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年下の上司 story18〜After FebruaryA

君の何もかもを(3)

 
「じゃ、気をつけて」
 藤堂が見送りに出ると、階段を降りようとしていた乃々子と果歩は、機嫌良く手を振ってくれた。
「いってきまーす」
「水も切れてたんで、ついでに買ってきますね」
 2人の足音が闇に消え、藤堂は嘆息してから、扉を閉めた。
 ――全く……。
 情けない。
 間違いなく、的場さんに気を遣われた。自分の態度がおかしかったから、それで彼女は場の空気を変えようとしてくれたに違いない。
 南原と乃々子を前にして、想像以上に上手く振る舞えなかった理由はなんだろう。
 今までの人生を振り返ってみても、こうもぎくしゃくした――子供じみた振舞いをしたのは初めてだ。今までだって、色々な修羅場を経験したものだと思ってはいたが。
「まぁ、座ったら」
 部屋に戻った途端、南原に言われ、藤堂は、「すみません」と、自分の部屋なのについ断って、着席した。
 なんともぎこちない食事会の最中、果歩と乃々子が、揃って部屋を出ていった。
 まさか、ここで2人きりにされるとは思ってもみなかったが、本題を切り出すなら、今しかない。
「南原さん」
 藤堂は腹を決めて、南原に向きなおった。
 百瀬さんの件では、色々不愉快な思いをさせまして――
 と、一気に言いかけた時だった。
「お前って、いくつだっけ」
 不意に砕けた口調で、南原が言った。
「え……?」
「年、26?」
「いえ、今月で27になりました」
「ふぅん……」
 傍らのグラスから冷茶をあおり、南原は少し首をかしげて藤堂を見上げた。
「タメでいかね?」
「え?」
「的場さんや百瀬さんの前だとまずいけど、2人の時は、そんなに改まらなくていいよ。俺も、話しづらいし」
「………」
 少しの間黙った後、藤堂は頷いていた。
「そうですね」
「敬語じゃん」
「いや、それは僕が年下だし」
「ま、そっか」
 南原がわずかに笑ったので、藤堂もつられるように笑っていた。
「5歳も下って、俺からみたら目茶苦茶後輩なんだよな。前ちゃんに対しても水原にしてもそうなんだけど、俺、結構兄貴ぶるくせがあってさ」
「あ、それなんとなく判ります」
「その相手が上司なんだから、正直、どうしていいのか判らなかった。まぁ、最初……民間人ってことで、少し見くびってた部分もあったし」
「いや、僕の態度もひどいものでしたから」
 当時のことを思い出し、藤堂は髪に手を差しいれた。
「思えば最初は、自分の中に他人を入れないように、意識的に壁を作っていたんだと思います。そういうものって、……判りますよね。雰囲気で」
「確かに。そんな感じではあったよな」
 南原もまた、思い出したように頷いた。
「そのせいで、夏以降は随分苦労しました。このままではいけないと気づいた時から、僕なりに壁を取り払う努力はしてきたつもりなのですが」
「伝わりにくい努力では、あったよな」
「す、すみません」
「まぁ、その時には、俺や中津川さんがむしろ意地になって、スカイツリー並みの壁を作ってたからな」
 当時を思い出したように南原は笑った。
「……的場さんがいて、よかったな」
「え?」
「お前、判りにくいよ。表情変えないし、口数少ないし。いってみれば、的場さんがお前の感情の窓口みたいなものだったんじゃね? 上手く言えないけどそんな気がする」
「…………」
 そうかも、しれないな。
 この1年、僕は彼女の思いを拾おうとしたけど、むしろ彼女が、僕の思いを拾ってくれていたのかもしれない。
「なぁ、いつから好きだったの?」
「え、はい?」
 藤堂は動揺して、持っていたグラスを置いて、また持ち直した。
「なんの話ですか?」
 南原は意外そうに、眉を上げて瞬きをする。
「へぇ」
「な、なんですか」
「いや、お前でも、動揺するんだなと思って。いや、好きっていったら、的場さん以外にないだろ。それとも百瀬さんが好きだったとか?」
「いや、それはないですよ!」
 思わず力をこめた藤堂を見上げ、南原は呆れたように肩をすくめた。
「そんなの、力説しなくても判ってるし。百瀬さんの片思いだろ。心配しなくても、誤解なんてしてねぇよ」
「まぁ……」
 藤堂は、少し言い淀んで、グラスの水を一口飲んだ。
「百瀬さんが僕を好きだったのは、わずかな間のことだったと思いますよ。それも、何かこう、誤解が重なっただけ、のような」
「へぇ」
