「じゃ、気をつけて」 藤堂が見送りに出ると、階段を降りようとしていた乃々子と果歩は、機嫌良く手を振ってくれた。 「いってきまーす」 「水も切れてたんで、ついでに買ってきますね」 2人の足音が闇に消え、藤堂は嘆息してから、扉を閉めた。 ――全く……。 情けない。 間違いなく、的場さんに気を遣われた。自分の態度がおかしかったから、それで彼女は場の空気を変えようとしてくれたに違いない。 南原と乃々子を前にして、想像以上に上手く振る舞えなかった理由はなんだろう。 今までの人生を振り返ってみても、こうもぎくしゃくした――子供じみた振舞いをしたのは初めてだ。今までだって、色々な修羅場を経験したものだと思ってはいたが。 「まぁ、座ったら」 部屋に戻った途端、南原に言われ、藤堂は、「すみません」と、自分の部屋なのについ断って、着席した。 なんともぎこちない食事会の最中、果歩と乃々子が、揃って部屋を出ていった。 まさか、ここで2人きりにされるとは思ってもみなかったが、本題を切り出すなら、今しかない。 「南原さん」 藤堂は腹を決めて、南原に向きなおった。 百瀬さんの件では、色々不愉快な思いをさせまして―― と、一気に言いかけた時だった。 「お前って、いくつだっけ」 不意に砕けた口調で、南原が言った。 「え……?」 「年、26?」 「いえ、今月で27になりました」 「ふぅん……」 傍らのグラスから冷茶をあおり、南原は少し首をかしげて藤堂を見上げた。 「タメでいかね?」 「え?」 「的場さんや百瀬さんの前だとまずいけど、2人の時は、そんなに改まらなくていいよ。俺も、話しづらいし」 「………」 少しの間黙った後、藤堂は頷いていた。 「そうですね」 「敬語じゃん」 「いや、それは僕が年下だし」 「ま、そっか」 南原がわずかに笑ったので、藤堂もつられるように笑っていた。 「5歳も下って、俺からみたら目茶苦茶後輩なんだよな。前ちゃんに対しても水原にしてもそうなんだけど、俺、結構兄貴ぶるくせがあってさ」 「あ、それなんとなく判ります」 「その相手が上司なんだから、正直、どうしていいのか判らなかった。まぁ、最初……民間人ってことで、少し見くびってた部分もあったし」 「いや、僕の態度もひどいものでしたから」 当時のことを思い出し、藤堂は髪に手を差しいれた。 「思えば最初は、自分の中に他人を入れないように、意識的に壁を作っていたんだと思います。そういうものって、……判りますよね。雰囲気で」 「確かに。そんな感じではあったよな」 南原もまた、思い出したように頷いた。 「そのせいで、夏以降は随分苦労しました。このままではいけないと気づいた時から、僕なりに壁を取り払う努力はしてきたつもりなのですが」 「伝わりにくい努力では、あったよな」 「す、すみません」 「まぁ、その時には、俺や中津川さんがむしろ意地になって、スカイツリー並みの壁を作ってたからな」 当時を思い出したように南原は笑った。 「……的場さんがいて、よかったな」 「え?」 「お前、判りにくいよ。表情変えないし、口数少ないし。いってみれば、的場さんがお前の感情の窓口みたいなものだったんじゃね? 上手く言えないけどそんな気がする」 「…………」 そうかも、しれないな。 この1年、僕は彼女の思いを拾おうとしたけど、むしろ彼女が、僕の思いを拾ってくれていたのかもしれない。 「なぁ、いつから好きだったの?」 「え、はい?」 藤堂は動揺して、持っていたグラスを置いて、また持ち直した。 「なんの話ですか?」 南原は意外そうに、眉を上げて瞬きをする。 「へぇ」 「な、なんですか」 「いや、お前でも、動揺するんだなと思って。いや、好きっていったら、的場さん以外にないだろ。それとも百瀬さんが好きだったとか?」 「いや、それはないですよ!」 思わず力をこめた藤堂を見上げ、南原は呆れたように肩をすくめた。 「そんなの、力説しなくても判ってるし。百瀬さんの片思いだろ。