「……今さらですけど、監視カメラでもあるような気がしてきました」 「こっ、怖いこと言わないでくださいよ」 多少の気恥かしさを残しながら、2人は、未練のように身体を離した。 やがて、コーヒーを入れて戻って来た果歩を、藤堂は微笑して見下ろした。 「さっきしたことは、謝りません。確かに約束を破ったのは僕ですが、後悔はしていないから」 「そんな大袈裟な……大したこと、してないじゃないですか」 まぁ、背中はともかく……てか、そういえばあれはなんだったんだろう。 「? 最初のあれってなんだったんですか? もしかして、私の背中に何か……」 それには答えず、彼は微笑を浮かべたままで、持ち上げたカップを唇につけた。 「もうすぐ、母が帰ってくるでしょう。その前に、僕はいったん二宮に戻ります」 「…………」 果歩は何も言えず、ただ動揺を隠すために視線を下げた。 たちまち、寂しさと不安がこみあげる。そうだ、藤堂と再会したことで安堵していたが、まだ問題は、何ひとつ解決してはいないのだ。 「待っていてくれますか」 果歩は無言で、藤堂を見上げた。 待つ――。それには一体、どんな意味があるのだろう。 果歩が答えられないでいると、藤堂はわずかに視線を下げた。 「僕に聞きたいことが沢山あるでしょうが、今はまだ、全てをお話することができません。まだ……僕の中で何も解決していない。本当なら、そういったことを全て終わらせて、あなたを追いかけるべきだった」 「そんな、それは……」 そんな律儀さこそ、今はいらない。もし、今夜藤堂が来てくれなかったら――果歩にしても、彼を信じ続けることができたかどうか、判らない。 「香夜さんと、結婚されようとしたのは、何故ですか」 それでも、これだけは今、答えて欲しかった。 「私より、あの人を好きだと……、そんな風に思ったのなら」 「僕は、――残酷で卑怯な男です」 静かな口調で、藤堂は遮った。 「この年になって初めて知った……。どけだけ美しく生きようと心に誓っても、そんな理想は人生ではなんの意味もない絵空事だ。それを、彼は最初から知っていたのかもしれません」 「……彼?」 それには答えず、藤堂は微笑して、顔を上げた。 「僕は、逃げたかったのかもしれないです。多分、僕自身が楽になりたかった」 「……どういう、意味ですか」 「香夜さんと結婚しようと思ったのは、結局は、それだけの理由だったのかもしれません。僕は、あなたにも彼女にも謝らないといけない。だから、まず二宮に行ってきます」 「……はい」 迷いながらも、果歩は頷くしかなかった。そうだ、まずは彼が、一度は結婚まで決めた人との関係を清算しなければ――私たちは、何も始まらないのだ。 本当は、もうひとつだけ、教えてほしいことがあった。香夜さんのお腹の子の父親は、……本当に藤堂なのだろうか。 その事実如何によっては、果歩はまだ、自分の進退が判らないと思っている。そこまでくると、もう2人だけの問題では済まされない。多くの人の人生が絡んでくるからだ。 「……もしかすると僕は、それでも香夜さんの子供の父親になる道を選ぶかもしれない」 その果歩の気持ちを読んだように、静かな口調で藤堂は言った。 果歩は、はっと身を強張らせている。 「僕の気持ちは決まっています。それでも彼女が、僕を頼ってきたら――」 ――頼ってきたら? 果歩の問いを視線で察したのか、藤堂は暗い目になって微笑した。 「僕は、その子だけでも、自分の子として引き取ると思います」 どう答えていいか判らなかったし、自分から何を質問していいかも判らなかった。 ただ、藤堂が、あえて自分の子かどうかという話を避けているのは分かった。 それは、身に覚えがあるからだろうか。それとも 自分でははっきり判らないから? そして、ここで私が待つといえば、彼は香夜さんを棄てるのだろうか? 多分そうだ。子供だけ認知して、彼女とは別れると――彼は今、そのような意味のことを言っているのだ。 