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年下の上司 story17〜After February@

彼の何もかもを(2)

 
 
「的場さん、お客さんみたいだけど」
 カウンターに立つ大河内主査がそう言ったので、果歩は卓上のパソコンt画面から顔を上げた。
 そして、ぎょっと目を見開いていた。
「果歩」
 カウンターの向こうから、控え目に手を振っている、ベージュのウールコート姿の女性は――
「お母さん?」
「ごめん、来ちゃった」
 来ちゃったとか。そんな、彼氏の家に突然押しかけた彼女みたいな言い方をされても。
「どうしたのよ。電話じゃ、5時過ぎに役所の前で待ち合わせしようって」
 果歩は声をひそめながら、急いでカウンターの外に出る。そのまま、母の腕を引いて外に出ようとすると、不意に母の目が輝いた。
「まぁ、藤堂さん!」
「いつもお世話になっております」
 何時の間に席を立ったのか、藤堂がカウンターの手前にまで出てきてくれていた。
 ――藤堂さん……。
 こんな場合なのに、果歩はほっと心が温かくなるのを感じていた。
 月曜以来、週末のドラマチックな出来事などあたかも最初からなかったかのように、単なる上司の顔になっていた藤堂が、久々にプライベートな顔を見せてくれた……そんな気がしたからだ。
 先日の謝罪もかねてか、藤堂は少しばかり表情を硬くして、丁寧に頭を下げた。
「……いつも、的場さんには大変お世話になっております。今、あいにく課長が席空けでして、僕が代わってご挨拶させていただきます」
 上司が、部下の母親に挨拶する。
 藤堂の振る舞いは、果歩の母親の顔も立て、なおかつ課内の誰にも不信感を与えないという、極めて見事なものだったが――
「ほんと、この間はごめんなさいね。私も主人も大人げないというか、一方的に藤堂さんばかり責めちゃって」
 ――お、お母さん??
 果歩は、愕然として母を見た。
 決して大きくはないが、さりとて小声でもない母の声は、多分総務課全員の耳に入っている。
「い、いえ……それは」
 さしもの藤堂の微笑も、心なしか強張って見える。
 が、そんな恋人2人の心の衝撃など一切構わない傍若無人さで、母は続けた。
「また、ぜひ家の方にも来てくださいね。主人ももう、判ってくれていますから。美玲なんてもう、すっかり藤堂さんのファンになっちゃって!」
 総務課は、水を打ったように静まりかえっている。
 果歩と藤堂は、多分2人とも、表情をフリーズさせている。
 数秒、恐ろしいほどの沈黙があった。
「は、……はい」
 観念した人のように、藤堂は深く頷いた。
「わかりました。また、お邪魔させていただきます」
 ほっほう、ひゅーっ、やっふー。
 と、背後で高校生みたいな冷やかしを飛ばしてくれたのは、中津川と南原と、ここ数日やけくそ気味で仕事をしていた水原である。
「まさか、2組目のカップルの誕生か?」
「ご祝儀、嵩むなぁ。母ちゃんに小遣いもらわないと」
 果歩が母の腕を引いて、執務室から引っ張り出したのはその直後であった。
「――お、お母さん、何やらかしてくれたのよ!」
「あら、何かまずいことでも言った?」
 人気のないエレベーターホール。
 動顛している果歩とは対照的に、母は平然と肩をそびやかしている。
「自分の家に泊らせるくらいだから、当然、結婚を前提にしたおつきあいをしてるんでしょう? 3月であんたも異動なんだし、今さら、隠す必要ないじゃない」
 …………確信犯だ。
 元々国家公務員だった母親は、お役所の掟ならだいたいのことは知っている。
 那賀局長の退職と同時に果歩がこの職場を去ることも、そうなってしまえば、藤堂との仲を隠す必要がなくなることも、この母はよく知っているのだ。
 それにしても――
「ま、まだ私たち、そんな……」
「そんな段階でもない彼女を、普通、自分の家に泊らせたりはしないでしょう」
 にっこり笑った母の眼は、しかしわずかも笑っていなかった。
「この程度のことで、藤堂君が怒って文句言ってくるのなら、お母さん、そんな人とのおつきあいは絶対に許しませんからね」
 ああ……。
 果歩は頭を抱えて、首を振った。
 昼の電話で、いきなり役所の近くで会えないか、と言われた時から、藤堂絡みの話だとは思っていたが、まさか、こんな手で報復に来られようとは――
 本当に藤堂さんに申し訳ない。彼は今、執務室でどんな目にあっているのだろう。
「あのね。普通に考えて、そのくらい大胆なことを藤堂君はやったのよ。あんたは嫁入り前で、しかももう31、遊びで恋愛できる年でもないでしょうに」
「まぁ、それはそうなんだけど」
「見た感じ、地味にもてそうな人だし。果歩より若いだけにお母さんだって不安なのよ。こういう時はね、早い段階で自分のものだって、周囲に宣言しておかないと」
 ――お……お母さん……。
 なぜだろう。母の顔に、昼間のりょうと流奈の顔がかぶさって見えるのは。
 うん、まぁ、それは確かに、お母さんの言う通りなんですけれど。
 でもね。信じてもらえないかもしれないけど、31にもなった私と藤堂さん――彼はまだ27だけど、本当に清らかなおつきあいをしている段階なんですよ。マジな話。 
「はい、これ」
 気がつけば、母が目の前に大きな風呂敷包みを差しだしている。
「……え、何、それ」
「魚や野菜の煮物やら、その他色々。昨日届いた食材で今日作ったから。藤堂君に食べさせてあげて」 
 ――え……
「藤堂さんのお母様から届いたのよ。それで私もお父さんも、ようやく許そうって気になったわけ。読む? 手紙」
「…………」
 藤堂さんの、お母様が……。
 果歩は、半ば夢でも見るような気持ちで、母から手渡された手紙を開いた。
 うわっ、と、思わず目を背けたくなるほど素晴らしい達筆――予想していたが、見事な毛筆で、その手紙は綴られていた。
 
