「うん。そんなわけで、りょうと一緒だから。ほら、りょうが家に迎えに来たから、一緒だっていうのは知ってるでしょ? 東京で一泊しようってことになって、明日、りょうと帰るから」 ――藤堂さん。……早く、帰ってきて。 佳江が風呂に入ったので、その間、実家への言い訳電話を済ませた果歩は、祈るような気持ちで携帯電話を見つめた。 今なら、繋がるだろうか? それとも、かけない方がいいだろうか。 ――藤堂さん……。 彼が帰ってきたら、きっと、今までとは何もかも違う明日が待っている。 私――よく判らないけど、もう、あなたと離れてはいけないような気がするの。 運命なんて、信じたこともないし、裏切られてばかりだけど―― それでも、あなたとは不思議な縁で結ばれていると、そんな風に思えるから。 きっと――私たちが出逢う、ずっと前から。 不意に掌の中で、携帯が震えた。 果歩は咄嗟に携帯のウインドウを見る。目を見開いていた。藤堂の名前が、そこに表示されている。 「――藤堂さん?」 「的場さん?」 電話の向こうから、柔らかな女の声がした。 「あら、ごめんなさい。彼の携帯なら、私が預かっているのよ。ご存じなかったのかしら」 ――香夜さん……。 優しい、楽しそうな声だった。何故だか、果歩は、身震いを覚えた。 「瑛士さんなら、もうお休みになられたわ。……今、私の部屋にいらっしゃるのだけど、用事があるなら、起こしてさしあげましょうか」 「……いえ」 感情を堪えて、果歩は言った。 「そちらが用事があるから、かけてきたんじゃないですか」 「瑛士さんが、目を覚まさないの」 ――え……? 「どれだけ揺さぶっても、どうしても起きてくれないの。まるで、二度と目を覚まさない人みたいに」 ――どういう、意味? まるで普段通りの香夜の口調に、果歩はそそけだつものを感じた。 しかも2人の会話は、先ほどからまるで成立していない。 「藤堂さんに、何かしたんですか」 佳江に勘付かれないように、果歩は声をひそめて聞いた。 「何か? 何も? ただ瑛士さんが、自分で選んでしまっただけ」 「……何を、ですか」 ひどく嫌な予感がした。 この部屋を出て行く時の藤堂の、妙に寂しげだった微笑が胸に蘇る。 「藤堂さんを、出してください」 「的場さん。今ね、うちの車をそちらに向かわせているの」 遮るように香夜は言った。 「彼を返してほしい? だったら的場さんが迎えに来なきゃ駄目。ねぇ、そうしたら、瑛士さんは眼を覚ましてくれるかしら」 「…………」 後は、含んだような笑い声だけが密かに響く。 香夜さん……。 果歩は、言葉をなくしたまま、ただ携帯を握り締めた。 絶対にへんだ。香夜さんがおかしい。 「行くわ」 果歩は言った。 「今からそっちに行きます。そうしたら、藤堂さんに、会わせてもらえるんですね?」 ************************* 夜の二宮家は、昼間とは全く別の顔を見せていた。 門扉から玄関までの、長い長いアプローチ。人の気配はないが、常夜燈が至るところに点在しており、木々の間では、時折何かがきらめいている。 ――監視カメラ……。 果歩は、軽い戦慄を覚えながら、迎えの車から降りた。 昼間、りょうと乗り込んだ時も不思議に思った。 過剰なまでのセキュリティー。りょうの話では、日本経済の中枢に存在するという二宮家。なのに――何故、あんな陳腐な手で易々と侵入できたのか。 今も、カメラを通して幾つもの目が、果歩を見ているに違いない。 が、屋敷――というより、ひとつの集落のようなこの場所は、まるでゴーストタウンのように静かだった。 自分の存在など、まるで危険視されていないのかもしれない、と果歩は思った。たとえていえば、巨大クジラの中に、小魚が飲み込まれてしまったようなものだ。 もちろんその例えどおり、飲み込まれた以上、もう自力でこの屋敷を出ることは叶わないだろうが。 「的場さん」 優しい声が、背後から聞こえた。 果歩は身構えて振り返る。 今、判っているのは、彼女の中で何かが壊れてしまったということだけだ。そして――この屋敷が彼女のテリトリーなら、今、藤堂は完全に彼女に囚われている。 松平香夜は、肩を覆うショールを胸のあたりでそっと合わせた。 「今夜は冷えますわね。