「え、お2人で、うちに?」 藤堂が驚いて聞き返すと、百瀬乃々子は心底困惑した風に頷いた。 5時過ぎ、15階の休憩スペース。 電話で呼び出された藤堂が行ってみると、そこには約束どおり、百瀬乃々子が所在なく立っていた。 「ご迷惑だとは判っているんですけど、南原さんが、どうしてもって」 「は……はぁ」 ご迷惑という以前に、その意図がまるで理解できない藤堂である。 南原さんと百瀬さんが、うちにくる。 会話とか、そもそもこの3人で成り立つのか? それに家って――机も椅子もひとつきりで、座る場所さえろくにないのに。 が、子供の使いみたいに、南原の伝言を藤堂に言いに来る百瀬乃々子もなんだか憐れで、藤堂は溜息をついていた。 「なんだかなぁ」 「す、すみませんっ、わかります。藤堂さんの深い溜息の意味」 「わかってもらえますか。もう一度確認しておきますが、まさか南原さんがこの件で僕らを誤解しているということは」 「ないですっ。それはもう全然っ。だって藤堂さんが的場さんを好きなことは、南原さんもよく知ってますから!」 「こ、声が大きいですよ」 藤堂が慌てて遮ると、しまった、と言う風に乃々子はちろっと舌を出した。 ――まいったなぁ。 藤堂はそっと溜息をついた。 これが、自分で撒いた種の後始末、というやつか。 ないですっ。それはもう全然。――と乃々子に太鼓判を押されても、藤堂にはいまひとつ信用できない。 多分それは、百瀬乃々子が男の心理を知らないからだ。 自分が、的場果歩の昔の彼氏にいつまでも拘っているように、南原にしても、面白からぬ感情を自分に抱いているに違いない。 ――それは、全くの誤解なんだが……。 とはいえ、今回の妊娠騒動では、さすがに南原に悪いことをしたと思っている藤堂である。 ――怒っているんだろうな。南原さん。 謝罪はしたし、周囲の誤解も解いたつもりだが、局外にまで広がった噂はどうしようもない。それもこれも、僕がぼんやりしていたせい、か。 藤堂は軽く、唇を噛んだ。 百瀬乃々子が二股をかけている――などと、こんな不名誉な噂が蔓延したのも、元を正せば、藤堂が初動でしっかり否定しなかったせいである。 的場果歩に言い訳したように、南原にハッパをかける――という思いも確かにありはしたが、正直に言ってしまえば、当時の藤堂の本音はこうであった。 わけがわからない。 何故、誰もが――しかも張本人の南原さんまで、大真面目に僕を責めるのか。 百瀬さんも休みだというし、一体、何がどうなっているのか。 とはいえ、父親という人が僕を相手とみなしている以上、百瀬さん自身が、そう言って説明しているに違いない。――が、どうしてそんな、複雑で馬鹿げたことをする必要があったのか。 結局藤堂は、それらの疑問を解決する努力を放棄した。明日からはまた東京だし、どうせ、時がたてば、誤解は簡単に解けるだろうと思ったのだ。 まぁ、そのくらい当時は、自己中心的な思考にはまりこんでいたのかもしれない。たった数日前のことだが、当時の藤堂は、役所を辞める覚悟までしていたのだ。 とはいえ、南原が気づきさえすれば、全て丸く収まって大団円と、どこかで気楽に考えていた面もある。 人の口や感情のことまで気が回らなかった。それは、間違いなく、自分の失態と言っていい。 「僕の方から訪ねて行って、もう一度謝りましょうか」 「い、いえいえ。そんなんじゃないみたいなんです。どうしても直接家にお邪魔したいって」 「はぁ……」 気持ちは判るが、そこまでしてくれなくても。 藤堂の戸惑いを読んだのか、乃々子は申し訳なさそうな表情になった。 「あまり……役所では、話したくないみたいで。ほら、今はみんなが南原さんと藤堂さんに注目してるし」 「…………」 「……あの、的場さんもご一緒に……っていうのは、どうなんでしょうか」 「えっ」 藤堂は動揺も露わに顔をあげた。 「いま、なんと?」 「いや、だから的場さんも一緒にって」 「えっ、……いや、それは……」 藤堂はますます動揺して、口に掌をあてた。 今朝、あんな夢を見たばかりだし。いや、それ以前に、今は心の箍ががたがたになっているし。 今はまずい。距離を改めて置き直さなければ。 藤堂が一人で動揺していると、乃々子は、少し呆れたような目になった。 「藤堂さんって……ほんと」 「はい?」 「いえ。そういう年相応の子供っぽいところ、もっと的場さんの前で見せてもいいんじゃないかと思いますよ」 「え?」 「私が同じ年だから、――というより、全く女として意識していないから、思いっきり油断してるんですよね。仕事している時の顔とは別人なんだもん、時々」 「――……言いますね、それは」 藤堂はひきつった笑いを浮かべたが、それが図星だという自覚も、少しはあった。 そういう意味では、心を許せる――ひどく無防備にさせてくれる不思議な雰囲気を、百瀬乃々子という女性は持っている。 「判りました。でも、的場さんの件は、なしです」 数秒迷った後、藤堂はきっぱりと言った。 「ええー、その方が私も気が楽なのに……」 「まあ、今回は、否定しなかった僕らの罪がフィフティフィフティだったということで、腹を括って南原さんに謝りましょう」 「えーっ、私もですか?」 「あたりまえですよ。僕と的場さんが、どれだけ混乱したと思っているんですか」 「まぁ……そうなんですけど」 しかしなぁ……。 一人になった藤堂は、困惑したまま腕組みをした。 役所を離れた南原と、どういう立場で対峙すべきか。 恋敵? 上司? どちらでもない。 友人面をしても、南原はますます不快に思うだけだろう。 