――足音が、近づいてくる。 「おはようございます。藤堂さん」 藤堂は数度瞬きをした。 「やだ、まだ寝ぼけてるんですか。もう朝の7時ですよ」 それでもまだ呆けている藤堂の唇の端に、半身を起こしたその人は、軽くキスをしてくれた。 その刹那、落ちた髪が頬に触れ、甘い匂いが藤堂を包みこんだ。 「先に起きますね。食事の支度、しておきますから」 ――的場さん……。 密接していたぬくもりが消えて、朝の日差しが差し込むベッドの上で、藤堂は一人きりになっている。 ――なるほど。 天井を見つめながら、藤堂は思った。 隣の部屋からは、軽やかな足音と、小さな鼻歌が聞こえてくる。 そこに、包丁がまな板を叩く音が交じり、バターの焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。 ――これは夢だ。 もう何度見たかしれない、幸福な朝の情景。 こんな風に、夢を見ながらそれを夢と認識できるのが、藤堂の昔からの癖のようなものだった。実際、あり得ないのだから、夢と判断するしかないのだが。 日差しに包まれた明るい食卓には、トースト、サラダ、ベーコンとオムレツが並んでいる。 ただしサラダ以外は、1人分しかない。 「的場さんは?」 「え、わ、私はサラダだけですよ? 朝はいつも、そうしてるじゃないですか」 ――……妙にリアルだな。今日の夢は。 席について向かい合い、2人は少し遅めの朝食を取った。 仕事は、きっと休みなんだろう。 藤堂さん、的場さんと他人行儀に呼び合う2人が一体どういう関係なのか、藤堂は考えないことにした。 やがて食事が終わると、果歩は「コーヒー淹れますね」と言って立ちあがった。 「せっかくのお休みだから、どこかに出かけません? 10時までには家のこと全部終わらせますから、藤堂さん、お部屋で休んでてくださいよ」 「僕もやりますよ」 「だって、遠くに出かけたいから」 後ろ向きになって、コーヒーを淹れながら、楽しそうに果歩は言った。 「藤堂さんには運転してもらわないといけないから。だから今は、休んでてください」 ――遠く……。 「どこに、行くつもりなんですか」 差し出されたコーヒーカップを受け取ってそう訊くと、果歩は楽しそうに笑った。 「さぁ? でも、行く場所は、もう決まっているような気がするんです」 空いた皿を手早くトレーに載せて、再び藤堂に背を向ける。 「だって、藤堂さんが連れて行ってくれるんでしょう?」 「そうでしたね」 言われていることはよく判らないのに、何故か忘れていたことに気がついたように、藤堂は頷いていた。 ――ああ、そうだった。 すっかり忘れていたけど、その時が来たんだな。 果歩は再び鼻歌を歌いながら、食事の後片付けをし始めた。 「あ、新聞、そこに置いてありますから」 「ありがとう」 広げた新聞の日付を見るのが何故か嫌で、そこから意識的に視線を逸らしたまま、無為に新聞のページを捲る。 総理、有言不実行。 大きな見出しは、政府の無策ぶり、マニフェスト違反をこれでもかとばかりに責め立てている記事のタイトルだ。 総理、有言不実行。 藤堂は新聞を閉じて押しやった。 ――僕は、君を見ていたい。 頬杖をつき、キッチンで皿を洗っている人に視線を向ける。 口角の上がった上機嫌な唇。その唇が口ずさんでいるのは、随分昔のヒットソングだ。 髪はひとつに束ね、右の肩に流している。小さな小花を散りばめたローズダストのエプロン。スポンジの泡が、ほつれた髪にくっついている。 ――僕は、君を、見ていたい。 この部屋から一歩も出ずに。朝も昼も夜も、飽きることなく。 「ちょ、……藤堂さん、ダメですよ」 藤堂の腕の中で、果歩はくすぐったそうに身をよじらせた。 「どうして?」 「だって、これから外に出掛けるのに」 僕は、どこにも行きたくないのに。 