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年下の上司 story15〜FeburuaryB

ミッシングリンク(8)

 

 何時の間にか、外には雨が降っていた。窓ガラスを、音もなく雨が濡らしている。
 果歩は立ち上がってカーテンを締め、そして佳江を振り返った。
「……お茶、淹れ替えてきますね」
 果歩が食卓に歩み寄ると、黙り込んでいた佳江が、静かな視線を向けてきた。
「きっとあなたは、瑛士さんの秘密の部屋に入れるわね」
「…………」
「……もう、入っているのかもしれないけれど。瑛士さんが、あれほど心を開いているなら」
 ――お母様……。
 果歩は湯飲みをトレーに乗せ、キッチンで2人分の茶を淹れ直すと、再び佳江の前に座った。
「私……もし彼に本当にそんな部屋があったとしても、入りたいとは、思わないです」
 佳江が、訝しげに果歩を見つめる。
「それより、彼が自分でその扉を開けるのを、外で待っていてあげたいと思うんです」
 多分――多分の話だけど。
「私、藤堂さんは、もうその部屋を使ってはいないと思うんです。……いえ、辛いことの全部をそんな形で忘れてはいないと思う。藤堂さんは、そこまで弱い人じゃない……」
「…………」
「灰谷市役所での藤堂さんは、……本当に色んなことで悩まれてました。どうしてそんなことで考え込むのかなって、私には判らないことでも、真剣に」
「……そう」
 一瞬驚いたような佳江の目が、心なしか優しくなる。
「今にして思えば、もっと簡単で楽な解決方法はいくらでもあったのに、彼はそうはしなかった。難しくて辛い方法をあえて選ばれたこともありました。それに、絶対に問題から逃げなかった」
 課内での果歩の処遇。水原の無断欠勤。南原との対立に、大河内主査の冤罪事件。そして――中津川補佐との確執。
 そのいずれからも、彼は絶対に逃げなかった。
 財力や権力を使って、解決することもしなかった。
「藤堂さんは変わったんです。いえ、もし彼の本質がお母様の仰るとおりなら、変わろうと努力してしているんだと思います。絶対に」
 果歩は、自分に言い聞かせるように、言った。
 そうだ。大丈夫。藤堂さんなら、絶対に大丈夫だ。
 絶対に乗り越えて――そして、私のところに帰ってくる。
 湯飲みに手を添えたまま、佳江は黙って聞いている。
「彼の部屋の中に、過去の辛い記憶が閉じ込められているのなら、私、中に入ろうとは思いません。彼が、いつか扉を開け放てる時がきたら、……その時は思い出を一緒に支えて、2人で乗り越えていければいいと、思うんです」
 りょうが言ってくれたのはそういう意味だ。
 決めるのも悩むのも藤堂さん。私は――彼が望むなら、その辛さを生涯をわかちあって生きて行きたい。
「……ふぅん」
 不意に、佳江の唇から皮肉めいた笑い声が零れた。
「まるで、もう結婚するみたいな言い方ね」
 
 *************************

「えっ」
 ある意味自分の世界にいた果歩は、その言葉に吃驚して傍らの佳江を振り返っている。
 佳江はつんと澄ました横顔で、茶を一口すすりこんだ。
「確かに瑛士は変わったのね。母親の私が許可してもいないのに、勝手に将来の約束まで交わすようになるなんて――なんて変わりよう」
「ち、違いますよ!」
 果歩は慌てて弁明したが、もう佳江は、とりつく島もない表情で湯飲みを口に当てている。
 し、しまった。
 感傷的になってしまったとはいえ――まさか、こんなところで思いっきり心証を悪くされるとは。
「す、すみません……。その、そういうつもりで申し上げたんじゃないんですけど、つい」
「本当に図々しい人。これだから4歳も年上は反対だったのよ」
 厭味のように――実際に厭味なのだが、佳江は続ける。
「瑛士さんもいいように言いくるめられているのじゃないかしら。ああ、心配だこと。あの子は女にはからきし弱いところがあるから」
 果歩はただ、言葉に窮してうなだれるだけである。
 と、藤堂さん。早くもくじけそうなんですけど、私。
 もし万が一、私が藤堂家に嫁入りしたら、果たしてこの人と上手くやっていけるのかしら。
「ま、瑛士さんみたいな鈍い人には、あなたみたいな図々しい人がお似合いなのかもしれないわね」
「は、はぁ……」
 それ、誉められているのか、けなされているのか。
「だいたい今日のあなたみたいな真似は、私には死んだって出来なかったでしょうからね」
「それは――本当にご迷惑を」
 多分それは、殴りこみについての皮肉である。
「あなたと私は同じ立場だったのにね。私は逃げたけど、あなたは逃げなかったもの」
「すみません。本当に反省していますっ」
 って――ん?
