熱くなっていた。
 
 *************************
  
 いいこと? 2人に気をつかっていると思ったら大間違い。仕事が入ったから出ていくだけで、1時間もしたら戻ります。この家で私の息子と何かあったら――なんて、まるで高校生の息子に初めてできた彼女との仲を心配する母親みたいなセリフを言わせないでちょうだい。
 と、言い棄てた佳江が出て行ったので、果歩は藤堂と2人で、リビングのソファに並び合って座っていた。
「…………」
「…………」
 興奮が冷めれば、そこに残されたのは、少しばかりの気まずさだった。
 問題は、まだ何も解決していない。2人はようやく、話し合いの俎上に立ったばかりなのだ。
「コーヒー、いれてきますね」
 気持ちを切り替えようと、果歩はそう言って立ち上がった。
「さっき、香りで判りました。藤堂さんの部屋でいただいたコーヒー。……お母様の好みだったんですね」
「母は、味にはひどくうるさい人なんです」
 そう言った藤堂が、立ち上がった果歩の腕を掴んだ。
「行かないで」
「…………」
「僕の傍にいてください」
「…………」
 座ったままの藤堂が、懇願するように果歩を見上げる。
 ――藤堂さん……?
 腕を引かれるままに、そんな藤堂の前に、果歩は立った。
 彼の射すくめるような視線が面映ゆかった。その視線のいきつく先には、どうしてもセクシャルな匂いがする。今は――そんな雰囲気になってはいけないのに。
「……頼んだ通り、そのままでいてくれたんですね」
「なんの話ですか?」
「母に聞いてはいないですか。……言いづらいと言っていたからな。なら、いいです」
「え? 何の話なんですか?」
「聞いていないなら、もういいですよ」
 藤堂は苦笑して話を切り上げようとする。果歩は、かえってムキになっていた。
「えーっ、そんな言い方されると、かえって気になるじゃないですか」
「今夜、母に聞いてください」
「もうっ、そんなのいちいち聞けません。今言えばいいだけの話なのに」
 果歩が両拳を握ると、藤堂は笑いながら、その腕を引き寄せる。果歩はあっけなく、彼の腕の中に収まっていた。
 そのまま、抵抗を塞がれるように抱きしめられる。
「……藤堂さん、コーヒー……」
「黙って」
 いいのかなぁ。お母さんの部屋なのに、こんな。
 てゆっか、今日の藤堂さんこそ、別人みたいだ。こんなに手が早いというか、こうもスキンシップに積極的な人だったっけ?
 彼が、顔を少しだけずらした。
 胸がしぼられるような予感がして、果歩は咄嗟に顎を引いている。
「……駄目?」
「だ、駄目じゃないですけど」
 な、なんて声で囁くんだろう。果歩はもう、しどろもどろになっている。
「だっておかしいじゃないですか。この間は私が……そしたら、藤堂さんが、もうしないって言ったのに」
「言いましたっけ」
「言いましたよ!」
 それでも逆らいきれない引力に落ちて行くように、果歩は藤堂と唇をあわせていた。
 いっそう強く抱きしめられ、藤堂の体温が、果歩をあとかたもなく包みこんでいく。
 息ができないほど甘いキス。
 こんなキスをしたのは、何カ月ぶりだろう。
 あたかも、抑制の箍が外れたような情熱的な彼のキスに、果歩はもう何も考えられなくなっている。
 藤堂が、タイを外して上着を脱ぐ。
 もう一度抱きしめられて、キス、キス、キス。それは最初と違って、ただ感情をぶつけるだけのキスではない。巧みで、……次を予感させ、官能を優しく引き出す、愛撫のような口づけである。果歩は少し怖くなる。こんなキスをして――引き戻すことなどできるのだろうか。
「ん……、藤堂さん」
「黙って」
「でも」
 ある意味、全く藤堂らしからぬ振舞いに、果歩はもう混乱してなすがままになっている。こんな場所で、という戸惑いもある。なんだって私たちのキスはこう――次長室とか、藤堂の実家とか、そんな気持ちが萎えがちの場所で進展を見せるんだろうか。
 が、そんな躊躇いも何もかも、やがて愛おしさに飲み込まれ、流されていく。