この世界から一歩も出ずに、この小さな幸福の中で、ずっと君を抱きしめていたいのに。 ふざけるように身体を反らしながら、果歩は泡のついた手で藤堂の胸を押しやった。 「それに、これは藤堂さんが言い出したことじゃないですか」 ――僕が? 真っ直ぐな目が、下から藤堂を見上げている。 「自分が決めたことは、ちゃんと守ってくださいね」 有言不実行。 何故かその言葉が胸をよぎる。 果歩は、夢見るような目になって微笑んだ。 「さぁ、そろそろこの部屋を出て、私を連れて行って下さい。遠くに。私の戻るべき場所に」 「…………」 君の、戻るべき場所。 それは――その場所は。…… 足音が、近づいている。 その音は、過去からそっと忍び寄ってきて、いきなり、僕の腕を掴んで言う。 「瑛士――」 ************************* 「瑛士さん」 驚いて振り返ると、思わぬ人が、藤堂の背後に立っていた。 「お久しぶり。どうしたんですかー、そんな驚いた眼をしちゃって」 にこやかに笑む女は、襟を立てた白いシャツに黒のタイトスカート。ヒールのせいか目線は高く、気どったように顎を上げて、藤堂を見上げている。 入江耀子。 本省、霞ヶ関から人事交流で市役所に派遣されている女は、今は議会事務局の秘書課に勤務していた。 「藤堂瑛士。下の名前、どこかで聞いたような記憶があったんですよねー」 議会棟。ここは耀子のテリトリーでもある。那賀局長と共に議会事務局長室に赴く予定だった藤堂は、小さく頭を下げて、会釈した。 その那賀は、今は、トイレに入っている。 「適当に流さずに、ちゃんと思い出しておけばよかったな。ふふ、なんだか運命的じゃないですか。子供の頃に会った相手と、こんな場所で再会するなんて」 にこやかに笑んで、入江耀子は藤堂の隣に並び立った。 今日は火曜日。確かにある種運命的な状況で、耀子と藤堂は、先週の土曜日に実家で顔を合わせている。互いに、今とは別人のような姿で。 「生憎、僕は運命をまるで信じていないので」 「現実主義者、というわけですか。それが三角関係の果てにふられたってオチなんて、ちょっと情けなさすぎると思いません? 二宮家の跡取りともあろうお方が」 「…………」 入江耀子の眼が、面白そうに光っている。 答えずに、藤堂はわずかに笑んだ。 全く、役所人の口さがのなさというのは――それとも、これが灰谷市のお国柄なのだろうか。自分が休んでいた数日、一体どういう風に噂が一人歩きしたのかは知らないが、とんでもない風評が出回ってしまったものだ。 「僕は、無関係ですよ」 「でしょうね。でも、周りはそうは思っていませんよ。同じ局の女の子に二股かけられた挙句、部下に負けちゃった、みたいな? てっきりそのお相手、的場さんだと思っていたけど、違ったんですね」 「失礼します」 腕時計にちらっと視線を向けて、藤堂は再度会釈した。 那賀を待つより、先に出向いて書類を手渡した方がよさそうだ。 どうせ那賀は、こういう時、へらへら笑うばかりで、何ひとつ口を挟もうとはしないのだから―― 「あ、藤堂係長」 歩き出すと、わざとらしく職名をつけて呼び、入江耀子が追いかけてきた。 「そういえば、お聞きしたいことがあったんですよ。土曜日に久しぶりに昔のことを思い出して、それでふと気がついたんですけど」 「はい?」 「藤堂係長って、真鍋市長とはどういうご関係なんですか」 「…………」 黙って振り返ると、入江耀子は含んだような目で笑った。 「再来月は、いよいよ市長選ですね」 視線で続きを促すと、耀子は確信を得たように微笑した。 「ご存じです? 市長選の告示は来月の中旬ですけど、4期目確実と言われている真鍋市長に、今回、強力な対抗馬が出てくるって話」 ************************* 「藤堂君?」 