 逃げなかった?
 顔を上げて見上げた佳江は、どこか遠くを見ているようだった。
 雨音が微かに聞こえた。
「水商売の娘が、二宮の次男坊と間違っても結婚なんてできないって判ってた。彼は、全てを棄てようとしてくれたけど――、だけど、私にはできなかった」
「…………」
「瑛士さんが産まれてもなお、私にはその覚悟が持てなかった。怖かったし、恐ろしかった。そう……正直に言えば、嫌だったのよ。あんな戒めだらけの家に嫁いで、自分の人生が、180度変わってしまうのが」
 ふっと緊張を解くように微笑した佳江は、当時をなつかしむように、自らの腹部に手をあてた。
「でもね――今でも、多分後悔しているのよ」
「…………」
「あんなに早く、あの人の寿命が終わると判っていたら」
「…………」
「どんな犠牲をはらっても、一緒にいてあげればよかった……。あんなに早く、……別れがくると判っていたら……」
 ――お母様……。
 果歩は、胸がいっぱいになっていた。
 あまりにも短い人の一生。その中で、好きな人と一緒にいられる時間なんて、多分、星の瞬きより儚い。
 両手で目尻を払い、佳江は再び元の余裕をもった笑顔で、果歩を見つめた。
「――と、あなたの口から、今の話を瑛士さんに伝えてやってもらえないかしら。あの子が自分の手で、秘密の扉を開けた時に」
 果歩もまた、静かに零れそうになった涙を指で払った。
「……私に、伝えられるでしょうか」
「できるわ。そう思ったから打ち明けたんだもの。……いつまでも私1人の胸に収めていたのでは、瑛士さんと彼が、あまりにも可哀想だから」
「……お父様は、瑛士さんとは、お会いになっておられないんですか」
「あの子が、赤ん坊の時に」
 佳江は、美しい微笑を浮かべた。
「それが、私とあの人が会った最後になったけれど、――あの子の名前は、彼がつけてくれたのよ。何度も抱き上げて頬ずりをしてくれた。瑛士さんも馬鹿ね、くだらないことはよく覚えてるくせに、肝心のことは忘れているんだから」
「……その通りです」
 たまらず零れた涙を払い、果歩も笑顔で頷いた。
 
 *************************
 
「それで?」
 香夜は、指先を優雅に曲げて、膝に抱いた猫の頭を撫でた。
「いいわ。エリスちゃん。お外に行っていらっしゃい」
 にゃあ、と細い声をあげ、毛糸の塊みたいな猫が、その膝から床に飛び降りる。
「ずるいわねぇ、瑛士さんも」
 くすくすと笑うと、香夜は柔らかい巻き毛を手でゆったりと払った。
 衣装はまだ、昼間のまま。髪もメイクも、華やかなパーティ仕様のままである。
 二宮家にある、かつて香夜が主として暮らしていた館。
 香夜の妊娠を機に、再び開かれたこの館には、昔と同じように、無数の猫とぬいぐるが溢れていた。
 室内の装飾の大半は、彼女のイメージにはまるでそぐわないピンク色。
 その理由を――知っているはずなのに思い出せないもどかしさから、藤堂は眉をかすかに寄せた。
 そしてふと不安になる。香夜と対峙するにあたり、自分にはまだ不完全な記憶がある。こんな状態で、彼女を説得することなどできるだろうか。
 香夜は、ひとしきり笑うと、ふとその表情に暗い陰りを滲ませた。
「そう……。ひどく素直に受け入れたと思ったら、隠れて片倉に調べさせていたのね。本当に、二宮の家の方は、お調べになることが上手ですこと」
「私が、独断でしたことです」
 藤堂が口を開く前に、背後の片倉が、控え目に口を挟んだ。
「そして瑛士様にお知らせしました。申し訳ございませんが、二宮の血を守ることも、私の使命でございますから」
「では、おじ様も、当然ご存じというわけね」
 片倉が何か言おうとしたのを、藤堂は手をかざして遮った。
「伯父はまだ知りません。もちろん、ご自身の手で調べておられるのなら別ですが」