 南原の眼が、少し面白くなさそうになっている。
「いや、本当の話なんで、いずれ百瀬さんに聞いてみてくださいよ。最近になって言われたんですが、僕は友達としては最高だけど、恋人としては最低なんだそうです」
「それ、百瀬さんが?」
「優柔不断だの、浮気性だの、受け身すぎるだの、何かこう心外なことを色々言われたんですよ。……正直、それはないだろうって」
「あいつ、結構きついこと言うからな」
「そうなんですよ。へこみましたよ。なんたって、的場さんと一番仲のいい人ですからね」
「それが的場さんの意見なんじゃなかろうか、と」
「そうです――と」
 藤堂は言葉を切って、軽く咳払いをした。
「その程度には、語るに落ちることにしました」
「ほんっと、可愛くないな、お前」
 楽しそうに笑った南原が、ふと遠くを見るような目になった。
「それでもお前のことは、結構本気で好きだったと思うけどな」
「……どうかな」
「ま、いいけどね。……いまさら、どうでも」
 少しだけ沈黙が落ちたが、その沈黙は、不思議と少しも気づまりではなかった。
「南原さんは、いつから好きだったんですか」
「お前、自分は答えてねぇのに、それはないだろ」
「いや、僕はもう、4月だったということで」
「じゃ一目ぼれ? そこまですごい美人でもないだろ」
 うつむいて藤堂は微笑した。
 そうかな。
 南原さんにはそうでも、僕にとっては、違うから。
「……俺は、まぁ、想像に任せるわ」
 少し考えてから、南原は口を開いた。
「色々あって、水原のこととか。……あいつ、割り切った風にしてるけど、結構マジで傷ついてたから」
「…………」
「そういうこと考えたら、あんま、浮かれる気分でも、ねぇだろ」
 うつむいて苦笑し、南原は置いていた箸を取り上げた。
「こういう時、飲めたらな」
「車でないなら、ビールがありますが」
「いや、いいよ。百瀬さんが飲めないのに、俺一人飲んでも悪いから」
 ――南原さんは……
 本当に、優しい人なんだな。
 百瀬さんの言うとおりだった。人には、誰にも、思いもよらない一面がある。
「彼女、案外酒豪ですからね」
「そうそう。しかも泣くわ、笑うわ。そういや、的場さんは、えらいお喋りになるよな。旅行の時は吃驚した」
「ああ……まぁ、あのくらいなら」
「いや、お前は女慣れしてなそうだから、知らないかもしれないけど」
 南原は声をひそめるようにして、身を乗り出してきた。
「女の口を、信用するなよ」
「え」
「女ってのはなぁ。男の俺らからみたら信じられないことまで、いちいち情報交換したりするんだよ。たとえば」
 南原は声をさらに低くして、続ける。
「―――えっ」
 藤堂は、大袈裟でなく、悪夢でも垣間見た思いになっていた。
 そ、そんな話まで?
「な、恐ろしいだろ。信じられないだろ」
「は、はぁ、まぁ。……」
「自分の彼氏がどんな××が好きだとか、どういう×××が好きかとか、そんなのまで、全部ここだけの話で、打ち明け合ってるからな、女は」
 そのあまりに露骨な言い方に、藤堂はひきつりながら、慌てて首を横に振っている。
「いや、僕らはまだ、本当に、そういったことはありませんから」
 そう言った後、藤堂は、眉を険しく寄せながら腕組みをした。
 まさか――本当にそんなことまで?
 あの的場さんと百瀬さんが? 
「うわ、じゃあ俺一人が喋られ損じゃん。的場さん、絶対俺の弱み握った気になって帰って来るから」
「はぁ、……そういうものですか」
「女っておかしいよな。男だったら、まず喋んないだろ。つきあってる相手のそんなことまで」
「当たり前ですよ」
 藤堂はきっぱりと頷いた。
 知られたくないし、他の男には、想像すらされたくない。
「女はそのあたり、逆に言いたくてたまらないみたいなんだよな。その情報共有に何の意味があるのか、マジ、わかんねぇ」
「……わからないです。でも、いい勉強になりました」
「気をつけろよ」
「はい」
 結局、南原は何をしに来たのか。ついに理由を聞けずじまいだったし、藤堂も、自身の失態を詫びることはできなかった。
 それから、女2人が戻ってくるまでの間、藤堂は南原ととりとめもない話をして、何度か声をあげて笑った。
 そして、ふと思っていた。
 こんな時間と空気を、僕は確かに知っている。
 それは、もう二度と、僕の人生に戻ってこないと思っていた。
(――なぁ、初恋の話をしようか)
(――瑛士、俺とお前は、映し鏡だ)
 もう二度と、あんな楽しい時間は、自分の人生に訪れないと思っていたのに――
 
