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年下の上司 story17〜After February@

彼の何もかもを(最終話)

 
 
「――藤堂さん?」
 布巾を干してから振り返ると、藤堂はぼんやりとテーブルに手を置いて立っている。
 果歩は訝しく瞬きをした。
「どうされたんです? お疲れですか」
「あ、いえ」
 現実に立ち戻ったように苦笑すると、藤堂は、果歩のコートをハンガーから取ってくれた。
「不思議だな、と思って」
「不思議って?」
 コートを受け取った果歩は、帰る時間が、もう目の前に迫っていることに気がついた。
 そうか。もう夜の9時だ。さすがに帰宅しないと、またぞろ、父にどんな厭味を言われるか判らない。
「この部屋に越してきた時は、まさか、客を招くようなことになるとは、想像してもいなかったから」
 自らもコートに袖を通しながら、藤堂は言った。
「そうなん、ですか」
 それには、少しばかりの不思議を感じて、果歩は首をかしげていた。
 最近の男の人ってそういうものだろうか。極度の人嫌いならともかく、恋人や友達を部屋にあげることくらい、当たり前に想定してもいいような気がするけど。
「藤堂さん、人気者なのに……。家に遊びに来たいって人、沢山いると思いますよ」
 笑顔でそう言いながら、ひとつしかなかった椅子のことを、果歩はふと思い出していた。
 そうだ。彼は本当に想像してもいなかった。だからこそ、椅子はひとつだったのだ。
「的場さんがいてくれたおかげかな。すごく、楽しい時間でしたね」
 こちらを見る藤堂の目が優しかったから、果歩もまた、再び優しい気持ちになって頷いた。
「そうですね。本当に楽しかったです」
 そう。本当に、夢みたいに幸福な時間だった。
 私と藤堂さん。乃々子と南原さん。そこに、りょうとか流奈とか――まぁ。どんな配偶者を見つけるかは判らないけど、そんな風に、色んな人が増えていったら、どんなに楽しいだろう。
「ふ、2人に、なったら」
 少し――いや、かなりの勇気を振り絞って、果歩は藤堂の眼を見ないままで、言った。
「もう少し広い部屋に引っ越した方が、いいですね」
 ――言った。
 いきなり、胸がドキドキいいはじめた。
 言っちゃったよ。これって、キャベツの皮を剥くだけに飽き足らず、最早、逆プロポーズの域に入ってるかしら。
 乃々子の積極性に当てられたせいもあるけど、結婚の話さえ出ていないのに、ちょっと性急すぎたかもしれない。もしかして、どん引きされるかも――
「そうですね」
 が、藤堂はあっさりと答えて、果歩の方を振り返った。
「じゃ、そろそろ帰りましょうか。家まで、車で送りますよ」
 え……。
 果歩は、しばし唖然として瞬きをした。
 これだけ?
 なに、この全く動じないポーカーフェイスは。
「よろしければ、ご自宅に電話を入れておいてもらってもいいですか。できれば、ご挨拶とお礼をして帰りたいですし」
「…………」
「的場さん?」
 そうか。忘れてた、この鈍さが藤堂さんの真骨頂だった。婉曲な言葉じゃ、この朴念仁には何ひとつ届かないに違いない。
 そう、ここはひとつ、私も思いきって、――やや肉食的な自分になるのよ!
 うつむいたまま、藤堂の傍に歩み寄った果歩は、そのまま、目をつむるようにして彼の身体に抱きついた。
「――?」
 と、おそらく相当驚いている藤堂が、わずかに声をあげるのが判る。
 果歩にしても、これからどうしていいか判らなかった。
 彼にその気がないことは判っている。が、ここで拒否されてしまったら、とんでもなく恥かしいことだけは確かである。
 しばらく固まったようにそうしていた果歩の背に、やがて藤堂の腕が回された。
 ――よかった……。
 自分からキス2回とか。この状況でそこまで積極的にはなれないけど、せっかくの2人きりだもん。この程度にはラブラブしたい。
「……畳みかけてくるなぁ」
「え?」
 果歩が顔を上げると、藤堂はわずかに苦笑した。
「いえ、独り言です」
「……?」
「的場さんが鈍いから、少し腹が立ってきた」
「え、に、鈍いですか? 私が?」
「今、キスしたら、もう戻れなくなりそうなので」
「…………」
 胸の中深くに抱きしめられて、果歩は言葉をなくしている。
「……4月まで……、僕が、馬鹿なのかもしれないですね。正直、今も、頭がおかしくなりそうです」
 え、なに、なんで……?
 さっきまで平然としていて、私の決死の言葉さえ、眉ひとつ動かさないで聞いていたくせに。どうして……?
 ――藤堂さん……。
 次第に、理由の判らない申し訳なさで、果歩は胸が一杯になる。
 果歩はうつむいて、藤堂の胸をそっと押し戻した。
「ごめんなさい。……私が、無神経でした」
「いえ。僕が勝手に決めていることですから」
「でも……」
 藤堂さんには、藤堂さんの思いがあり、ペースがあるのに。それを私が――他人に触発されて、思いっ切り乱してしまった。
「もう少し、……2人でいてもいいですか」
 藤堂が囁いてくれたので、果歩は少し驚いて顔を上げた。
「いいんですか?」
「僕が訊いていることなのに」
「…………」
 果歩が呆けたように見上げていると、藤堂は、果歩の手を引いて、部屋の方を振り返った。
「2人掛けのソファを買うべきでしたね」
「この部屋の、一体どこに置くんですか」
 くすっと、思わず果歩は笑っている。ひどく狭い部屋は、テーブルだけで、動く間もないほどなのに。
「……広い部屋に、引っ越さないと、それは無理かな」
 藤堂が、ずっと締めきってあった引き戸を開けた。
 そこには、部屋の半分を占めるベッドと、クローゼットが置かれている。
 果歩は胸が不意に締めつけられるのを感じていた。
「……大丈夫……」
 抱きしめられたまま、果歩は藤堂に覆い被さられるようにベッドの上に仰向けになっていた。 
「藤堂さん……」
「……大丈夫、何も、しない」
 それが、むしろ自分に言い聞かせているように聞こえて、果歩は余計に胸が切なくなっている。
「……このまま……もう少し……」
 ――藤堂さん……。
 首筋から、彼の鼓動が聞こえてくる。熱い身体。強い鼓動。
 こうやって、あと何回、この人の鼓動を聞くことになるのかな、私。
 何回でも、ずっと――彼が最後の息を吐く時まで、私が傍にいてあげることができるのかな。
 果歩は目を閉じ、藤堂の背に両腕を回した。
 ――好き……。
「藤堂さん、大好き……」
 その刹那、藤堂の身体が少し強張るのが判った。
 が、彼はすぐに、苦笑交じりの顔を上げる。
「本当に的場さんは、誘い上手ですね」
「は? な、なんですか。それは」
「言いかえれば、無神経、という意味ですよ」
「もうっ、ひどいっ」
 笑いながら身体を離し、2人は仰向けになったままで手を繋いだ。
 そのまま黙って、天井を見つめる。互いの指が繋がっているだけで、もう、言葉は何もいらないような気がした。
 4月まで、あとたったの1ヶ月。
 どうか何事もおこりませんように。4月目前で交通事故とか、そんな漫画みたいなオチが待っていませんように。
 ――神様。
 その時は、彼の何もかもを、私にください。
 もう二度と、好きな人と離れなくてもいいように――
 


                             彼の何もかもを(終)
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