「ふぅん……」
 香夜は、不思議な微笑を浮かべて立ち上がった。
「きっとご存じよ。それでも気になさっておられないんだわ。だって瑛士さん自体、おじさまの本当の子供ではないんですもの」
 藤堂はそれには答えず、黙って立ち上がった。
「僕は、謝らなくてはならない」
「あら、何を?」
「僕自身が、あなたを利用していたことをです。もちろん、僕はあなたの嘘を知っていた。僕らの間に子供ができるような関係などなかったから。……でも、僕は嘘を受け入れることにした。そうすることが僕に課せられた償いだろうと思ったし、それでようやく楽になれると、心のどこかで思ったからです」
「……楽に?」
 香夜は不思議そうに微笑んだ。
「つまり、的場さんと別れられると思ったのでしょう」
「……その通りです」
 苦渋の言葉だったし、肯定するには抵抗があったが、ある意味それは真実だった。
 藤堂の中で、秋口以来ずっと揺れ続けていた振り子が、あの日――電話で香夜の妊娠を告げられた時、不意に振り切れたのだ。
 そうだ、自分は逃げたかった。楽になりたかった。幾多の理由をあげつらおうと、それが心の底にあった真実のひとつだったのだ。
「正解よ。瑛士さん。謝ることは何ひとつないわ。あなたは、何も間違っていない」
 きっぱりと、まるで先生のように、香夜は言った。
「それに……瑛士さんの忘れっぽい性格。私、誰よりよく知っているのよ。関係がなかったなんて、よくもぬけぬけと言えたものね」
 そして、唇に指をあててくすくすと笑い始めた。
「だいたい片倉の調査なんて、あてになるものですか。この子の父親が誰かなんて、しょせん女にしか判らないことなのに。――父親はあなたよ? 瑛士さん」
 揺るぎのない自信が、香夜の微笑みから滲みでている。
「香夜さん……」
 藤堂はわずかに唇を噛んでから、背後の片倉を振り返った。
「片倉、僕と彼女を、2人だけにしてもらえないか」
「承知しかねます」
 控え目にではあるが、きっぱりと断言する片倉は、最初から藤堂と香夜を2人きりにさせることに、強い危惧を覚えているようだった。
「……片倉、頼む」
「できかねます。それは当主の思し召しでもございます」
 では、やはり伯父は何もかもご存じなのか――。藤堂は眉を寄せたが、すぐに顔をあげて片倉に向きなおった。
「二宮の執事としての、お前の義務は果たしたはずだ。後は、僕たち2人の問題だ」
「いえ、最早お2人の問題だけには」
「今が、その時じゃないのか。片倉」
 静かに遮った瑛士は、いつの間にか目下になってしまった男を見下ろした。
「彼女との問題が解決しない以上、僕は前に進めない。お前は最初に僕に言った。当主の座を賭けた試練の場所では、決して助力はできないと」
「……………」
「わかってくれ。そして僕なら大丈夫だ」
 数秒、それでも片倉は躊躇していたようだったが、やがて彼は、すぐに主人に忠実な使用人の顔を取り戻した。「――畏まりました」
 背後で扉が閉まり、足音も遠ざかる。
 この屋敷の中に取り残されたのは、無数の猫と人形と――そして藤堂と香夜だけになった。
「もちろん、瑛士さんの本意ではないんでしょう?」
 あどけない口調で、香夜が言った。今までの会話などどこ吹く風といった風情だった。彼女はポットを持ち上げ、優雅な手つきでカップに緋色の液体を注いだ。
 藤堂は黙って、香夜が待つテーブルにつく。
「こそこそ調べるなんて、全く瑛士さんらしくないわ。片倉がそんな出過ぎた真似をしたのなら、あの男には、屋敷を出ていってもらわなくてはね」
「依頼したのは、僕です」
 香夜を遮って、藤堂は言った。