 *************************
 
「じゃ、これで片付けは終わりですね」
「すみません。遅い時間まで手伝っていただいて」
「いいえ」
 果歩は蛇口を閉めて、濡れた手をタオルで拭っている。
 その手を背中に回して、エプロンの紐を解き始める。
 ふと視線をとめた藤堂は、無意識に呟いていた。
「そのエプロン……」
「え?」
「いえ、なんでも」
 ――正夢、……ではないよな。
 迂闊にも、2人になってから気がついた。
 小花を散りばめたローズダスト。偶然にしては出来過ぎだ。
 そして、はっきり言ってしまえば、相当な目の毒だ。似合いすぎるというか、可愛いすぎるというか。
「あ、ゴミ……どうしときましょう」
「いいです。それくらい僕がやりますから。的場さんは早く帰った方が」
「……え、まぁ、それはそうなんですが」
「もう遅いので、本当に早く」
「……?」
 急かされたことを不審に思ったのか、果歩が訝しげな眼差しになる。
 換気のために開けていた窓を閉めることで、藤堂はその疑惑の視線から逃げた。
 すみません。
 ここは、申し訳ないのですが、一刻も早く――お帰り下さい。
 が、エプロンを外した果歩は、再びシンクに向き直り、何かを洗いはじめた。
「布巾だけでも、干して帰りますね。結構使ってしまいましたし」
「すみません」
 流水の音が、これほど心地良く聞こえたのは初めてかもしれない。
 君が、この部屋にいてくれる音。
 本当は、僕が一番、この時間が過ぎるのを惜しいと思っている。
 綺麗に清められた食卓を、ふと藤堂は、不思議な気持ちで見つめていた。
 この灰谷市に戻ってきた時は、こんな時間がこの部屋に訪れるとは、想像してもいなかった。
 こんな時間が――再び、自分に戻ってくるなんて。
「――藤堂さん?」
 果歩の声で我に返る。はっと藤堂は顔を上げた。
「どうされたんです? お疲れですか」
「……いえ」
 いつの間にか、水流の音が止んでいる。
 そうか、もう――終わってしまったんだな。
 自分の未練がましさに苦笑した藤堂は、果歩のコートをハンガーから降ろした。
「不思議だな、と思って」
「不思議って?」
 コートを受け取った果歩の眼が、少し寂しそうに藤堂を見上げる。
 そんな目で、僕を見ないで。
 帰ってほしくないと、多分君以上に、僕の方が思っているから。
「この部屋に越してきた時、まさか、客を招くようなことになるとは、想像してもいなかったから」
 コートに袖を通しながら、藤堂は言った。
「的場さんがいてくれたおかげかな。すごく、楽しい時間でしたね」
 過ぎてしまうのは惜しいけど。
 どんな時もいつかは終わり、新しい時がやってくる。
 人生は、きっとその繰り返しだ。
 ただ、受け入れて生きていくしかない。
「ふ、2人に、なったら」
 不意に、背後で果歩の声がした。
 2人?
「もう少し広い部屋に引っ越した方が、いいですね」
 ――はい??
 背を向けたまま、藤堂は撃たれた人みたいに固まっていた。
 心臓がいきなり音を立てて踊り出す。
 まずい、不意打ちだ。別のことを考えていたから、心がまるで無防備だった。
 ――落ち着け。冷静に対処しろ、自分。
「そうですね」
 役所で、窮地に陥った時の答弁を思い出し、藤堂は表情を変えずに、極めてあっさりと頷いた。
「じゃ、そろそろ帰りましょうか。家まで、車で送りますよ」
 よし。
「よろしければ、ご自宅に電話を入れておいてもらってもいいですか。ご両親に、ご挨拶とお礼をして帰りたいですし」
 我ながら、実に綺麗に締め括れた。
 果歩が、少しばかりむっとしている気配は察したが、そのあたりのフォローは、車の中でさせてもらおう。今は、一刻も早く、この部屋からご退出ください!
 が、歩きだしてから気がついた。