 キスを続けながら、藤堂の手が果歩のショールを外し、むき出しの肩を撫でた。その手は半ばまで開いた背中を辿って腰に回される。
 そして、さらに思いもよらないことが起きた。柔らかく身体を反転させられた果歩は、そのままソファにうつぶせにされたのだ。
 ――え? なに、この体勢?
 ちょっとロマンチックにはほど遠い――と思った時には、背中から両腕を押さえられて身動きがとれなくなっている。
「と、藤堂さん?」
 ま、まさか犬だとしか思わなかった彼に、こんな狼っぽいワイルドさが隠されていたとは――。
 ドキドキする果歩を翻弄する藤堂は、先ほどから一言も口をきかない。そのまま、わずかな沈黙があった。
 ――藤堂さん……?
 藤堂の指が肩甲骨を撫でている。それは愛おしむようにも、皮膚のくぼみを丹念に探っているようでもある。
 まだ果歩には、藤堂の意図が判らない。もしかして背中フェチ? そもそも、これって、なんのための……
「……っ??」
 不意に吐息が近くなる。そして、生温かいものが肩甲骨の下あたりに触れた。
「ちょ、やっ、な、なんの……っ」
 果歩は顔を真っ赤にさせて、手足を懸命に動かした。
 舌が肩甲骨のラインを這っている。
 き、きゃーっっっ。
 きゃーっっ。
 これってなに? せ、背中なんか舐められたの、……口に出すのも恥かしいけど、こんなの、初めて……。
「――っっ……っっ」
「……我慢して、……もう少し」
 い、一体なんの儀式ですか。藤堂さん! て、てか喋られると息が……。それでなくても、なんだかおかしな声が出そうになってるのに。
 肩甲骨の溝のあたりに、何度も唇が当てられる。
「……ん」
 びくっと肩を震わせた果歩は、漏れそうになった甘い声を慌てて手で押さえた。
 本当に、ずるいなぁ、この人は。
 こんなので、今までのことを帳消しにするつもり? 今欲しいのは、スキンシップじゃなくてきちんとした説明なんですけど……。
 再び抱え起こされた時、果歩は首まで薄赤く上気させていた。
 不可思議な行為の説明を一切せず、藤堂は、そっと、愛しむように果歩の身体を抱きしめる。髪に、額に、何度もキスを繰り返す。
 果歩もまた、熱に浮かされたように彼の髪を撫で、硬い耳に指で触れていた。そして自分から、唇に、顎に、キスをした。
 わずかに顎を引いた藤堂が小さく呻く。それが不思議に嬉しくて、何度もキスを繰り返す。
 互いに熱に浮かされている。心の奥底に隠した本能が焙りだされようとしている。
 藤堂からそんな匂いを感じたのは、これが2度目で、今回は……もう、後に引けない予感がした。
 藤堂の手が果歩の腿に触れ、果歩は藤堂の背や脇腹を撫でた。硬くて、なめらかで、怖いほど張りつめている。そうしながら2人のキスは、これ以上ないほど深くなっていく。
 もっと、もっと触れたかった。今まで触れたことのない場所も、全部。
 胸を焦がす熱波のような欲望は、多分、藤堂も同じように感じている。荒々しい手の動きや乱れた呼吸が、それを雄弁に告げている。
 もっと、互いの何もかもを知りたい。その奥に隠されたものを何もかも。
 首筋を滑った彼の唇が、薄い衣服の上から胸に触れる。
 さすがに果歩は、びくっと身体を震わせていた。
 膨らみに何度も唇を押しあてられ、緊張に身を硬くする。背中はともかく――2人のスキンシップで、ここまで踏み込まれたのは初めてだ。もう、戻れない。そう思った。行きつくところまで行くしかないと。
 が――彼は、果歩の衣服には一切手をかけず、ただ苦しいキスを繰り返すだけだった。
 ――藤堂さん……。
 藤堂の、激しい欲望と葛藤を、果歩は改めて知った気がした。
 こんなにも互いを求め合っているのに――それでも彼は、やはり、私を抱くつもりはないのだ。
 まだ、彼の心は何かの戒めに縛られている。それは、一体なんなのだろうか――。




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