心配しなくても、誤解なんてしてねぇよ」 「まぁ……」 藤堂は、少し言い淀んで、グラスの水を一口飲んだ。 「百瀬さんが僕を好きだったのは、わずかな間のことだったと思いますよ。それも、何かこう、誤解が重なっただけ、のような」 「へぇ」 南原の眼が、少し面白くなさそうになっている。 「いや、本当の話なんで、いずれ百瀬さんに聞いてみてくださいよ。最近になって言われたんですが、僕は友達としては最高だけど、恋人としては最低なんだそうです」 「それ、百瀬さんが?」 「優柔不断だの、浮気性だの、受け身すぎるだの、何かこう心外なことを色々言われたんですよ。……正直、それはないだろうって」 「あいつ、結構きついこと言うからな」 「そうなんですよ。へこみましたよ。なんたって、的場さんと一番仲のいい人ですからね」 「それが的場さんの意見なんじゃなかろうか、と」 「そうです――と」 藤堂は言葉を切って、軽く咳払いをした。 「その程度には、語るに落ちることにしました」 「ほんっと、可愛くないな、お前」 楽しそうに笑った南原が、ふと遠くを見るような目になった。 「それでもお前のことは、結構本気で好きだったと思うけどな」 「……どうかな」 「ま、いいけどね。……いまさら、どうでも」 少しだけ沈黙が落ちたが、その沈黙は、不思議と少しも気づまりではなかった。 「南原さんは、いつから好きだったんですか」 「お前、自分は答えてねぇのに、それはないだろ」 「いや、僕はもう、4月だったということで」 「じゃ一目ぼれ? そこまですごい美人でもないだろ」 うつむいて藤堂は微笑した。 そうかな。 南原さんにはそうでも、僕にとっては、違うから。 「……俺は、まぁ、想像に任せるわ」 少し考えてから、南原は口を開いた。 「色々あって、水原のこととか。……あいつ、割り切った風にしてるけど、結構マジで傷ついてたから」 「…………」 「そういうこと考えたら、あんま、浮かれる気分でも、ねぇだろ」 うつむいて苦笑し、南原は置いていた箸を取り上げた。 「こういう時、飲めたらな」 「車でないなら、ビールがありますが」 「いや、いいよ。百瀬さんが飲めないのに、俺一人飲んでも悪いから」 ――南原さんは…… 本当に、優しい人なんだな。 百瀬さんの言うとおりだった。人には、誰にも、思いもよらない一面がある。 「彼女、案外酒豪ですからね」 「そうそう。しかも泣くわ、笑うわ。そういや、的場さんは、えらいお喋りになるよな。旅行の時は吃驚した」 「ああ……まぁ、あのくらいなら」 「いや、お前は女慣れしてなそうだから、知らないかもしれないけど」 南原は声をひそめるようにして、身を乗り出してきた。 「女の口を、信用するなよ」 「え」 「女ってのはなぁ。男の俺らからみたら信じられないことまで、いちいち情報交換したりするんだよ。たとえば」 南原は声をさらに低くして、続ける。 「―――えっ」 藤堂は、大袈裟でなく、悪夢でも垣間見た思いになっていた。 そ、そんな話まで? 「な、恐ろしいだろ。信じられないだろ」 「は、はぁ、まぁ。……」 「自分の彼氏がどんな××が好きだとか、どういう×××が好きかとか、そんなのまで、全部ここだけの話で、打ち明け合ってるからな、女は」 そのあまりに露骨な言い方に、藤堂はひきつりながら、慌てて首を横に振っている。 「いや、僕らはまだ、本当に、そういったことはありませんから」 そう言った後、藤堂は、眉を険しく寄せながら腕組みをした。 まさか――本当にそんなことまで? あの的場さんと百瀬さんが? 「うわ、じゃあ俺一人が喋られ損じゃん。的場さん、絶対俺の弱み握った気になって帰って来るから」 「はぁ、……そういうものですか」 「女っておかしいよな。男だったら、まず喋んないだろ。つきあってる相手のそんなことまで」 「当たり前ですよ」 藤堂はきっぱりと頷いた。 知られたくないし、他の男には、想像すらされたくない。 「女はそのあたり、逆に言いたくてたまらないみたいなんだよな。