自分たちのしていることの残酷さに、果歩は身の毛がよだつようだった。 これが、恋という業の結末なのか。 沢山の不幸と涙を産んで、そうして私は、香夜さんの幸福の全てを、奪い取ってしまうのだろうか。 「……私は、待っています」 それでも、果歩は言っていた。幾千万の葛藤は、全て胸の底に抑え込んだ。 耐えていきなきゃ――乗り越えていかなきゃ――それが、私たち2人で決めたことなら。 「藤堂さんの決めたことに、従おうと思っています。……それが、どんな結末でも」 「……的場さん」 多分、不安と怖さで、果歩の双眸は揺れている。まだ自信はないし、すごく怖い。 でも、今好きだという気持ちが、変わるとは思わないし――思いたくない。 「……事情が、あったんですよね」 振り絞るような声で、果歩は言った。 「よ、酔っ払ってたとか、また夢でも見てたとか。心配してた通りですよ。藤堂さん、匂いにも誘惑にも弱いんだから……」 藤堂はそっと、果歩の頭を抱き寄せた。 不意に、果歩は泣きそうになっている。 「でも……こんなのは、これきりですから」 「ありがとう」 果歩は黙って首を横に振った。 怖い。 本当はすごく怖いし、この運命から逃げ出したい。 きっと神様の罰が、いつか私たちの上に落ちてくるだろう。でもそれは生涯、2人で背負っていくしかないのだ。 「……今、的場さんが何を考えているか、判りますよ」 静かな声で、震える果歩を慰めるように、藤堂は言った。 「何も説明しない僕を許して下さい。……今、簡単に口にしてしまえば、なんだか自分が本当に許せなくなりそうで」 藤堂の口調も、苦しげだった。 「彼女の許しを請うてきます。そうすれば、的場さんにも、何もかもお話しできると思いますから」 香夜さんが許してくれたなら――、でもあの彼女が、本当にすんなり、藤堂さんを手放したりするものだろうか。 「まってます。私……」 そう言いながらも不思議な不安にかられ、果歩は藤堂を抱きしめていた。 「藤堂さんの帰りを、ここで待っていますから」 「ありがとう」 見上げた藤堂の目は微笑していたが、それはどこか寂しげだった。 再び果歩を引き離した藤堂は、いつもの――まるで役所で見せるような、彼らしい落ち付きを取り戻していた。 「母には的場さんの口から伝えてください。今夜遅くに戻りますが、あまり、心配しないようにと」 立ち上がり、タイを元通りに締め直しながら、穏やかな口調で藤堂は言った。 その目に眼鏡がかかっていないことに、果歩は今さらのように気がついていた。 そうか――まだ彼は、灰谷市役所の藤堂係長ではない。今はまだ、二宮家の御曹司である、藤堂瑛士なのだ。 値札を見るのも怖いようなブランド物の上着を取り上げながら、果歩は改めて、こんな人と恋に落ちた運命の不思議を感じていた。 もう、二度と嫌だと思っていた、身分違いの恋。 なのに今――一度は途切れた糸を掴んだのは、自分自身なのだ。 「いってらっしゃい」 見送りに出た玄関でそう言うと、藤堂は少し面映ゆげに微笑した。 「まるで、お母さんみたいだな」 「ちょっ、それを言うなら、奥さんじゃないですか」 「…………」 わざと冗談めかして言ったものの、やはり藤堂は、どこか寂しげに笑んだだけだった。 果歩は少しだけ不安になった。いや、本当は立っていられないくらい不安だった。もし彼が、このまま帰って来なかったら? 話し合いの結果、香夜さんの方を選んでしまったとしたら? 「……あの」 扉に手をかけた彼の腕に、駆け寄った果歩は自分の手を添えていた。 「帰って、来ますよね?」 「大丈夫ですよ」 一瞬不思議そうに瞬きした後、果歩の肩を軽く叩いて、彼はわずかに白い歯を見せた。 「帰ります。明日は仕事ですからね」 そんな理由? 果歩は落胆しながら、頷いた。今、何もかも説明してもらえないのは判っている。でももう少し、安心できる言葉が欲しい。 