 さて、先日、御縁があって、そちらさまのお嬢様をお預かりさせていただいたのですが、その折の事情を打ち明けますと、当夜、息子は著しく体調を崩し、そちらさまのお嬢様に介抱いただいたという次第なのでございます。
 大切なお嬢様を当方の勝手でお引き留めしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
 この件に関しましては、後日あらためてご挨拶とお礼に伺いたいと――

 
 ――お母様……。
 果歩は、じん、と目の奥が熱くなっていた。
 まさか、こんなフォローをしてくださっていたなんて。
 最後の日、あてつけみたいにすごい料理を出された時、少しばかり卑屈になった自分がなんだか恥かしい。
 が、見上げた母の目は、場違いに冷めていた。
「ま、続きを読んでみて」
「……? え、うん」
 果歩は、手紙を1枚めくった。
 
 お送りしましたのは、息子、瑛士の好物でございます。
 私が料理人などをしておりますばかりに、息子が思わぬ美食家になったのが、果歩さんに申し訳ないとでも言いましょうか……。
 お仕事がら、なかなか、思うようにいかないのでしょうが、やはり女性というのは、料理がつくれてこそ一人前。私が果歩さんの傍についておりましたら、厳しく仕込んだのでしょうけれど、そういうわけにもいきません。
 果歩さんが、少しでも息子の好物を覚えて下さったらと、――そんなおせっかいな老婆心もありまして、ついつい買い込んでしまった食材とレシピをお送りいたします。

 
「それが、とんでもなく複雑で手の込んだものなの。なに、これ、挑戦状? みたいな」
 冷やかな声で、母は続けた。
「果歩には、まず作れないものばかりだったから、全部お母さんが作りました。それ、藤堂さんの口にねじこんでやって。どうよ! って」
「……え……」
 お、お母さん?
 まさか、本人同士がちっとも進展してないのに、的場家と藤堂家では、早くも姑同士の微妙なパトルが始まりかけてる?
 気、気が早すぎるよ。2人とも。まだ私たちそんな段階じゃ――
「藤堂係長は、やっぱり的場さんが本命だったか」
「すでに家族ぐるみでつきあっているとは、意外だったね。百瀬さんはなんだったのかなぁ」
 隅でこそこそ話す果歩と母の背後を、それと気づかない都市計画局の誰かが呑気に喋りながら通り過ぎていく。 
「そんなわけだから」
 母は、話を切り上げるように、果歩に包みを押しつけた。
「今夜は、藤堂君と2人で、それ食べて帰りなさい。少しくらいならいいけど、あまり遅くはならないようにね。お父さんが苛々するだろうから」
 ――え……
 それだけ言うと、母はすたすたとエレベーターの方に歩きだした。
「早く執務室に戻りなさい。仕事中なんでしょ」
「う、うん」
 いいの?
 よく判らないけど、それ……
 お父さんも認めてくれたって、ことだよね。
 嘘みたい。日曜はあれだけ怒って、絶対に許さないみたいなことを言っていたのに。
 不思議な温かさを抱いたまま、果歩は母を乗せたエレベーターが下りていくのを見送った。
 これも、りょうのおかげかな。
 それと、藤堂さんのお母様の。
 抱きしめると、まだ風呂敷包みは、少しばかり温かかった。
 沢山の人が、こうして背中を押してくれる。
 ――そうだな。
 彼を覆う分厚いキャベツ。少しは私も、剥がす努力をしないとな――
 