その情報共有に何の意味があるのか、マジ、わかんねぇ」 「……わからないです。でも、いい勉強になりました」 「気をつけろよ」 「はい」 結局、南原は何をしに来たのか。ついに理由を聞けずじまいだったし、藤堂も、自身の失態を詫びることはできなかった。 それから、女2人が戻ってくるまでの間、藤堂は南原ととりとめもない話をして、何度か声をあげて笑った。 そして、ふと思っていた。 こんな時間と空気を、僕は確かに知っている。 それは、もう二度と、僕の人生に戻ってこないと思っていた。 (――なぁ、初恋の話をしようか) (――瑛士、俺とお前は、映し鏡だ) もう二度と、あんな楽しい時間は、自分の人生に訪れないと思っていたのに―― ************************* 「じゃ、これで片付けは終わりですね」 「すみません。遅い時間まで手伝っていただいて」 「いいえ」 果歩は蛇口を閉めて、濡れた手をタオルで拭っている。 その手を背中に回して、エプロンの紐を解き始める。 ふと視線をとめた藤堂は、無意識に呟いていた。 「そのエプロン……」 「え?」 「いえ、なんでも」 ――正夢、……ではないよな。 迂闊にも、2人になってから気がついた。 小花を散りばめたローズダスト。偶然にしては出来過ぎだ。 そして、はっきり言ってしまえば、相当な目の毒だ。似合いすぎるというか、可愛いすぎるというか。 「あ、ゴミ……どうしときましょう」 「いいです。それくらい僕がやりますから。的場さんは早く帰った方が」 「……え、まぁ、それはそうなんですが」 「もう遅いので、本当に早く」 「……?」 急かされたことを不審に思ったのか、果歩が訝しげな眼差しになる。 換気のために開けていた窓を閉めることで、藤堂はその疑惑の視線から逃げた。 すみません。 ここは、申し訳ないのですが、一刻も早く――お帰り下さい。 が、エプロンを外した果歩は、再びシンクに向き直り、何かを洗いはじめた。 「布巾だけでも、干して帰りますね。結構使ってしまいましたし」 「すみません」 流水の音が、これほど心地良く聞こえたのは初めてかもしれない。 君が、この部屋にいてくれる音。 本当は、僕が一番、この時間が過ぎるのを惜しいと思っている。 綺麗に清められた食卓を、ふと藤堂は、不思議な気持ちで見つめていた。 この灰谷市に戻ってきた時は、こんな時間がこの部屋に訪れるとは、想像してもいなかった。 こんな時間が――再び、自分に戻ってくるなんて。 「――藤堂さん?」 果歩の声で我に返る。はっと藤堂は顔を上げた。 「どうされたんです? お疲れですか」 「……いえ」 いつの間にか、水流の音が止んでいる。 そうか、もう――終わってしまったんだな。 自分の未練がましさに苦笑した藤堂は、果歩のコートをハンガーから降ろした。 「不思議だな、と思って」 「不思議って?」 コートを受け取った果歩の眼が、少し寂しそうに藤堂を見上げる。 そんな目で、僕を見ないで。 帰ってほしくないと、多分君以上に、僕の方が思っているから。 「この部屋に越してきた時、まさか、客を招くようなことになるとは、想像してもいなかったから」 コートに袖を通しながら、藤堂は言った。 「的場さんがいてくれたおかげかな。すごく、楽しい時間でしたね」 過ぎてしまうのは惜しいけど。 どんな時もいつかは終わり、新しい時がやってくる。 人生は、きっとその繰り返しだ。 ただ、受け入れて生きていくしかない。 「ふ、2人に、なったら」 不意に、背後で果歩の声がした。 2人? 「もう少し広い部屋に引っ越した方が、いいですね」 ――はい?? 背を向けたまま、藤堂は撃たれた人みたいに固まっていた。 心臓がいきなり音を立てて踊り出す。 まずい、不意打ちだ。別のことを考えていたから、心がまるで無防備だった。 ――落ち着け。冷静に対処しろ、自分。 「そうですね」 役所で、窮地に陥った時の答弁を思い出し、藤堂は表情を変えずに、極めてあっさりと頷いた。 「じゃ、そろそろ帰りましょうか。家まで、車で送りますよ」 よし。 