的場さん」 まるで、仕事の帰りにでも偶然遭ったかのような自然な口調だった。 「2月ですから」 果歩は、かろうじてそれだけ答えた。 足がわずかにすくんでいる。昼間とは違う意味で――いや、本当の意味で、私は今、敵陣のど真ん中に立っているのだ。 「瑛士さん、よほど疲れておられたのかしら」 そう言った香夜が先に立って歩き出したので、果歩は黙ってその後を追った。 果歩を載せてきた車は、すでにターンして走り去ってしまっている。タクシーさえ通らない山間部。例え以前の問題として、もう、自力で帰ることは不可能だ。 そういう意味では、果歩自身も、もう完全に囚われの人となっている。 前を歩きながら、淡々と香夜は続けた。 「瑛士さんったら、私の寝室で、疲れてそのまま眠られてしまったの。風邪をひいてはいけないと思って起こしたのだけど、……どうしてかしら。何をしても目を覚ましてくださらないのよ」 それは、聞きようによっては、情事の後を匂わせる言い方だ。 果歩はただ、黙っていた。 「多分、昼間の疲れも残っていらっしゃるのね。すぐに起こすのはしのびないわ。ね、しばらく寝かしてさしあげた方が、よろしいような気がしない?」 「彼のお母様が、ひどく心配しておられるので」 果歩は抑えた口調で言った。 「……今夜中に、連れて帰ってもいいですか。目を覚ますまで、私なら待っていますから」 「ま、意外と図々しいのね」 くすくすと香夜は笑った。 「瑛士さんは、今、私の寝室で寝ているのよ。その意味はお判りいただけると思っていたけど」 「…………」 「無粋な方ねぇ、的場さん。あなたがそんなに厚顔だとは思ってもみませんでしたわ」 果歩は、ざわめくような動揺と不安を堪え、ただ歩き続けている。 胸の底に押し隠した8年前の亡霊が、不意に、背中でそっと囁いた。 ――無理よ……。 結局彼は、この人を選んだのよ? 会ったって、自分が傷つくだけ。そんな惨めな思いを、本当にしたいの? 果歩。 人の気持ちは変わるのよ……。 一体誰に、変わる気持ちを止められるの? 「それでも、待ってます。私」 からからに乾いた喉から、ひどく掠れた声が出た。不思議なことに、声を出した途端、背中の亡霊は吹き飛んでしまっている。初めて、果歩は思っていた。 秘密の部屋は、間違いなく私の中にもある。ううん、きっと誰に中にも、消化できずに閉じ込めるしかない想いというのはあるものなのだ。 「待ちます。私」 果歩は、再度言っていた。 「藤堂さんの気持ちなら、全部彼自身の口から聞きたいんです。それで、あなたの言うとおりなら諦めます。そこまで厚顔にはなれませんから」 「まぁ、それは無理というものじゃなくて?」 柔らかく香夜は遮り、足を止めて、憐れむように果歩を見上げた。 「瑛士さんはずるい人ですもの。きっと私も的場さんも欲しいと言うわ。今日、彼は確かにパーティを抜けてあなたを追いかけたけれど、結局はまた戻ってきたじゃない。私のご機嫌をとるために」 言い方を換えれば、確かにその通りだった。 「……それは」 「そうして、今は、私の寝室でお休みになっておられるの。一体その事実を、どうお捉えになるつもり?」 果歩は打ちのめされていた。盤石たる香夜の自信と、再び揺らぎ始めた自分の基盤に。 「彼は、どんな言葉で的場さんを納得させたのかしら? 約束をした? ううん、していないはずよ。だって私たちが結婚するのは間違いなくて、的場さんは決して、彼の奥さんにはなれないのですもの」 三日月が、どこか妖しく、微笑む香夜を照らし出している。 「その場限りの口約束……瑛士さんにできるのは、せいぜいそのくらいかしらね。的場さん。私、あなたが基本的には嫌いではないの。むしろ、お気の毒だと思うから言っているのよ。――あなた、瑛士さんの愛人にでもなるおつもり? 私と彼を取り合うというのは、結局はそういうことなのよ」 ―――――――――――――― また……あの夜の夢を、見ている。 「……瑛士」 ぼんやりと空を見ていた瑛士は、その声に驚いて振り返った。 「なんだ……。まるで幽霊でも見るような顔だな」 脩哉はそう言うと、瑛士の対面に腰を下ろした。その手には、ビニールの袋が下げられている。 「帰っていたんですか」 立ち上がりながら、瑛士は訊いた。 