「どういう理由であれ、そこに目をつむるわけにはいかなかった。僕のためというより、あなたのために、僕は真実が知りたかった。これだけは信じてください。僕は、あなたが心配だった。こんなことになった以上、僕があなたを助けなければと思ったのは、本当の話です」
「妄想よ。瑛士さん」
 香夜は、さも意外そうに眉をあげた。
「何もかもあなたの考えすぎに過ぎないわ。だってこの子は、正真正銘あなたと私の子供なのに」
「違います」 
 はっきりと、しかし胸中の苦渋を抑えて、藤堂は言った。
「ここ数日、僕はずっと、あなたと夢の中にいたのかもしれない。卑怯な言い方かもしれませんが、僕の思考はある一点で麻痺していた。その方が僕にとっては楽だったからです。でも――今は、違う」
「的場さんが、あなたを追いかけて来てくれたから?」
 面白そうに、香夜は笑った。
「馬鹿な瑛士さん。――二度も、あの方と別れを決めたのは瑛士さんの方なのに。その方が、的場さんのためでもあったのに」
「あなたが、それでも僕を望むのなら」
 香夜を遮るように、藤堂は続けた。
「僕は、その子供の父親になります。でも、あなたと結婚することはできない」
「…………」
「それだけはできない……。他のことであれば、僕にできる全てで力になるつもりです。……判ってください。そして、僕を許して欲しい」
「そう――」
 不思議に静かな声で言い、香夜はすっくと立ち上がった。
「じゃああなたは、あなたのお父様と同じ過ちを繰り返すのね」
「…………」
「忘れたの? 瑛士さん? あなたはあれだけ、ご自分のお父様を嫌っていらしたのに、結局は同じ真似をなさるおつもりなんだわ。でも、本当にそれでいいの?」
 ――本当に……。
 それで、いいのか?
「あなたはお父様とは違う――違うのでしょう? だったら、そんな選択をしては駄目。あなたの子供を身籠った女を棄ててしまっては駄目」
 歩み寄った香夜が、そっと瑛士の頬を撫でた。
(――瑛士……)
 脩哉の声が、どこかで聞こえた。
 あの夜の雨音が、再び藤堂を包み込む。
(お前はやがて、死んだ和彦叔父と瓜二つの青年になるだろう。そして、父親と同じ罪を平気で犯すようになる。欲望だけで女を抱き、厭きれば捨てて見向きもしない。汚く、傲慢な男にな)
 気づけば香夜の体温が、そっと自分を包みこんでいた。
「瑛士さん、……それでは、あなたがあなたでなくなってしまうわ。判らない? あなたはどうあっても、私を棄ててはいけないのよ」
 ――違う……。
 藤堂は大きく息をした。心のどこかが、それは真実ではないと言っている。
 どこか――深い、深い闇の底から。
(お前はやがて、死んだ和彦叔父と瓜二つの青年になるだろう。そして、父親と同じ罪を平気で犯すようになる)
 何年もその言葉に縛られてきた。でも、あれは、蔑みの言葉ではない。
 また何かを思い出しそうになっている。なのにどうしても、そこから先の光景がでてこない――。

 *************************
 
「僕は、――僕です」
 腕を掴まれて引き離された香夜は、少しばかりの困惑を浮かべて藤堂を見上げた。
 引きずり込まれそうな過去からようやく自分を取り戻した藤堂は、香夜の肩を抱いて押し戻した。
 肝心ことは、思い出せないままだったが、もうその言葉に縛られている自分もいない。
 たとえ同じ選択をしても、父は父。そして自分は自分だからだ。
 父がそこから、自分だけの人生を生きたように、藤堂も自分の人生を選択し、生きていかなければならないからだ。
「僕は、僕の父とは違う。たとえ同じ選択をしても、僕は、僕でしかありません」
 藤堂は、目を閉じて息を吐いた。
 いつのまにか、あれほど煩かった雨音が止んでいる。
 雨など最初から降っていなかったと、藤堂は初めて気がついた。この屋敷に8年ぶりに戻ってからずっと聞こえていた憂鬱な雨音――それこそが、心の闇が見せた幻聴だったのかもしれない。