 *************************
                
「本当によかったんですか」
「ええ」
 果歩は、少し申し訳ない気持ちで、藤堂の後をついて階段を上がった。
 彼が1人住んでいる賃貸マンション。
 部屋にお邪魔するのは、これで2度目――。いや、流奈と鉢合わせになった時を数えれば、3度目だ。
「もしかして、何か、ご用があったんじゃ」
「いえ、丁度よかった。的場さんも一緒の方が楽しいと思いますし」
 ――ん?
 果歩は眉を寄せていた。その言い方、もしかして今夜は他の来客の予定があった?
 夕方、果歩がこっそり、藤堂に今夜の予定をきいたところ、確かに彼は、少し言葉に窮していた。
(――そうですね。……どうするかな)
 そして数秒迷った後、(分かりました。じゃあ一緒に帰りましょうか。6時にいつもの場所で待っていてください)
 と、言ってくれたのだ。
 その時も、先約があったのかな、と少し申し訳なく思っていたのだが――
「あの、私がいて、本当に大丈夫なんですか」
「ええ」
 先に室内に入った藤堂が部屋の灯りをつけた。果歩は、あっと叫んでいる。
 以前は、小さなテーブルと椅子がひとつきりしかなかったダイニングに、4人掛けのダイニングテーブルが置かれている。
「これ、買われたんですか?」
「ええ、昨日早く帰って、安売りの家具屋で買いそろえてきました。すごくいいタイミングでしたね」
 にっこりと藤堂は笑い、コートを脱いでハンガーにかけた。
「はぁ……」
 いいタイミング、ねぇ。
 まぁ確かに食事をするのに、椅子がひとつじゃどうしようもないけれど。
 果歩もコートを脱ぎ、それを藤堂に手渡した。その刹那、ふと2人の視線に役所とは違う空気が流れた気がしたが、藤堂はあっさりとその表情を顔から消した。
 多分、ちらっと外れかけたキャベツが、また元通りに巻きなおされたのだと、果歩は思った。
 一分の隙さえ、こんな風に自分で消してしまうのだから、まことにもって難攻不落だ、この厚巻きのロールキャベツは。
「じゃあ、昨日はそれで早く帰宅されたんですか?」
「ええ」
 藤堂は手早く手を洗うと、果歩の方を振り返った。
「実は今夜、2人ほどお客様が来られるんです」
「そうだったんですか」
 それは、なんというか……いいタイミングというか、悪いタイミングというか。
 藤堂の態度がずっとあっさりしていたから、そういう意味では、期待薄だな、とは思っていたけれど。
 そっか。2人きりにはなれないのか。
「藤堂さんの、お友達ですか」
「ええ」
 果歩の微妙ながっかり感を他所に、藤堂は袖をまくって、皿やカップなどを出し始めた。
「3人で食事でも――という話にはなったんですが、正直、どうもてなしていいか判らなかったので、昨日からずっと悩んでいたんです。助かりましたよ」
 ポットに水を入れ、スイッチを点ける。すでに藤堂は役所の給湯室と同じ顔になっている。
 果歩もまた、帰りしなにコンピニで買ったエプロンをつけ、母の手料理を温め直す作業に入った。
 まぁ、いいか。こんなことでもなければ、私を部屋に上げさえしなかったような気もするし。
 鍋に中華風スープを移していると、藤堂が上から、驚いた風に見下ろしてきた。
「フカヒレですか。なんだか、どれも、すごく手の込んだ珍しい料理ですね。的場さんのお母さんは、料理がお好きなんですか」
「まぁ……好きなほうじゃないですか?」
 藤堂が美食家なわけがないと知っている果歩は、曖昧に誤魔化して微笑んだ。
「藤堂さんは、何が好物なんですか」
「僕は、なんでも食べますよ」
 だよね。やっぱり。
「……? 何がおかしいんですか」
「いいえ。なんでもありません」
 それでも、こみあげる笑みを噛み殺しながら、果歩は温めた料理を皿に盛りつけた。
 うん、思ったより悪くないぞ。今夜のこのシチュエーション。
 なんだか、想像以上に楽しいじゃない。
「藤堂さん、グラスは4つでいいですか」
「はい、お願いします」
 なんだか2人で共同作業、みたいな。
 もし――もしだけど、結婚したら、こんな風に時々友達を家に招いて、お食事会とかできたらいいな。
 今は夢でしかないけれど、想像するだけで、すごく幸福な気持ちになる……。
「ちなみに、どういったお友達なんですか」
 ふと、手を止めて果歩が訊くと、
「来られてからの、お楽しみですよ」
 藤堂はいたずらっぽく微笑した。

