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年下の上司 story19〜March

マリアージュ(1)

 
 
「はいはい、分かったわよ。そうね、そういう約束だったわね」
 宮沢りょうが、面倒くささも露わにそう言うと、たちまち電話の向こうから言い訳めいた言葉が返ってきた。
「いや、それは宮沢さんが言い出したことで」とか「俺は別に、どっちでも」とか。
 ――あー、マジ、面倒くさ。
 りょうはくわえていた煙草を口から離して、携帯を持ち直した。
「行きます。で、ご飯のひとつでも作ってあげればいいんでしょ」
「いや、だから俺は」
 泡を食った声。そしてまた、強がりだかマウントだか分からない言い訳。
 ――ああ、もう。
 可愛いやつ。
「どうでもいいけど、胃袋まで掴まれて、私から離れられなくなってもしらないわよ」
 そう言うと、「えっ」と電話の相手――恋人なのか、つきあっているのか、全てが曖昧な男――前園晃司が絶句する。
 りょうは笑い出したいのを堪えて、「じゃ、今夜ね」と言って携帯を切った。
 なんか、変なのにはまっちゃったなぁ。
 頭悪いし、遊び方も下手だし、多分セックスもそんなに上手くない。間違いなく理想とはド反対のタイプなのに。
 ――で、占いにも全く当たってないし。
 子供の頃、縁日の占いで予言された将来の結婚相手。バツイチの絶倫で、りょうは4人も子供を作らされた挙句、わがままな夫に振り回される人生を送るのだとか。
 前園晃司は、見事なくらいその全部に当てはまっていない。わがままというのが唯一の合致点だが、その面ではりょうの方が上な気もする。
 昼休憩はもうすぐ終わる。りょうは煙草を灰皿に捨ててから、階段で執務室まで降りていった。
 ――占いなんて、信じなくてもいいのかな、もしかして。
 バツイチ絶倫男とはほど遠いけど、案外最後まで、一緒にいる相手だったりしてね。
「宮沢さん、ちょっと」
 席に戻ろうとすると、上司が少し固い表情でりょうを呼んだ。
「はい」
 その表情に、やや不審なものを覚えながら、りょうは課長席の奥にある会議室に入った。
 なんだろう、何かやったかな、私。
 まさかと思うけど、今頃になって、2月の騒ぎが再燃したんじゃ――
 会議室は無人ではなかった。奥のソファから立ち上がった人を見て、りょうはわずかに眉を寄せる。
 皇康介(すめらぎこうすけ)――人事部のモグラ。
 市長の懐刀だった勅使河原部長が失脚して以来、実質人事の暗部は、この男が掌握しているといっても過言ではない。
 りょうの立場で男の履歴を確認することできないが、おそらくは民間出身。その若さで様々な権力・人脈を得ていることを考えると、藤堂瑛士――親友果歩の恋人で、民間出身の最年少係長と同じ立場ではないかと思えなくもない。
 過去、その果歩の周辺で懲戒処分に係るトラブルが起きた時には、必ず皇が裏で動いていたことを知っているりょうにとっては、やや警戒すべき相手である。
「では私はこれで」
 皇は、爬虫類を思わせる冷ややかな目でりょうを一瞥してから立ち上がった。
「都市政策部長には、私から連絡を入れておきますよ。向こうも想定外の異動で大変でしょうからね」
 都市政策部? それが先ほど電話を掛けていた前園晃司の所属だと分かり、りょうは思わず皇を見ている。そこで課長が苦々しく咳払いをしたので、これは自分が知ってはいけない情報だと察しがついた。
 ――もしかして私の前でわざと言った? まさかね。
 しかし、そうなるとますます結論はひとつしか思い浮かばない。
 2月の事件――晃司が、りょうを助けるために国会議員を殴ってしまった事件で、何か動きがあったのだ。
「……宮沢さん、突然だが、君に異動内示だ」
 課長の声で、りょうは我に返って居住まいを正した。
 異動内示。
 市長選を控えた来年度の人事異動は新市長決定後、つまり4月に入ってから行われる。
 今行われる異動内示は、突発的な事態――たとえば、病休職員の補充のために急きょ行われるものか、懲罰人事か、あるいは――
「4月1日から外務省派遣を命ずる。期限は3年。おめでとう、宮沢さん」
 あるいは、異動に準備を要するほど遠方に飛ばされるか。
 りょうは呆けたように瞬きをした。
「4月1日といっても、引き継ぎがあるから、実質3月最終週の頭には向こうに勤務するように。――君も知っての通り、国への派遣は、幹部候補生の通過儀礼のようなものだ。しっかりやりたまえ」
 