「何を言っておられるの?」
 香夜の瞳が、初めて疑念で揺れていた。こんなはずではないと、その目が言外に語っている。
「二度よ――? 二度、私は瑛士さんの子を身ごもったのよ? 8年前のことをもう忘れたの? あなたはその時も私を棄てて逃げた。今度もそうするつもりなの?」
 その言葉が呪縛となって、この1週間藤堂は過去の世界を彷徨っていた。
 8年前の罪……決して消すことの出来ない過去。
 それを清算するための結末なら、受け入れるしかないと思った。そう、これで何もかも終わって本当の意味で楽になれるのなら。――
「……8年前」
 振り絞るように藤堂は続けた。
「僕は、……確かに、取り返しのつかない罪を犯した」
「その通りよ」
 香夜は苛立たしげに拳を握った。
「もう忘れておられるようだから、改めて教えてあげるわ。あなたが脩哉さんを、どうやって追い詰めて、どうやって殺したのか」
「――否定はしません。そして忘れてもいない」
「あなたの嘘が、脩哉さんを殺したのよ」
「その通りです」
「8年前、あなたは、私のお腹に子供なんていないことを知っていた。――知っていたのに、私が脩哉さんについた嘘を否定しなかった。私はただ、脩哉さんに嫉妬して欲しかった。振り向いて欲しかっただけなのに!」
「…………」
「瑛士さんの子供を身籠もっているなんて、すぐにばれるたわいもない嘘を、瑛士さん自身が本当にしてしまったのよ。そして脩哉さんは、追いつめられて死んでしまった。なにもかもあなたのせいじゃない!」
 激高する香夜の目で、紅い炎が揺れたような気がした。
 藤堂はうつむき、唇を噛み締める。
「……その通りです。僕は脩哉が大嫌いだったから……、脩哉より少しでも優位に立ちたくて、そんな嘘をつきました」
「そうよ。だからあなたと私は、その罪を償わなくてはならないのよ!」
 香夜はテーブルを叩いた。陶器がぶつかり、紅茶の飛沫が散った。
 香夜の拳が、激情でぶるぶると震えている。
 藤堂もまた、同じ激情に駆られたまま、逃げずにその眼差しと対峙した。
「わかっています。あなたから電話で妊娠を告げられた時からわかっていた。いや――」
 もっと遡れば、部屋に置き忘れられていた産婦人科の診察券を見た時に、その予兆を感じたのかもしれなかった。
 あの夜も、いきなり、真っ黒な闇が心の扉を突き破って、藤堂を包み込んだ。
 飲み込まれなかったのは、――目の前にあの人がいたからだ。
 そう――的場さんが、とんでもなく怒っていたから。
「脩哉を苦しめた嘘が、今度は僕に返ってきたのなら、僕は、絶対に逃げてはならないと思った。脩哉とあなたを苦しめた報いを、僕自身が受けなければならないと思ったんです」
「そうよ。そのとおりよ、瑛士さん」
 香夜は、目をぎらぎらと輝かせて頷いた。
「私ね、絶対の自信があったの。瑛士さんは否定したりしない。できやしない。たとえ、自分の身に一切の覚えがなくても」
「…………」
 藤堂は咄嗟に言葉が出て来ないまま、香夜の一種異様な興奮状態を見つめる。
「この子は――あの時産んであげられなかった子供の生まれ変わりよ、瑛士さん」
 ――香夜さん……。
「そう。もちろん、あなたの子供じゃありません。あなたにとっても、私にとっても縁もゆかりもない行きずりの男の子供」
 藤堂はさすがに色をなしていた。異様に輝く香夜の目からは、もうなんの表情も読み取れない。
「香夜さん」
「何も仰らないで!」
 凄まじい剣幕だった。
「それでも、私は、死んだってこの子は瑛士さんの子だと言い続けるわ。女性を弄んで捨てるような残酷な男が父親だと。あなたが、どんな対応をなさろうと、一生、それを言い続けるわ」