「的場さん」 うつむく果歩の肩を抱きながら、藤堂は囁いた。 「……僕は今日、失われた鎖を見つけたんです」 「……はい?」 失われた鎖? 「もう決めたんです。僕の方から、二度とその鎖を手放さない。行ってきます。必ず、今夜中には帰ってきます。明日になったら、一緒に灰谷市に戻りましょう」 ************************* 「片倉」 マンションの前には、もう片倉が車をつけて待っていた。 藤堂の姿を認め、運転席から降りた片倉は、丁寧にお辞儀した。 「遅くなってすまなかった。どうなっている」 「お言いつけどおりに」 「では、すぐに行こう」 「畏まりました」 後部シートに乗り込んだ藤堂は、いままでいた場所が遠ざかっていくのを、どこか寂しいような不思議な気持ちで見送った。 今まで、何度も的場さんとの別れはあった。 不思議だな。どうして今になって、こんなに未練がましい思いに駆られるんだろう。 「……伯父さんは、怒ったかな」 「あの方を本当の意味で怒らすことは、なまじの人にはできませんでしょう」 運転をしながら、淡々と片倉は答えた。 「おそらくは面白い余興程度にしか思われないかと。ただし、後継者の奥方選びとなると、話は別だと思われます」 「そうだろうな」 二宮家に嫁ぐ女性は、その経歴を数代までさかのぼって徹底的に調査される。身内に犯罪者や遺伝性の病歴を持つものがいるだけで、結婚はまず認められない。 が、1人だけ――その伝統を自ら破った当主がいた。 今の当主、喜彦である。 「あの方を、奥方様にとお考えですか」 「向こうにその気持ちがあれば、だがな」 「それは随分自信のない――」 初めて片倉の横顔に、笑いが掠めた。 「帝様の入れ知恵があったとはいえ、策を弄して乗り込んできたくらいですから。あちら様も、相当ご執心なのではございませんか?」 藤堂は苦笑して、窓の外に視線を向けた。 「……どうかな。それが判れば、苦労はないよ」 いつか――それでも本当の意味で、あの人の目に、僕が映る日が来るのだろうか。 僕が、本当に望むような形で。 「瑛士様は、女心に疎うございますからね」 「それは、何を根拠に決めつけているんだ?」 藤堂は少しばかりむっとしたが、片倉は何か言いましたか、と言わんばかりに平然としている。 軽く息を吐き、藤堂はシートに疲れた背を預けた。 「……色々と、すまなかった」 「何が、でございましょう」 「……8年前、俺は、片倉の信頼全てを裏切って、二宮の家を飛び出したんだ。こんな勝手な俺に、色々と手を貸してくれたじゃないか」 「今回のことは、何も瑛士様個人ためを思ってのことではございませんよ」 二宮のため――そうだろう。が、藤堂が言っているのは、今回の件ではない。 「ジェネシス灰谷ホテルのことを言っておられるので」 聡い男は、すぐにそれと気づいたようだった。 ステアリングを切りながら、変わらない口調で片倉は続けた。 「あれしきのこと。手を貸すレベルですらございません。驚きは致しましたけどね。まさか瑛士様が私に電話を――しかも、その用件が、一婦女子のことだとは想像もしておりませんでしたので」 「……あの時は、お前しか頼る相手を思いつかなかった」 「アフターサービスとして、有宮のお坊っちゃまにも、2、3本釘を刺しておきました」 「…………」 しばらく唖然としていた藤堂は、やがて堪え切れずに苦笑した。 「全く――よく出来た執事だよ」 「ありがとうございます。そろそろ到着いたします。ちなみにお相手は、香夜様の妊娠の事実を露ほどもご存じございませんので、そのおつもりで」 ************************* 「ふぅん……」 カレイの煮付けを口に運んだ佳江は、ゆっくりと時間をかけて租借した後に頷いた。 「ま、そんなに悪くないんじゃないかしら」 「す、すみません……プロほど上手くは作れないですけれど」 「あら、卑屈にならなくてもいいのよ? でもこのお味噌汁は……どうなのかしらねぇ」 佳江は、美しい唇をへの字に曲げた。 