 果歩が、固まったように動かなくなっている。
「的場さん?」
 唇を噛んだ果歩は、なんともうらみがましい目で藤堂を見上げた。
 その眼差しに、さすがにドキッとした時である。
 うつむいた果歩が、いきなり大股で距離を詰めてきた。えっ、――と思った時には、柔らかな身体が、とんと藤堂の胸にしなだれかかっている。
「ちょ――」
 止める間もなく、両腕を腰のあたりに回して抱きついてくる。
 ぎゅっと力を入れて抱きしめられ、藤堂の肩に頭を預けたまま、果歩はしばらく動かなくなった。
 自分の心臓の音だけが、ひどく大きく聞こえている。
 ――これは……
 もう、……。
 ちょっと、限界、というか。
 視線だけを天井に向けて、藤堂は果歩の背に両腕を回した。
 さすがに今日一日の努力を思うと、なんともやりきれない気持ちになる。そして、ふと無意識に呟いていた。
「……畳みかけてくるなぁ」
「え?」
 果歩が顔を上げたので、藤堂はわずかに苦笑した。
「いえ、独り言です」
「……?」
 本当に、この人は――
 頼むから今、そんな目で僕を見ないでくれ。
 果歩の額に、自分の額を押し当てるようにして、藤堂は囁いた。
「的場さんが鈍いから、少し腹が立ってきた」
「え、に、鈍いですか? 私が?」
 それとも、もしかして確信犯か?
 だったらなお、性質が悪い。
「今、キスしたら、もう戻れなくなりそうなので」
「…………」
 軽い冗談のつもりだったのに、口にした途端、不意に胸に熱がこみあげ、藤堂は果歩を抱きしめていた。
「藤堂さん?」
 欲しい。
 抱きたい。
 今すぐ、何もかも、僕のものにしてしまいたい。
「……4月まで……、僕が、馬鹿なのかもしれないですね。正直、今も、頭がおかしくなりそうです」
 はっと息を引いた果歩が、萎れたようにうつむいて、呟いた。
「ごめんなさい。……私が、無神経でした」
「いえ。僕が勝手に決めていることですから」
「でも」
 遮るように、藤堂は言った。
「もう少し、……2人でいてもいいですか」
 果歩の腕を引いたまま、藤堂が寝室に続く扉を開けると、果歩がわずかに身体をすくませるのが判った。
 暗く翳った室内で、不安そうな目が藤堂を見上げる。
「……大丈夫……」
 果歩を片手で抱き支えたまま、藤堂はベッドの上に膝をついた。
 ゆっくりと抱いたままの身体を倒すと、やはり果歩は不安そうに、両腕で藤堂にしがみついてくる。 
「藤堂さん……」
「……大丈夫、何も、しない」
 拘束するように両腕で抱きすくめ、解けた髪に顔を埋める。
 そうすれば、果歩も動けないだろうが、自分もまた動けないからだ。
「……このまま……もう少し……」
 苦しい。
 本当に、頭がおかしくなりそうだ。
 それでも藤堂の脳裏には、今、この状況とはほど遠い会話が蘇っている。
 それは昨日の朝、議会棟で、入江耀子と交わした会話だった。
 
 
「ご存じです? 市長選の告示は来月の中旬ですけど、4期目確実と言われている真鍋市長に、今回、強力な対抗馬が出てくるって話」
「……噂程度には」
 藤堂が、控え目に答えると、耀子はますます勝ち誇ったような目になった。
「実は先日、その方が議長室にいらしたんです。お顔を拝見した時、正直、心臓が停まるかと思いました。だって」
 
 
 足音が、近づいている。
 その音は、過去からそっと忍び寄ってきて、いきなり、僕の腕を掴んで言う。
 それが自分の空想の中の脩哉だと分かっていても、僕はそこから身動きできない。
「――瑛士、お前はまた、俺から大切なものを奪うつもりか?」
 


                            
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