 *************************


「え? 南原さんのお祝いの会?」
 的場果歩が顔を上げてそう言うと、都市計画局総務課の新人職員――その名称で呼ばれるのもあと1ヶ月足らずだが、――水原真琴は「あはっ」と笑って頷いた。
 あはっ。
 まさにその表現がぴったりくる、不自然かつ異常な笑い方である。
「そうなんですよ! 昨日那賀局長から言われまして! 結婚式を挙げないなら、せめて課内でお祝いの会をやったらどうかと!」
 そして、つっこむ隙さえ見せないハイテンション。
 ――那賀局長……。
 果歩は、ため息を堪えて「そうね」とだけ相づちを打った。
 もちろん幹事の水原に、局のトップがその打診をするのは正しい。
 来週末、同じ局の女性と入籍――さらには10月にはパパになることが確定した南原亮輔の結婚祝い。それは実のところ、果歩も内心、やった方がいいのかしらと思っていたところだった。
 しかし課内の誰もが、この件に関しては腫れ物を扱うように接している水原に――それを言う?
 5時過ぎの執務室。当の南原は夕食を取るために食堂に行っていて席空けである。課長の志摩と庶務係長の藤堂は、次長室で協議中。
 しかし残るメンバー――計画係の中津川補佐、谷本主幹と新家主査。そして庶務係の大河内主査は自席で、帰る準備だったり、仕事の続きだったりをやっている。
 その全員が――何か気まずい現場に居合わせたかのように黙りこくっていた。
「ま、まぁ、いいとは思うが、――」
 中津川でさえその空気を読んだのか、ものすごく言いにくそうに口を開いた。
 なにしろ、このデリケートな新人職員が失恋したことは、課内の誰もが知っている。
 その失恋相手が、南原の結婚相手なのだから、誰もこの件に触れられないのだ。
「入籍は来週末だろう。いくらなんでも、時間がなさすぎるのではないかね」
「あはっ、あはっ、そうですよねー」
「それに……南原君も、さすがに気まずいのではないのかね。まぁ、若い世代にはどういうこともないのかもしれないが、できちゃった婚……いわゆる順番の違う結婚だろう」
「あはっ、あはっ、そうですよね!」
 いやもう、痛々しすぎて聞いてられない。
 親睦旅行の二の舞になる予感を感じながら、果歩はつい口を開いていた。
「水原さん、よかったら私が那賀局長と話をしてみましょうか。いくらなんでもこの時期はちょっと……ねぇ、補佐」
「まぁ、異動前の一番忙しい時期だからな。水原君は、退職される那賀局長の送別会の準備もあるだろうし」
「あ、それは局長が固辞されたそうですよ。親睦旅行までしてもらったからもう十分だって」
 今、そういう正論を聞きたいわけではないのだ。
 果歩は思わず、そんなことを言った大河内主査の呑気な顔を睨みつけている。
「しかしなんだってこの時期に」
 いきなりそんな声がして、バタンと次長室の扉が開いた。
 そこに入っていたのが、志摩課長と藤堂だけだと思っていた果歩は、少し驚いて目を見張る。出てきたのは、不機嫌な顔も露わにした都市政策部長だった。
「じゃ、志摩さん、今からいいか」
「ええ、行きましょう」
 その政策部長が、志摩をいざなってエレベーターホールに出て行った。2人の後から出てきた藤堂は、何も言わずに、書類を手にしたまま自席につく。
 その目が一瞬だけ果歩を見たから、果歩は少し戸惑って瞬きした。
 まさかと思うけど、私に関係あること――? いや、まさかね。
 都市政策部には果歩の元カレである晃司と、そして因縁の恋のライバル――もう「かつて」をつけてもいいと思うが、須藤流奈がいる。
 そういえば今日の午後から、その政策部がやたら殺気立っていたのを、いまさらのように果歩は思い出していた。
 ――何か、問題でも起きたのかな。
 今度は果歩の方から藤堂を見たが、一度腹に収めたものをそう簡単に出す人ではない。
 なにしろ1年近く、上司以上恋人未満――いや、何度か恋人のような関係になりつつも、自分の思いを頑なに胸に収め続けている4歳年下の上司である。
 案の定、果歩の視線に気がついているはずなのに、藤堂は顔さえ上げてはくれなかった。