「ああ、さっき戻ったばかりだ」 煙草をくわえ、テーブルの上にビニール袋の中身を出しながら、脩哉は言った。 缶ビールに缶チューハイ。瑛士は微かに眉を寄せた。 昨春、大学に進学した脩哉は、関西で1人暮らしを始めていた。第一志望だった東京の大学に合格しなかったのがその理由だが、瑛士は内心、脩哉はわざと受験に失敗したのだろうと思っていた。 家を離れ、いかに脩哉が奔放に生きているか、想像は容易についた。ありあまる金と自由になる時間。もう、彼を束縛したり監視するものは誰もいない。 瑛士はただ、腹立たしかった。 東京で、一人取り残されている香夜のことを考えると、脩哉の身勝手さに憤りを感じるほどだった。 「何処へいく」 瑛士がリビングの扉に手をかけた時、背後で脩哉の声がした。 「部屋に。勉強がありますから」 「勉強」 脩哉は、さも意外そうに、美しい眉をあげた。 「驚いたな。お前にもそんなものが必要なのか。いいから来いよ。俺と一緒に飲まないか」 「…………」 はい? 今、言われた言葉の意味がわからずに、瑛士はぽかんとして振り返った。 「コンビニで買ってきた。お前、コンビニものなんて、食ったこともなければ、買ったこともないだろう? 少しばかり俺につきあえよ」 「……いえ」 たちまち、警戒心が、驚きを顔から拭い去った。 「申し訳ありませんが、僕はまだ未成年なので」 「未成年……はは。赤信号をじっと待ってる小学生だな。それだからお前は駄目なんだ、瑛士」 瑛士は黙って扉を閉めた。 なんだ? もしかして、酔っているのか? こんな砕けた――と言うか、おそろしく隙だらけの脩哉を見るのは初めてだ。 その年、瑛士は17歳。大学進学を翌春に控えていた。 希望大学は、二宮家の男子ならば、必修とも言える国内最高峰の東京大学政経学部。脩哉が、一昨年受験に失敗した学部である。 (――瑛士様の成績で、不合格など、まず考えられないでしょう) (他学部から、特待生の申し入れがあるくらいでございます。まず、ご心配されることはないでしょう) 学院の教師も太鼓判を押していたし、瑛士自身も、あまり深刻に考えてはいなかった。 というより、いまひとつ乗り気にはなれなかった。 ずっと、周囲の言いなりに今まで生きてきた。これからも、このままでいいのか、という疑問もある。 どこまでいっても、二宮家の長子は脩哉なのだ。この家にいる限り、瑛士はしょせん二番手に過ぎない。脩哉の言うことが確かなら――脩哉が死ぬまで。 ――それにしても……元日にも戻らなかったのに、何でこんな時期に戻ってきたんだ。 机についても、勉強は一向に身にはいらない。 瑛士は諦めて、問題集を閉じた。 15歳になった時、瑛士は二宮家本殿に住むことを許された。脩哉もまた、15の年から本殿に部屋を構えている。 香夜だけが、今までどおり別館に住み、帝は――既に屋敷を去っていた。 おかしなもので、別館で別れて暮らしていた頃より、本殿で共に暮らしている時の方が、脩哉との距離を遠くに感じた。 実際、脩哉と瑛士が共に生活したのは、わずか1年のことだったが、その間――2人が口を聞くことは、殆どといっていいほどなかったのだ。 勉強を諦めた瑛士が、気晴らしのつもりで一階に降りると、廊下に薄く灯りが漏れている。 まさか、まだ脩哉がそこにいるのかと驚きながら、瑛士は再び扉を開けた。 「……何をしているんですか」 「飲んでるんだ」 ソファに仰向けになった脩哉は、上機嫌で缶ビールを持ち上げた。 「お前もつきあえよ。そこにいてくれるだけでいい」 「――グラスについだらどうですか」 仰向けになった脩哉の口から、収まりきらないビールが溢れ、喉や胸を濡らしている。 何故だかひどく腹立たしい思いに駆られながら、瑛士はキッチンからグラスと布巾を取って戻ってきた。 「起きてください。だらしのない――信じられない」 「いいじゃないか。新年だ。少しくらいは羽目をはずせ」 「…………」 冗談じゃない。なんだって俺が。 憤りながら、瑛士は脩哉の傍らに膝をつき、彼の喉や衣服を濡らした麦酒を拭った。 「……臭い」 「そうか? いい香りだ」 「理解できませんよ」 「お前は子供だからな」 「あなたとは、二つしか違わない」 「そうか。