どう話を繋いでいくか――いやいやいや、それ以前に、まず机と椅子じゃないか。 腕時計を見て、藤堂は急いで非常階段の方に駆けていった。 ************************* 「藤堂さん?」 目をつむっていた藤堂は、その声で弾かれたように顔を上げた。 車の窓越しに、的場果歩がのぞきこんでいる。コンコンと、窓ガラスが指で叩かれる。 藤堂は急いで、ドアを開けて車を降りた。 2月の終わり。午後6時の空は暗く曇り、2人の吐く息は微かに白い。 「もしかして、寝てました?」 「いえ……少し、考え事を」 藤堂が苦笑して答えると、「ああ、お仕事が大変だから……」と、果歩は気の毒そうな顔になった。 そうではなく、心の箍を締め直していたとは、とても言えない。 翌日の水曜日。どういう因果か、結局は果歩も3人の会に同席することになった。 困ったなぁ。と思いつつ、正直、ほっとしている部分も大きい。 これで、雰囲気も和らいだものになるだろうし、南原の誤解も解けるというものだ。それに――彼女と一緒にいられるのは、どう自分に言い訳しようと、やはり、藤堂には嬉しかった。 「あの、本当にお邪魔してもいいんですか」 「ええ」 アクセルを踏み込む時には、藤堂はいつもの自分を取り戻していた。 「せっかくお母さんが作ってくださったのに、断る方が失礼じゃないですか」 「お仕事も大変そうなのに……」 「それだったら心配不要です」 むしろ、今夜の自分の身を心配してほしい。 内心そう思ったが、むろんそれは言葉に出来ない。 まぁ、そっちの方は、ひとまず大丈夫そうだな。 むしろ、いつも以上に気持ちを引き締めているから、揺れることもないだろう。 「あ、あの、改めて言うのもなんですけど、今日は母が大変なご迷惑を」 「ああ、構いませんよ」 藤堂は苦笑した。 まぁ、驚いたと言えば、相当に驚いたが。 「むしろ、色んな意味でご両親にご心配をかけていることを、心苦しく思いました。きっと、的場さんのことが心配だったんですよ」 「それにしても……」 「僕の方なら、全く問題ないですから」 むしろ、局内の噂で、的場さんが傷つくことにならなければいいと――その方が心配だ。 百瀬乃々子が、今、そうなっているように。 もちろん、それも言葉にはできなかった。 「……すみません」 「え、なんで藤堂さんが謝るんですか」 「いや、なんとなく。僕がはっきりしないから、いけないんだろうなと思って」 「そんなことは――」 と言いかけた果歩が、少しいたずらっぽい目で藤堂を見上げた。 「ありますね」 2人はそのまま笑っていた。 「その通りです。だからお母さんを責めないであげてください」 「藤堂さんがそう言うなら」 それから会話は途切れたが、藤堂は、果歩と2人の時の、居心地のいい沈黙が好きだった。 車は渋滞に巻き込まれ、遅々としか進まない。ふと気づくと、暖房がきいた温かな車内で、助手席の人は少しうとうととしているようだ。 そんな自分に驚いたように、はっと顔を上げて目をこすっている。 その仕草が可愛くて、藤堂は微笑んでいた。 「眠い?」 「えっ、いえ、そんなことは」 「いいですよ。でも渋滞を抜けたらすぐ着きますけど」 「本当に、寝てません!」 妙にきっぱり断言される。そこまで意地になって言い切る意味が、藤堂にはいまいち判らない。男性の前ではうたた寝できないと、そういうルールでもあるのだろうか。 「いつも、結構寝てるのに」 首をかしげ、藤堂は思わず呟いていた。 映画の時もそうだったし、昨日も高速で、熟睡していたようだったし。 「ん?……はい?」 「いえ、独り言ですよ」 「結構、寝てる……?」 しばらく訝しげに考え込んでいた果歩が、不意に眉を上げて藤堂に向きなおった。 「あのですね。コンタクトだと目が乾いて――時々目を休めてるんです。決して、本気で寝ているわけじゃないんですよ」 「え、……ああ、はい」 いや、でも。 「結構とか……心外です。そりゃ、少しはうとうとしますけど、寝入るほどじゃないですから」 藤堂は、これ以上反論しない方が無難だと理解した。 なるほど、こんなことが、的場さんには必死で否定したくなるほど恥かしいことなのか。 うーん、不思議だ。 「信じてない、みたいな」 「いえいえ、信じてます。的場さんは、寝ない」 「なんなんですか、その言い方。かえって馬鹿にしてません?」 藤堂は笑いを噛み殺して、再び動き出した車の列に視線を戻した。 果歩はまだ、不服そうに唇を尖らせている。 「本当ですから」 「わかってますよ」 「本当に本当なのに」 藤堂は視線を逸らしたまま、唇だけで微笑した。 また、今、強くなった。 君を、好きだという気持ち。 君の何もかもを、全部自分のものにしたいという気持ち。 髪と襟足から、君の甘い匂いがする。 その匂いに、僕はいつも酔いしれる。 髪を解いて、口づけて、肩を抱いて、服を脱がせて。そして、耳に首に、肩口に―― ストップ! 藤堂は首を振るようにして我にかえった。 今、僕は何を考えていた? だめだ。今夜だけは、そんな妄想は絶対にいらない。 「藤堂さん?」 「あ、すみません。僕も居眠りかな。ははは……」 「だ、大丈夫ですか?? まるでしゃれになってないと思うんですけど?」 大丈夫も何も―― 藤堂は嘆息して、フラントガラスの向こうに視線を戻す。 想像以上に、今夜はハードルが高そうだ。 こうなった以上は、できるだけ長く南原さんと百瀬さんに、居座ってもらわなければ。―― |
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