 *************************

「さぁ、私も何が起きたのかさっぱりなんです。ていうか、あまり興味もないし」
 あっさりそう答えた流奈を、果歩は顎の落ちそうな思いで見つめた。
 給湯室。2人はポットや食器を洗うためにここにいる。
「興味ないって……、自分のいる部のことじゃない」
「だって、私には何も情報が降りてこないし。多分、駅前開発のことでトラブったんじゃないですか」
 流奈は冷めた目で湯飲みを洗いかごの中に入れた。
「前園さんの周辺が慌ただしかったから、多分それでしょ。今日は泊まりも覚悟してるっぽいですよ。電話で誰かさんとそんなこと話してたから」
「誰かさん?」
「あ、藤堂さん!」
 そこで流奈の可愛いヒップに、ぴょこんと尻尾が生えたように果歩には見えた。
 あたかも飼い主を見付けた犬みたいな勢いで、給湯室の出入り口に駆けていく流奈。もちろんそこには、飼い主――もとい藤堂の大きな身体がある。
「今日はもうお帰りですか? あ、流奈がそれ洗います」
「いや、……じゃお願いします」
 一瞬明らかに断ろうとした藤堂が、観念したようにカップを差し出したのは、ここで断っても無駄に絡まれることを学習済みだからだろう。
 ――成長したな、藤堂さん。
 果歩はしみじみと思っている。
 この1年、ほぼこんな調子で流奈の攻撃を受け続けてきたのだ。
 聞き流すという、傍目には「藤堂さんってひどい人」みたいなあしらいから、今は「適当にあわせる」という技を身につけた藤堂さん。これからもこの調子でお願いします。
「そういえば藤堂さん、的場さんが、元カレのことを気にしてましたよ」
 果歩は、手にしたポットを落としそうになっていた。
 いくら過去とはいえ、課内ではひた隠しにしていた秘密を、こうもあっさり口にする?
「……元カレ?」
「またまたもう知ってるくせに。前園さんのことですよ。気をつけた方がいいですよ。女って、自分が手放したものが他の女のものになるのが、案外気にくわないものなんです。それが自分の一番仲のいい友達ならなおさら」
 入り口に突っ立ったままの藤堂は、一瞬虚を突かれたような目になったが、すぐに平素の表情を取り戻した。
「ありがとう。気をつけます」
 大人です。藤堂さん。何気に私との仲を肯定しつつ、なんてそつのない受け答え。
 案の定流奈は、毒気の抜かれたような顔をして、やけくそ気味に湯飲みを洗っている。
 ――……ていうか、流奈も最近、なんだかパワーダウンしているというか。
 藤堂への絡み方も、惰性という気がしなくもない。最近やたら派手になったネイルやアイメイクも気にかかる。
 何かあったのかな、もしかして。
 それが藤堂に失恋――随分前のような気もするが――したことが理由なら、果歩に言ってあげられることは何もない。
 苦手なタイプではあるものの、正直、今の流奈は、果歩には若干可愛い後輩だ。いや、入江耀子との一件(story7参照)で、子供のように泣きじゃくる流奈を見た時から、内心、愛おしさのようなものを感じている。
 藤堂が出て行って再び2人になったので、果歩はつい流奈に声をかけていた。
「流奈は来年度、異動ありそう?」
「どうかな。残留は固いと思ってましたけど、異動もありみたいな感じかな。――てか、うちの課で私のできる仕事って殆どないんですよね」
 やはりどこか冷めた声で流奈は続けた。
「来年度は、もうどの局にも、私や的場さんみたいな庶務待遇の女性は置かない方針だって聞いてますよ。――これからはそういう無駄な人員は削って、私たちがやってるような仕事は臨時職員に任せる形になるんじゃないですか。だったら私、もうここにいる必要ないから」
 その噂――というか、それがほぼ確実な情報であることは、総務にいる果歩の方がよく知っている。
「多分異動です。でも私、それが結構楽しみだったりして」
「……楽しみ?」
「ここでおじさんたちにちやほやされるのも楽しかったけど、役所で長く生きていくためには、それだけじゃ駄目ですよね。整形してる私が言うのもなんですけど、見かけなんて今だけっていうか、あっという間にうつろいゆくものじゃないですか」
 ――え、えらくさばけてない、今夜の流奈。