だったら飲んでみろよ」 「…………」 多分、挑発に乗ったというよりは、羽目をはずしてみたかったのかもしれない。 この――鉄壁のレールが敷かれた人生から。 初めて口にしたアルコールは、ほろ苦く、そして少しだけ甘く感じた。 「……悪くない」 「そうだろ?」 「でも、缶の直飲みはやめてください。せめてグラスに――ああもう、言った端から!」 「本当にお前は、優等生だな」 そうして1時間も経った頃には、瑛士の警戒心もすっかり解れていた。 「いいんですか、僕なんかと一緒で」 2本目の缶ビールを開けながら、少し大胆になって、瑛士は訊いた。 「僕は、あなたが嫌いなんだ。実際、死んでしまえばいいと思ったことも何度かある」 「お互い様さ。お前さえいなければ――俺も、何度もそう思った」 「まさか」 「なんで」 「だって――僕は、脩哉の脅威でもなんでもない」 「お前は、本気でそう思っているのか」 眉をあげた脩哉は、まじまじと瑛士を見つめた。が、その目は不意に細くなって逸らされる。 「……なんですか」 「なんでもない」 脩哉は、何かを誤魔化すように、缶ビールを一気にあおった。 「お前は、道を誤るなよ」 「どういう意味です」 「お父様の、期待通りの道を行け。二宮には、もうお前しかいないんだ」 「何を馬鹿な――」 瑛士は、心底腹立たしい気持ちになって、自分もビールを、缶のまま口にした。 直飲みは、思った以上に、不快感はなかった。 「僕はあなたの身代わりに過ぎない。それは、あなたが言ったんじゃないですか」 「外国に行くんだ、俺」 新しい缶の蓋を開けながら、なんでもないように脩哉は言った。 「は?」 「しばらくのんびり生きてみたくなった。当分は日本に戻らない」 「……そうなん、ですか」 その時感じた不思議な寂しさの意味は、後になっても判らなかった。 今、帝がロンドンにいることを、瑛士は脈絡もなく思い出している。 3本目に手を伸ばした瑛士を、脩哉は眉をひそめて見上げた。 「飲みすぎるなよ。未成年」 「平気です。アルコールに強い体質なのかもしれない」 「そりゃそうかもしれないが、何かあれば、俺が片倉に叱られるからな」 封を切ったばかりの缶ビールを口にしながら、瑛士は初めて目の前の人が自分の兄だと意識していた。 まさかと思うが俺のことを心配している――? そんなことは初めてだ。いや、本当に初めてだったろうか? この人も厳しさも残酷さも、結果として俺を――強くさせてくれたのではなかったか? 「なぁ、初恋の話をしようか」 ぶっと瑛士は吹き出していた。 「きったねぇな。何やってんだ、お前」 「だって」 眉を寄せる脩哉に睨まれ、瑛士は耳を赤くしていた。いや、しかし――初恋だって?? 「というより、ほ、……本気ですか」 「その時、俺はまだ4歳だった」 遠くを見るような目で、脩哉は言った。 「えらく、早いですね」 「そうかな。まぁ、そうかもしれない。相手は年上――いくつだろう。20は年が上だった」 「幼稚園の先生か、何かですか」 「まぁ、……それに近いな」 脩哉は天井を見上げ、しばらく、何かを思い出すような眼差しなっていた。 「素敵な人だった。大人で……優しくて……、なにより、俺のことをよく判ってくれた」 へぇ――。 「当時の俺には、その人と一緒にいるのが、一番楽しかった。忙しい人だから、滅多に遊んではくれなかったけど、俺はいつも……その人が来てくれるのを待っていた」 あの脩哉に、そんな人が。 意外といえば、とんでもなく意外だった。瑛士の知る限り、思春期までの脩哉は、むしろ自分に好意を持つ相手を、徹底的に遠ざけていたように思えたからだ。 その人のことを、ずっと好きだったのだろうか。と、ふと思った。だとしたら、香夜さんがあまりに憐れだ。 脩哉は続けた。 「俺は本気で、その人と結婚するつもりだったが、もちろん、子供の俺は相手にもされていなかった。それどころか、俺が5歳の時に、その人は結婚したんだ。しかも、俺の大ッ嫌いな、最低最悪な奴とな」 「…………」 そこが、女嫌いの原点なのだろうか。呟くように言った脩哉の横顔からぞっとするような冷たさがたちのぼる。が、それは掠めるように一瞬で消え、彼はひどく優しい――けれど寂しそうな目になった。 