 唇を広げて笑うと、香夜は正気とも狂気ともつかない目で藤堂を見つめた。
「そうしてこの子は、生涯、自分を棄てた実の父親を恨むのよ。瑛士さん、あなたを恨んで、可哀想な生涯を送るのよ」
「……本気で、言っておられるのですか」
 さすがに、感情の波を、藤堂は抑えることができなかった。
「その子の父親は、あなたのいうような男ではない。僕は、彼と会って話をしました。彼はあなたのことをとても大切に思っていた。きっと子供のことを話したら」
「忘れたの、瑛士さん。私もあなたも、決して幸福に生きることなど許されない」
「…………」
「他人の子と、愛してもいない女。それでも愛し、育てることが、死んだ脩哉さんへの償いだと思いなさい。あなたが、素直に私を受け入れてくれれば、私だってこんな馬鹿な真似は絶対にしなかった!」
 凄まじい香夜の執念に、藤堂は返す言葉もなかった。
「覚悟は決めています。今度、瑛士さんに逃げられたら、私――死ぬわ」
「…………」
 ――香夜さん……。
 あなたは、もしかして。
 もしかして、もう――本当のことを……。
「……香夜さん」
 呟くように言った藤堂は、続く幾万の言葉を飲み込んだ。
 同時に初めて、彼女へのどうしようもないほどの愛しさを感じていた。
 自分にとっても生涯の心の傷になった出来事は、――この人には、もう限界だったのだ。
「……あなたは、もう、知っていたんですね」
「なんのお話かしら」
「…………」
 最初から知っていたのか、それともどこかで思い出したのか。
 子供の頃から嘘ばかりついてきた彼女は、時にその嘘を自分の中で真実にしてしまうことがあった。
 脩哉は伯父の実の子だったが、彼女の中ではそうではなかった。幼い頃から、彼女の現実と妄想はいつも曖昧な境界線を漂っていて、藤堂との関係にしても、彼女の中ではそれが真実なのだろうと、半ば諦めの気持ちだった。だから――
 いや、もうそんなことはどうでもいい。
 やっと、判った。
 8年もたって、今さらのように香夜が結婚話を持ち出した理由が。
 彼女の心は、8年前から一歩も前へ進めていない。
 その香夜を、8年もの間、――自分は振り返ることさえかったのだ。
「……僕は、間違っていた」
「ようやく判ってくださったのね?」
 藤堂は、黙って首を横に振った。
「そうじゃない。初めから、真実を受け入れるべきだった。僕ではない――あなたのために」
「今が、2人の真実なのよ」
 藤堂は、静かに首を振る。
「僕は、あなたとは結婚しない」
「…………」
「子供の認知も、することはできない。すべきじゃない。あなたが、僕を憎むようにしたければ、そう子供に伝えればいい。あなたに、本当にそんな真似ができるのなら」
「…………」
「僕はおこがましかった。そしてうぬぼれてもいた。その子の人生を背負うのは僕じゃない。僕の償いのために、その子は存在しているのではない」
「…………」
「その子を幸福にするのも、されるのも、本当の父親であり、母親の役目なのに、僕は、僕自身のエゴのために、その役目を引き受けようとしていた。ひどく思いあがった……、間違った考えだった」
「……ずるいわ」
 香夜は、双眸を怒りで震わせながら、藤堂の傍に駆け寄ってきた。
「ずるいわ、なんで今になってそんなことを言うの! 逃げないで、私を置いて逃げるなんて絶対に許さない!」
 藤堂は無言で、香夜の拳が胸を打ち、頬を叩くのに任せていた。
「……許して下さい」
 香夜の激情を受けながら、藤堂はただ呟いた。
 8年前に閉じ込めてしまった涙は、どんなに辛くても、藤堂の双眸を潤ますことすらない。
「あなたは何も悪くない。僕が……僕が、何もかも悪いんです」
「…………」
「もう、許して下さい。……そして、幸せになってください」
 僕ではなく、あなた自身を。