「よろしければ、ご自宅に電話を入れておいてもらってもいいですか。ご両親に、ご挨拶とお礼をして帰りたいですし」 我ながら、実に綺麗に締め括れた。 果歩が、少しばかりむっとしている気配は察したが、そのあたりのフォローは、車の中でさせてもらおう。今は、一刻も早く、この部屋からご退出ください! が、歩きだしてから気がついた。 果歩が、固まったように動かなくなっている。 「的場さん?」 唇を噛んだ果歩は、なんともうらみがましい目で藤堂を見上げた。 その眼差しに、さすがにドキッとした時である。 うつむいた果歩が、いきなり大股で距離を詰めてきた。えっ、――と思った時には、柔らかな身体が、とんと藤堂の胸にしなだれかかっている。 「ちょ――」 止める間もなく、両腕を腰のあたりに回して抱きついてくる。 ぎゅっと力を入れて抱きしめられ、藤堂の肩に頭を預けたまま、果歩はしばらく動かなくなった。 自分の心臓の音だけが、ひどく大きく聞こえている。 ――これは…… もう、……。 ちょっと、限界、というか。 視線だけを天井に向けて、藤堂は果歩の背に両腕を回した。 さすがに今日一日の努力を思うと、なんともやりきれない気持ちになる。そして、ふと無意識に呟いていた。 「……畳みかけてくるなぁ」 「え?」 果歩が顔を上げたので、藤堂はわずかに苦笑した。 「いえ、独り言です」 「……?」 本当に、この人は―― 頼むから今、そんな目で僕を見ないでくれ。 果歩の額に、自分の額を押し当てるようにして、藤堂は囁いた。 「的場さんが鈍いから、少し腹が立ってきた」 「え、に、鈍いですか? 私が?」 それとも、もしかして確信犯か? だったらなお、性質が悪い。 「今、キスしたら、もう戻れなくなりそうなので」 「…………」 軽い冗談のつもりだったのに、口にした途端、不意に胸に熱がこみあげ、藤堂は果歩を抱きしめていた。 「藤堂さん?」 欲しい。 抱きたい。 今すぐ、何もかも、僕のものにしてしまいたい。 「……4月まで……、僕が、馬鹿なのかもしれないですね。正直、今も、頭がおかしくなりそうです」 はっと息を引いた果歩が、萎れたようにうつむいて、呟いた。 「ごめんなさい。……私が、無神経でした」 「いえ。僕が勝手に決めていることですから」 「でも」 遮るように、藤堂は言った。 「もう少し、……2人でいてもいいですか」 果歩の腕を引いたまま、藤堂が寝室に続く扉を開けると、果歩がわずかに身体をすくませるのが判った。 暗く翳った室内で、不安そうな目が藤堂を見上げる。 「……大丈夫……」 果歩を片手で抱き支えたまま、藤堂はベッドの上に膝をついた。 ゆっくりと抱いたままの身体を倒すと、やはり果歩は不安そうに、両腕で藤堂にしがみついてくる。 「藤堂さん……」 「……大丈夫、何も、しない」 拘束するように両腕で抱きすくめ、解けた髪に顔を埋める。 そうすれば、果歩も動けないだろうが、自分もまた動けないからだ。 「……このまま……もう少し……」 苦しい。 本当に、頭がおかしくなりそうだ。 それでも藤堂の脳裏には、今、この状況とはほど遠い会話が蘇っている。 それは昨日の朝、議会棟で、入江耀子と交わした会話だった。 「ご存じです? 市長選の告示は来月の中旬ですけど、4期目確実と言われている真鍋市長に、今回、強力な対抗馬が出てくるって話」 「……噂程度には」 藤堂が、控え目に答えると、耀子はますます勝ち誇ったような目になった。 「実は先日、その方が議長室にいらしたんです。お顔を拝見した時、正直、心臓が停まるかと思いました。だって」 足音が、近づいている。 その音は、過去からそっと忍び寄ってきて、いきなり、僕の腕を掴んで言う。 それが自分の空想の中の脩哉だと分かっていても、僕はそこから身動きできない。 「――瑛士、お前はまた、俺から大切なものを奪うつもりか?」 |
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