「その人は、今、どうしておられるのですか」 躊躇いがちに瑛士が聞くと、脩哉はあっさりと肩をすくめた。 「死んだよ」 「……そうなんですか」 いつ、どうやって、とは聞けなかった。今、生きていても40前だ。おそらくは早世したのだろう。 「人の命なんてもろいものだな。だけどそのおかげで、俺の中での初恋の人は、永遠に年をとらない」 そのまま、力なくソファに仰向けになった脩哉は眼をつむった。少しばかり、眠たそうな横顔だった。 つい、瑛士は聞いていた。 「香夜さんのことは、どう思っているんですか」 「香夜……」 絶対に怒られると思ったが、何故か脩哉は、不思議な目で空を見つめた。 「香夜は、この世界で、一番俺のことをよく判っている女だ」 「…………」 「ある意味、俺は香夜に依存しているし、あいつがいないと生きていけないのかもしれない」 「…………」 「そんなに、不思議なことを言ったか。俺は」 不意に脩哉がこちらを見たので、ぼんやりしていた瑛士は、急いでぶしつけだった視線を逸らした。 「いえ……なんだか、意外だったから」 「ふ……お前には、俺はどう映っているんだろうな」 脩哉は寂しげに微笑した。 「もう寝ろよ。高校生に、寝不足は罪だ」 「よく言いますね。こんなに飲ませて」 「お前が勝手に飲んだんだ。しかも、少しも酔ってない」 その通りだった。単に体質だけではなく、瑛士は自分の気持ちが、ある一点で冷静さを保っているのを知っている。 「瑛士、……俺とお前は、映し鏡だ。まるで対になった車輪のように、同じ速度で走り続けている」 「…………」 「……俺は、少し疲れたのかな。もう……お前の速さに、ついていけない」 「しっかりしてください」 瑛士は、目を閉じた脩哉に、脱いだ上着をかけてやった。 脩哉の呟きは、聞こえないふりでやりすごした。 というより、いくら酔っているとはいえ、そんな弱気な言葉は聞きたくなかった。 この人が俺の前からいなくなってしまえば、俺は――何を目標に、生きていけばいいんだろう。 「すぐに片倉を呼んできます。ここで寝ると、風邪をひきますよ」 もう脩哉は動かなかった。 珊瑚みたいな唇に、微かな笑みが浮かんでいる。 瑛士はその寝顔を、初めてこの屋敷に来た時と同じ思いで見つめていた。 そして初めて、彼に聞きたいと思っていた。 ずっと心に秘めていた謎――おそらく脩哉が、自分を憎むようになったきっかけの日のことを。 あの日――あの場所で、何故あなたは、泣いていたのですか。 「……おやすみ、脩哉」 瑛士は、不思議な温かさを感じながら呟いた。 その寝顔は、今でも瑛士の脳裏にはっきりと記憶されている。 翌朝、自室で発見された時も、脩哉はわずかに笑んでいたという話だった。まるで、幸福な夢でも見ているかのように――。 ************************* 「この子は、瑛士さんの子供よ」 長い丈のホームドレスは、見ようによってはマタニティドレスのようにも思えた。 ショールで覆われた腹部をそっと撫でながら、香夜は言った。 「誰がなんと言おうと、私だけは知っています。たとえ瑛士さんが認めなくて、私とこの子は、彼を父親だと信じ続けるわ。……この子を、父親に捨てられた可哀想な子供にはしたくないの」 言葉をきって果歩を見上げた香夜は、「わかるでしょう。的場さん」とでも言いたげな目色だった。 果歩は何も言えなかった。 恋の残酷な結末が――そこに至る選択肢が、今、果歩の目の前に開けている。 「父親に捨てられた可哀想な子供とはね、言いかえれば瑛士さん自身のことなのよ。可哀想な瑛士さんは、自分の父親が許せないと同時に、自分だけは、父親のようになりたくないと硬くなに思いこんでいるの」 果歩はただ黙っていた。 闇の中に、香夜が吐く息だけが白く滲んで消えて行く。 「今、瑛士さんは苦しんでいるわ。判るでしょう? 苦しめているのは、他の誰でもない、的場さんよ。言い方は残酷ですけど、的場さんさえ身を引いて下されば、全ては円満に解決するのよ」 「…………」 「的場さんさえいなくなれば、瑛士さんは、とても楽に生きて行くことができるわ……。そうは思わない?」 そうかもしれない。 いや、その通りだろう。 