 もう、許してあげてください。
 香夜がぼんやりと顔をあげる。その拳は力なく落ち、彼女はふらふらっと後ずさった。
「……瑛士さん」
 まるで夢遊病者のようにテーブルに戻った香夜は、黙ったままで、ポットを取り上げ、それを新しいカップに注いだ。
 彼女は、ティーカップをもって、振り返った。
「最後に、紅茶を飲んでいかれない?」
 藤堂はただ、無言で香夜の顔を見る。
「ごめんなさい。わがままばかりいって。瑛士さんの言うことはよく判った。私たち、これできちんとお別れしましょう」
「飲めば」
 藤堂は、愛しさと憐れみをこめて、言った。
「あなたは、許してくれますか」
「飲んで」
 香夜の目から涙が零れた。
「飲んで、瑛士さん」
「…………」
 瑛士は微笑し、引いた椅子に腰掛けた。
 カップをもつ、香夜の指が震えている。こんなことが以前もあった――藤堂はふと思いだしている。この土壇場で、自分がこうも落ちついているのを不思議に思いながら。
「いただきます」
「どうして的場さんなの?」
 カップに手をかけた瑛士を、香夜の声が遮った。
 顔をあげた藤堂に、身を乗り出すようにして香夜は言った。
「瑛士さんも、ご存じのはずだわ。いいえ、きっと私よりよくご存じでいらっしゃるはずだわ。的場さんの運命の人は瑛士さんじゃない。……別の人よ。瑛士さんも、よくご存じの人」
「…………」
「彼女のことなら、私、何もかも調べたのよ。本当のことを言えば、それが私のジョーカーだった。切らなかったのは、……そう、あなたがその人と戦えないのと同じ理由よ」
 藤堂は黙って眉根を寄せた。
「まさか恋仇があの方だなんて、瑛士さんにとっては本当に皮肉ね。私には目の前で起きていることのように未来が見えるわ。それが他の誰かだったら、きっと瑛士さんはどんなことをしても的場さんをご自身のものにするでしょう。でも、――瑛士さんは、真鍋雄一郎と絶対に戦ったりはできない」
「…………」
「私が、確実に勝利すると分かっていて、決してジョーカーを切れなかったようにね」
 わずかに目を細めた藤堂は、静かな気持ちで呟いた。
「そうですね」
「とっくの昔に障害のなくなった2人が、今再会したらどうなると思う? それを――瑛士さんは的場さんにお話した? あなたと雄一郎さんの関係を知ったら、的場さんはどうするかしら。きっとあなたを二度と許さない。私だったら、そんな卑怯な男、顔も見たくないわ」
 的場さんがどうするか、それはもう、何万回も頭の中で思考した。
 何万回も、何億回も。
「僕はもう、それでも構わないと思っているんです」
 嫌われても、憎まれても。二度と顔を見ないと言われても。
「……どうして?」
「たとえそれが、永遠に叶わない恋でも」
 最後に、あの人が、別の誰かの手を取ることが判っていても。
「僕は、最後まで諦めたくはないんです。あなたと一緒です。香夜さん。あなたが脩哉さんを好きだった気持ちと、きっと今の僕は同じだから」
「…………」
 藤堂はカップを持ち上げた。
 さっと香夜の顔色が変わる。
「毒が入っているわ」
「昔も、そんなことがありましたね」
 藤堂は微笑した。
「僕は飲んだ――。何故だったのかな。そうすれば、あなたと少しは仲良くなれると思ったのかもしれない」
「今度は本当よ」
「……それで、あなたの気が済むなら」
 藤堂は静かに香夜を見つめた。
「僕は、それで構わない。あなたがそれで、自分を許すことができるなら」
「…………」
「……僕も、ようやく自分を許すことができるような気がするんです」
 蒼白になった香夜は、ただ唇を震わせている。
 藤堂は、カップをそっと唇に当てた。




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