果歩はもう、食欲もなにもないままにご飯だけをほそぼそと口に運んでいる。 小料理屋の女将――それが、藤堂の母の前歴であった。 今は趣味で着付け教室をしているというくらいだから、店の方にはもう立っていないのだろうが……。 ――と、藤堂さん。お願いだから、その程度の情報は残していってよ! 夕食は、佳江のオーダーで、果歩が全て作らされた。果歩はようやく理解した。これは、間違いなくテストなのだ。自分は今、好きな人の母親に、息子に相応しい恋人かどうか品定めされようとしている……。 「私ね、果歩さん」 「はっ、はい」 果歩は大慌てで居住いを質した。 食事時、いつもテレビをつけっぱなしの的場家と違い、この家では、夕食時のテレビは厳禁なのか、室内は恐ろしいほど静まり返っている。 「お味噌汁の具って、三品までと決めているの。あ、もちろん薬味を含めてね? 人参と牛蒡って……けんちん汁じゃないんだし、これじゃ、お出汁のすっきりした風味が味わえないわ」 「そ、そうですね」 「瑛士さんも、子供の頃から美食になれていますからねぇ。どうかしら。時折はよくても、食って毎日のことでしょう」 「その、とおりです」 頷きながら、果歩は藤堂の雑食ぶりを思い出していた。美食になれている……? それは少し違うような気がするぞ。 しかし、もちろんそんな反論ができるはずもない。食事の間中、佳江の説教は延々と続き、果歩はただはいはいと聞いていた。 「じゃ、後片付けをお願いね。私は少し、仕事をしないといけないから」 「はい」 とにかく、こきつかわれている――みたいだ。 全く客人として認められていない果歩であったが、それでも、忙しく身体を動かしているのはありがたかった。 少なくとも忙しくしている時だけは、藤堂のことを考えなくても済むからだ。 もうすぐ8時。今夜中には帰ると言ったけれど、一体何時に帰ってくるんだろう――。 その時、室内の固定電話が鳴った。 「果歩さん、出て?」 隣室から佳江の声がする。果歩は、「失礼します」と断ってから、逸る気持ちをおさえて受話器を持ち上げた。藤堂からかもしれない。そう思ったからだ。 「あ、藤堂社長でございますか? 私、東欧デパートの宮川と申しますが――」 ――社長? 果歩は瞬きしながら、一応、お待ちくださいと断って、佳江のほうを振り返った。 「あの、藤堂社長にお電話とのことですが」 「それ、どちらの方かしら。着物のほう? チェーン店のほう?」 ファイルを片手に、少し面倒そうに佳江が出てくる。 「あの……東欧デパート様、だと」 「あら、じゃあお店の方ね」 佳江は納得したように受話器をとった。 「東欧さん? ええ。出店のことでしょう? もちろん条件はお出ししますよ。そうねぇ、悪いけど、細かい注文をつけさせてもらうかもしれませんわねぇ」 ええーっっ 果歩は目を剥いていた。 社長って、まさか、藤堂さんのお母さんのこと? 「ほほ……ありがとうございます。ああ、それから別件で申し訳ないけれど、来月の展示会には、ぜひおいで下さいな」 電話を切った佳江は、それまでの上機嫌はどこへやら――やれやれ、という表情を見せて、果歩の方に振り返った。 「ほんとに、なんだって、なんでもかんでも私なのかしら」 「まさか……お母様、会社をやっておられるんですか」 「それほど大袈裟のものではないけどね」 ソファに腰掛け、佳江は分厚いファイルを広げた。 「小料理屋がチェーン店になって、趣味でやってた着付け教室が、ちょっと大規模になっちゃっただけ。ほんと、毎日疲れるわぁ」 「…………」 果歩は、おそるおそる、そのファイルの中をのぞいてみた。そこには、果歩でもよく知っている全国規模の着付け教室のリーフレットが挟みこまれている。代表、藤堂佳江。 さ、さすがは藤堂さんのお母さん。 確かに息子の稼ぎなど、全くあてにしていないはずである。 