その父親が誰なのかという問題は ひとまず置いておいて、香夜と、香夜のお腹の子の将来が――果歩の選択にかかっているのだとしたら? 2人が不幸になると判っていて、それでも藤堂を奪うことが、果たして自分にできるのだろうか。 「――私……」 できない。 (どなた?) 8年前――恐ろしい勇気を振り絞って訪ねた彼のマンションから出てきたのは、和服姿の上品そうな女性だった。 その人が、彼の妻だとすぐに判った。 23歳の果歩は打ちのめされ、同時に激しく後悔した。 何故、こんな馬鹿な真似をしたのだろう。 何故、この部屋に彼の奥さんがいる可能性を、想像さえしていなかったんだろう。 新居が東京だと聞いていたから、灰谷市のマンションには、彼1人が仕事で戻っているものだと思っていた。訪ねて行けば、絶対に2人で会えると信じていた。だから――。 会ってどうしようというのではない。 ただ、本当の理由を、彼の口から聞きたかった。 聞かなければ、到底納得できそうもなかったからだ。彼が自分の意思に反して果歩と別れる理由はいくらでも思いついたし、実際そうとしか思えなかったからだ。 そして……まだ、間に合うなら。 まだ、2人でやり直すことができるなら。 その甘い、自分勝手な、あまりにも残酷な考えを、果歩は、玄関に出てきた人の不思議そうな表情で初めて思い知らされていた。 もう、雄一郎は果歩だけのものではない。 いや、もう果歩のものではない――目の前に立つ、この女性のものなのだ。 果歩がしようとしたことは、妻となった女性から、あざとくも夫を奪おうとしている行為なのだ。 雄一郎の妻になった人は、意外そうに、が、ひどく屈託なく果歩に笑いかけてくれた。 (雄一郎さんなら、今奥で着替えています。よろしければ、呼んでまいりましょうか) 妻になった初々しさや幸福が、たった一人でマンションを訪ねてきた女に対して、なにひとつ疑いを持たせなかったのだろうか。 (――いえ) 果歩は、うろたえながらあとずさった。 玄関に、彼の履いていた靴が見えた。きちんと並べて置いてあるその隣に、女性ものの靴が寄り添うように置いてある。 シューズケースの上には写真立て。結婚式の二次会のものらしい、二人の笑顔が並んでいる。果歩の、まるで知らない彼の笑顔。 今も、二人の会話は奥に届いていただろう。 いや、それ以前に、マンションのオートロックの段階で、果歩は自身の名を名乗り、お手伝いと思しき女性に、上に上がる許可をもらっている。 その段階で、部屋の主である雄一郎も、果歩が来たことを知っていたはずだったのだ。―― 彼はわざと、奥さんを対応に出させたのだ。 果歩に理解できたのは、それだけだった。 よろめくように後ずさりながら、ただ、無為に笑って果歩は言った。 ごめんなさい。私……ちょっとぼんやりしていたんです。特に用事はありません。失礼します。本当にごめんなさい。 走ってその場から逃げながら、涙があとからあとから頬を伝った。 初めて果歩は理解した。 もう、雄一郎は、他の人のものになってしまったのだ。 彼の心は完全に変わった。 もう――あの幸福も、優しさも、二度と――二度と戻っては来ないのだ。何をしても。 「……あの、私……」 果歩は、ようやく口を開いた。 現実の果歩の心を、今、8年前の果歩の心が支配している。 帰ります。 という言葉が、もう喉元まで出かけている。 もう二度と、あの時と同じ思いをするのは嫌だ。もう二度と――あんな辛い恋はしたくない。 唇を噛んで頭を下げようとした時――胸にひんやりとした感触が、掠めた。 ――指輪……。 ずっと首にかけていた、藤堂からもらったリングをからめたネックレス。 何故かその冷たさが、それまで何も感じなかった果歩の胸に、深く鋭く突き刺さる。 「諦めて、的場さん」 香夜の、振り絞るような声がした。 顔をあげた果歩は、息を飲んでいた。香夜の双眸は、美しい涙で濡れている。 「私と子供のために、彼のことは諦めて……。このままあなたが去ってくれれば、瑛士さんは間違いなくあなたと別れます。だからお願い、このまま何も言わずに、灰谷市に帰ってください……!」 |
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