 それに、一応まともなことを言ってるし。
 容姿と愛嬌を武器に出世した女性はいくらでもいるが、やがて壁にぶつかることも事実である。可愛く笑っていれば許される時代というのは、本当にわずかな期間なのだ。 
「流奈、そのことをあの女から学んだんです。異動希望、一応区役所の保険厚生部で出しました。あそこ、女性が全体の6割を超えてるって知ってました?」
 あの女? いや、それより区役所の保険厚生部って……。
「……流奈、ケースワーカーをやるつもりなの?」
 ふんっと流奈は鼻を鳴らした。
「仕事なんてなんでもいいですよ。そんなことより、女子の花園で派閥を作ることが目的なんです。入江耀子が上層部に強いネットワークを持つなら、私は下層部に、揺るぎないネットワークを築くつもりですから」
「………………」
 ――す、……すごい。
 仕事の心構えとしては完全に間違ってるけど、私、この子にも入江さんにも、絶対に敵わないような気がする。
「的場さんも、そろそろ身の振り方を考えた方がいいですよ。間違いなく異動ですよね。那賀局長が退職したら的場さんも出るだろうって、みんな噂してますし」
「……ま、そうね。私は確実ね」
「私なんかより何倍も苦労するんじゃないですか? ずっと温室でちやほやされてきたお嬢様みたいなものだから、的場さんって」
 まぁ、今年はそうでもなかったけどね。
 おそらく次は、外郭団体か区役所だろう。仮に真鍋市長が落選しても、さすがに同じ局に7年も居続けているのだ。流奈の言うように、異動になることだけは間違いない。
 とはいえ、真鍋市長が来年度以降も市長として居座った場合、自分の移動先がどうなるかは、正直想像もできない。
 8年も前の遺恨のことなんてそろそろ忘れてくれたらいいのにと思うが、多分、市長は覚えている。というより果歩自身が、その妻の葬儀に顔を出すという愚を犯してしまったのだ。あれで収まった怒りも、多分再燃しただろう。
 これまでは、那賀局長――ひなたぼっこをする猫みたいな人だが、その人が市長の抑えになって、果歩を守っていてくれた。
 その那賀が今年度で退職する。となれば、もう果歩を庇護する人は誰もいない。 
「……島かな……」
「え?」
「時々、釣りしに来て、案内するから」
 ぽかんとする流奈に背を向けて、果歩は洗いかごをもって給湯室を出た。
 市内にひとつだけある離れ島、その出張所に行く可能性は――ゼロではない。
 まぁ、そうなったらなったでいいけど、その時藤堂さんと私はどうなるんだろう。
 遠距離――とまではいかないけど、会う時間は確実になくなるし、そもそも島勤務だったら、島に住所を移さないといけない。
 なにしろ果歩は、船に乗れない体質なのである。凪いだ海に停戦中のフェリーでも激酔いする。毎日フェリーで島まで通うなんて、絶対に無理。
 もし――もしもだけど――ものすごくもしもだけど、結婚、そして出産というイベントがそこに重なってしまったら、はたして島で勤務し続けることができるのだろうか?
 島のことで頭がいっぱいになりながら席に戻ると、もう藤堂は帰宅した後だった。
「係長、今日はえらく帰りが早かったですね」
「なんか家の用事があるって言ってましたよ」
 と、戻ってきた南原と大河内主査が話している。
 南原亮輔。来週末には晴れて結婚する男。
 今日も安定の髪はねと、よれたシャツ。それが結婚後は決して許されなくなるだろうというのは、果歩が密かに確信していることである。なにしろ新婦の乃々子がとてつもなく細かいからだ。
「水原、そういや午前にきた依頼もの、どうなった?」
 その南原が、自席でパソコンのキーポードを叩いている水原に声をかけた。
「もう決裁済みです」
 振り返りもせずに、そっけない口調で水原。
 南原は何か言いたげだったが、諦めたように肩をすくめる。
 これもまた、最近のお馴染みの光景だ。南原と水原。あれだけ仲の良かった先輩後輩の2人が、今は目も合わせていない。
 その2人を気がかりに思いながら、果歩もまたバッグを手にして、「お先に失礼します」と言って執務室を後にした
 



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