「……藤堂さん、以前、お母様のことを、すごく才能のある人だって言っていました」 片付けを終えた果歩は、リビングでノートパソコンに向き合う佳江に、お茶を出しながら話しかけた。 「その時は、少しばかり大袈裟な言い方をしていると思ったんですけど……。本当に本当だったんですね」 だいたい藤堂さんのお母さんが、普通だと思った私が馬鹿だったんですけど。 「いいえ、あの子は本当に大袈裟なのよ」 佳江は軽く息を吐いて、果歩の淹れた茶を持ち上げた。 「いい温度――合格ね」 「あ、ありがとうございます」 「ま、お茶の温度だけの話だけどね」 「…………」 湯飲みに唇をつけた佳江は、再び疲れたような息を吐いて、それを茶卓の上に置いた。 「あの子には、……私は人一倍、パーフェクトな女性に見えてしまうみたいね」 「実際、すごいと思いますけど」 「いいえ。ちっとも。だって私、子育てなんてしていないんですもの。10のあの子を他所へやって、それ以来ずっと好きに生きさせてもらっているのよ」 「…………」 それは――でも、この人の本意ではなかったろう。果歩はそう言いたかったが、そこに口は挟まないでいた。 彼女が言いたいのは、そんなことではないような気がしたからだ。 「あらゆるものを犠牲にして、息子のために尽くしてきた賢母の鏡。笑えるでしょ? どうやったらそんな風に思えるのかしら。私も、瑛士さんの夢を壊したくないから、あえて否定はしなかったのだけど」 「あの……今、少しお話をうかがってもいいですか」 前置きしてから、――それでも躊躇いながら、果歩は訊いた。 「以前、藤堂さんと話して思ったことなんですけど、藤堂さん……なんだか、過剰にお母様に、罪の意識を抱かれているような気がするんです」 「……罪の意識?」 佳江の切れ長の目が凄味を帯びて細くなる。果歩はややびびりつつも、ごくりと唾を飲み込んだ。 「自分が産まれたせいで、お母様が苦しんだと……。もちろん苦労されたのでしょうけど、藤堂さんの言い方が、必要以上に深刻で、……ひどく辛そうだったので」 「…………」 「そんなに、思い詰めたら、むしろお母様がお辛いんじゃないかと思ったことがあって……余計なことを言ってたらすみません」 佳江はしばらく黙っていた。2人の間で、茶はすっかり冷めてしまっている。 「あの……お茶、淹れ替えて」 沈黙に耐えられなくなった、果歩が立ちあがろうとした時だった。 「瑛士さんの心には」 佳江が、ぽつりと口を開いた。 「昔っから、母親の私にも判らない頑なに閉ざされた部屋があってね。そこに、あの子は誰もいれないの。もちろん、母親である私もね」 「…………」 「その部屋が出来たのは、多分、あの子の父親のことが原因なのよ。――的場さんは、どこまでご存じ?」 問われた果歩は、躊躇いながら、墓苑で藤堂から聞かされた話をした。 「そう……瑛士さんが、そんなことまで打ち明けたの」 随分立ち入ったことを話しているという自覚はあったが、佳江は何故かほっとしたようだった。 「これはね、正真正銘母親の私の大失敗。瑛士さんを子供扱いして、父親の不在をいつも曖昧に誤魔化し続けていたせいなのでしょうね。まさか瑛士さんが――あんなに頭のいい子だとは夢にも思わなかったから」 「そうなん、ですか?」 少し意外に思って果歩は訊いた。あれだけ頭がいいのなら、小学校時代は神童みたいに扱われていたのではないだろうか。そう思っていたからだ。 「あの子はね。……ごく自然に隠すのよ。人と自分が違っていることを、絶対に表には出さないの。そういう葛藤や悩みを、絶対に表には出さない子だったのよ」 「…………」 「いずれにしても、瑛士さんは人より聡い子だった。それも、尋常ではないほどにね。だから私が想像するより随分早く、――相当早い時点から、うちが他とは違う理由を、理解していたはずなのよ」 軽く息を吐き、佳江は茶碗に指を添えた。 