ぼんやりしていた藤堂は、掛けられた声にはっとして顔をあげた。 「すみません。なんでしょう」 対面では、春日次長が険しい目になっている。 「3度名前を呼んだが、上の空というやつかね」 「……申し訳ありません。少し、別のことを考えていたものですから」 「疲れているのではないのかね」 都市計画局次長室。 春日は、書類をテーブルに置いて立ちあがった。 藤堂もまた、恐縮して立ちあがる。 「休み続きで随分仕事を滞らせていたようだが、今日には全部流れてきた。昨日は遅くまで頑張ったのだろう」 が、かけられたのは、思いの外優しい言葉だった。 「……僕の勝手で、皆さんにご迷惑をおかけしてしまったので」 「今夜は早く帰りなさい。これは上司命令だ。来週からは議会に向けて忙しくなる。それに」 そこで言葉を切り、何か苦いものでも飲み込むように、春日は低く呟いた。 「4月はいよいよ市長選だ。新体制になれば、おそらくは今までの何もかもが逆転する。大変な時代がくるぞ」 藤堂は、机の上に広げた書類をまとめ、頭を下げた。 「どうなってもいいよう、準備はつつがなく進めています」 「君は、どうする」 ふりかえって見た春日の眼が、わずかにすがまった。 「いつまで市に残るつもりだ。君ならもっといい条件で、仕事ができる場所はいくらでもあるだろう」 「…………」 「短い間だったが、君と一緒に仕事ができてよかったと思っている。いや、まだ早いな。こんな話は」 「ええ」 藤堂は微笑した。 「早すぎです。まだ来年度の体制も決まっていないのに」 藤堂は一礼して、背を向けた。 「仕事ではない。これは私の――個人の興味の域、なのだが」 春日の声に、藤堂は足を止めて振り返る。 「局内に広がった噂は、君の耳にも入っているだろう。それは君の撒いた種でもあるから君自身でなんとかしたまえ。的場君とは、これからどうしていくつもりなのかね」 前半は、ドロドロの三角関係が取り沙汰された百瀬乃々子と南原と自分のことであり、全くの誤解である以上、後段とはまるで関係のない話である。 が、そんな風に、何かのついでにしか本題を切り出せない春日の不器用さが、藤堂は本質的に好きだった。 咳払いをして、春日は続けた。 「君も知っての通り、的場君は私を嫌っている。その理由を?」 「聞いてはいません。でも、何か誤解があったことは、想像がついています」 春日はあるかなきかのため息をついた。 「……8年も前のことだ。私はある事情から――それは決して君には言えんが、急きょ彼女を足止めしなければならない羽目に陥った。同時にそれは、この市に潜む思わぬ暗部を知った時でもある」 藤堂は黙って聞いていた。 2人が同じ局にいたのが、8年前。春日は総務局庶務係の課長補佐で、的場果歩は同局の秘書課で市長秘書をしていた。 「今ならもう少し利口なやり方があったと分かるが、当時は……そうだな。私もひどく動揺していたし、考える時間は殆どなかった。――稚拙な真似をしたものだ。あの時彼女が騒ぎ立てていれば、……きっと私には、今でもおかしなレッテルがついて回っていただろう」 春日は、苦く笑って視線を逸らした。 「君の耳に入っていれば、少しばかり気まずいことになっていたかもしれないぞ」 「彼女は、人の恥を言うような人ではないですよ」 藤堂は苦笑した。 「それに今は、それほど次長を苦手に思っているわけではないと思います。あの人はお人好しで、単純で、ひどく優しいところのある人ですから」 そう――、時にその優しさが、腹立たしくなるほどに。 次長室を出ると、その当の本人が、険しい目をしてパソコンを睨みつけていた。 「どうされました?」 「あ、藤堂さん」 藤堂が声をかけると、救われた人のように果歩は顔を上げた。 「実は……、さっきからパソコンがネットに繋がらなくなったんです。