 *************************
 
「てか、なんで的場さんがいるんだよ」
「私だって、南原さんが来ると知っていたら……」
 という、お互いのモノローグが手に取るようである。
 果歩と南原が、向かい合って座りながらも、一度も目をあわさないという状況下で、乃々子と藤堂は、和気あいあいと語りあっているようだった。
「本当に藤堂さんには……私、なんて言って謝ったらいいのか」
「いや、僕が悪かったんですよ。あまり事態を深読みせずに、はっきりと否定すべきだった。色んな噂がありますが、あまり気になさらないようにしてください」
「ええ、平気です。私の周囲の人たちは、みなさん、信じてくださってますし」
「それは、よかった」
「それより、今日は藤堂さんと的場さんのことで、局内の噂はもちきりでしたよ。うふふ」
「は、はは」
 と、そこは、ひきつった笑いを浮かべている藤堂である。乃々子も乃々子で、なんだか強張った笑いでそれに追従しているし――
 果歩は、少し呆れた気持ちで、そんな藤堂と乃々子を見ていた。
 てか、さっきから2人ばかりで喋ってない?
「あ、百瀬さん。先日ドリュッセン監督の最新作が公開されましたけど、ご覧になられましたか」
「ああ、あれですよね。近未来のインドって設定が、すごく興味深いですよね。藤堂さん、観に行かれるんですか」
「時間があれば、とは思っているのですが」
 なんなの、一体。
 果歩は、少しばかりやさぐれた気持ちで、グラスの冷茶を飲み干した。
 言っては悪いが、都市計画局中にとんでもない嵐を巻き起こした乃々子と南原である(半分以上は水原のせいと言ってもいいが)。
 こうやって揃って藤堂の家に来た目的は、間違いなく謝罪をするためだろう。
 が、肝心の南原は不機嫌そうに箸を動かし、乃々子は妙なテンションで藤堂にばかり話しかけている。
「あ、お皿、そろそろ新しいの、出しません?」
「あ、そうですね。じゃあ僕が」
「いえ、私が」
 言っておくが、果歩と藤堂の会話ではない。乃々子と藤堂の会話である。
 なんなの? 一体?
 これじゃ、どっちがカップルだか判らないじゃない。
「わぁ、素敵な食器ですね。これって、もしかして的場さんが?」
「いえ、僕が適当に買いそろえたんですよ」
「そうなんですかー」
「的場さん」
 いきなり2人の会話に、暗い声が割って入った。乃々子と藤堂の会話に意識を集中させていた果歩は、ぎょっとして、声のした方に視線を向ける。
 南原であった。
「な、……なに?」
「今夜は、藤堂さんに呼ばれたの」
 うつむいて箸を動かしながら、聞きとれるぎりぎりくらいの小声で、南原が言った。
「う、ううん。……私もたまたま用事があって、そしたら」
「……そ」
 それきり、再び南原は黙り込む。
 仕事帰りそのままの姿に、寝ぐせで襟足あたりが跳ねた髪。
 職場とは違う場所で見るせいか、いつもえらそうにふんぞり返っている南原が、なんだかえらく心細げに見える。
「食器、もう洗っちゃいましょうか」
「いえ、それは僕がやりますから」
「いえ、私が」
 もちろん、これも果歩と藤堂の会話ではない。
 ――そっか。
 果歩はようやく、この異常な雰囲気の理由に気がついた。
 多分、というか間違いなく、果歩をのぞいた3人は、この空気が気まずいのだ。話の切り口が判らないままに、南原が口火を切るのを待っている――
 藤堂にしても、乃々子にしても、沈黙が続くのが怖くて、無理な会話を繋いでいるに違いない。
 それと判ってしまえば、なんとまぁ……
 果歩は呆れて溜息をついた。
 南原さんと乃々子はともかく、藤堂さんまで、なんて子供みたいな馬鹿な真似を。
「藤堂さん、そういえば、飲み物が切れてたんじゃないですか」
 果歩は、立ちあがっていた。
「え……?」
「私と乃々子で、ちょっと外に買いに行ってきます。ノンアルのカクテルとか。それだったら、乃々子も飲めるでしょ」
「あ、はい」
 救われた人のように、乃々子が頷く。
 こういう場合、男2人にしてあげなきゃ。
 藤堂さんには心外だろうけど、多分南原さんは、少しばかりのわだかまりを抱いているはずだ。
 だって、誰の眼からみても、乃々子は藤堂さんが好きだったし、実際、同い年の2人は、羨ましいほど仲がよかった。
 そういうのも含めて、一度、じっくり話した方がいいんだろうな。
 


                             
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