「私が、そろそろ……と思った頃には、瑛士さんは完全に心の扉を閉ざしていたわ。父親の話になると、何を言っても聞き入れないの。あの素直でいい子が、耳さえかそうとしないのよ。……驚いたわ。驚くというより、どうしていいのか判らなくなった」 佳江の目が、その時のことを思い出したかのように辛そうになる。 「その時、初めてお医者様にも相談したわ。そうしたら、これは瑛士さんのパーソナリティの問題だから、無理に言い聞かせると、人格が崩壊してしまうかもしれないって」 「…………」 ――そこまで……。 声に出さずに、果歩は深い驚きを感じていた。 「なまじ、頭がよすぎるから、なおさらあの子が可哀想でね。もうご存じかしら。あの子、一度目にしたものをすぐに記憶してしまうの。そしてそれを、何年たっても殆ど変わらずに覚えているのよ」 それは――全てではないにしろ、果歩もその片鱗を垣間見ている。そして彼が、その才能を殆どひけらかすことがないことも知っている。 「まるで機械……コンピューターね。それが判ってからは、人は随分あの子の才能をうらやましがったわ。どの先生も、天才だとほめそやした。でも果歩さん、考えてみて」 佳江の目が、寂しそうな翳りを帯びた。 「一度覚えたものを忘れられない。……いいことも、嫌なことも。それって、ひどく辛いことだと思わない? あの子にも、忘れたい記憶は沢山あったんだと思う。でもあの子は、それを絶対に忘れることはできないの。いつまでも、昨日のことのように思い出せるのよ」 「…………」 「人は忘れるからこそ前向きに生きていける生き物よ。瑛士さんだって例外じゃない。ここからはお医者様の受け売りになるのだけど、……あの子はね、自分が生きて行くために、もしかすると、故意に記憶の一部を消去しているのかもしれないの」 「どういう、意味ですか」 さすがに、その意味は図りかねた。記憶の一部を消去する? 「そんなこと、……自分の意思でできるなんて思えませんけど」 「もちろん、完全に消してしまうのは無理よ。でも的場さんも、こんな経験があるのではなくて? 嫌な思い出や辛い過去を自分の胸の底に閉じ込めて、絶対に思い出さないようにするの。――たまに思い出しそうになると、頭を別のことに切り替えたりしてね」 果歩は何も言えずに、黙り込んだ。 果歩にとってのそれは、真鍋雄一郎との思い出だ。 「普通の人は、成長とともに胸に閉じ込めていた思い出のありようも変化するわ。過去に辛かったことも、大人になるにつれ、捉え方が変わってくることってあるでしょう? でも、瑛士さんのそれは、隠し場所があまりに深くて――多分、記憶をしまいこんだ部屋が何重にもなっているのね。一番奥になると、もう自分でも何を収めてしまったのか思い出せないのよ。だから、その扉を自分で開けることもできないの」 微かに息を吐いて、佳江は続けた。 「……いずれにしても、瑛士さんは、ある一点をつくとあっという間に崩れるくらい弱い人よ。外から扉をこじあけてしまえば、あの子はたちまち過去に引き戻されてしまうでしょう。だってあの子の中では、10年前の記憶も20年前の記憶も、昨日と同じように新鮮なんですもの」 ――藤堂さん……。 知らなかった。藤堂さん、藤堂さん。 今夜、あの人の手を離すのではなかった。彼は――その弱点を誰よりもよく知っている人と、おそらく今、2人きりで対峙しているのだ。 ここ数日の、彼の行動の不可解さの意味を、果歩はようやく、深い部分で理解した。 藤堂の扉は開かれたのだ。 おそらくは、香夜の手によって。 どういう方法なのかは判らない。でも香夜は最初から――扉の開け方を知っていたのだ。そうとしか思えない。 ますます果歩は不安になる。 本当に今夜藤堂は、果歩の元に帰って来てくれるのだろうか。 |
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