席を開けて戻って来るまでは、普通に繋がっていたんですけど」 画面には、エラー表示が点滅している。 「パスコードを間違えたのかな。もう5回も入れ直したんですけど」 「5回で、ロックがかかりますからね。失礼」 藤堂は、腕を伸ばして、ケーブルを辿った。やっぱりな。 「……外れていますよ」 「えっ」 「ランのケーブルが本体から外れただけだと思いますよ。いずれにしてもロックがかかっているから、情報システム課で解除してもらわないと繋がりませんが」 「え、えーっ、ええ、本当ですか?」 果歩は信じられない、という目になって接続部分を指で探る。その顔が、みるみる赤くなっていった。 「……本当だ。は、恥かしい。すみません、こんなことでお手をわずらわせてしまって」 「よくあることですよ」 ひとつに束ねた彼女の髪から、今朝見た夢と同じ匂いがする。 (ちょ……藤堂さん、駄目ですよ) あまり愉快な夢ではなかったのに、何故か鮮明に思い出されたのは、深刻さの欠片もない――むしろ、艶めかしい場面で、唐突に藤堂も耳が熱くなるのを感じた。 「じゃ、シテスム課に電話してみてください」 それだけを短く言って、藤堂は果歩の傍を離れて、自席に戻った。 ふぅ……と、息をつき、ネクタイをわずかに緩める。 ――まずいぞ、これは。 いくらなんでも、職場でこれはないだろう。 原因は判っている。土日に、彼女と接近しすぎたせいだ。それで、心に決めた戒めの箍が緩んだのだ。というか、たった2日でもう随分破ってしまった。こんなことでは―― 「まさに、有言不実行だ!」 ぶっと、藤堂は噴き出しかけていた。 隣の係の中津川補佐である。 「全くその一言につきるよ。どうなってるんだ、世論がちょっと反対に回ったからといっていきなり事業の凍結などと――選挙を控えた政治家というのは、全くもって信用ならん!」 「都市政策部の駅前開発事業が、どうも停滞しているみたいなんです」 自席に帰りしなの果歩が、身をかがめて囁いてきた。 「そうなんですか」 平静を装って答えたものの、このタイミングでのこの距離感に、その実藤堂は動揺している。 「私も知らなかったんですけど、反対派の意見がテレビで取り上げられて、なんだか世論が反対方向に流れてるみたい……。市長選が終わるまで、もしかすると話が動かなくなるかもしれないですね」 「それは、担当の前園さんも大変ですね」 そう返すと、果歩は呆れたように肩をすくめた。 「今朝会ったら、もう目が完璧血走ってました。挨拶しても全然無視。ああいうところを直さないと、上には行けないって前も言ってあげたのに」 係に誰もいないせいか、ひどくリラックスした口調で囁いて、果歩は背筋を伸ばし、元通りの姿勢になって去っていった。 ――全く……。 前園さんとの関係について、僕が今でも心穏やかではないことを、多分君は、想像してもいないんだろうな。 「あ、的場さん。悪いんだけど、この書類、至急直してもらえないかな」 計画係の谷本主幹が、席についた果歩の元に駆け寄って来た。 「え? あれ、これ間違ってました? おかしいな。数字は何度も合わせたんですけど」 果歩は、眉を寄せて、唇に指をあてる。 夕方のオレンジ色の日差しが、白い肌を仄かに染め、髪に光の輪郭を作っている。 藤堂は、その綺麗な横顔に視線を止めたままになっていた。 ――たとえば、僕が。 君の一挙手一投足をどんな思いで見ているのか。 何度、君を夢にみたか。 その度に、何度自分を、ただの卑しい男だと思い知らされたか。 ――君は……考えたこともないんだろうな。 卓上の電話が鳴る。 藤堂は現実に立ち戻り、軽く息を吐いてから、受話器を取りあげた。 |
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